2011年10月 8日

古田史学会報

106号

1、論争の提起に応えて
 正木裕

2、「邪馬一国」と
「投馬国」の解明
倭人伝の日数記事を読む
 野田利郎

3、唐書における
7世紀の日本の記述の問題
 青木英利

4、反論になっていない
古賀氏の「反論」
 内倉武久

5,磐井の冤罪 I
 正木 裕

6、史料紹介
 古谷弘美

 

古田史学会報一覧

卑弥呼の時代と税について(会報104号) 青木英利
二〇一一、六、一六号の新潮 「卑弥呼の鏡の新証拠」に付いて 青木英利(会報108号)

唐書における7世紀の日本の記述の問題

山東省曲阜市 青木英利

 細かい事に成るけれども、日本に関しての「旧唐書」の記述には、空白がある。それを代表的にあらわしているのは、倭国伝と日本伝である。倭国伝では、貞観二二年(六四八年)で朝貢が途切れ、日本伝では、長安三年(七〇三年)に朝貢が新たに開始したことになっている。これは、列伝の記述で、それを、補充説明するような記述は、本紀に勿論無い。本紀は大事を、列伝は小事という水準の違いがあり、貞観二二年から長安三年の間の五十六年間の日中の空白を埋める年代的記述は本紀にはない。ただし、この五十六年を「説明している」記述が、日本伝の冒頭に書かれている。「日本国者は倭国の別種なり」と以下「北の大きな山を限りとして、その外は毛人の国なり」。つまり、この五十六年の間に、日本を代表する国名が、倭国から日本に変わったという説明が成されて、国土を北に接する毛人の国は独立国だという事も書かれている。
 さて、「唐会要」という、唐代に創作され続けられてきた一連の書がある。宰相・崔鉉が撰した「続会要」が底本になって、北宋の九六一年に完成したものであるが、九六一年と言えば、九四五年の「旧唐書」に遅れて出来ているが、「唐会要」の底本は「続会要」で、これは、八五三年に完成していて、「旧唐書」は「続会要」を種本としている。「旧唐書」に書き漏らした事も、ここには、載っている。
 さらに、この「続会要」は蘇冕の「会要」を引き継いだこととなっている。蘇冕は唐徳宗朝の人で、「会要」四十巻の編纂者である。高祖から徳宗に至る九朝の典章制度・典志類史書の会要の創始者である。その蘇冕の発言としては、資冶通鑑の巻第二一六に、七四八年に、安禄山に鉄券を賜った事に対して、彼の評論が載っている。但し、彼は、玄宗時代の人ではなく、徳宗時代の人であり、資冶通鑑は一〇八四年の編纂である。ちなみに、「旧唐書」には彼の事跡は載っていない。徳宗時代とは、七八〇年から八〇四年の時期である。
 従って、「旧唐書」の倭国伝・日本国伝は、「唐会要」の「倭国伝」「日本国伝」が種本で、さらに、大本は「会要」に求める事は当然である。
 さて、この「会要」の倭国伝には、永微五年(六五〇年)一二月に倭国遣使貢献して高宗が、新羅が高句麗と百済から、侵犯を受けているので、倭は出兵して新羅を救えと国書を出している。この時、屋久と波耶と多尼は皆倭に付属していると認定している。二十年後の六七〇年に、唐が高句麗を平定した祝いの遣使を倭国が送り、かくのごとく、後まで継続して朝貢していたと書かれている。七〇三年の則天武后時には、自ら、その国日に近いので「日本国」と号し、倭を雅ならずにて、変えたと説明している。これが、「会要」の倭国伝である。一方、同じ「会要」の日本国伝は「旧唐書」と同じ文章が載っている。さらに、蝦夷国が、独立国の扱いで、六五九年に倭国に伴われて、入朝している事が記載されている。
 この、「会要」と「旧唐書」の比較をすると、「旧唐書」の貞観年間で朝貢が途絶えたのは明らかに、両国の友好関係の亀裂があったからで、高表仁の外交努力も失敗だった事は紛れも無い事で、「唐書」「会要」は隠さず明確に書きとめていて、貞観二二年の朝貢も、当時東方で一番の中国信奉国の新羅を通じての間接朝貢であった。つまり、二二年の朝貢は、一方的な感じで扱われていて、歓迎の意味は無い。「唐書」の外交の認識水準では、日本は、優良な友好国としてのみ扱われてきた。その意味は、大変大きい。日本は、倭として、周代以来の一貫した、礼節の国、模範的な友好国なのである。その国との外交関係に、虚偽の不快な関係はあってはならないとの自負は唐朝にはあった。ここが、重要である。
 「唐書」の水準はそうゆう点にある。だから、「会要」の永微五年(六五〇年)の倭国への新羅救援の要請国書、そして、六七〇年の高句麗平定の祝いの遣使も、一切、「唐書」には書かれていない。何故なら、この朝鮮半島に関する事件は、倭国と唐朝の不和の原因そのものであったし、唐朝にとっては、倭国の態度は、形式的・偽善以外の何物でもなかった。唐朝の自尊心からは、不愉快な事なのである。
 「会要」が、国史より、多くのことが記載されているのは、政治・経済・文化・制度沿革の詳細を実務的に記載しているからであり、五夷の国々に付いても漏れなく記載されている事は当然で、年次の記録が、主たる役割ではなく、冊府元亀の外臣部・朝貢の年表には及ばないが、日本のように、王朝が変わった場合は、その年次を伴う王朝交代の要約を記載しているのである。その要約を、「旧唐書」は「国史」の水準で、年次抜きで、採用しているのである。ある意味で、それ以外に、「旧唐書」には道が無かった。年次は、何処を探しても見当たらなかったからである。
 しかも、「旧唐書」は単なる、「会要」の書き写しでは無かった。その交代の要約は、国史の水準として、「会要」の矛盾した羅列とは異なり、論理的整合性を持っている。
 しかしながら、ここには、六五九年以後の年代の記述が一切、存在しない事を前提に成り立っているという点を、従来、見逃してきた事を指摘しなければならない。

