倭人伝の音韻は南朝系呉音 -- 内倉氏との「論争」を終えて 古賀達也(会報109号)
魏志倭人伝の読みに関する 「古賀反論」について 内倉武久(会報103号)
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再び内倉氏の誤論誤断を質す
中国古代音韻の理解について
京都市 古賀達也
はじめに
会報一〇〇号に発表された内倉武久氏の「漢音と呉音」(以下、内倉1稿」と記す)に対して、わたしは会報一〇一号にて『「漢代の音韻」と「日本漢音」─内倉武久氏「漢音と呉音」の誤謬と誤断─』で批判を行った(以下、「古賀1稿」と記す)。その拙稿に対して会報一〇三号にて「魏志倭人伝の読みに関する『古賀反論』について」(以下、「内倉2稿」と記す)という反論をいただいた。まずこのことに感謝申し上げたい。
しかしながら、氏の今回の反論はわたしからの質問(史料根拠の明示)や指摘にほとんどまともに答えておられず、論点をずらしたり、自説の繰り返しと強弁に終始されている。このような応答はあまり学問的とは言い難く、読者に対しても益するところ少ないと思われるので、再度、氏の誤論誤断を7項目に分けて具体的に指摘し、氏の学問的応答を待つことにしたい。
〔指摘1〕
「古賀1稿」にて、「魏晋朝の音韻は未だ復原に成功しておらず、その音韻は残念ながら不明とされている。」とのわたしからの指摘に氏は答えておられない。再度問う。氏の言う「漢音」とは誰のどの研究によって(魏晋朝の)音韻が復原されたものか、明示していただきたい。全てはここからである。
〔指摘2〕
氏が「漢音」復原の根拠とされた『説文解字』からは音韻復原できないと「古賀1稿」でわたしは指摘し、「内倉2稿」でも「『説文解字』が後の発音記号を記していないのは古賀氏のお説の通りである。」とされた。このことを認めるのであれば、発音記号を記していない『説文解字』からは音韻はわからないはずだが、「『説文解字』をもとに論を進めている」という氏の主張は崩壊していないか。
〔指摘3〕
「内倉2稿」において、「例えば説文解字の「倭」と「奴」の解説は図(写真)のように示されている。」として、沙青磐著「説文大字典」を示された。そして氏は「『倭』の次に記されている『平聲』とは今で言う『四声』」「『奴』も『平聲』。」
「読みは『駑』。これは『駑馬(どば)』の駑であり、これも漢音で『ド』という読みしかない」などと解説されている。 わたしはこの部分を読んで唖然とした。内倉氏は『説文解字』を根拠にしていると言いながら、当の『説文解字』を読んでおられないことがわかったからである。氏が示された沙青磐著「説文大字典」ははるか後代の清朝に成立した、『説文解字』の注釈書なのであり、その文は『説文解字』本文と沙青磐による註釈が混在している。しかも氏が解説に使用された『平聲』とか『駑』という部分は『説文解字』には無く、清の時代の註釈部分であり、『説文解字』原文の引用としては全く不適切、というより誤断の類なのである。どうやら、氏の言われる「漢音」とは清朝時代の「清音」(とりあえずこう命名しておく)のことだったようである。
本テーマの重要な論点なので、あえて内倉氏に問う。氏は『説文解字』を読まれたのか。もし読んでいたと言うのならば、何故「内倉2稿」に『説文解字』ではなく、沙青磐著「説文大字典」を示され、読者にあたかも『説文解字』そのものであるかのような「解説」をなされたのか。それとも、「清音」と「漢音」(漢の時代の北方音)は同じとでも考えておられるのだろうか。お答えいただきたい。
ちなみにわたしが参考にした『説文解字』(中華書局一九七九年版、底本は宋代・九八六年成立の徐鉉本)の当該部分を提示しておく。細注部分は宋代の注である(注1)。
〔指摘4〕
