古代日本ハイウェーは九州王朝が建設した軍用道路か? 肥沼孝治(会報108号)
古代の大動脈・太宰府道を歩く 岩永芳明(会報100号)../kaiho100/kai10004.html古代の大動脈・太宰府道を歩く
神戸市 岩永芳明
日本の古代道路は、七世紀後半から八世紀にかけて建設され、十世紀頃まで機能した。宮都と太宰府・国府との間に、軍事・流通経済・徴税などの見地から駅路が計画的に整備され、東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道の七道が建設された。当時の三十里(約十六km)ごとに駅家が設けられ(「養老令」厩牧令諸道置驛條)、そこには人・馬・水・食糧などが配備され、人・物・情報が中継された。
「古代の道は狭くて曲がりくねって‥‥」というのは間違い。駅路は両側に側溝を備え、道幅は十~十二m、現在の四車線道路とほぼ同じ幅員で目的地に最短距離で到達するように直線的経路を辿っていることが発掘調査等で明らかになっている。
このうち、山陽道は、都と太宰府とを結ぶ最も重要な幹線道路として、大中小の三等級からなる七道の中で唯一の大路に指定され最重要路線に位置付けられた。この太宰府への道は、日本古代国家の大動脈で、当時の国道一号線だ。山陽道の駅家に配置された駅馬は二十疋を標準としており、中路(十疋)の二倍、小路(五疋)の四倍であった。その上に、駅家間の距離も標準とされる三十里(約十六km)に比べると三分の二に満たない距離(平均九.四km弱)であり、他の駅路と比べ高い輸送能力(中路の三倍、小路の六倍)となっている。また、山陽道の駅家は、太宰府と京を往来する外国からの賓客が利用することに備えて瓦葺で粉壁(白壁)の駅館が建てられたこともわかっている。このことも他の駅路に見られない状況で、古代の山陽道がいかに重要な道路であったかがわかる。
私は、平成二十二年三月に定年退職を迎えるにあたり、この山陽道を歩くことにした。山上憶良、吉備真備、菅原道真らが通ったと思われる道を歩きながら、途中の神社や史跡を巡り、日本の歴史と地理を自分の目と足で確かめようと、太宰府まで歩く旅を計画した。
ルートは、基本的に「延喜式」記載の諸國驛傅馬條に駅家跡(比定地)を辿りながら歩くことにした。ただし、平安京から明石までの間は「古田史学の会・関西」の史跡めぐりハイキングに参加して主要な史跡は訪れていることから、行政区域としての山陽道の東端である播磨国明石郡からスタートすることにした。距離は約六百km(JR明石駅~JR二日市の距離)。平成二十二年一月一日、太宰府に向けて歩く旅を始めた。
◆一日目 一月一日(金)自宅(一四時三〇分)~明石(一七時一〇分)一七一六四歩
私の家(神戸市西区)は、日本標準時子午線上にあり昔の播磨国明石郡にあたる。団地のはずれにある春日神社(宇留神社・式内社)に初詣、赤羽神社(式内社)を経由し、明石駅家に向かう。
◆二日目 一月十五日(金)明石(九時一五分)~土山(一六時四五分)四二五九三歩
JR明石駅から一旦東へ歩き、明石駅家比定地(太寺廃寺・高家寺)に向かう。近くには、柿本人麻呂ゆかりの人丸神社や菅原道真ゆかりの管公旅次遺跡がある。明石駅家は、山陽道播磨国東端の駅家だ。ここから、太宰府をめざして一路西へ向かう。玉津吉田南遺跡(明石郡衙推定地)、宗賢神社、黒岩神社(金崎神社)を経て長坂寺廃寺跡に到着。長坂寺遺跡は奈良時代の瓦が出土したことから古代寺院跡と見られていたが、近年駅家の統廃合で廃止された駅家「邑美駅」の所在地とする見解が有力になっている。幣塚古墳、稗沢池(山陽古道跡)を通り、JR土山駅に到着する。
◆三日目 一月十六日(土)土山(九時三一分)~曽根(一七時八分)三七一四一歩
