再び内倉氏の誤論誤断を質す -- 中国古代音韻の理解について 古賀達也(会報103号)
倭人伝の音韻は南朝系呉音 -- 内倉氏との「論争」を終えて 古賀達也(会報109号)
反論になっていない古賀氏の「反論」
富田林市 内倉武久
文献資料はその文献が書かれた当時の現地音で読むべきである。したがって魏志倭人伝に掲載されている人名、国名などは、三世紀末あるいは四世紀初めの中国・洛陽で話されていた音(仮に漢音と表記、日本の漢音ではない)で解読さなければならない。きわめて当たり前な主張ではなかろうか。小生はそれを直前の後漢時代、西暦百年ごろに成立した「説文解字」に求めた。
小生のこのような主張に対して古賀達也氏が「魏晋朝の字音はわからない」「呉音で読むべきだ」など再三反論を寄せられている。しかしその「反論」とやらは終始揚げ足取りや無理解、およそ真摯な研究者らしくない無礼ともいえる表現の羅列に終わっており、再反論する価値もないものである。
大方の会員は冷静にそのレトリックに気づき、反論の体をなしていないのに気づいておられるだろう。しかし、なかには日本のゆがんだ古代史学界とその周辺の「常識」に引きずられて、古賀氏のレトリックに気づかず、何か確実な論拠があるのではないかと感じてしまう方もおられるかもしれない。そういう杞憂をもったのであえて筆をとり、会報一〇四号に掲載された古賀氏の論への反論をさせていただく。
「指摘1,2,3」について
魏晋朝は「漢朝を受け継ぐ正統な王朝」であることを旗印にし、首都も漢とほぼ同じ黄河の上流地域である(長安・洛陽)。当然、漢字の読みもほぼ同じであったと推察できる。繰り返すが、少々変化していたとしてもはるか南方地域の言語である「呉音(日本の呉音ではない)」と同じであったとは思えない。
古賀氏は宋代(十世紀)の研究書をひっぱり出し、あたかも自らは「原典に即して立論している」かのように装い、「原典を見たことがあるのか」などと小生を論難している。古賀氏にはそのままこの言葉をお返ししたい。
「原典」である許慎が書いた「原稿」は失われている。日本はおろか中国にいる研究者でもみることは不可能だ。手で写した「手抄本」をもとに各代の人が注を加え、版行した「版本」で流布している。
小生は「原典」全てが記載されている『説文解字注』(清・段玉裁 注)を国立民族博の図書室で活字本ではなく木版影印本を見て複写したうえで、本論を提起している。他の諸注釈本が沙青巌の研究書と同じであるから使ったまでのことである。
古賀氏は宋代の注釈書の方が清代のものより古いから優れている、とお思いのようだが、事実は全く逆である。研究とは科学であり積重ね・進化がある。氏の発想は江戸時代の天文学が、現代の天文学より優れている、と主張するようなものである。ご懇意の京大教授にでもご確認ください。
しかも氏が見た研究書には、沙氏本に記載がある声調を表す「平声」の記述がない、と非難される。が、今問題にしているのは音の上げ下げ(声調)でなく漢字の読みそのものである。
氏が「原典」のごとく見せかけてひっぱり出してきた宋代の研究書も字音の読みの部分については小生が示した『説文大字典』と同じである。従って「倭」は「ヰ」、「奴」は「ド」と読むべきものだとの主張は変わりようがない。
「駑馬」の「駑」は説文に載っていないことは先刻承知しているが、後代の字典でも一貫して「ド」としか読めないことは調べればすぐわかる。「ド」とは読めない、というのならどう読むのか、証拠つけて提出すべきである。そうでなければ反論にならないであろう。
「指摘 4」について
氏は「『倭』を『ヰ』でなく『ワ』と読むべきだ」と主張しているのに、その読みを解説した「倭遅(ヰヂ)」の読みについて「ワジ」と読む根拠を示せず、「不明だ」とされる。それなら論そのものが成り立たないのではないか。
代わりに持ち出したのが「倭遅」の読みとは無関係な、三、四世紀とははるかに時を経た十一世紀成立の『集韻』に「ヰ」と並んで「ワ」の音があるということ。この解釈については拙著「神武と卑弥呼が明かす古代」(ミネルヴァ書房)に記しておいた。
