2011年 6月 5日

古田史学会報

104号

1,九州年号の別系列
(法興・聖徳・始哭)
 正木 裕

2,乙巳の変は動かせる
 西村秀己

3,三角縁神獣鏡銘文
における「母人」と
「位至三公」について
 古谷弘美

4,銀装方頭太刀について 
 今井久

5,再び内倉氏の
誤論誤断を質す
中国古代音韻の理解
 古賀達也

6,「帯方郡」の所在地
 野田利郎

7,卑弥呼の時代
 と税について
 青木英利

 

古田史学会報一覧

入鹿殺しの乙巳の変は動かせない(会報103号) 斎藤里喜代

7 「乙巳(いつし)の変」はなかった 古田武彦講演記録部分(『古代に真実を求めて』第12集)

中大兄はなぜ入鹿を殺したか(会報107号) 斎藤里喜代

乙巳の変は動かせる

斎藤里喜代さんにお応えする

向日市 西村秀己

 会報一〇三号に斎藤里喜代さんから「入鹿殺しの乙巳の変は動かせない」という稿が寄せられた。キーワードは(1).乙巳年≠大化 (2).三韓 (3).乙巳功田、である。成る程、もっともなご指摘と言えよう。特に「乙巳功田」については以前から、古賀達也氏からも批判を受けてきた。以下、それに対する考察を披瀝する。諸賢のご批判を仰ぎたい。
 先ず、(1).であるが、これは論証抜きに年代を動かすな、ということであろうから、特別の問題はない。ただひとつ言えることは、日本書紀の構造は「乙巳の変をきっかけに大化改元を行った」のであるから、ワンセットと考えても差し支えがないように思われる。
 次に、(2).である。確かに六九五年には「三韓」は存在しない。これはこの文章が百済滅亡より降ることを禁止する。しかし、六四五年にも「三韓の表文」は存在し得ないのだ。新羅・百済・高句麗の三国が「同時」に「調」と「表文」を倭国の「一藩國」に送ってくることはあり得ない。従って、「三韓の表文」は何らかの書き換えが行われていると見るべきであろう。さて、これに対抗するキーワードは斎藤さんも言及されているように「十二門」だ。これは逆にこの単語を含む文章が藤原宮造営より遡ることを禁止する。藤原宮以前に「十二門」を持つ巨大な宮城は存在しないからだ。そこで、次のことが考えられる。
  I 乙巳の変は六四五年で変わらないが、日本書紀の執筆者が存在しない「十二門」を書き加えた。
 II 六九五年に起った事件を五十年遡らせた。その際、例えば「新羅」を「三韓」に書き換えた。
 勿論、あり得るのは II である。つまり、「三韓」と「十二門」はこの場合史料性が対等ではないのである。

 それでは、難問の(3).に移ろう。確かに続日本紀天平宝字元年(七五七年)十二月壬子(九日)条には「大織冠藤原内大臣、乙巳の年の功田一百町は大功にして世々に絶えず」「贈大錦上佐伯連古麻呂が乙巳の年の功田・・・功推さるる所有れども、大と称ふこと能はず。令に依るに上功なり。三世に伝ふべし」とある。鎌足はいい。「先朝定むる所」と細注にあるからだ。問題は古麻呂である。内容を吟味すれば、元来「下功(子に伝えるのみ)」か「中功(孫まで伝える)」であったものを、「大功(永世)」にして欲しいという嘆願があり、検討した結果「上功(曾孫まで伝える)」にした、というもののように考えられる。ところが乙巳年からこの年まで百十二年もある。仮に乙巳年に古麻呂二十才でその曾孫まで全員が六十才まで生存し(当時とすればまずあり得ない)且つ、その世代交代が二十五年とすれば(実際はもっと短いであろうから、これはかなり良い条件だ)古麻呂の曾孫死亡まで百十五年である。つまり、天平宝字元年は曾孫死亡予定年まであと三年。(つまり、元々「中功」だったとしても、それが失効して二十二年も経っている)相当好条件で計算しても、この年古麻呂を「上功」にする意味が殆どないのである。これが実は「六九五年功」であればリアリティがある。
 次に、先に述べたように乙巳年からこの年まで百十二年であるから、当然間にもうひとつの乙巳年(七〇五年)が挟まる。とすれば、この条の「乙巳年」は例えば「先の乙巳年」という表現でなくてはならないのではあるまいか。

 そして、最後に「乙巳の変」の重要性である。大和一元史観の定説派ならばいざ知らず、九州王朝説に立った場合、六四五年に発生した蘇我入鹿暗殺はそれ程重要な事件なのだろうか。これから、七〇一年までの間に対唐新羅戦争があり壬申の乱がある。そして近畿天皇家にとって最も重要なことは九州王朝との政権交代であることは間違いない。この事件が六四五年に起ったことだとすれば政権交代にそれほど影響があったとは考え難い。その首謀者のひとり鎌足を「大功」に叙するほどの、である。しかしこれが六九五年のことであれば、これを皮切りに政変劇が進行したと考えられるので、大いに意味があることになる。鎌足ではなく不比等を「大功」にするほどの。(蛇足ながら、書紀が六九五年の事件を五〇年遡らせたとすれば、その登場人物も例えば不比等から鎌足に書き換えている筈だ。これが「藤氏家伝」に「不比等伝」が存在しないという摩訶不思議の理由ではあるまいか)
 更に、九州王朝との政変劇の功労者は、紀・続紀ともに何処にも存在しない。勿論、九州王朝そのものを抹殺したのだから、建前上その功労者を書く訳にはいかない。しかし、論功は行われた筈でそれが形を変えて紀・続紀に記入されたのではあるまいか。例えばこの「乙巳年功」として、である。
 稿末に最も重要なことを述べさせて戴きたい。そもそも九州王朝を抹殺した日本書紀を近畿天皇家は正史とした。従って、その後の記録は日本書紀に矛盾しないように書かれている(ミスはあり得るが)筈である。つまり、「日本書紀」と「続日本紀」は少なくとも九州王朝史抹殺に関しては共犯関係にある。正確に言えば「続日本紀」は「日本書紀」の事後従犯なのだ。その「続日本紀」の証言をもとに「日本書紀」の記事の正当性を証明することは出来ないのである。


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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