JR土山駅から大中遺跡(弥生時代後期集落遺跡)に向かう。ここには、兵庫県考古博物館がある。五輪塔(足利佐馬頭義氏の墓)、野口神社(野口廃寺)、教信寺(沙弥教信墓塔〈五輪塔〉・石棺仏)を経て賀古駅家跡(古大内遺跡)に到着。賀古駅家は、延喜式に四十疋のがを置かれていたと記されており、日本最大の馬数を有する駅家である。昨年の発掘調査では門を支えていた礎石(唐居敷)が発掘された。和泉式部の墓といわれる宝篋印塔を見て、石の宝殿・生石神社に向かう。石の宝殿は、宮城県の塩釜、宮崎県高千穂の天逆鉾とともに「日本三奇」の一つとされている巨石建造物。幅六.四m、高さ五.七m、奥行き七.二mで裏側に四角錐の突起があり、ちょうど家を横倒しにしたような形状をしている。考古学者の間壁夫妻は、飛鳥の牽牛子塚・益田岩船との相似点から巨大な家形をした横口式石槨説を説かれている。播磨國風土記にも「聖徳王御世 弓削大連 所造之石也」とある。また、付近の山は竜山石の産地で、古墳時代中期の長持形石棺と終末期の家形石棺の石材として各地の古墳で使用されている。地蔵院境内にある石棺を見て、JR曽根駅まで歩く。
◆四日目 一月十七日(日)曽根(八時五三分)~姫路(一五時三五分)三二〇八七歩
JR曽根駅を出発、佐突駅家比定地に向かう。国道二号線、播州倉庫の前に「佐突駅家跡」の石碑が立っている。古代播磨の国に設けられた駅家の一つだが、早い時期に廃止され延喜式にはその名は載っていない。御着城跡、黒田家廟所(黒田官兵衛の祖父と母を祀る)を巡り、播磨最大の前方後円墳である壇場山古墳の墳丘に上がる。このあたりは、播磨国分寺・国分尼寺が建立された播磨の中心部だ。この後、宮山古墳を訪ね、姫路市埋蔵文化財センターを見学した後、姫路市街地に向かう。姫路城の手前に射楯兵主神社(式内社)・播磨国総社(播磨国府跡)がある。草上駅家比定地は、この付近と、ここから二.六kmほど西にあるJR播磨高岡駅近くの今宿遺跡との両説がある。
◆五日目 一月二十三日(土)姫路(九時三八分)~本竜野(一五時二一分)二九九七二歩
JR播磨高岡駅をスタート。近くの?岳神社(式内社)に参拝、稲岡神社に向かう。ここは、播磨國風土記の稲牟礼丘といわれている。山間の桜峠を越えて、破磐神社とすぐ近くの浄安寺古墳(破磐神社西古墳)を見学し、専光寺境内の石棺を拝見、西脇廃寺跡を通って邑智駅家比定地に到着する。ここは、播磨国府系の瓦が出土すること、馬屋田という字地名が残っていることと古代山陽道推定地沿いにあることから邑智駅家跡に比定されている。その後、槻坂トンネルを抜け、蛇心ヶ端の大岩を見て、本竜野に入る。
◆六日目 一月三十日(土)本竜野(八時五三分)~上郡(一七時五分)四四七七五歩
JR本竜野駅を出発、圓光寺(宮本武蔵修練の地)、粒坐天照神社(名神大社)、小神廃寺跡(播磨最古の寺院址)を巡り、布勢駅家(小犬丸遺跡)に向かう。ここでは、「驛」と墨書きされた土器や「布勢驛」と書かれた木片が出土した。礎石柱で瓦葺き、白壁の建物群で一辺八十mの方形区画の築地塀に囲まれた駅院館と呼ばれる建物跡も見つかっている。山陽道を南に離れ、長尾薬師塚古墳を訪れる。この古墳は、布勢駅長で里長だった人物の墓だという説もある。布勢駅から二木峠を越え、椿峠を過ぎる。古代瓦が出土している神明寺遺跡(高田駅家比定地)を通過する。丸尾古墳(円墳・片袖式横穴式石室・陶棺が残存)に寄って、JR上郡駅に到着する。
◆七日目 二月十九日(金)上郡(八時三七分)~吉永(一六時三五分)三九八一九歩
JR上郡駅で智頭鉄道の列車を見送る。大避神社、井端墳墓群(弥生墳丘墓・中期古墳)を廻る。このあたりは、赤穂藩の領域で浅野長矩供養碑を見て、その先の飯坂峠を越える。左手に落地飯坂遺跡がある。ここは、野磨駅家跡。調査の結果、南西に位置する八反坪遺跡から掘立柱建物跡の駅館院跡、落地飯坂遺跡から瓦葺の駅館院跡が確認された。ある時期に野磨駅家が八反坪遺跡から飯坂遺跡の地へと移動したことが窺える。落地八幡神社、梨ヶ原・宿遺跡を通り、船坂峠(縣界碑・播備国境の?石)を越え、備前国に入る。次の坂長駅(和気郡=岡山県備前市三石)を目指す。
