『古代に真実を求めて』 第二十三集

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2024年11月偽りの磐井の乱 前編 正木裕(https://www.youtube.com/watch?v=OF6i3qqku2c)
     12月偽りの磐井の乱 後編 正木裕(https://www.youtube.com/watch?v=TQZ520xEh4g)


継体と「磐井の乱」の真実

正木裕

一、多くの謎を抱える『書紀』の継体と「磐井の乱」記事

1、『書紀』に記す「磐井の乱」

 第二六代の継体天皇(『日本書紀』では男大迹(をほど)王、『古事記』では袁本杼(をほど)命)は第一五代応神天皇の「五世の孫」とされ、それまでの天皇とは異なり、近江に生まれ越前の国で育ったとされ、かつ豪族の推戴により即位した人物だ。
 また、『書紀』では没年齢は八二歳、『古事記』では四三歳と「二倍」の開きがあり、没年も『古事記』では五二七年、『書紀』では五三一年と五三四年の異説が併記されるなど、大変謎の多い天皇となっている。
 その特異性から、武烈と継体の間で「王朝交代」があったのではないかとされるほどだ。
 そして、『書紀』継体紀ではほとんどが朝鮮半島に関する記事で占められ、「百済本記」や漢籍からの引用が特に多いのが特徴となっている。その記事の中でひときわ注目されているのが、俗に「磐井の乱」という九州の勢力の反乱記事だ。
 「磐井の乱」とは、六世紀初頭に「筑紫の国造(『古事記』では筑紫の君)磐井」が、ヤマトの継体に反乱を起こし、討伐された事件をいい、『書紀』の継体紀には約六〇〇字(原文)を費やし、磐井の悪行や罪状の数々と、その討伐の経過を延々と記している。長文なので後掲資料にしておくが、その大要は次の通りだ。

◆継体二一年(五二七)に「磐井」が反乱を起こし、任那復興のために継体天皇が半島に派兵しようとした近江毛野臣の軍を妨げた。そこで継体は物部麁鹿火を送り、二二年(五二八)十一月に筑後御井の郡の戦で、遂に磐井を斬り筑紫・火・豊国を奪還した。磐井の子「筑紫君葛子」は、糟屋屯倉を献って死罪を免れた。
というものだ(後掲資料参照)。

 

2、『古事記』『風土記』の「磐井の乱」

 ただ、『書紀』の八年前に完成した『古事記』では、磐井ではなく「石井」、「国造」ではなく「筑紫の君」となっており、長さもわずか数行で、乱の詳細は記されていない。
◆『古事記』この御世(*継体天皇)、竺紫の君石井、天皇の命に従わず、多く礼なし。故に、物部の荒甲の大連と大伴の金村の連の二人を遣わし、石井を殺す。

 また、『筑後国風土記』では、古老の話として、雄大迹(おほど)天皇(*継体)の治世に、筑紫君磐井が天皇に従わなかったので、「俄かに」官軍が襲撃し、磐井は豊前の山中で亡くなった。また磐井は生前に墳墓(岩戸山古墳とされる)を造ったと書かれている。

◆『筑後国風土記』逸文(『釈日本紀』より)
(*前半)上妻の県(あがた)。県の南二里に筑紫君磐井の墓墳有り。高さ七丈、周六十丈なり。墓田(はかどころ)は、南北各々六十丈、東西各々四十丈なり。石人・石盾各々六十枚、交陣(こもごもつら)なり行(つら)を成し、四面に周匝(めぐ)れり。東北の角に当りて一つの別区あり。 号(なづ)けて「衙頭がとう」と曰ふ。衙頭とは政所なり。其の中に一石人有り。縦容として地に立てり。号けて「解部ときべ」と曰ふ。前に一人有りて、裸形にして地に伏せり。 号けて「偸人とうじん」と曰ふ。生けりし時に、猪を偸(ぬす)みき。仍りて罪を決められむとす。側に石猪四頭有り。「贓物ぞうもつ」と号く。贓物とは盗物なり。彼の処に亦石馬三疋・石殿三間・石蔵二間有り。
(*後半)古老伝えて云へらく、雄大迹天皇のみ世に当たりて、筑紫君磐井、豪強暴虐にして、皇風に偃(したが)はず。生平(いけ)し時、預め此の墓を造りき。
 俄かにして官軍動発(おこ)りて襲わんとするの間に、勢の勝つまじきを知りて、独り自ら豊前国上膳(かみつみけ)の県に遁れ、南の山の峻(さか)しき嶺の曲に終(は)てぬ。
 是に官軍、追ひ尋(まぎ)て蹤(あと)を失ひき。士怒り泄(やまず)して、石人の手を撃ち折り、石馬の頭を打ち堕しき。古老伝えて云へらく、上妻の県に多く篤き疾(やまひ)有るは、蓋し玆(これ)に由るか、と。

3、「磐井の乱」の記事には矛盾や不可解なことが多い

 ただしこうした一連の「磐井の乱」の記事には不審な点が多く見受けられる。
 例えば、毛野臣が派兵されることになった原因、つまり「磐井の乱の発端」となった「新羅による南加羅等の併合」は、『書紀』では「磐井の乱」が終結した結果、継体二三年(五二九)に毛野臣が渡海し、その後におきた出来事と書かれているから、物事の順序、「原因と結果が逆転」していることになる。
 また、『古事記』で継体崩御は丁未(五二七)年四月九日とあり、『書紀』なら継体二一年にあたる。磐井の乱は『書紀』では継体二一年六月から二二年十一月だから、『古事記』の年次では継体崩御後の事件となる。このように同じ「磐井の乱」の記事であっても、『書紀』と『古事記』では大きく食い違い両立しない。
 さらに、『筑後国風土記』でも、前半に石人・石盾各々六十枚が整然と並び、石人は「縦容(しょうよう*ゆったりと落ち着いていること)」と立っているとある。これは、後半の、継体側の兵の怒りに任せた狼藉の結果、石人の手は撃ち折られ、石馬の頭も打ち堕とされている姿とかけ離れている。

4、継体の崩御と安閑即位に「空白」が生じている

 さらに言えば、最大の矛盾は「乱」より「継体紀」そのものにあるといえる。『書紀』本文で継体は、継体二五年辛亥(五三一)二月五日に磐余玉穗宮で八十二歳で崩御したとあるところ、「在る本」によれば継体二八年甲寅(五三四)だとしたうえで、本文は『百済本記』の記事により継体二五年としたと書かれている。
◆「太歲辛亥(五三一)三月、軍進みて安羅に至りて、營乞乇城(こつとくのさし)を営(つく)る。是の月に、高麗其の王安を弑(ころ)す。又聞く、日本天皇及び太子・皇子、倶に崩薨すといへり。此によりて言へば、辛亥の歲は二五年に當る。後に勘校(かむが)へむ者、知らむ。」。

