2011年 6月 5日

古田史学会報

104号

1,九州年号の別系列
(法興・聖徳・始哭)
 正木 裕

2,乙巳の変は動かせる
 西村秀己

3,三角縁神獣鏡銘文
における「母人」と
「位至三公」について
 古谷弘美

4,銀装方頭太刀について 
 今井久

5,再び内倉氏の
誤論誤断を質す
中国古代音韻の理解
 古賀達也

6,「帯方郡」の所在地
 野田利郎

7,卑弥呼の時代
と税について
 青木英利

 

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銀装方頭太刀について

(小松町南川大日裏山古墳出土)

西条市 今井久

 昭和三十三年十月二十日、大日裏山の山頂の南、茨谷側へ東南約十五米降ったところより出土。
 以下、この当時の現状を調査された、地元歴史研究者の鴨重元氏の調査論考「銀装方 頭太刀について」を紹介・引用して記し、私考を述べ諸兄の批判・検討をお願いしたい。 なお、この銀装方頭太刀については、同じく、地元歴史研究者の玉置浅行氏の「古国府について」に於いて銀装方頭太刀に論及されていて、ともに引用さしていただくこととしたい。また、一昨年、二OO九年二月十五日、歴史学者の正岡睦夫先生に大日裏山古墳測量調査をお願いした節、この銀装方頭太刀の件、お話ししたところ、早速、調べていただき、「銀装方頭太刀を出土した墳墓」として論考を頂いた。詳しくは「論考」をご一読願うとして、ここでは同じく、引用さしていただくことにしたい。

一、出土地。

 古墳群(五世紀)や弥生住居跡で有名な南川大日裏山(香園寺のすぐ裏山)から出土したもので、この山の頂きには前記の古墳群があり、一号墳からは、銅鏡、内行花文鏡(中国六朝時代)一面(彷製鏡)また、乳文鏡(彷製鏡)が出土し、二号墳は経三十米、高さ五米、当時では東予最大の墳丘(愛媛考古学会長・松岡文一氏調査)であり、一号墳は町史跡に指定されている。
 問題の太刀が出た古墳は、山頂の二号墳と、現上水道貯水槽(三号墳所在地跡)の中間の南斜面で頂上より南東に約十五米程降りたところにあったらしい。

二、出土状況の経過。

 太刀が出土した所は大日裏山の南側、茨谷と呼ばれて松林であった。小松町より開拓地に指定され、入植者が一斉に開墾を始めた。
 丁度この地点は山の斜面が多少[金享]出し、二・三の石が露出していただけで誰も此処が古墳であるとは知らなかった。この地点に鍬を入れたところ、多数の石塊が続出し、なかには持ち上げ困難な大きな石もあり、それらが凡そ百個位、そこに幅四尺・長さ七尺の堅穴石室を成し、その主軸は大体南北であったようで蓋石は無くその中から須恵器の破片とこの太刀が柄を北にして現れた。須恵器は放置していたら何時の間にか亡失していた。
      [金享]出の[金享]は、金編に享。JIS第四水準ユニコード931E

三、出土太刀について

 私以下(鴨氏の調査に拠る)

 『太刀の長さ、七十八糎・身幅約四糎・棟幅約一糎二粍・柄の長さ十四糎五粍の鉄製直刀ですが腐蝕甚だしく漸く形態を保っているに過ぎない。問題は、その柄頭と切羽、並びに紐を付けたと思われる金具が総べて銀製であることと 、柄頭の模様が両面とも彫金による秀麗な唐草文であること、唐草文はその軸太く、また蕨手の先端は丁度巴形をしており、更に興味深いことは文様の中心には必ず忍冬文を置いており、この様式は伊東忠太氏著「法隆寺」に百済式とせられているものと(全書一三八頁)同じ様式に属するものではないかと察せられ、この点から、この太刀を奈良時代でも前期。事によると飛鳥期のものではないかとも思います。
 更に両面を子細に観察しますと表裏の忍冬文がその向きと形を異にしており、且、文様の間は微細な粟粒を配しており、以て制作者の技巧が窺われます。
 その外、柄頭の紐穴は円形で経一糎あり、柄の長さは丁度片手で握るくらい。切羽並びに吊り金具の拵えは矢張り彫金によったものらしく、ここには文様はありませんが角張って如何にも健々しい感じに作っている。
 また、紐穴はここでは長方形で、幅四粍・長さ一糎四粍で、吊り金具は現状ではここ一個所しかないので、腰に佩いとき鐺下りになっていたでしょう。鍔はなく、柄の一部に木質の痕跡らしいものが残存している外は鞘も腐蝕したのか刀身が露出している。