結論だけ言うと「北方音に『ワ』の音が字典などに登場するのはこれが最初である。おそらく九州政権も大和政権(ワ政権)も同じ政権であると、身勝手な論理を振りかざした大和政権の言い分を唐朝が後にそのまま認めてしまった?ことによって、読みに『ワ』を加えた」あるいはまた、「呉音が漢音のなかに入り込んだことによる変化」ではないかと思われる。
「旧唐書」では「日本の使者のいうことには真実味が薄い」と疑問を呈しているのに、「集韻」と同じ十一世紀の「新唐書」では、大和政権の言い分をほぼそのまま載せていることからの推察である。
氏は小生に向かって「自ら配られたレジュメの内容を理解されていたのか」などと小馬鹿にした言辞を投げつけている。「理解していない」のはどちらだろうか。この論を読む会員に「内倉は質の悪い研究者」であり、自らは「字韻学に通暁した研究者」であることを会員に印象付けようとしていると思われる。確かに小生は字音に通暁した研究者ではないが、理解できないものを会員に披露したり、いいかげんな論を発表する勇気はない。
「指摘 5」について
「氏(内倉)は私に対して『倭』を『ワ』と読み、『奴』を『ナ』と読まねば大和政権一元論に都合が悪い日本の古代史学界におもねった主張」であると「論難している」と書いている。氏に対してそのようなことを書いたことはない。それは「呉音説」をとる藤堂氏らに向けた論難である。書かざることを「書いて論難している」としてあたかも氏や古田先生に非難を浴びせているように会員に印象付けようとしているようだが、とんでもないことだ。
「指摘 6、7」について
「『委奴国』を『伊都(委奴・ヰド)国』と呼んで始めて三雲・井原・平原の出土品など考古学的成果と合致するのである」と記したことについて古賀氏は、「史料根拠も論理性も示していない」「わけのわからないことを繰り返している」と論難する。
一方で「古田説に立てばいくらでも考古学的成果の説明は可能である」という。「委奴=倭奴=伊都(怡土)」と解釈せずに、邪馬壹国以前に北部九州の盟主として君臨していたと思われる伊都国の立場や、金印、北部九州で最多を誇る大量の前漢鏡、玉璧、ペルシャ製の玉などの出土状況をどうして「説明は可能」なのかわからない。
小生が書けば「わけのわからないこと」であり、古田先生が言えば「説明は可能」であるという。まったくあきれはてた考え方ではなかろうか。会員は何をいってもダメで古田先生が言えばOK?氏にとって古田先生は神様なのだろう。
小生は、古田先生は古代史の優れた、きわめて優れた先駆的研究者であると思っているし、小生の研究の大方は先生が切り開かれた基礎の上に準拠している。それでも、疑問は疑問として提示することは後に続くものの務めでもあると考えている。
中国語、特に北方音では「do」と「to」は有気音か無気音の違いだけである。「伊」と「倭」も違う音であるというが、通訳を通じて聞いた言葉や通訳のくせ、倭語を聞いた中国語しか聞いたことがない使者の耳など問題はいっぱいある。話を交わした人すべてが字音学に通暁していてそれにそって正確に発音していたなどと考えるほうが非常識ではないか。おまけに中国史書は夷蛮の国名や人名に卑字を使う際にそのような字音学的な配慮などしていないことは見れば明らかだ(古田先生の『邪馬台国はなかった』第六章参照)。そんなことも理解せず「学問的でない」などと非難するのは的外れもはなはなだしいと思われる。
以上古賀氏の再々反論に反論させていただく。しかし相手の論に「誤断」とか「誤謬」など感情をむき出しにした言葉を投げつける議論はきわめて下品である。いくつもの優れた研究をされている古賀氏の人格に疑問符がつかぬよう祈りたい。そしてこれ以上論を重ねるつもりはないことを表明する。
(二〇一一年六月)
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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