氏は「倭遅」の読みの説明において、「十一世紀の音韻書『集韻』でも漢音で「ヰジ」としか読まない漢字としている。」とされ、「ワジ」と読むのならばその出典を示せと述べられた。
この部分を読んで、わたしは再び唖然とした。わたしは『説文解字』の「倭遅」を「ワジ」と読まなければならないなどとはどこにも言っていない。そもそも、「魏晋朝の音韻は未だ復原に成功しておらず、その音韻は残念ながら不明とされている。」というのがわたしの見解であることは既に述べてきた通りだからだ。
しかし、わたしが唖然としたのはこのことではない。『集韻』に「倭」の読みとして、「ヰ」と「ワ」が記されていることを知ったのは、他ならぬ内倉氏が昨年一月の関西例会で配られたレジュメに記載されていた漢和辞典を見たからだ。今もそのレジュメを持っているが、そこには、はっきりと拡大コピーされた辞典に「倭」の音として、○1ヰ〔集韻〕○2ワ〔集韻〕○3ワ〔集韻〕と記されている。
再び問う。氏は『集韻』を読まれたのか。自ら配られたレジュメの内容を理解されていたのか。
〔指摘5〕
氏はわたしに対して「『倭』を『ワ』と読み、『奴』を『ナ』と読まねば大和政権一元論に都合が悪い日本の古代史学界におもねった主張」とか「氏(古賀のこと・筆者注)はどうしても『奴国』を『ナ国』と読み、邪馬壹(台)国を大和に持ってこようとする大方の古代史家に擦り寄った主張にだまされている」と論難されたが、わたしには全く理解困難な言いがかりである。
わたしは「古賀1稿」で、「『奴』の呉音(おそらく『日本呉音』のことであろう)を『ナ』とする辞典・史料もわたしは知らない。通常、『奴』の『日本呉音』は『ヌ』とされている。」と記しているように、「奴」を「ナ」と読むなどとはまったく思ってもいないし、書いた覚えもない。それなのに、大和朝廷一元論におもねったとか、大方の古代史家に擦り寄ったとか言われるのは心外である。
氏はよほど「倭」を「ワ」と読むことがお嫌いらしいが、例えば古田武彦氏は『失われた九州王朝』で、「一方、「倭」はこの段階(隋書は七世紀前半の成立)では、「ワ」の音であろう。(上古音はヰ)」(第三章三〇〇頁)と記されている。このように七世紀には「倭」を「ワ」と読むとされる古田氏をもまた、大和朝廷一元論におもねった、大方の古代史家に擦り寄った歴史家と、氏は言われるのであろうか。
〔指摘6〕
わたしは「古賀1稿」において、「『いど国』すなわち『伊都国』」とされるのであれば、「奴」の字音が「と」であった証明も史料根拠を明示してなされるべきである。それなしで、「倭奴国」は「伊都国」であるとする仮説は成立しない。「倭(ゐ)」と「伊(い)」、「奴(ど・ぬ)」と「都(と・つ)」、二つともそれぞれ別音とされてきたのであるから。と、その史料根拠の明示を求めた。
しかし、氏は史料根拠も論理性も示すことなく、「『委奴国』を『伊都(委奴・ヰド)国』と呼んで始めて三雲・井原・平原の出土品など考古学的成果と合致するのである。」などとわけのわからないことを繰り返されている。別に氏の説に立たなくても、古田説に立てばいくらでも考古学的成果の説明は可能である。
同じ質問を繰り返すが、「倭(ゐ)」と「伊(い)」、「奴(ど・ぬ)」と「都(と・つ)」、二つともそれぞれ別音とされてきた。古代中国に於いて同じ音であったとするのであれば、史料根拠なり、それらを証明した研究を明示していただきたい。その場合「自分がそう思うからそうだ」「自著を読め」などの強弁はやめていただきたい。(注2) それは学問的論証・態度ではなく、自説(思いつき)の強要に過ぎないのだから。
〔指摘7〕
「古賀1稿」において「『倭』の漢音(おそらく「日本漢音」のことであろう)として『ゐ、い』とされているのだが、『倭』の字音は『ゐ』、あるいは『わ』であり、『い』とする辞典・史料をわたしは知らない。氏はどの辞典に『い』とするものがあるのかを銘記するべきである。」と指摘した。