◆八日目 二月二十日(土)吉永(一〇時七分)~瀬戸(一八時)四五七〇三歩
JR吉永駅から和気神社に向かう。和気氏一族の氏神として遠祖・鐸石別命が祀られ、後に弟彦王、和気清麻呂公、和気広虫姫を祭神に加えている。狛犬がわりに「狛いのしし」が拝殿前・随神門前で守護する。和気清麻呂公碑、和気氏廰庁跡、藤野寺跡(藤野廃寺)、由加神社を訪ねる。珂磨駅家比定地(赤磐市)を経てJR瀬戸駅に着く。由加神社からは歩き続けで、左足の親指付け根に直径2センチあまりの血豆ができた。しばらく歩く旅は休憩とする。
◆九日目 三月十三日(土)瀬戸(八時四六分)~岡山(一七時四五分)四四五二六歩
JR瀬戸駅から、北へ赤磐市山陽郷土資料館に到着。赤磐市の考古資料を見学、史跡資料を入手後、山陽道を離れて鳥取上高塚古墳(前方後円墳・両袖式横穴石室)に向かう。宮山古墳群、用木六号墳、岩田十四号墳(円墳)を経て両宮山古墳(前方後円墳)に到る。二重の周濠を持つ墳丘全長二百六mの前方後円墳、吉備では、造山、作山に次いで三番目で備前最大の古墳だ。このあたりは、備前の中心地で古墳が集中し、国分寺、国分尼寺も建立していた。周囲の陪塚を巡り、備前国分寺跡、備前国分尼寺、小山古墳(前方後円墳・阿蘇溶結凝灰岩の舟形石棺)、玉井丸山古墳、朱千駄古墳(前方後円墳・竜山石の長持形石棺)を廻る。近くの高月駅家比定地(山陽町馬屋)を通り、牟佐大塚古墳に着く。この古墳は、横穴式石室(両袖式)の円墳で、石室には井原市浪形産の貝殻凝灰石を用いた刳抜式家形石棺が存在する。
◆十日目 三月十四日(日)岡山(九時二五分)~総社(一八時五〇分)五三一三五歩
JR玉柏駅から、神宮寺山古墳(前方後円墳・竪穴式石室)、都月坂古墳、青陵神社(前方後円墳)と岡山市街地北方を通り、吉備津彦神社に到着。近くのJR備前一宮駅ホームにある石舟古墳石棺蓋を見学後、吉備津神社(名神大社)に参拝する。このあたりから真備町にかけては、昨年四月に「古田史学の会・関西」の史跡めぐりハイキング百回記念で訪れた地だ。鯉喰神社を経由して、造山古墳に到着。墳丘の長さ約三五〇m、三段築成の墳丘をもつ超巨大古墳で、岡山県下で第一位、全国でも第四位。自由に立ち入りできる古墳としては全国一の規模を誇る。前方部に置かれている刳抜式の石棺は阿蘇溶結凝灰岩製である。造山古墳の周辺には大小六基の陪塚があり、その中のひとつ千足古墳に足を運ぶ。この古墳は横穴式石室で、石室内に直弧文が刻まれた石障があり、石室の構造と直弧文様が九州の装飾古墳の石室と類似しており、九州との深い関係・交流が窺われる。昨年十月に、石室内に溜まっている水を二十二年ぶりに抜き現地説明会が開かれた。私は、剥落しかけた石障の直弧文をその時に目にしたが、今はブルーシートで覆われている。岡山市教委の同古墳保存整備委員会で保存対策が練られているそうである。その後、備中国分尼寺跡、こうもり塚古墳、備中国分寺を巡る。
◆十一日目 三月二十日(土)総社(九時五九分)~真備(一七時二四)三八五四九歩
JR服部駅下車、駅の北側正面遠くに鬼ノ城が見える。栢寺廃寺跡へ向かう。このあたりは、備中国府があったところで、近くに、伝備中国府跡の石碑があった。国分寺背後の丘陵の北西端にある緑山一帯に二十基ほど後期の横穴式石室墳が分布する緑山古墳群から江崎古墳へ廻る。前方部を山側に向けた全長四十五mの前方後円墳で、西に開口する横穴式石室は、両袖式で全長十三.八m、玄室長六.六m、玄室最大幅二.六m、玄室にはこうもり塚古墳と同じ貝殻石灰岩(浪形石)を刳り抜いた家形石棺がある。作山古墳は、全長約二八五m、後円部径一七四m、同高さ二十四m、前方部長さ一一〇m、 同前端幅一七四mの規模をもっており、全国的にみても第九位に相当する。高梁川を渡り、川辺宿、艮御崎神社を経て、倉敷市真備町に到着。ふるさと歴史館、吉備公館址、吉備真備産湯の井戸を巡り、箭田大塚古墳を見学する。この古墳は、岡山県下三大石室(牟佐大塚古墳、こうもり塚古墳、箭田大塚古墳)の一つであり、巨石を用いた横穴式で、入口の羨道とその奥の玄室とからなっている。吉備寺から、井原鉄道吉備真備駅へ向かう。
