2010年12月1日

古田史学会報

101号

1,白鳳年号をめぐって
 古田武彦

2,「漢代の音韻」と
 「日本漢音」
 古賀達也

3,「東国国司詔」
 の真実
 正木裕
 編集後記

4,「磐井の乱」を考える
 野田利郎

5,星の子2
  深津栄美

6,伊倉 十四
天子宮は誰を祀るか
  古川清久

 

古田史学会報一覧

忘れられた真実 -- 一〇〇号記念に寄せて 古田武彦(会報100号)
九州王朝終末期の史料批判 白鳳年号をめぐって 古田武彦(会報101号)

第六回古代史セミナー -- 古田武彦先生を囲んで 日本古代史新考 自由自在(その二) 松本郁子(会報96号)


九州王朝終末期の史料批判

白鳳年号をめぐって

古田武彦

   一
 本題に入る前に前号(一〇〇号)に関する若干の感想をのべさせていただきたい。なぜなら本稿のテーマ、特にその「学問の方法」について、深く“かかわり”をもっているからである。
 先ず「禅譲・放伐論争シンポジウム」について。このテーマのことは、早くから木村賢司さんからお聞きしていた。わたしが「この『禅譲・放伐』の二語は、孟子が彼以前の歴代(周以前)を、彼独自のイデオロギーから『批判』した用語です。だから、その時点と日本の七世紀後半と『歴史状況』が違う点、注意なさった方がいいと思います」旨、申し上げたところ、「それは百も承知です。それはそれとしてともかく、みんなになんでも言ってもらおうという考え。『禅譲・放伐』はそのための“旗印”に過ぎません」とのことだった。だから今回のシンポジウム(大下隆司さん要約)の各論旨もわたしには格別の“異和感”はもたなかったのである。ただ、それぞれの発言が果して「学問の方法」において適切か。その「結論の当否」いかん。それとは別問題。それがわたしの感想だった。

   二
 むしろわたしにとって“見のがせない”論文は、内倉武久さんの「漢音と呉音」の論稿だった。内倉さんはすでに『太宰府は日本の首都だった』(ミネルヴァ書房刊)などの好著を公刊されている。今回の論稿はわたしには「?」だった。このテーマはすでに今執筆中の『日本評伝選・俾弥呼』に詳述したけれど、今回の内倉さんの主張とは“真反対”といっていい立場だ。この点、古賀達也さんが本号に批判論文を掲載されるようであるから、今はそれにゆずりたい。

   三
 前号(一〇〇号)出色の好篇があった。岩永芳明さんの「古代の大動脈・太宰府道を歩く」の一稿だ。実地を自分の足で歩き通されたこと、それを直ちに記録化されたこと、貴重だ。後世の指標となろう。ただ、この「神戸~太宰府」間の実地検証と、三国志・魏志倭人伝の所述との関係は、もちろん別問題であろう。ご苦労に深謝したい。

   四
 幾多の重要な問題点を含むのは、合田洋一さんの「越智の国に在った『紫宸殿』地名の考察」である。第一に、もっとも重要なのは、紫宸殿という地名それ自身が伊予の越智国に遺存していた、という事実である。(今井久氏、『古田史学会報』九七号所載)。
 向日市(長岡京)の「大極殿」、また奈良市平城京の「大極の芝」の例が示しているように、このような「特殊地名」はみだりに「造作」し「遺存」するものではない。必ず歴史上の「事実」の痕跡という可能性が極めて高いからである(この点「だいり」のケースは異なる)。第二にこれに対し、合田さん自身の「考察」には幾多の問題点がふくまれていた。たとえば「白村江の敗戦以前」という“時期”に太宰府と越智の二ヶ所に紫宸殿の存在を認めようとするのは「唯一・無二の中心」を意味すべき「紫宸殿」の名にふさわしくないのではなかろうか。また「白村江の敗戦以前」を二つの時期に分け、(前半)太宰府、(後半)越智とするのも、苦しい。「紙上の区分け」アイデアにとどまるように見える。いずれも「今後の研究課題」と云われる通りであろう。

   五
 本題に入ろう。
 わたしにとつて考察の基本軸は「九州年号」である。とりわけ問題の焦点は「白鳳年号」の存在だ。この年号は「六六一~六八三」の間、二十三年の永きにわたる。異例だ。通例の「九州年号」は「四~五年前後」だからである。問題は「量」だけではない。「白村江の敗戦」前後にまたがる、という「質」の点においてさらに重要だ。注目すべきである。(白村江の敗戦は、旧唐書・百済伝では「六六二」、日本書紀・天智紀では「六六三」)。なぜ、これほどの一大敗戦にもかかわらず「同一年号」が存続しているのであろうか。