 重ねて言うと、中国側の「会要」「冊府元亀」「旧唐書」には、六五九年以後の対日本関係年表は、殆ど記載されていない事が特色であり、一方、この時代を描いている「日本書紀」の「斉明紀」「天智紀」「天武紀」「持統紀」には、多くの対外年表が載っていて、勿論、対唐関係の年表が中心ですが、その大部分が、中国側に該当するものがありません。
 記録の国の「国史」に年表が無いという事に付いては、原因は、二つです。紛失したか、それとも、非公開化されたか。紛失は、ありえません。徳宗時代以前に紛失しているとしたら、他の年表にも影響があります。そうゆう傾向は聞いた事がありません。としたら、意図的に、この部分が、非公開になっていて、徳宗代年までには、年表の代わりに、この空白を埋める要約が、成立していたと考えられます。従って、「会要」と「旧唐書」にある、「倭国伝」「日本伝」の要約は、非公開にした唐王朝が、非公開の決定時に作成した、弁解書、説明書なのです。何時の決定か? 徳宗代には、当然、詳細な年表を知りへませんから、「会要」の編者が新作することは不可能です。七八〇年以前のかなり早い時期に、世上公開の公文書、特に、外交年表の中から、日中関係に限り、抜き取られ、国史編集資料としての使用が不可能となったのです。その齟齬を補う為に、要約が、はめ込まれたのです。
 つまり、七八〇年以前に、既に揃えられていた年表の中から、六五九年から七〇三年までの期間の、対、日本関係の外交年表に限って、抜き取りが行われたのである。
 「日本書紀」の編纂完了は七二〇年である。この編纂の後、六十年後には、中国の国史編纂資料の中から、日本史五十六年分が抜き取られたのである。この要約はその段階で作成され、「会要」にはそれが、そのまま書き写されて、「会要」「続会要」「唐会要」と伝わったのです。

 以上で、主題の論槁を終えますが、追加があります。
 この「会要」の内容で注目すべき事を付記します。それは、「倭国伝」の中で、則天の時、自ら国名を日本に変えたといっていることで、従来、だから、大和の旧名が倭国だと則天は認めているとする論がありますが、ここは、大和が主張していると紹介しているに過ぎません。「会要」の「日本国伝」の日本は倭国の別種だとの事は、唐の見解で、入朝者と書いていることから、この日本国としての入朝者は、七〇三年の朝貢を指し、この入朝者が多くの自慢話をして、実態と違い、唐は此れを疑うとしていて、自ら主張しているが、実態がなく、唐は疑っていると、強調しているのです。「会要」の則天時の文字を以て、倭国が単に日本と改名した事を、則天が承認したかの様な主張は成り立たない。
 それから、「会要」が蝦夷国を独立国として扱っている事です。「蝦夷国」の項を独自に作っています。つまり、「日本国」や「倭国」と同じく項立てをしています。これは、徳宗代の認識と一致しているはずです。つまり、日本国史の八〇一年の坂上田村麻呂の蝦夷占領までは、蝦夷は独立国で、七二五年の多賀城建設も七三三年の出羽の冊も疑って掛からなければ成らないし、隼人・蝦夷の蝦夷は、蝦夷国とは区別しておかなければならないと思います。
 つまり、七世紀から八世紀にかけて、蝦夷征伐の国史が一方に書かれていて、一方では、隼人・蝦夷の倭国軍への取り込みが行なわれていて、七一〇年の平城遷都の時の儀式においては、隼人・蝦夷は近衛兵の中心として扱われていますので、蝦夷の場所の詳細な特定と区別が必要だと思います。(二〇一一・九・三)


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

新古代学の扉 インターネット事務局 E-mailはここから

古田史学会報一覧

ホームページ


Created & Maintaince by" Yukio Yokota"