◆十二日目 三月二十一日(日)真備(九時五五分)~井原(一七時七分)四三九三七歩
小田川に沿って国道四八六号と井原鉄道井原線が走っており、古代の山陽道はほぼ国道四八六号と重なっている。井原鉄道吉備真備駅を出発。熊野神社境内にある黒宮大塚は、弥生墳丘墓で竪穴式石槨が露出保存されている。小田川を南に渡り、八高廃寺跡、琴弾岩を通る。この琴弾岩で晩年の吉備真備が、中秋の名月の夜に琴を弾いたといわれているそうだ。再び小田川を渡り国道に戻り、吉備大臣宮(ここにも吉備公館址・吉備大臣産湯の井戸がある)に立ち寄る。矢掛町に入った所に史蹟下道氏墓がある。吉備真備祖母の骨蔵器出土地もこの近くだ。矢掛宿を通り、武答神社(天子宮)、甲山八幡宮、七日市本陣跡、武速神社を巡る。
◆十三日目 三月二十七日(土)井原(一〇時二四分)~神辺(一七時五分)三一八四〇歩
井原鉄道井原駅を出発。足次山神社(式内社)に参拝、井原市文化財センターを見学する。井原市から、岡山・広島県境を越えて福山市へ至る国道三一三号線に沿って進み、山陽道の宿場町として栄えた高屋の街並みへと入っていく。「中国地方の子守唄」のもととなった子守唄は、昔から高屋で歌い継がれてきたもので、井原鉄道の駅名も「子守唄の里高屋」となっている。県境(備中国後月郡・備後国深安郡)には、両県の道路元標からの距離を刻んだ境界標の石柱が建っている。備後国分寺跡に立ち寄り、その北西背後の迫山古墳群を巡る。このあたりから、府中市にかけては、古墳が多い。大坊古墳は、石室が南東方向に開口しており、玄室と羨道は長さ、高さ、幅ともにほぼ同じ規模で、巨大な花崗岩の切石が用いられている。玄室の石は、奥壁が一枚、側壁が左右各二枚、天井は二枚で構成され、玄室内中央付近の床面には玄室を前後に仕切る角柱状の石材が置かれている。規模は異なるものの、近隣には同一の特徴を持つ、新市町の大佐山白塚古墳と駅家町の狼塚二号墳(両古墳とも昨年十二月に「古田史学の会」小林副代表と訪問)が存在する。亀山遺跡(亀山弥生式遺跡・亀山第一号古墳)を見てJR道上駅に到着する。
◆十四日目 四月五日(月)神辺(九時二九分)~府中(一七時三八分)四四七〇九歩
三月三十一日に長年勤めた職場を退職した。これまで日帰りの日程だったが、これから泊りがけで歩くことにした。JR道上駅から石鎚山古墳群を目指す。加茂が丘団地の入口にあり、団地内緑地公園として残された二基の古墳からなる。この古墳群は、芦田川中流域の神辺平野に分布する古墳で初期の古墳群の一つである。最明寺跡を通る。ここで採集された瓦が備後国府跡推定地や備後国分寺跡から出土したものと同じ文様で、すぐ南側の切り通しを古代山陽道が通っていたこと、最明寺の山号が「馬宿山」であることなどから、品治駅家の比定地とされている。慶徳寺跡、素盞嗚神社(式内社)を経て、新市町に到着。ここで山陽道を離れ、尾市一号古墳に向かう。この古墳は、平成十七年五月に竹村氏(「古田史学の会」会員・京都府木津川市在住)の運転で小林さんと私の三人で訪問した古墳だ。一辺約十二mの八角形墳で、埋葬施設は花崗岩切石で構築された横口式石槨で、羨道と三基の石槨からなっている。平面形が十字型をなす極めて特異な構造をしている。石槨は花崗岩切石の一枚石が巧みに組み合わされて構築されており、壁面全体には漆喰が塗られていたとみられ今でも随所で観察できる。山陽道に戻る途中、吉備津神社(備後国一宮)に参拝、JR府中駅まで歩く。
◆十五日目 四月六日(火)府中(八時)~本郷(一八時一二分)六三七六五歩