   六
 この点、すでに論じた。ただしそれは「九州年号の存在証明」のためだった。学会の「通説」であった「室町時代の僧侶による偽作説」に対し、「その造作者はなぜ周知の『白村江の敗戦』の前後に“またがらせ”て『九州年号』を造作したのか」と問うた。造作者の「一造作」として、考えられない「矛盾」だからである。これは逆に、「造作」にあらず、「実在」の痕跡である・・・これがわたしの立場だった。従来の「通説」側からの再反論は、今日まで一切存在しない。皆無である。

   七
 わたしにとって「九州年号の実在」は、今はすでに自明のテーマだ。このテーマに立つとき、右の「矛盾」はいかに解せられるべきか。これが新たな「?」キー・ポイントなのである。
 この問題を考える上で、不可欠の前提がある。
 「斉明天皇の史料批判」だ。今年の「久留米大学の講演」(七月三日)以来、すでに何回か論じたところだけれど、その要点は左のようだ。
 (その一)日本書紀では「皇極(六四二~六四五)」と「斉明(六五五~六六一)」を同一人としているけれど、両者の「役割」は全く異なっている。前者(皇極)は「天智と天武たちの母」である上、いわゆる「大化の改新(六四五)」のさいの「天皇」という“晴れがましい”立場である。これに対し、後者(斉明)は「狂心の渠みぞ」の主(ぬし)として、他に見られぬ最悪の「役割」が“振られ”ている。
 (その二)従来のメディアの報道する飛鳥(奈良県)の溝など小さく整美なものであり、全くその“そしり”には当らない(いわゆる「八角墓」も不当。十一月六日の八王子・大学セミナーで詳述)。
 (その三)これに対し九州の(太宰府、筑後川流域を中心とする)神籠石群は、対敵(新羅、高句麗、隋・唐)軍事要塞として、壮大な建造物。水城や運河(筑後川沿い)も厖大な労力を費やした対敵軍事施設である。「白村江の敗戦」のあと筑紫に追跡してきた唐軍(戦勝軍)に対して、右のような厖大な対敵軍事施設が「狂心の女王」のリードによるものとし、筑紫周辺の住民も“迷惑していた旨の”「責任者」としての「役割」を“当てられた”女王、それが「斉明天皇」なのであった。
 (その四)皇極(大和)と斉明(筑紫)この“別人”を「同一人物」として“結合”する手法は日本書紀の神功紀と同一である。そこでは「俾弥呼と壹与」という東アジア周知の「別人物」を、日本側の同一人物(神功皇后)を以て当てる、という手法が採られている。同じく「二人が一人」の“構造”なのである。「九州王朝は存在しなかった」という「筑紫から大和への転換」の虚構の立場に日本書紀が立ったため、共に“編み出され”た苦肉の手法の一なのであった。

   八
 本題に返ろう。
 第一命題。「白鳳年号」のときの天子(そして天皇)は斉明天皇である。(サチヤマは皇太子・摂政)
 第二命題。斉明天皇は最初「九州王朝の天子」として、白村江の戦いに臨む。敗戦のあと伊予の越智に移り、その地に紫宸殿を営む
 第三命題。唐の戦勝軍は(六六二~七〇一)の間、三十九年のあいだに「六回」倭国に進駐した。書紀はこれを「天智の九年間」の中に“まとめ”て記した。「屯倉みやけ」を「安閑」の周辺に集中し「詔勅」を「大化(孝徳天皇)」の周辺に集中して記した手法と同一である。「同一事項」を“まとめ”て書く「事典ことてん」の手法だ。
 唐軍の筑紫侵入の最後は“七〇一”直前の時期である。(筑後国風土記の古老の証言問題がしめす)。
 第四命題。伊予の水軍は九州王朝の側に立って闘ったことが知られている。伊予の国越智郡の大領の先祖、越智の直(おちのあたい)の数奇な流人漂流譚は日本霊異記等にも伝えられている。(古田『壬申大乱』において、依拠史料と共に詳報した。木村賢司さんの報告と共に。(第九章 越を恋うる嬬つまの歌 二七七~二九三ページ)
その要点は、左の三点だ。
(1). 伊予は、九州王朝の拠点とされていた。
(2). 伊予は、「白村江の敗戦」後も唐軍や九州王朝との間に複雑な関係を持続していたようである。
(3). その間において、著名の「事件」があった。先述の越智の直の「越における捕囚譚」である。「斉明七年(六六一)から天智三年(六七〇)の間、十年にわたる捕囚生活」を「越の国」において過したという。これは「白鳳元年(六六一)から白鳳十年(六七〇)」すなわち「斉明天皇」の治世の只中に当っている。
(4). その時期前後に、伊予の国における「斉明さいみょうの滞在期」があった。そのため、伊予の国(愛媛県)に「斉明」とか「朝倉天皇」などの一見“不可解”な「地名」や「人名」が遺存している。その歴史上の『秘密』はここにあったのではなかろうか。
 第五命題。書紀における「斉明天皇の在位年代」は当然ながら信用できない。(新庄命題『壬申大乱』第一章まぼろしの吉野第五節参照)
 第六命題。相対する著名の三史料がある。<いずれも続日本紀・国史大系本による>
A慶雲四年(七〇七)七月、山沢に亡命して軍器を挾藏し、百日まで首せずんば罪に復すること初めの如くす。(元明天皇)
B和銅元年(七〇八)正月、山沢に亡命して禁書を挟蔵し、百日まで首せずんば罪に復すること初めの如くす。(元明天皇)
C養老元年(七一七)十一月、山沢に亡命して兵器を挟蔵し、百日まで首せずんば罪に復すること初めの如くす。(元正天皇)
 右の「禁書」は、当然「九州王朝を正統とする立場の書物」であろう。(従来の通説では卜占の類の迷信的書籍、佐伯有清氏等)
 この「山沢」とは、あるいは「伊予」、あるいは「信州」(松本、穂高近辺)、あるいは「阿蘇山周辺」等の各地であろう。それらの地には、あるいは「紫宸殿」(伊予)、あるいは「八面大王・曲水の宴」(信州)、あるいは「井一族」(阿蘇山)、また「九州年号」などそれぞれの九州王朝の「残映」が存在していたのではなかろうか。「七〇一」はそれが「近畿天皇家中心」へと公然と「移転」した「一線」だ。公式の一大変動、その「画期」をなすものそれが他ならぬ「評から郡へ」の一大転換であった。