 つまり、天皇家の有する「在る本」と海外史書で三年のずれがあるが、『書紀』では海外史書を優先して本文としたというものだ。この結果次代の安閑天皇の元年(甲寅五三四年)と「二年間の空白」が生じる。『書紀』では継体の崩御日に安閑が即位したとあるからこれは不可解なことだ。
 加えて、「天皇及び太子・皇子、倶に崩薨」とあるところ、継体の長子安閑、安閑の弟の宣化、同欽明は皇位を承継しており「倶に没した」などという事件はない。
 こうした矛盾は、通説では『百済本記』や「継体紀」の「誤伝」や「年次のずれ」によるものとしている。しかし、『書紀』編者が、誰が考えてもおかしい「継体と息子たちが同時に死んだ」という『百済本記』や、「空白期間が生じる紀年」を「正」とし本文に採用しているのだから、軽々に「単純な誤りだ」とは片付けられないのだ。

 

5、『百済本記』記事に関する古田武彦氏の論証

 ここで留意すべきは、磐井は筑紫・豊・肥の支配者で、「高麗・百済・新羅・任那等の半島の国々」が毎年朝貢していたとされることで、これは半島に出兵し海北を平らげた倭王「武」の後継者であることを示すものだ。

◆『書紀』継体二一年(五二七)六月十三日。磐井、火・豊、二つの国に掩(おそ)ひ拠りて、使修職(つかへまつ)らず。外は海路を邀(た)へて、高麗・百済・新羅・任那等の国の年に職貢(みつきものたてまつ)る船を誘(わかつ)り致す。

 こうしたことを踏まえ、古田武彦氏は『失われた九州王朝』(一九七三年朝日新聞社。二〇一〇年ミネルヴァ書房より復刊)の中で、「磐井の乱」について次のように述べている。

➀継体の崩御は安閑即位と空白が生じない「在る本」の継体二八年甲寅(五三四)が正しい。

➁『書紀』は継体二八年(五三四)の継体の崩御を、継体二五年(五三一)と「三年繰り上げ」ており、これに伴い二八年以前の記事も二八年→二五年、二七年→二四年、二六年→二三年、二五年→二二年等と「三年繰り上げ」られることになる。

③従って二五年~二八年の間の記事を「復元」するには、二二年(五二八)~二五年(五三一)記事をそれぞれ「三年間繰り下げ」る必要がある。継体から安閑の「空白」は単に「年号だけ」を埋めても解消せず、そこに書かれるべき「事績」も埋める必要があるからだ。

④そうすれば継体二二年(五二八)の磐井の死は、継体二五年辛亥(五三一)のこととなり、『百済本記』の辛亥(五三一)年の「天皇及び太子・皇子、倶に崩薨」記事と年次が一致することになる。

⑤従って『百済本記』の「日本天皇及び太子・皇子、倶に崩薨す」との記事は天皇家の継体についての記事ではなく、倭王「武」の後を継ぎ半島に進出していた磐井に関するもので、彼は「倭の五王」を継ぐ倭国(九州王朝)の大王(天子)である。
(*倭国(九州王朝)については、本書の『「海幸・山幸神話」と「隼人」の反乱』の『2「多元史観」と「王朝交代」』を参照されたい)

 この論証は

 ➀継体崩御と安閑即位の「空隙」を埋め、

 ➁かつ『百済本記』とも整合する。さらに五三一年に「九州年号(注1)」が「教倒」に改元され、倭国(九州王朝)の大王(天子)の崩御あるいは即位が推測される

 こと等から、極めて説得力のあるものだ。
 つまり、『書紀』編者は、筑紫の君磐井が百済から「日本(当時は倭国)天皇」と呼ばれていた、つまり「磐井が倭王だった」ことを隠すため、「磐井の崩御年」を無理に「継体の崩御年」とし、「継体が倭王(日本天皇)だ」と「造作」した。この結果として皇位に空白期間が生じることになるが、それより「磐井隠し」を優先したのだ。

 ここで注意すべきことは「造作」といっても二通りがあることだ。

 ➀一つは「『書紀』編者が全く新たに創作した」というもの。

 ➁二つは「『書紀』編者が別の記事を盗用・改変した」というものだ。

 古田氏は『盗まれた神話』(一九七五年朝日新聞社。二〇一〇年ミネルヴァ書房より復刊)で、『書紀』には倭国(九州王朝)の歴史が盗用されているとし、筑紫・筑後と九州一円平定説話が、神功皇后紀と景行紀に盗用・接合されている例をあげ、継体紀でも、百済や倭国(九州王朝)の磐井に関する記事を継体と「接合」させていると述べている。

 

二、磐井は倭王武を継ぐ倭国の大王だった

1、『書紀』記事が示す「磐井」は倭国(九州王朝)の大王

 『書紀』では磐井の版図について「磐井、火・豊、二つの国に掩(おそ)ひ拠る」と書かれている。「掩」は「覆う」で、磐井は筑紫国造(君)だから「筑紫(筑前と筑後)・肥(肥前と肥後)・豊(豊前と豊後)全体を『くまなく』支配していた」ことを示している。
 また、「高麗・百済・新羅・任那等の国の年(としごと)に職貢船(朝貢の船)を誘り致す」と、あたかも「だまして誘(おび)き寄せた」ように記すが、これは「我が国の中心はヤマトの王権だから本来彼らはヤマトに貢ぐべきものだった」という『書紀』の「名分」による書き方だ。半島諸国が「だまされ」て朝貢するなどありえず、真実は磐井が倭国の代表者だから、「自主的」に毎年こぞって朝貢したのだ。
 近年百済西南部の栄山江流域に多数の「北部九州様式」の前方後円墳や、同様の九州様式の石室を持った円墳が多数発掘され、その時期は「倭王武」と重なる「五世紀末~六世紀初頭」とされている。

 韓国旧百済栄山江流域に一三基(*現在は一七基以上)の前方後円墳が五世紀末頃突然出現し六世紀前半に消滅する。この墓の様式や出土品が北部九州と一致し、五世紀末~六世紀初頭に北部九州の勢力が造ったと考えられる(朴天秀)(注2)

 これは、五世紀末から六世紀初頭に半島を平定した「倭王武」は、「ヤマトの雄略」ではなく北部九州を拠点とする大王だということを示している。そうであれば筑紫・肥・豊を支配する磐井は倭王「武」を継ぐ大王となり、磐井が諸国から朝貢を受けるのは当然のこととなる。従って、「近江毛野臣」が継体の指示で新羅討伐に渡海し、これを磐井が妨げるなどありえない。つまり『書紀』に記す磐井による「毛野臣の渡海妨害」は「造作」だと考えられるのだ。

 

2、磐井による「毛野臣の渡海妨害」は「造作」

 これを証するのが「磐井の乱」の発端となった「毛野臣の渡海」の理由・原因だ。『書紀』では、毛野臣は次のとおり新羅が併合した南加羅を復活させるため任那に派遣されたと書かれている。

