2011年10月 8日

古田史学会報

106号

1、論争の提起に応えて
 正木裕

2、「邪馬一国」と
「投馬国」の解明
倭人伝の日数記事を読む
 野田利郎

3、唐書における
7世紀の日本の記述の問題
 青木英利

4、反論になっていない
古賀氏の「反論」
 内倉武久

5,磐井の冤罪 I
 正木 裕

6、史料紹介
 古谷弘美

 

古田史学会報一覧

三角縁神獣鏡銘文における「母人」と位至三公」について(会報104号) 古谷弘美

史料紹介

枚方市 古谷弘美

(一)「明王より豊臣秀吉に贈れる冊封」と尚書

 先日、徳富猪一郎の『近世日本国民史・豊臣氏時代己篇・朝鮮役下巻』を京都下鴨神社の古書市で見つけ、手にとってみました。巻頭に「明王より豊臣秀吉に贈れる冊封」の写真が掲載されています。
 秀吉を封じて日本国王となすとした有名な文書です。
 それを見ていくと「海隅日出 罔不率俾」と書かれているのです。これは見た覚えがある文言です。
【これに対し、周初(前十一世紀)の記録とされる『尚書』の中にもまた、倭人
の姿はその片影を見せている。海隅、日を出だす。率俾せざるは罔し。(巻十六)これは周公の言葉だ。・・・中略・・・史上に著名な「周公の治」とは、周王朝第二代成王の時期を指すのである。その周公の言葉として、右の一節が出現する。「率俾」というのは、“天子に臣服する”という意味の熟語である(諸橋『大漢和辞典』)。すなわち“夷蛮が貢献の使者を送ってきた”ことをしめしている。したがって右の一文は次の意味だ。“東の海の彼方の一隅に日の出るところがある。そこに住む夷蛮の地から、貢献の使者がやってきた(そんな遠方まで、およそ貢献しないものはいなくなった)。”古田武彦著 「古代は輝いていた I  『風土記』にいた卑弥呼」昭和59年 朝日新聞社刊27~28頁】

 周初から「明王より豊臣秀吉に贈れる冊封」まではおよそ2600年です。明王朝から日本列島の権力者にあてた文書中にこの一節が使われている意味は何でしょうか。明王朝の官僚は『尚書』を読んで、「海隅日出」は日本のことであり、周公の時代から日本は天子に臣服してきたと認識していたということです。このような尚書理解は明代だけではなく過去から連綿として存在したのではないでしょうか。
 中近世文書にもこのような形で「古代」が現われることを実感しました。
 なお、この文書に「卉服」という言葉がありますが、『尚書』禹貢に「島夷卉服」という文言があります。卉は草、草木。
 この文書は現在、『綾本墨書 明王贈豊太閤冊封文』重要文化財として大阪歴史博物館に所蔵されています。

明王より豊臣秀吉に贈れる冊封 尚書「海隅日出 罔不率俾」史料紹介 古谷弘美

(二)梁蕭景墓石柱の刻文について

 本稿は奈良県立橿原考古学研究所編『図録 中国南朝陵墓の石造物 南朝石刻』(以下『南朝石刻』)における「梁蕭景墓石柱の刻文」についての考察です。(注一)
 『南朝石刻』に南京市東北郊外に所在する梁蕭景墓の石柱の写真(三九頁)が掲載されている。石柱の上部に横長長方形の石額があり、文字が刻まれています。その文字が何か奇妙なのです。鏡にうつしたように文字が反転しているのです。
【石額の題字に「梁故侍注中中撫将軍開府儀同三司呉平忠侯蕭公之神道」と楷書で刻まれ、反書となっている。】(『南朝石刻』八八頁)二二~二四頁には南京市の東の丹陽市郊外にある梁文帝建陵の二本の石柱の写真が掲載されていています。
【右石柱の石額には正書、左石柱の石額には反書の楷書で「太祖文皇帝之神道」と刻まれている。】(『南朝石刻』八五頁)
 反書という言葉については『南朝石刻』の中では特に解説していませんが、現代中国の考古学者も使用しているようです。(注二)

 日本列島の古墳時代の特徴は銘文をもつ銅鏡(三角縁神獣鏡を代表とする)が古墳に多数副葬されていることである。その銅鏡の銘文には反転した文字があることはよく知られている。さらに銘文全体が反転した銅鏡が九州糸島郡の銚子塚古墳から出土している。(注三)
 石柱に刻まれた反転した銘文、銅鏡に鋳出された反転した銘文、両者はともに墳墓に付属し、作られた時代は近いといえるでしょう。これは偶然でしょうか。「反転した文字」の意味を解明する手がかりになるのではないでしょうか。今後の課題としたい。

梁蕭景墓石柱の刻文 反転した文字 史料紹介 古谷弘美

 注
(注一)「南朝陵墓は墓室を内蔵した墳丘と、その前面にのびる神道、神道の入り口である神門を飾る石刻からなり、これらを包括する陵墓域をもつ。(中略)神道の入り口が神門である。ここには石獣、石柱、石碑などで構成される石刻が並べられる。」(『南朝石刻』七五頁)

(注二)「反書は特殊な書体で、神道石柱の題字にだけみられるものである。現在判読できるものには、梁文帝蕭順之(四四四~四九四)と呉平忠侯蕭公(四七七~五二三)両墓の石柱神道碑があるが、蕭順之墓は両柱で、一は正書、一は反書である。蕭景墓のは一柱を残すだけであるが、反書である。両墓は大同年間以前に葬られたもので、このての反書は梁代初期にあったが、梁代の前後にはともにみられず、わずかに一時流行しただけである。」(『古代江南の考古学』著者羅宗真 編訳中村圭爾・室山留美子 白帝社二〇〇五年五月一四日 九二~九三頁)

(注三)「銚子塚古墳の中の八つのイ方*製三角縁神獣鏡、その中に二つの『文字あるイ方*製鏡』がある。吾作明竟甚獨保子宜孫富無 [此/言]奇 この文字が左文(裏がえし)で書かれている。」(古田武彦『ここに古代王朝ありき』ミネルヴァ書房 一五九頁)「銚子塚古墳に内蔵されていた、二つの『文字をもつイ方*製三角縁神獣鏡』(二面とも同文)について、もう一度吟味してみよう(中略)。まず『左文』問題。これは“一字や二字が『左文』”というのではなくて、文章全体が『左文』だ。これは何を意味するのだろう。この鋳鏡者は、文字の“右と左の区別もつかなくて、うっかり逆向きに銘刻してしまった”のだろうか。(同上 一六二頁)
     イ方*は、人偏に方。第3水準ユニコード4EFF
      [此/言]は、此の下に言。第4水準ユニコード8A3E


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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