   九
 注意すべき一点を追加しよう。
「九州年号」は終末期において一定の“変化の相”を示しているようである。 まず「白鳳」。“白い鳳凰”の意。「帝、既に霊怪に耽ふけり、帝、常に丹豹の髄、白鳳の膏を得」(洞冥記)「白鳳遥臨」(北周[广/臾]信『象戯賦』)いずれも帝や天子にかかわるシンボル物である。<引用は諸橋大漢和辞典より>
     [广/臾]は、广編に臾。JIS第3水準、ユニコード5EBE

 この「白鳳」は「白村江の敗戦以前」の開始であるから「天子の年号」であること、自明だ。
 次に「朱雀」。朱雀門がよく知られているように 天子の宮殿の門をしめす用語である。
 すなわち「白鳳」「朱雀」ともに天子をシンボライズする用語だ。疑いがない。 これに対し次の「朱鳥」と「大化」は必ずしも天子に直結すべき用語ではない。
 続日本紀の聖武天皇の神亀元年(七二四)十月の項の「詔報して曰く『白鳳以来』『朱雀以前』年代玄遠にして尋問明らめ難し。亦所司の記注多く粗略有り。一に見名を定めて仍りて公験を給へ、と」の場合も九州年号「最末」の「朱鳥」や「大化」ではなく右に述べた「天子のシンボル」にかかわる二つの年号「白鳳」「朱雀」に対して、これらを「排撃」の標的としていくのもおそらく偶然ではないであろう。
 ということは、この観察を「反転」させれば、少なくとも「白鳳」と「朱雀」までは九州王朝側はいずれかの地点(領域)で、なおみずからを「天子の立場」においていた・・・。その事実の痕跡なのではあるまいか。
 これは「九州年号消滅」の前夜の姿、すなわち「九州王朝終末期」の“ありかた”だった。わたしにはそのように見えるのである。

   十
 最後に、日本古代史上、もっとも明白な「?」。それゆえに、どの学者も研究者も(大学の内外を問わず)、誰一人「重大問題」としてこなかったように見えるテーマにふれよう。それは「大宝元年(七〇一)以降の、近畿天皇家の年号表示」に対して、中国(唐朝以来)側が何等の『抗議(クレーム)』を突きつけた形跡が存在しないのは一体なぜか。この問題だ。
 周知のように隣国・新羅の場合、「新羅年号」が存在した。
A二十三年(五三六)。始めて年号を称し建元元年と云う。(『三国史記』新羅本紀、法興王)
B四年(六五〇)始めて中国の永徽の年号を行う。(『三国史記』新羅本紀、真徳王)
 右のA、Bの間、百十五年にわたり連綿と続いていた新羅年号は「太和四年」を以て廃止された。それも、中国(唐)側の「叱責」によったとされている。(『古代は輝いていた』III 五四~五七ページ参照)それなのに同じその唐側はなぜ近畿天皇家の「年号制定」に対して、一切「叱責」しなかったのか。この「?」だ。あまりにも明白すぎる「疑問」であるだけに、学者も研究者も、あえて「問おう」としなかったかに、わたしには思えている。不審だ。実はこの問いに答えるためには、六世紀の継体元年(五一七)から大化六年(七〇一)まで百八十四年間継続した「実在の九州年号」の確たる存在を“抜き”にしては、おそらく「回答は不可能」であろう。この一言の指摘を以て本稿の論述するところ、今回はいったん筆を擱きたいと思う。
 前号(一〇〇号)における古賀達也さんの「習合論」にはいささか事実認識に過誤あり、として訂正されるとのこと。その新説を待ちたい。
   二〇一〇、十一月一日、稿了


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