◆継体二一年丁未(五二七)六月甲午(三日)に、近江毛野臣、衆六万を率(ひきい)て、任那に往きて、新羅に破られし南加羅(*金官国とその周辺)・喙己呑(とくとこん)を為復(かへ)し興建(た)てて、任那に合せむとす。
 しかし、「新羅が南加羅を奪ったのは毛野の渡海以後の事で、ここの記述には誤りがある」(岩波『書紀』解説)のだ。具体的には『書紀』では新羅の南加羅・喙己呑侵略は継体二三年(五二九)~二四年(五三〇)の事だと書かれている。
◆継体二三年(五二九)(三月)刀伽(とか)・古跛(こへ)・布那牟羅(ふなむら)三城を拔(と)る。亦、北の境の五城を拔(と)る。(四月)四村を抄(ぬ)き掠(かす)む。金官(こむかん)・背伐(へぼつ)・安多(あた)・委陀(わだ)、是を四村とす。 <一本に云はく、多多羅・須那羅・和多・費智(ほち)を四村とす。> 盡(ことごと)に人物を將(ゐ)て、入其の本国に入りぬ。或(あるひと)の曰はく「多々羅等四村の掠められしは、毛野臣の過(あやまり)なり。」
◆継体二四年(五三〇)(九月)騰利枳牟羅(とりきむら)・布那牟羅(ふなむら)・牟雌枳牟羅(むしきむら)・阿夫羅(あぶら)・久知波多枳(くちはたき)五城を拔(と)る。(*二三年条の重複か)

 「金官」は南加羅の国で、『書紀』ではその奪還のため毛野臣が派遣されることになったと記すから、「毛野臣の渡海」は金官が奪われた継体二三年~二四年以降の事となるはず。しかし、奪われた原因は「毛野臣の過ち(失政)」によるとされているから、毛野臣はそれ以前から任那に駐在していたことになる。「既に任那にいた毛野臣」が任那に渡海することなどありえず、従って「衆六万を率て、任那に往(おもむ)いた」のは別人ということになる。

 この点、先述のとおり、古田氏は継体二五年以前の記事は「三年間繰り下げ」る必要があるとした。そして、「磐井の乱」が始まった継体二一年(五二七)六月記事が三年繰り下がり、継体二四年(五三〇)六月のことなら、「毛野臣の過ち」によって新羅に破られた南加羅復興のために、「『書紀』で毛野臣に置き換えられた人物」が衆六万を率て渡海した、或は「渡海を企図」したことになるのだ。
 そして、継体二四年(五三〇)は『百済本記』に「天皇及び太子・皇子、倶に崩薨(みまか)る」とある辛亥(五三一)年三月の前年にあたる。つまり「毛野臣に置き換えられた人物」の半島への渡海直後に「日本天皇」らが一度に崩薨ったことになるのだ。

 

三、「毛野臣」と入れ替えられた「磐井」

1、新羅討伐は「倭王武」を継ぐ磐井の事績

 「倭王武」の上表文には「昔より祖禰(そでい)(みずか)ら甲冑を擐(つらぬ)き山川を跋渉し、寧処に遑(いとま)あらず。東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平ぐること九十五国」とある。ここから、新羅討伐に赴いた、または赴こうとした人物とは、倭王武の後継である「磐井」その人であり、『書紀』では「磐井」と「毛野臣」が入れ替えられている可能性が高いことになる。

 そうであれば、磐井の渡海を妨げようとしたのが「毛野臣」ということになる。なぜなら、磐井が来れば新羅に南加羅を奪われた「過ち」を罰せられるのは火を見るより明らかなのだから。

 

2、「磐井の悪行」は「毛野臣の悪行・悪政」

 また、「磐井」を「毛野臣」と入れ替えるといった「人物を入れ替える」手法は、継体二一年(五二七)記事のみならず「磐井の乱記事全体」に用いられている可能性が高い。そして、これを証するのが「磐井の悪行」記事と、毛野臣が関与した一連の「加羅擾乱じょうらん」記事だ。
 『書紀』では磐井の乱の冒頭で、次のとおり「磐井がいかに悪人であるか」を記している。(詳細は後掲の(資料)【『書紀』の磐井の乱記事】を参照されたい)
【磐井の悪行】
➀(磐井は)陰(ひそか)に叛逆(そむ)くことを謨(はか)る(*密かに謀反を企てること)
➁(磐井は)猶預(うらもひ)して年を経る(*心で思い、ぐずぐずして実行しないこと)
③(磐井は)事の成り難きを恐りて、恒に間隙(すき)を伺ふ(*謀反が失敗しないようチャンスを待つこと)。新羅、是を知りて、密かに貨賂を磐井が所に行りて、勧むらく、毛野臣の軍を防遏(た)へよと(*新羅と内通し毛野臣の軍を妨げようとしたこと)
④(磐井は)任那に遣せる毛野臣の軍を遮り、乱語(なめりごと)し戦ひて受けず(*暴言を吐いて毛野臣と戦うこと)
⑤(磐井は)驕りて自ら矜(たか)ぶる(*傲慢でおごり昂ぶること)

 等だ。しかしこれらの悪行を示す「具体的な事実」は書かれていない。そして、これら一連の「磐井の悪行」は全て、継体二四年(五三〇)におきた「加羅擾乱」における「毛野臣の悪政・悪行」にあてはまるのだ。

 

3、「加羅擾乱」と毛野臣の悪政・悪行

  「加羅擾乱」とは継体二三年(五二九)~二四年の、以下のような新羅による南加羅侵略に至る任那・百済・新羅の大規模な抗争を言う。(なお、記事が詳細に及ぶので、いくつかのセクションに分け、冒頭に要約を示す)

⑴、(任那の使いが毛野臣の様々な悪政を報告)
 継体二四年(五三〇)秋九月に、任那の使奏して云さく、「毛野臣、遂に久斯牟羅にして舍宅を起し造りて、淹留(とどまりす)むこと二歳、〈一本に三歳といふは、去来(かよ)ふ歳の数を連ぬ。〉政を聴くに懶(よそほしみ *怠ける・怠る)す。爰に日本人と任那の人との、頻(しきり)に児息(こう)めるを以て、諍訟決め難きを以て、元より能判(ことわ)ること無し。毛野臣、楽(この)みて誓湯(うけゆ)置きて曰はく、『実ならむ者は爛ず。虚あらむ者は、必ず爛れむ』といふ。是を以て、湯に投(め)して爛れ死ぬ者衆(おほ)し。又吉備韓子那多利・斯布利を殺し、〈大日本の人、蕃の女を娶りて生めるを、韓子とす。〉恒に人民を悩して、終に和解(あまな)ふこと無し」とまうす。