 考察。として、今じっとこの銀装方頭太刀を眺め、またその秀麗な唐草文様にみいるとき、これを佩き帯びた被葬者が当時の中央文化を充分吸収した地方有力者であったことが判ります。

 ところで、当代の遺跡といえば、この地から僅か一粁離れた平地上に、南面する四天王寺式伽藍法安寺跡が学会に認められ、文部省より国史跡に指定されて居ます。
 この寺跡から出土する唐草瓦の文様が、この太刀の銀柄頭を飾る唐草文と略同型式であるところからも、この被葬者が生前、この古寺と無関係ではなかったであろうことが想像されます』

銀装方頭太刀について  (小松町南川大日裏山古墳出土)今井久

 中略、

 『しかし、ただ不可解なことは、斯様な優秀品を副葬した墳墓が山深い隠れた処にあることですが反面、高貴な方程常人の至り得ない山間の隠れた地に葬っていたのかも判りません。とも角大日裏山の南斜面は、この古墳を最奥として、他にも数個所の地下式槨が、この度の開拓によって私たちの知らぬまに出土し、破壊されたようで誠に残念な限りです。要するに大日裏山は高貴な人たちの岩隠る聖山であったらしく、高鴨神社や、香園寺が此処に建立されたのも何か由縁があろうと思います』。三九・一・一一、完。

 最後に、この太刀を調査論考された、鴨氏、玉置氏によれば、この太刀の歴史上の位置付けと考古学的意味を、当時の文部枝官、三木文雄氏、愛媛考古学会会長松岡文一氏に調査を依頼し、且つ学界に紹介されている。そうして昭和三十九年三月十三日、国の保有する文化財として決定され、「奈良初期の優品」として文化庁に買収された。

 次に、鴨氏の調査文献の一部を記して紹介の結びとしたい。
「日本考古学協会編の日本考古学辞典」より。藤田亮策監修。
 『方頭太刀は古墳時代の太刀拵えの一種をいう名であり、柄頭が一文字をなすか、あるいはそれに近い形のものをいう。
 従ってその方頭に丸みを増せば円頭に近いものとなるから、遺物にあっては、円頭、方頭の区別はむずかしいが、これを円頭太刀の一変種だとしてもよい。しかし明らかに方頭といえるものには古墳時代末期の古墳出土のものが多く、かつは奈良時代ものに方頭のものが多いので、やはり形式を異にするものとした方が穏当であろう。
 方頭太刀に懸通孔を具しているものが多いことからも、奈良時代に近い頃のものであることを物語る』。(後藤)四九四頁。(銀装方頭太刀は現在、東京国立上野博物館所蔵)。

 

