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唐書における7世紀の日本の記述の問題 青木英利(会報106号)卑弥呼の時代と税について
中国山東省曲阜市 青木英利
三国志魏志倭人伝に「収租賦」の言葉がある事は衆知、疑いない。しかし、賦税制度とその前提の「課税台帳」としての「戸籍」の存在は、記載がない。
もとより、「収租賦」が本当に、後代の租庸調の租税に当たるのかさえ不明瞭である。
私は、長らく、不明瞭だと感じていたので、今回、三国志魏志の全「租」の使用例を抜き出してその標準の意味を確認した。
呉志にも使用されていたが、数が少なく、蜀志には使用例がない。従って、魏志だけに限って調べた。
使用箇所の概括は、武帝・文帝・明帝・三少帝の帝紀で十二箇所、伝で十一箇所。帝紀は武帝の本文が一箇所、注の魏書からの引用文中に八箇所、他の三帝紀では本文です。伝での使用は十一箇所の内本文上に使用されているのは八箇所で注は三箇所です。
武帝紀の注の魏書の使用をみると、この時代までに、「租賦」の使用は多くその意味も確立しているとの印象が最初にありました。
最初から順に訳文を羅列します。
一、今年の租賦は納める事は不要
二、他の方たちに代わり、租賦を納める
三、彼が納めた田租は、一畝につき四升の穀物
四、現在将に受け取った租賦を部下に分け与える
五、田租と俸禄の為に、奉仕する
六、租税は全て完全に納めつくした
七、皆、税を納めるのは不可能だ
八、賜ったのは饒安県の田租
九、ここにおいて、誰(人名)の賦税徭役を二年間免除する
十、頻川郡の田租を一年間免除する
十一、配偶者や子供の無い老人、父親の無い子供は今年の租賦は免除
十二、毎年ただ、半分の租賦を納めよ、之を五年継続。
十三、租賦を僅かに納めるか、それとも、延び延びにする。
十四、また、納めさす田租賦税綿絹の類(新しい租税の新設)
十五、田租の収入は平素の数倍(豊作で、田の面積も増えている)
十六、租の時期は、人々に対して、その時に応じた、適切な量で納めさせるべき
十七、詔勅によって、茂の田租と俸禄は少なくなった(封戸を五千から五百に削る)
十八、食物・衣類に課税ならびに田租賦税(消費税の事かな?)
十九、田租賦税を軽く少なくする
二十、又、烏丸五百余の戸家の田租を免ずる事を上表する
二十一、又、使者を派遣、彼等の租税を非常に厳しく管理する
二十二、非常に重い田租賦税を納めさす
二十三、田租賦税を、納めさす
以上二十三個所の「租」関係の、訳文を羅列した。最後の二十三番目の、「田租賦税を、納めさす」が倭国伝の訳文である。魏の使者が二十年に渡り、倭国に逗留して観察した結果、簡明に書かれたこの「収租賦」の意味は大きい。中国の税制度の知識の無い方が、以上の二十三箇所の訳文を読まれた場合の印象は如何なものであろうか。
ただ、背景だけは予断になるかも知れないが、述べたい。「三国志」には志が無くて、志の中で本来食貨の項があり、ここで租税と土地政策が述べられるのだが、志が無いので、「三国志」の「祖」の概念に付いての直接の包括的な説明は無い。
しかし、晋書で述べられている事が相当すると見られる。全ての教科書で、両晋南朝の屯田制が税の制度としても語られている。これは、曹操の魏時代に行われた屯田制と戸調式を引き継いだもので、中国史史上一大画期をなすものである。
漢末の混乱は、朝廷の混乱もあったが、大掛かりな農民反乱で三国時代となり、いわば、騒乱の中での徴兵と、逃散により、無住の農地が激増して、農地は荒廃した。勿論、国家によって管理、掌握される人民の人口は大激減である。騒乱から逃げる事と、徴兵を免れるための逃散である。この時代の戦闘は、勝利も大切だが、兵士狩りが目的の戦闘も多い。農民兵士が、戦闘員の大部の時代である。農民が、兵士から分離されたのは、唐時代になってからである。唐代は、農民には一切徴兵はなくなった。身分上の不分離の時代が三国時代である。一言付け加えると、隋代の琉球占領は、一二〇〇〇人の捕虜を連行して、その後も屋久島などに侵攻しているが、この時代もまだ、兵士狩りが目的だ。この時代は、土地と人をどのように結びつけるかが課題で、全部兵隊では、農業をやる者が居なくなるので、戦闘の無いときはどんどん土地を当てがって、兵隊には屯田させ、屯田は僻地にも広げた。優遇すれば、逃げていた農民も集ってくるものである。これらの作業は、土地と農民の関係では、土地の私有制と賦役が漢代で確立しているし、役は代納・貨幣経済が発達しているので、この基礎の上に、戦乱で崩壊した農村社会の現状に即した、新しい、税の体制が実施されたのである。当然、散逸した戸籍の再生も、現状に即した形で再生されたのである。もはや、以前の戸籍にこだわる必要はない。これらのことは、文書作業なしにはなしえない事は自明である。
そうゆう時代に生きた陳壽にとっては、租賦税は政治制度・社会制度の基本であり、現実の施策の名称である。当然、彼に倭国の報告をした官人も、同様の水準で租賦税を認識していたはずである。倭国に租賦税の仕組みが有るのか無いのか、そのことも報告の対象となっている。有ると報告しているのである。その租賦税とは、羅列した二十三箇所のような意味の租税制度なのである。詳細な点では、異なる点があるかもしれないが、大概においては、同一の意味での税制度を指している事は疑いない。
さて、それならば、論理の指し示す公理に基づくと、「戸籍」があった事もこれも確実である。そして、また、「伝送文書」と言って、国内外を問わず、一大卒が文書と賜り物を検査していると述べている様子は、文書なしにはどんな小さな公事も進まないという事である。文字が普及していると言う事である。
以上の事より、租賦税の制度があり、収納させていると言う事が明らかなので、次に、租賦税の中身・種類などに付いて、今後関心を持ってみたい。
両岸海上国家というイメージと市場で食料を手に入れている記載から、海運取引税や消費税などが田税とともに仮定される。私は、額としては田税より海運取引・消費税の比率が高かったのではないかと想像している。なぜなら、中国では、儒教の影響で、商業が軽視されているが、反面、古代戦国時代以来、世界的な商業中心地で、商業資本・金融資本が大変発達していて、歴代の王朝はこの金融資本・商業資本を当てにしてきた。
倭国は小国連合の国家であったわけで、二十九の他の小国に対して、倭国の徴税権が及ぶはずがない。倭国は、倭国内だけの田租賦税だけでは、田の広さと農民人口だけでは、形式的には三十分の一の収入である。とすれば、海運取引・消費税という市場占有率が物を言う世界ですから、この独占で、大きな収入があったと想像する。
だとすると、白村江の敗戦は、この海運市場の国内外の喪失であり、当然、唐からは、遣唐使航路の制限と造船の制限を受けたので、この点で、倭国の国家財政は窮迫したはずである。遣唐使だけの経済交流は実は、海運取引の市場を奪われた、中国からの経済統制であり、日本は、田租賦のみに頼ることになり、戸籍の実施は全国的なものとなった。戸籍は、かっては、倭国だけにあったと見なすべきだろう。
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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