⑵、(天皇は調吉士(つきのきし)を派遣して召喚するが応ぜず、毛野臣は、調吉士により悪政が報告されるのを恐れ、城の防衛に派遣する)
 是に、天皇、其の行状を聞きて、人を遣はして徴し入る。而に来肯(まうきか)へず(*拒否した)。願(しのび)に、河内母樹馬飼首御狩を以て、京に奉詣(まう)でしめて、奏して曰さく、「臣、未だ勅の旨を成さずして、京郷(みやこ)に還入(まうでこ)ば、労(ねぎら)へて往きて虚しくして帰るなり。慚しく悪きこと安(いずくに)か措かむ。伏して願はくば、陛下、国命を成して、朝に入りて、謝罪(うべなひ)まうさむを待ちたまへ」とまうす。使を奉し後に、更自ら謨(はか)りて曰はく、「其れ調吉士(つきのきし)は、亦是皇華の使なり。若し吾より先だちて取帰りて、依実(あるまま)に奏聞せば、吾が罪過、必ず重からむものぞ」といふ。乃ち調吉士を遣して、衆を率(ひきゐ)て伊斯枳牟羅城(いしきむらのさし)を守らしむ。

⑶、(任那王阿利斯等(ありしと)も帰朝を勧告するが応じなかった)
 是に、阿利斯等、其の細しく砕しきことを事として、期(ちぎり)し所を務めざることを知り、頻(しきり)に帰朝(かへりまう)でねと勧むれども、尚し還ること聴かず。

⑷、(そこで前途を懸念し謀反を図る。そして、新羅・百済・倭国を巻き込む「加羅騒乱」がおき、新羅に多くの城を奪われた)
 是に由りて、悉に行迹(あるかたち*前途)を知りて、心に翻背(かへりそむ)くことを生(な)す。
a、乃ち久礼斯己母(くれしこも)を遣して、新羅に使して兵を請はしむ。奴須久利(ぬすくり)を、百済に使して兵を請はしむ。
b、毛野臣、百済の兵来ると聞きて、背評に迎へ討つ。〈背評は地の名なり。亦の名は能備己富里(のびのこほり)なり。〉傷れ死ぬる者半なり。
c、百済、奴須久利を捉へて、杻・械・枷・鎖して、新羅と共に城を囲む。
d、阿利斯等を責め罵りて曰はく、「毛野臣を出すべし」といふ。毛野臣、城に嬰(よ)りて自ら固む。勢擒(と)りうべからず。
e、是に、二つの国、便(たより)の地を図度(はか)りて、淹留(へとどまる)こと弦晦(ひとつき)になりぬ。城を筑きて還る。号けて久礼牟羅(くれむら)城と曰ふ。還る時に触路(みちなら)しに、騰利枳牟羅(とりきむら)・布那牟羅(ふなむら)・牟雌枳牟羅(むしきむら)・阿夫羅(あぶら)・久知波多枳(くちはたき)、五つの城を抜きとる。

⑸、(調吉士が帰朝し毛野臣が加羅騒乱を起こしたと報告した)
 冬十月に、調吉士、任那より至りて、奏して言さく、『毛野臣、人と為り傲(もと)り恨(いすか)はしくして治体(まつりごと)を閑(なら)はず。竟に和解(あまなふ)こと無くして、加羅を擾乱(さわが)しつ。倜儻(たかほ)に意の任にして、思ひて患を防がず』とまうす。

 ここで、「磐井の悪行」と「毛野臣の悪政」を比較してみよう。
 例えば「磐井の悪行」記事2の➀の「陰に叛逆くことを謨る」、2の③の「恒に間隙(すき)を伺ふ」については、「毛野臣の悪政」⑷の「心に翻背(かへりそむ)くことを生(な)す」という記事があたる。これは、

◆任那の使の奏上で毛野臣の非行を知った朝廷は、調吉士を派遣し召喚したが毛野臣は拒否した。任那王阿利斯等も、些末な理由を並び立てて任務を懈怠した毛野臣に、帰国を勧めたが応じなかった。毛野臣は「是に由りて(このことで)」「必ず重い懲罰を受けるだろう前途」を予想して叛意を抱いた、というものだ。

 通説(岩波注など)は阿利斯等が叛意を抱いたかのように解釈しているが、阿利斯等に謀反の動機は全く無く、王命を拒否したことによる懲罰を恐れた毛野臣こそが、謀反を企てた人物に相応しい。

 また、「磐井の悪行」2の➁には「猶預(うらもひ)して *ぐずぐずとして決断しない)年を経た」とあるが、これは、「毛野臣の悪政」⑴で、毛野臣は任那の使の言に、「政を聴くに懶(よそほしみ)す」とか「決め難きを以て、元より能判(ことわ)ること無し」とあることにあたる。
 「磐井の悪行」2の④の「乱語(なめりごと)し戦ひて受けず」だが、これは具体的には、『書紀』記事で、磐井が毛野臣に、「今こそ使者(つかひひと)たれ、昔は吾が伴として、肩摩り肘触りつつ、共器(おなじけ)にして同食(ものくらひ)き。安んぞ率爾(にはか)に使となりて、余をして爾が前に自伏(したがは)しめむ」と言って、逆らって戦った(「遂に戦ひて受けず」)とあることを指す。
 この「磐井による使者の拒否」の実際は、⑵の記事の「毛野臣による皇華の使(勅使)たる調吉士の拒否」にあたる。「毛野臣は半島遠征を命じられた将軍」であり「使者」などではなく、『書紀』で使者とあるのは調吉士だからだ。つまり、『書紀』は「毛野臣の使者(調吉士)の拒否」を「磐井の使者(毛野臣)の拒否」に「入れ替え」たことになる。
 また、「筑紫の君磐井」と、「近江の毛野臣」が同僚だったことを示す記事は見えないし、地域的にも考え難いのだ。もっとも、磐井が「武」を継ぐ倭王だったなら、毛野臣を友として「肩摩り肘触りつつ、共器にして同食」するはずはない。
 そして、磐井の「遂に戦ひて受けず」との詞の実際は、「調吉士が帰国し、自ら(毛野臣)の非行と、勅命に従わなかったことが奏上されれば、重い懲罰は必至となる。これを恐れた毛野臣が調吉士に対し兵を挙げた」ことを示すものになる。
 そして勅使調吉士が、勅命を拒否した毛野臣の要請で伊斯枳牟羅城を護ることなど到底考えられない。そうであれば、「毛野臣、城に嬰(よ)りて自ら固む」とあるところから、「調吉士を遣して、衆を卒(ひきゐ)て伊斯枳牟羅城を守らしむ」との記事は、本来は「毛野臣が衆を卒て調吉士から伊斯枳牟羅城を守った」というものだった可能性が高い。
 また、【磐井の悪行】2の⑤の「驕りて自ら矜ぶる」については、「毛野臣の悪政」⑸の「和解(あまなふ)こと無くして、加羅を擾乱(さわが)しつ。倜儻(たかほ)に意の任(まま)にして、思ひて患を防がず」があてはまる。
 このように『書紀』に「磐井の悪行」と書かれている内容は、全て「毛野臣の悪政・悪行」にあてはまり、かつ「朝廷の命に従わず謀反を企図し戦った人物」と書かれているのも毛野臣だった。

 