◎まとめとして。

 前出のように、この太刀の出土した大日裏山古墳群一号墳からは、銅鏡、内行花文鏡、(中国六朝時代)一面、(彷製鏡)と三号墳より乳文鏡出土。二号墳は経三十米、高さ五米、当時では東予最大の墳丘(愛媛考古学会長・松岡文一氏)で出土遺物は、鉄片、土師器が出土したが現存しない為詳細は分からない。
 また付近一帯からは石器、土器が多数散乱出土、石器は濃密に出土し、且、石包丁の数が多く、その出土比率も多いのが特筆され、『今これを東予地方全般に比較すれば、その遺跡数は第一位、石器数は第二位(今治市第一位)周桑以東では第一位で当該時代、小松の地が東予の中心居住地であったと思われ小松の遺跡の中でももっとも有力なのが大日裏山である。』(鴨重元氏)。他、弥生住居跡、すぐ近くには縄文土器(一万数千点)とその住居跡出土の小松川藤木縄文遺跡、近くに舟山古墳群(六世紀~後半)、和銅開珍・十二個出土の柏木古墓、弥生住居跡の道場遺跡(予讃線中山川近くの踏切付近)、一粁近くには、南面する国史跡指定の四天王寺式法安寺跡が存在するのである。
 古墳群のある大日裏山の「大日」の呼称は、この山麓に創建された香園寺の本尊が大日如来であった由縁でこの山の麓を大日谷(川原谷)と呼んだ。この川原谷に創建されたこの寺は聖徳太子創建縁起伝承を持ち、四国八十八ケ所の寺縁起では三番目に古い寺である。 これら一連のことから、古代の金・銀装の『太刀柄頭の文様に未だ例を見ない唐草文様』(正岡睦夫氏)をもつこの銀装方頭太刀の被葬者は仏教・寺院と深い関係を持ったこの地の有力者で、古墳時代末にはいち早く仏教文化を取り入れていたと、文献、伝承などにそれは窺われる。
 此処、道前(周桑)平野のほぼ中央には「紫宸殿」地名遺跡をはじめとして「古代九州王朝の白雉、白鳳年号等、他、伝承を持つ古代寺社遺跡が数多く存在する古代繁栄の地帯の眺望を欲しいままにできる大日裏山古墳群山頂であり、この銀装方頭太刀もこの古代文化の栄えた歴史の一端を物語っていると考える。
 以下二、三の点を述べてみたい。

◎柄頭の唐草文様について。
「法隆寺式」としているが、福岡市鴻臚館出土の鴻臚館式瓦の文様を祖形として、鴨氏も指摘している当地の法安寺の瓦の唐草文様に類似していると思える。(別図参照)。時代、倭国九州王朝の瓦様式に見える(別図参照)。
 時代は唐草文様に従えば、七世紀後半~奈良時代に該当するとしているが、この太刀の瓦の文様はこの地帯の地域文化の流れを顕しているのであると思われ、被葬者が仏教文化に密接な関係を物語っていることと考える。

◎装飾太刀(金・銀・円頭・方頭)の時代性。

 『直刀は上古刀の特色で、反りがなく、長さは十握の剣とか、九握の剣、八束の剣などの語があり、大体九十糎から一米であるが実際に古墳からの出土太刀の多くは六十~七十糎の物が普通』(玉置浅行氏)と直刀の上古性を説いているが、筆者はその知識はありませんが少ない知見では六世紀後半がみられる。(事例を山田裕さんより教示戴く)(一例・別図参照)今後の課題としたい。
 倭国(九州王朝)への仏教伝来は五世紀はじめと理解しているが、瓦は中国、周王朝時代発明、当時の周朝には未だ仏教伝来はなく、当然寺院には関係なく瓦は国の建物施設に葺かれたと思われる、当時中国への朝貢関係にあった倭国九州の地が仏教文化・瓦の伝来先進地であって、基本的には仏教・寺院・瓦も九州から西へと伝わったのが実態で、当地の古代、越智国が九州王朝の有力な一王国であったことを思えば、古代資料もその伝承も失せてしまったこの、秀麗な技巧の唐草文を施した銀装方頭太刀の被装者は越智のくにの有力者であろう。

