再び内倉氏の誤論誤断を質す -- 中国古代音韻の理解について 古賀達也(会報104号)
魏志倭人伝の読みに関する
「古賀反論」について
富田林市 内倉武久
「魏志倭人伝は三世紀後半ごろ、都を洛陽に置いた中国北方の西晋で著述された史書であるから、当然北方音、特に直前とも言える後漢に著された『説文解字』の音によって読むべきである」という意見を発表したところ、当会員の古賀達也氏が反論を会報一〇一号に寄せられた。筆者に「誤謬」と「誤断」があるという。そして倭人伝は「古くからわが国へ伝来していた『日本呉音』で読むのが穏当である」と、驚くべきというか、とんでもない結論を述べられている。中国の言語に対する理解がほとんど欠如しているご意見と思われるのでその理由を記し、会員の古代史探索への一助にしたい。
まず、「呉音」の定義であるが、当然ながら中国・呉の地域、すなわち上海近辺の蘇州を中心にする地域の語音である。北方音(ここでは仮に漢音と表記する)とは全く違った発音であり、それぞれがそれぞれの発音で話をしてもほとんど通じあうことはないほど違う。もちろん古代からそうであったことは各種の辞典をひも解けばすぐにわかる。最近でこそテレビやラジオの影響で北京の普通話が浸透しはじめて南方の人と北方の人が何とか話できるようになった。中国では常識である。それでも完全には通じない。テレビドラマには必ずセリフが漢字で添えられる。そうでもしないと何を言っているのかわからない人が南方にはまだ大勢いるからだ。
古賀氏が言われる「日本呉音」は、もちろんこの呉地域の方言が輸入されたものである。拙論「漢音と呉音」(会報第一〇〇号)に詳述したように西晋の官民が大挙南に逃亡して建てた(約九十万人ともいう注1 )東晋の都・建康(現在の南京)の字音が輸入されたものではない。「倭」を「ワ」と読み、「奴」を「ナ」と読まねば大和政権一元論に都合が悪い日本の古代史学界におもねった主張なのである。
「説文解字」が後の発音記号を記していないのは古賀氏のお説の通りである。当時はまだ記号そのものが未開発であったからいたしかたない。だが、「説文解字」はあくまで漢、魏など北方の洛陽周辺の漢字の発音と意味を記したものである。例えば説文解字の「倭」と「奴」の解説(注2)は図(写真)のように示されている。
まず「倭」であるが、「倭」の次に記されている「平聲」とは今で言う「四声」(4種類の発声法)のうち第一声と第二声、平らに引っ張る発音と音尾を上げる発音のこと。中国語では字そのものの読みでも音の上げ下げによってまったく違った意味になる。意味は「人に従うかたち」(順貌从人)。読みは「委(ヰ)聲」「倭遅」の倭であるという。「倭遅」は道が曲がりくねって遠い状態をいう。「威夷」「逶遅」とも書く。十一世紀の音韻書「集韻」でも漢音で「ヰジ」としか読まない漢字としている。もし、「説文」から「集韻」の間の北方音にどうしても「ワジ」などという読み方がある、などと主張するのならその論拠と出典を示さなければならない。小生は寡聞にして知らない。
「奴」も「平聲」。古くは罪を得て官奴や官婢に落とされた人のことを言った。読みは「駑」。これは「駑馬(どば)」の駑であり、これも漢音で「ド」という読みしかない。
現代の北京語(普通話)では「倭」は「wo」、「奴」は「nu」と読んでいる。さらに「委」は「wei」である。北方音のなかに呉越の音や広東語など南方の読みがかなり入り込んでいるのである。このため、「倭」「奴」などの上古音を音韻辞典などで調べると「wai」「na」となり、「倭」「奴」の北方上古音、すなわち漢音の読みを誤ってしまう愚を犯してしまうのだ。
また、漢和辞典などは中国の音を日本語で表そうとしているが、中国語の微妙な発音は決して日本語では正確には表せない。例えば「奴」の漢音は日本語では「ド」と表示されるが正確には頭に「n」が付く。半切法では「農」(nong)の頭の音に「都」(dou)がつく。「ndou」で、日本語では表しにくい音だ。日本語には四声もない。古賀氏は筆者の漢字の表記を「奈良、平安期に輸入された日本漢音である」と誤解し、これをもとに論を進めているかのように「誤断」しているが、筆者は西暦百年ごろの「説文解字」をもとに論を進めていることは前論「漢音と呉音」でも明らかだろう。
氏はどうしても「奴国」を「ナ国」と読み、邪馬壹(台)国を大和に持ってこようとする大方の古代史家に擦り寄った主張にだまされていると考えざるをえない。それでは「魏志倭人伝」に言う二つの「奴国」の謎はとけないだろう。そして「倭奴国」を「伊都(委奴・ヰド)国」と呼んで始めて三雲、井原、平原の出土品など考古学的成果と合致するのである。詳細は拙著「卑弥呼と神武が明かす古代」(ミネルヴァ書房)を読まれたい。
さらに氏は「ヰ」を「イ」と併記したのを「論拠を示せ」などと非難しているが、現代仮名遣いで「ヰ」は一般的に使われていないので併記したまでのことである。いずれにせよ、小生の拙論は「奴国」や「伊都国」を北部九州に比定しようとして「古代北方言語の読み」を持ち出したのではなく、当然のこととして「資料は著述された地域の、その時代の音で読むべし」の原則にそって読んだら、考古学的成果や古地名などとぴたりと合致しただけである。
北方の洛陽で書かれた「魏志倭人伝」を言語形態の全く違う「呉音」や「日本呉音」で読むなどと、少しでも中国の広さと地域について知識がある人ならば、唖然として開いた口がふさがらない事態であると言えよう。前論でも詳述したが、後の東晋の首都・建康(南京)で使われていた言葉は決して「呉音」ではないのである。「日本の呉音」は「倭人は自ら太伯の後という」との史書の記載を持ち出すまでもなく、呉越の民が数多く列島に渡来したことによる結果とみる意見がいずれ大勢を占めることになろう。
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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