4、「毛野臣の謀反」の内容も記されていた

 そして、重要なことは、「毛野臣謀反の具体的な事実」が加羅擾乱記事⑷のa~eに記されていると考えられることだ。
 倭国の朝廷に謀反を企て戦おうとしたのが毛野臣であれば、新羅と百済に支援の出兵を求めることは十分考えられる(a)。ただ、百済は継体二三年三月に倭国朝廷から「多沙津」の割譲を受けている。
◆継体二三年(五二九)春三月是の月に、遣物部伊勢連父根・吉士老等を遣して、津を以て百済王に賜ふ。

 また百済の将軍は南加羅の領有に関する新羅・安羅との外交儀式において、毛野臣から軽視されたことに恨みを抱いたとあるから、毛野臣に加担するはずはない。(注3)

 そこで百済は(b・c)に記すように毛野臣を攻め使者奴須久利を捉へ城を囲むことになる。
 一方、新羅も出兵するが毛野臣との戦いは記されず、使者久礼斯己母についても、捕虜にした記事もない。これは明らかに毛野臣の要請により派兵してきたことを意味するものだ。【磐井の悪行】2の③に「新羅との内通」が記されるが、これも「毛野臣」の事と考えればよく理解できる。
 また、新羅・百済が南加羅を廻って「共同戦線を張る」ことは考え難く、「新羅と共に城を囲む」とは、毛野臣の籠城する(城によりて自ら固む)城を囲んで、百済と新羅がにらみ合いを続けたということではないか。
 dの「阿利斯等を責め罵りて曰はく、『毛野臣を出すべし』といふ」記事」も、百済が阿利斯等を責めるのは不自然で、本来は「阿利斯等責め罵りて曰はく、『毛野臣出(い)ずべし』といふ。」、即ち阿利斯等が毛野臣に対し「籠城せず出てこい」と責めたものだったと考えられる。

 結局「加羅擾乱」とは、
 ➀非行を指摘され帰国命令に従わなかった毛野臣が、重い懲罰を恐れ、倭国朝廷を裏切って新羅と結んだ。
 ➁百済と任那(阿利斯等)はこれに対抗したが籠城した毛野臣を討伐出来ず、新羅は「五つの城を抜きとる」という成果を得て戦線は膠着した

 ということになるだろう。もちろんその背景には新羅による南加羅併合の思惑があったことは疑えない。
 そして、継体二四年(五三〇)一〇月に調吉士から報告を受けた「朝廷(九州王朝の磐井)」はこの情勢を打開し、南加羅を復興するため、衆六万を派遣して、あるいは自ら率(ひきゐ)て、任那に出兵したのだと考えられる。
 こうした、南加羅を新羅から奪還するための、九州王朝による半島派兵の経緯を、『書紀』編者は年次をずらし、人物を入れ替えることにより、全てヤマトの王権の事績であり、九州王朝の磐井をヤマトの配下でありながら新羅と内通し謀反を起こした人物に仕立て上げたことになる。

 これが古田氏の「継体紀を三年繰り下げるべき」という説に導かれる「磐井の乱の記事の真相」だと考えられる。

 

四、改変された「物部麁鹿火への磐井討伐令」

1、継体の「麁鹿火への磐井討伐令」と「麁鹿火」の奏上

 そうであれば、以下の麁鹿火による「磐井討伐」記事も、『書紀』編者によって造作・改変されていることになる。
『書紀』継体二一年(五二七)条に、「継体が磐井討伐を麁鹿火に命じ」、「麁鹿火がそれに応え奏上した」ことが記されている。

【継体の磐井討伐令】
➀(継体が麁鹿火に磐井討伐を命令)
 継体二一年(五二七)秋八月の辛卯の朔に、詔して曰はく、「咨、大連、茲惟(これこ)の磐井率(したが)はず。汝徂(ゆ)きて征(う)て」とのたまふ。

➁(麁鹿火は自らの功績を披瀝し討伐を受命)
 物部麁鹿火大連、再拝(おが)みて言さく、「嗟(あ)、夫れ磐井は西の戎の奸猾(かだましきやっこ)なり。川の阻(さが)しきところを負(たの)みて庭(つかへまつら)ず。山の峻(たか)きに憑(よ)りて乱を称(あ)ぐ。徳を敗りて道に反く。侮り嫚(おご)りて自ら賢しとおもへり。在昔道臣より、爰(ここ)に室屋に及るまでに、帝を助(まも)りて罰(う)つ。民を塗炭(くるしき)に拯(すく)ふこと、彼も此も一時(もろとも)なり。唯天の賛(たす)くる所は、臣が恒に重みする所なり。能く恭み伐たざらむや」とまうす。

③(継体は麁鹿火を督励)
 詔して曰はく、「良将の軍(いくさだち)すること、恩を施して恵(うつくしび)を推し、己を恕(おもひはか)りて人を治む。攻むること河の決(さ)くるが如し。戦ふこと風の発つが如し」とのたまふ。重(また)詔して曰はく、「大将は民の司命(いのち)なり。社稷(くにいへ)の存亡、是に在り。勗(つと)めよ。恭みて天罰を行へ」とのたまふ。

④(継体は麁鹿火に支配地の分割を提示)
 天皇、親ら斧鉞(まさかり)を操(と)りて、大連に授けて曰はく、「長門より東をば朕制(とら)む。筑紫より西を汝制れ。専(たくめたまひ)賞罰(ものつみ)を行へ。頻に奏すことに勿(な)煩ひそ」とのたまふ。

 この記事も「三年ずれ」れば五三〇年のことで、実際は「磐井が麁鹿火に出兵を命じた」記事となるはずだ。
 しかも、➁の「物部」麁鹿火の奏上にみえる「道臣」は「大伴」氏の祖で、室屋は「大伴金村」の祖父だから、「歴代の大伴氏」の功績を称えたことになり、これはありえない。従って、ここでは大伴金村と物部麁鹿火が入れ替えられており、「麁鹿火への磐井討伐令」は本来「大伴金村への詔」だったことになる。
 そして五三〇年なら、その討伐対象は当然「磐井」ではなく、半島で加羅騒乱をおこした「毛野臣と、その背後にいる新羅」となろう。

 

2、五三〇年の半島への「目頰子(めづらこ)」派遣

 そして、その五三〇年に、加羅騒乱をおこした毛野臣の召喚のため、半島に「目頰子」が派遣されている。

◆継体二四年(五三〇)冬十月に、調吉士、任那より至りて、奏して言さく、「毛野臣、人と為り傲(もと)り恨(いすか)はしくして治体(まつりごと)を閑(なら)はず。竟に和解(あまなふ)こと無くして、加羅を擾乱(さわが)しつ。倜儻(たかほ)に意の任にして、思ひて患を防がず」とまうす。故、目頰子を遣して徵召(め)す。〈目頬子は未だ詳ならず。〉
是の歳。毛野臣召されて、対馬に到りて、疾に逢ひて死ぬ。送葬(はぶ)るときに、河の尋(まま)に近江に入る。其の妻歌よみして曰はく、