◎銀装の唐草文様について

 最後に『太刀柄頭の文様に未だ例を見ない銀装の唐草文様』(正岡睦夫氏)の教示を頂いたので、それに密接に関わると思われる一例を提示して結びとしたい。
 この地は「伊予国風土記」逸文の「温湯碑文」に、法安寺創建伝承等、法王大王阿毎の多利思北弧の瀬戸内諸国巡行の痕跡をみる密接な関係、古代越智国である。
「阿毎王権の遺跡」(物部氏と蘇我氏と上宮王家・佃収穫著)よりその関わりある事例を記してみたい。
 『阿毎王権の本拠地は鞍手郡である。鞍手郡には阿毎王権の王墓にふさわしい古墳がある。新延(にのぶ)大塚や銀冠塚塚古墳である。銀冠塚古墳については「銀冠塚」(福岡県文化財調査報告書第二八集一九六三年 福岡教育委員会)という報告書がある。概略ハ次の通りである。
 晶*銀冠塚古墳。円墳、(経一八米・高さ三米)葺石や埴輪は発見されず。中略、奥室からは金環 大小合わせて計八個。前室…銀製天冠(図参照)他武器類・馬具類・土器(土師器・須恵器)出土。この銀製天冠は、厚さ一粍ほどの薄い銀の板製。幅約二糎、長さ二八糎の透彫・結紐文の帯状の冠台部の中央に宝珠と花文をいただき、内部に忍冬唐草文の透彫を有する二辺三角形の前立、高さ一五・七粍。頭を一周せず、前額ばかり飾る方式。
これまでわが国古墳発見の冠は三〇例位あると思われるが、すべて、今回の例とは相当異なった形式のものである。(云々として朝鮮金冠塚の例を引き)ただ、宗像郡宮地嶽神社の奥の院の大石室に福葬されたと考えられる一例だけは今回発見例と例えば透かし彫り珠文など極めて近い。
     晶*は、日の代わりに白。JIS第3水準ユニコード769B

 ここに多利思北弧・阿毎王朝の本拠地とされる鞍手郡の銀冠塚古墳に出土の「銀製」・忍冬唐草文の例を知るのである。また、しかしながらとして『今回のものに最も近いものは、次に列記する法隆寺関係の諸尊の天冠である。
 一、法隆寺金堂金銅釈迦三尊像脇侍(推古三一年・六二三年)。
 二、東京国立博物館蔵旧法隆寺献納御物金銅弥勒菩薩半跏像。(以上七世紀前半)。
 三、法隆寺夢殿木造救世観世音菩薩像(七世紀中葉)。
 四、法隆寺金堂木造四天王像(白雉元年六五〇年)。
 五、東京国立博物館蔵旧法隆寺献納御物辛亥銘金銅観音菩薩像(白雉二年六五一年)。
 六、東京国立博物館蔵旧法隆寺献納御物金銅弥陀三尊像脇侍(七ー八世紀)。

 『これらはすべて中略、全面に唐草の飾文をおいているが』中略、として忍冬唐草文が入りとして後略、するが右の諸例も法隆寺が九州王朝の地より移築したとすれば「法興す」年号は、法隆寺釈迦三尊の後背銘の「法興」年号と「伊予国風土記」逸文の温湯碑文にみる「法興六年」また法安寺の推古四年即ち法興六年云々伝承と繋がるのである。
 大日裏山古墳出土の「銀装方頭太刀」の銀装とその文様、忍冬唐草文様もその「文化」の一端にあると考える、間違いであろうか。
 九州王朝」の文化を早くから受け入れ、仏教文化が栄えていた越智の国の真実を物語っていると考える。この歴史的遺跡、遺存品は現代の我々に問いかけている思えるのである。
 諸兄のご教示、検討をお願いして結びとします。

参考文献。
一、銀装太刀について。(小松町南川大日裏山古墳出土の太刀)鴨重元氏。小松史談誌第百十三号。昭和六十三年二月発行。
一、古国分について。(銀荘方頭太刀)玉置浅行氏。小松談誌第七八号、七九号。昭和五十一年五月・九月発行。
一、銀装方頭太刀を出した墳墓。二〇〇九年三月二十二日。正岡睦夫氏。
一、法隆寺は移築された。米田倉三著。一九九八年五月三十一日発行。新泉社。
一、九州古代文化の形成。下巻。小田富士雄著。昭和六十年一月十五日発行。学生社。
一、仏教伝来とは何か。中小路駿逸著。一九八六年一一月一〇日発行。 新泉社。
一、物部氏と蘇我氏と上宮王家。佃収著。二〇〇四年二月十六日。発売元 星雲社。


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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