これに対して、内倉氏は「『ヰ』を『イ」と併記したのを『論拠を示せ』などと非難しているが、現代仮名遣いで『ヰ』は一般的に使われていないので併記したまでのことである。」と強弁された。これには驚きを通り越し、三度唖然とした。「開いた口がふさがらない」のはわたしの方である。
「古賀1稿」でも指摘したし、昨年一月の関西例会における氏の発表の中で、最も反対意見が出されたのが「ヰ」と「イ」の音韻の違いについてであった。すなわち「倭」(ヰ)を伊都国の「伊」(イ)と同じとできるのかという問題が論争テーマとなっているのに、その渦中の論文に於いて、「現代仮名遣いで『ヰ』は一般的に使われていないので併記したまでのこと」などというのでは「開き直り」もここに極まるというものだ。『古田史学会報』読者には「ヰ」と「イ」の区別もつかないと見くびっておられるのでなければ幸いである。
おわりに
今回の内倉氏との論争のおかげで、わたしは古代中国語音韻研究の一端に改めて触れることができた。この点、氏に感謝申し上げたい。その折、出色の好論に出会ったので読者諸賢に紹介させていただきたい。
それは松中祐二氏(古田史学の会会員)による「倭人伝の漢字音 -- 卑弥呼=姫王の証明」(注3)である。同論文の前半は魏晋朝音韻研究の概説であり、一九六〇年代の藤堂明保氏の『上古漢語の音韻』から始まり、一九九〇年代までの研究論文が紹介されており大変参考になった。その上で松中氏は、魏晋朝音韻は漢代の上古音とした初期の研究に比べ、近年では『切韻』(六〇一年成立)に代表される中古音とする研究ばかりであるとされた。
更に、「日本呉音」は『切韻』の音系と異質ではない或る種の六朝式音系を反映するという見解も紹介されている。これによれば、「古賀1稿」で述べたように、「魏晋朝の音韻復原ができていない現在の研究状況からすれば、「日本漢音」よりも古くからわが国へ伝来していた「日本呉音」で倭人伝を読むという方法は穏当であると考えている。少なくとも「日本漢音」で読むべきではないと考えている。」とした拙稿の見解もあながち的はずれではなかったようである。
なお、松中氏は倭人伝の「奴」の音を「唐代長安音が反映した『ド』ではなく、唐代を除く中古音から解釈された『ノ』または『ヌ』の音写と考えるのが妥当と思われる。」とされており、わたしもこの意見に賛成である。
(注)
(注2) 内倉氏の著書『卑弥呼と神武が明かす古代』(ミネルヴァ書房、二〇〇七年)、論文「周王朝の復活めざした倭国女王卑弥呼」(『国際教育研究』二七号所収、二〇〇七年)を読んだが、「倭奴」と「伊都」が古代中国に於いて同音であったという論証は示されていない。たとえば、「周王朝の復活めざした倭国女王卑弥呼」では、「魏志にいう『伊都(ido)国』が、後の中国正史に言う『倭奴(ido)国』であることは論をまたないであろう。」と論断(誤断)されるだけであり、両者が同音であるという論証は全くなされていない。『卑弥呼と神武が明かす古代』においても同様で、「日本語(倭語)はまったくわからない中国人が、通訳を重ねて聞き取った音が「イ」なのか「ヰ」なのかなど分別できるはずはない。」(一四七頁)と論証抜きで論断(誤断)されているだけである。
(注3) 松中祐二「倭人伝の漢字音 -- 卑弥呼=姫王の証明」、『越境としての古代7』所収。この論文の存在を大下隆司氏(古田史学の会・総務、全国世話人)より御紹介いただいた。
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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