枚方ゆ 笛吹き上のぼる 近江のや 毛野の若子ゆくごい 笛吹き上る、

目頬子、初めて任那に到る時に、彼に在る郷家等、歌を贈りて曰はく

韓国を 如何に言ことそ 目頬子来きたる むかさくる 壱岐の渡わたりを 目頬子来きたる。

 目頰子の渡海に際し、半島の郷家(在外邦人か)等が「韓国を 如何に言ことそ」との歌を贈っている。この歌は、目頰子渡海が、単に毛野臣を召喚するだけでなく「韓国全体の命運」に係る出来事であることを示す。
 五二七年記事に毛野臣の兵は「衆六万」と書かれているから、「三年ずれ」て五三〇年なら、目頰子は「衆六万」を率いて渡海することになる。
 「社稷くにいへの存亡、是に在り」とは、単に臣下の謀反の鎮圧ではなく、半島において新羅と雌雄を決するため、「六万の兵を動員しての一大決戦」に臨む詞にこそ相応しいのだ 。

 

五、大伴金村の新羅討伐

1、狭手彦の派遣と目頬子の派遣,筑紫の国政を執った「磐」とは

 先に、「麁鹿火への磐井討伐令は磐井による大伴金村への毛野臣討伐令」だと述べたが、実は、ずばり大伴金村が新羅討伐を命じられ狭手彦を派遣した記事が、宣化二年(五三七)「十月」に存在する。

◆宣化二年(五三七)冬十月の壬辰の朔に、天皇、新羅の任那に冦(あたな)ふを以て、大伴金村大連に詔して、其子磐と狭手彦を遣して、任那を助けしむ。是の時に、磐、筑紫に留りて、其の国の政を執りて、三韓に備ふ。狭手彦、往きて任那を鎮め、加(また)百済を救ふ。

 ここに「新羅の任那に冦ふを以て」とあるが、安閑紀と宣化元年・二年にその様な事件の記事はなく、新羅に関しては、継体二四年(五三〇)の毛野臣をめぐる任那・百済・新羅を巻き込んだ騒乱が最も直近の事件だ。そして、「目頬子」の派遣目的は「狭手彦」の派遣目的とよく合致する。つまりこの記事は実際は五三〇年の出来事で「目頬子とは狭手彦を指す」可能性が高いのだ。ちなみに先掲の「目頬子派遣記事」も年は違うが同じ「十月」だった。

 

2、筑紫の国政を執った「磐」とは

 宣化二年記事に「其子磐と狭手彦を遣して、任那を助けしむ」とある。「狭手彦」は『書紀』に度々登場するが、「磐」は全く見えない。
 そして、「磐、筑紫に留りて、其の国の政を執りて、三韓に備ふ」との記事は、「磐」は「筑紫国造(『書紀』)・筑紫の君(『古事記』『筑後国風土記』)磐井」と同じ「筑紫国の執政」であり、対新羅戦全体の長に相応しいことを意味する。
 古田武彦氏は『書紀』に引用する『百済本記』の「委の意斯移麻岐彌」(*通説では「やまとのおしやまきみ」と読む)を、「委(ゐ)の意斯(いし)の移麻岐彌(いまきみ)」、つまり「倭国の磐(いし)の今君」であり「磐井」のこととした(注4)。これは「磐井」(『古事記』には「石井」)の漢風諡号が「磐(或いは石)」であることを示すものだ。そうであれば、「葛子」の漢風一字諡号は「葛」だった可能性もある。
 結局、本来「倭国(九州王朝)の政を執る筑紫の磐井が、五三〇年に大伴金村に新羅討伐を命じ、金村は息子狭手彦を半島に派遣した」記事を、『書紀』編者は、磐井の死後の五三七年に移し「ヤマトの宣化が大伴金村に新羅討伐を命じ、金村は息子狭手彦を半島に派遣した。息子磐は筑紫の政を執った」と潤色したことになろう。

 

六、継体と麁鹿火の「支配地分割案」の真実

 『書紀』では、継体が麁鹿火に「長門より東をば朕制む。筑紫より西を汝制れ」と詔を下したとされている。古田氏は『失われた九州王朝』ではこれを「継体と麁鹿火の磐井の支配地の分割」だとした。
 しかし、これまで見てきたように『書紀』編者は、
 ➀「磐井の乱」記事では磐井と毛野臣を入れ替え、
 ➁「磐井討伐令」では磐井を継体に、大伴金村を物部麁鹿火に入れ替え、
 ③「日本天皇」を磐井でなく継体のことだとしている。

 そのうえ、物部麁鹿火への磐井討伐令と麁鹿火の奏上は「全文が芸文類聚、武部の戦伐・将状師条の諸書をつなぎ合わせて成り立っており、句の順序を変えたり、人名・地名をいれかえたりしたもの(岩波注釈)」だ。

 そして、【継体の磐井討伐令】④記事の 「天皇、親ら斧鉞(まさかり)を操(と)りて、大連に授けて曰はく、「長門より東をば朕制(とら)む。筑紫より西を汝制れ。専(たくめたまひ)賞罰(ものつみ)を行へ。頻に奏すことに勿煩ひそ」とのたまふ。」も、『芸文類聚』に見える『淮南子』の「主親操鉞、授将軍曰・・・將軍制之」及び『漢書』の「闑以內寡人制之、闑以外將軍制之」を改変し創作されたものだ。
 そして、「寡人かじん」とは天子の自称であり、「闑げつ」とは郭門(かくもん 城の外郭の門)を意味する。従って『書紀』編者の「磐井と継体、大伴金村と物部麁鹿火の入れ替え」という手法を考えれば、「長門より東をば朕制む。筑紫より西を汝制れ」は、本来は、
➀「闑以内=宮城の中(内政)」は天子=磐井が制(とりしき)り、
➁「闑以外=半島の軍事(外政)」は将軍(大伴金村又は狭手彦)に任せるという意味となる。

 これはまさに「磐、筑紫に留りて、其の国の政を執りて、三韓に備ふ。狭手彦、往きて任那を鎮め、加(また)百済を救ふ。」の内容そのものだった。
 従って「支配地分割」は、「磐井が大将軍の大伴金村に半島平定を命じ、自らは国政を担当した」という倭国(九州王朝)の事績記事を、「継体が物部麁鹿火に磐井討伐を命じ、本州は継体が、九州は麁鹿火が支配することとした」と潤色したものだった。
 この潤色により、『書紀』編者は、「磐井の討伐で九州は本来のヤマトの天皇家の支配に復し、我が国全てがヤマトの天皇家の統治するところとなった」という歴史を創造したのだ。

 

七、磐井の死とは

1、古田武彦氏の見解

 『百済本記』五三一年辛亥の「日本天皇」らの崩御が磐井一族を指すとすれば、その経緯はなにか。
 古田氏は『失われた九州王朝』(一九七三年)では「継体と物部麁鹿火の侵攻」によって「磐井王朝は滅亡した」とした。ただ、九州年号の継続や「日出る処の天子」多利思北孤を九州王朝の天子とする考察から、その後説を改められ、
➀『法隆寺の中の九州王朝』(古代は輝いていたⅢ)(朝日新聞社一九八五年。二〇一四年ミネルヴァ書房より復刊)では、友軍として筑紫内陸部に入った物部軍が「突然の挙兵」により磐井を斬った。ただ半島の倭軍、肥後の軍により磐井の後継の「葛子側が大勝を博したのではないか」、「糟谷屯倉献上も継体側の譲歩(近畿側の屯倉献上等)の存在した可能性がある」と述べている。
➁そして、二〇〇三年八月以降九州年号の継続等から「磐井の乱も継体の乱も、乱そのものも無かった」「磐井の乱全体が虚像である」(『古田武彦と百問百答』二〇〇六年。『古代に真実を求めて』第八集。明石書店二〇〇五年)との立場をとり、『百済本記』の「日本天皇及び太子・皇子、倶に崩薨」は「同時点での事件ではなく、先例(倭王武の上表にある『にわかに父兄を喪う』等の事件)の可能性がある」とした。

 

2、磐井の死の様々な可能性

 このように古田氏の見解は変化してきた。
 ただ客観的に見れば、磐井の死の原因にはいくつかの可能性がある。

⑴、継体・物部麁鹿火の起こした内乱(クーデター)の可能性
 もし、宣化二年(五三七)記事が五三〇年のことで、「筑紫に留まった磐」が磐井を指すのであれば、大伴金村や「目頬子(狭手彦)」ら磐井の主力軍の大半が半島に出兵し、周囲が手薄になっていた磐井に対する、毛野臣と呼応した親新羅勢力などによるクーデターも起こりうる状況となる。
 しかも、毛野臣は「近江毛野臣」と呼ばれ、遺骸も近江に向かったことが毛野若子の歌でわかる。
◆枚方ゆ 笛吹き上る 近江のや 毛野の若子い 笛吹き上る

 枚方は淀川中流で、「筑紫の津」と呼ばれる港があり、そこで荷を瀬戸内行路用の大型船舶から、川を上るための小型船舶に積みかえ、木津川から大和、宇治川から琵琶湖へと進んでいく。枚方の対岸には「継体陵」とされる今城塚古墳もある。これは「毛野臣が継体側と近い」ことを示すものだ。従って、古田氏が述べたように、継体側の関与も否定できないことになる。そうであれば、半島への物資供給拠点である博多湾岸の「糟屋屯倉を継体に献上した記事」も、実際は半島に物資を送らせないため、「継体側が屯倉を占拠した」ことを示しているとも考えられよう。

⑵、半島での戦闘で戦死した可能性 
 「倭王武」の上表には、歴代の倭王自らが半島に出兵していたこと、「武」の「父と兄が半島での戦いで共に崩御した」とある。
◆『宋書』昇明二年「祖彌(そでい)躬(みずか)ら甲冑を環(つらぬ)き、山川(さんせん)を跋渉(ばっしょう)し、寧処(ねいしょ)に遑(いとま)あらず。(略)臣が亡考濟、實に寇讎(こうしゅう)の天路を壅塞(ようそく)するを忿(いか)り、控弦(こうげん)百萬、義聲に感激し、方(まさ)に大擧せんと欲せしも、奄(にわ)かに父兄を喪(うしな)い、垂成(すいせい)の功をして一簣(き)を獲ず。」

 「磐井」も歴代の倭王のように自ら半島に出兵し、新羅との戦闘の中で「磐井と太子・皇子」が共に没した可能性がある。大規模な半島出兵にもかかわらず、その後『書紀』では新羅討伐や南加羅奪還は成功せず、逆に五六二年には任那も滅亡しているから、こうしたことも十分に考えられる。

 「糟屋屯倉の献上」記事の「実際」も、「葛子が引き上げ兵らに屯倉の食糧を下賜した」事実を、『書紀』編者が、「葛子が継体に屯倉を献上した」と潤色した可能性がある。『書紀』には、様々な困窮者に「稲(穀物)」を下賜した記事が見られるからだ。(注5)
 いずれにしても、磐井の崩御による九州年号の改元はあっても、以後も九州年号は続き、任那復興に向けた軍事行動も起こしているから、葛子以降も倭国(九州王朝)は存続し、六世紀末の『隋書』に「阿蘇山有り」と記す「日出る処の天子」阿毎多利思北孤に繋がっていくことになる。

 

八、『筑後国風土記』の「磐井の乱」

 『筑後国風土記』逸文の「古老伝えて云へらく」以下の後半で「磐井は官軍(継体の軍)によって滅ぼされ、石人・石馬は破壊された。これにより上妻の県に篤き疾が多い」と記しているが、前半の磐井の墳墓(岩戸山古墳)記事では、石人・石盾各々六十枚が整然と並び、石人は「縦容しょうよう」と立っているとある。
 これは、後半の「官軍動発」し磐井を滅ぼす段の、継体側の兵の怒りに任せた狼藉の結果、石人の手は撃ち折られ、石馬の頭も打ち堕とされているという姿とはかけ離れている。古田氏は「葛子側が大勝を博した」との説において、石人・石馬破壊や「上妻の県に篤き疾が多い」のは白村江敗戦後唐の進駐軍の蛮行によるとした。
 しかし前半の石人・石盾の描写からはそうした破壊の跡は感じられず、また進駐軍の蛮行があったとしても六六〇年代のこと。これが原因で五〇年以上離れた七一三年以降の『風土記』編纂時に「篤き疾が多い」というのも不可解だ。
 『続日本紀』の七〇〇年・七〇二年には薩摩姫や肥人らによる大和朝廷支配への武力による抵抗が記されている。これは七〇一年の大和朝廷による律令制定・大宝建元という倭国(九州王朝)から日本国(大和朝廷)への「王朝交代」時の騒乱だと考えられる。従って『筑後国風土記』の「磐井の乱」は七〇〇年以前九州王朝時代の「県(あがた)風土記」による前半部に、七一三年以後の大和朝廷時代に作られた後半部が付加されたものと考えれば(注6)、「王朝交代時」の戦闘で石人・石馬が壊され、また「上妻の県に多く篤き疾(やまい)有る」というのも、戦闘で多数の負傷者が出、『風土記』編纂時点でもなおその傷が癒えていなかったことを示すものとして理解できる。
 『筑後国風土記』は、こうした大和朝廷の武力による弾圧を直接には表現できなかったため、遥か過去の磐井の乱当時のこととして記述したのではないか。

 

九、継体紀と「磐井の乱」に隠された大和朝廷の意図

 七一二年に上梓された『古事記』も、七二〇年完成の『書紀』も、七一三年に編纂が命じられた新たな『風土記』も、大和朝廷の手によるもので、
◆「我が国は遥か過去からヤマトの天皇家が統治してきた。筑紫の磐井もその配下の一員だったが、六世紀初頭に反乱を起こし討伐された。以後九州は元のヤマトの支配に戻ったが、八世紀初頭に再び反乱を起こしたので討伐した。」

という「名分」を示す為、様々に人物や年代を入れ替え「磐井の乱」記事を編纂したのだと考えられるだろう。二〇二〇年は『書紀』編纂一三〇〇年にあたるが、こうした『書紀』の欺瞞を一つ一つ明らかにしていくことが、ますます重要になるのではないか。

 

(注1)「九州年号」は磐井の時代の五一七年の「継体」または五二二年の「善記」を始めとし、六九五年~七〇〇年(七〇四年とも)の「大化」、または七〇四年~七一二年の「大長」まで連綿と続いた倭国(九州王朝)の制定した年号。聖武天皇の詔勅ほか多数の史料にも見え、実在した年号と考えられる。なお九州年号は五三一年に「教到」に改元され、これは磐井の崩御と整合する。

(注2)朴天秀慶北大学考古人類学科教授「韓半島南部に倭人が造った前方後円墳―古代九州との国際交流―」九州国際大学国際関係学論集二〇一〇年)

(注3)毛野臣が百済・新羅・安羅を呼んだ外交儀式で「百済の使將軍君等堂の下に在り。凡て数月再三、堂の上に謨謀(はか)る。將軍君等、庭に在ることを恨む。」とある。

(注4)『書紀』継体七年夏六月に、百済姐彌文貴(しゃみもんき)将軍・州利即爾(つりそに)将軍を遣して、穂積臣押山<百済本記に云はく、委の意斯移麻岐彌といふ>に副へて、五経博士段楊爾(ように)を貢る。
「委の意斯移麻岐彌」が磐井であれば、この「副へて」は挿入句で、本来「将軍らを遣して、委の意斯移麻岐彌(磐井)に五経博士段楊爾を貢る」だったと考えられる。なお「倭」の上古の読みは「ゐ」で「委」は倭国を指す。

(注5)例えば、『書紀』持統一一年(六九七)に、「天下の鰥寡(やもめ)・孤獨(ひとりびと)・篤癃(あつえひと)・貧しくして自ら存(わたらふ)こと能(あたは)ざる者に稲賜ふ。」とある。
 また、もし古田氏がいわれるように「乱そのものも無かった」とすれば、磐井は何らかの原因で崩御し、葛子が後を継いだことになる。その場合、原因として、『善光寺縁起』に「金光元年(五七〇)庚寅歳天下皆熱病」とあるような天然痘などの病のほか、九州王朝内部での抗争の可能性等が考えられる(古賀達也氏の示唆による)。

(注6)『風土記』には「郡風土記」と「県風土記」があり、前者は大和朝廷成立後、後者は概ね大和朝廷以前の「国県制」時代に記されたものと考えられる。

◆(資料)【『書紀』の磐井の乱記事】
『書紀』継体二一年丁未(五二七)六月甲午(十三日)に、近江毛野臣、衆六万を率て、任那に往きて、新羅に破られし南加羅・喙己呑(とくとこん)を為復(かへ)し興建(た)てて、任那に合せむとす。是に、筑紫国造磐井、陰に叛逆(そむ)くことを謨(はか)りて、猶預(うらもひ)して年を経。事の成り難きを恐りて、恒に間隙(ひま)を伺ふ。新羅、是を知りて、密かに貨賂を磐井が所に行りて、勧むらく、毛野臣の軍を防遏(た)へよと。是に、磐井、火・豊、二つの国に掩(おそ)ひ拠りて、使修職(つかへまつ)らず。外は海路を邀(た)へて、高麗・百済・新羅・任那等の国の年に職貢(みつきものたてまつ)る船を誘(わかつ)り致し、内は任那に遣せる毛野臣の軍を遮(さいぎ)りて。乱語(なめりごと)し言揚げして曰はく、「今こそ使者(つかひひと)たれ、昔は吾が伴として、肩摩り肘触りつつ、共器(おなじけ)にして同食(ものくらひ)き。安んぞ率爾(にはか)に使となりて、余をして爾が前に自伏(したがは)しめむ」といひて、遂に戦ひて受けず。驕りて自ら矜(たか)ぶ。是を以て、毛野臣、乃ち防遏(た)へられて中途にして淹滞(さはりとどま)りてあり。天皇、大伴大連金村・物部大連麁鹿火・許勢大臣男人等に詔して曰はく、「筑紫の磐井反き掩(おそ)ひて、西の戎の地を有(たも)つ。今誰か将たるべき者」とのたまふ。大伴大連等僉(みな)曰さく、「正に直しく仁み勇みて兵事に通へるは、今麁鹿火が右に出づるひと無し」とまうす。天皇曰はく、「可(ゆるす)」とのたまふ。
 秋八月の辛卯の朔に、詔して曰はく、「咨(あ)、大連、茲惟(これこ)の磐井率はず。汝徂(ゆ)きて征(う)て」とのたまふ。物部麁鹿火大連、再拝(おが)みて言さく、「嗟(あ)、夫れ磐井は西の戎の奸猾(かだましきやっこ)なり。川の阻(さが)しきところを負(たの)みて庭(つかへまつら)ず。山の峻(たか)きに憑(よ)りて乱を称(あ)ぐ。徳(いきほひ)を敗りて道に反く。侮り嫚(おご)りて自ら賢しとおもへり。在昔(むかし)道臣より、爰(ここ)に室屋に及るまでに、帝を助(まも)りて罰(う)つ。民を塗炭(くるしき)に拯(すく)ふこと、彼も此も一時(もろとも)なり。唯天の賛(たす)くる所は、臣が恒に重みする所なり。能く恭み伐たざらむや」とまうす。詔して曰はく、「良将の軍すること、恩を施して恵(うつくしび)を推し、己を恕(おもひはか)りて人を治む。攻むること河の決(さ)くるが如し。戦ふこと風の発つが如し」とのたまふ。重(また)詔して曰はく、「大将は民の司命(いのち)なり。社稷(くにいへ)の存亡、是に在り。勗(つと)めよ。恭みて天罰を行へ」とのたまふ。天皇、親ら斧鉞(まさかり)を操(と)りて、大連に授けて曰はく、「長門より東をば朕制(とら)む。筑紫より西を汝制れ。専賞(たくめたまひもの)罰(ものつみ)を行へ。頻に奏すことに勿(な)煩ひそ」とのたまふ。
 継体二二年戊申(五二八)の冬十一月甲寅朔甲子(十一日)に、大将軍物部大連麁鹿火、親ら賊の帥磐井と、筑紫の筑紫御井郡に交戦ふ。旗鼓相望み、埃塵(ちり)相接げり。機を両つの陣の間に決(さだ)めて、万死(みをす)つる地を避らず。遂に磐井を斬りて、果して橿場(さかひ)を定む。十二月に、筑紫君葛子、父のつみに坐(よ)りて誅(つみ)せられむことを恐れて、糟屋の屯倉を献りて、死罪贖(あが)はむことを求(まう)す。


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