府中駅近くの日本一石燈籠(金比羅神社)を見て出発する。途中、三郎の滝、神田神社(国史現在社・三代実録)、御調歴史民俗資料館(後口山古墳箱式石棺)、郡衙市(御調古市)跡を通り、しだれ桜が満開の御調八幡宮に到着した。ここは、神護景雲三年(七六九)和気清麻呂が大隈に流されたとき、姉の和気広虫(法均尼)がこの地に流され宇佐八幡を祀ったのがはじまりと伝えられている。宝亀元年(七七〇)清麻呂が大隈から帰還の途次、姉の広虫を訪ねてここに立ち寄った際に、道で駅鈴を落としたとの古伝があるそうで、このことが山陽道が通っていた傍証となっている。ここから、佛通寺(臨済宗佛通派の本山)経由、本郷駅まで歩いた。
◆十六日目 四月七日(水)本郷(八時五四分)~西条(一七時四〇分)五四一〇九歩
本郷駅を出発、沼田川を渡り少し歩くと菅公手掘井戸がある。菅原道真が大宰府に大宰権師として送られる途中、この地の人々が水不足で困っていたのをみて自ら井戸を掘って人々を救ったという。横見廃寺跡に到着。講堂、塔、築地などの遺構が検出され、寺域は東西約百m、南北八十m前後、瓦類は山田寺式単弁軒丸瓦や忍冬唐草文軒丸瓦など多数出土している。ここから西二百mの民家の脇を通って小高い丘に登り、梅木平古墳に着く。巨石で組まれた横穴式石室が開口し、墳丘上には仏像が祀られたお堂がある。広島県最大の横穴式石室(全長十三.二m・幅三.一m・高さ四.二m)で七世紀初め頃の古墳と推定される。沼田川の支流・尾原川に沿って山裾の少し高いところを通っていくと御年代古墳がある。七世紀前半に造られたとされ、内部主体は花崗岩の切石で築かれた整美な横穴式石室である。後室、前室、羨道からなり、各石室には花崗岩製の刳抜式家形石棺が納められ、いずれも縄掛突起がない。さらに貞丸古墳(竜山石の刳抜式家形石棺)、二本松古墳を廻る。一旦国道に合流、竹原市に入り横大道古墳群を訪ねる。石造アーチ橋の三永の石門を通過して、西条に入る。
◆十七日目 四月八日(木)西条(八時二五分)~八本松(一三時四九分)二六一七〇歩
ホテルを出発、西条盆地の南縁の丘陵端部に位置する三ツ城古墳を見学する。前方部を北に向けた前方後円墳で、全長約九二m、広島県内では最大の古墳である。墳丘は葺石で覆われ、埴輪を三段にわたって巡らし、東西に造出しがある。古墳時代中期(五世紀)に築かれた古墳と考えられている。西条は酒どころで、酒蔵通には白壁や赤煉瓦の煙突など独特な建物が並んでいる。賀茂鶴、賀茂泉、福美人、亀鈴、西条鶴、白牡丹といった広島を代表する酒造メーカーが軒を連ね、各酒蔵の前には井戸水が引かれており、竹筒から流れ落ちる水で喉を潤した。JR西条駅の北側に向かい、古代山陽道沿いに歩く。このあたりに、安芸国分寺が建立され安芸国府も置かれていた。周囲には大蔵、大地面など国府の存在を感じさせる地名が残っているそうだ。平安時代前期になると、現在の安芸郡府中町に国府が移ったとされる。八本松駅から、JRで広島に出る。明日は、私の退職祝いを仲間がやってくれるので、三泊四日の旅を終え、一旦、神戸へ戻る。
◆十八日目 四月十三日(火)八本松(九時五七分)~広島(一八時二七分)四六九七四歩
JR八本松駅からしばらく歩き、大山峠へと続く林道に入る。林道に入って少しの間は舗装されているが、やがて舗装も途切れ、人が歩けるだけの幅の山道へと変っていく。昨日の雨のせいで、道が川筋になっている。峠の説明板には、「このあたりに大山駅家があったこと。日本書紀にも記載のある古い官道で明治初期まで幹線道路であったこと。大宰府へ向かう防人、元寇を知らせる早馬、幕末には高杉晋作・吉田松陰も通った歴史の道だった」という内容が記されている。峠を下り国道に入る。瀬野を通り海田町へ到着。海田ふるさと館の裏は史跡公園で、畝観音免一号墳、上安井古墳(復元)、畝観音免二号墳がある。この後、甲越峠を越え府中町の多家神社(埃宮)へ向かう。
◆十九日目 四月十四日(水)広島(九時五分)~沼田(一七時二分)四二一九二歩
JR広島駅前から、府中町に戻る。府中町歴史民俗資料館で考古資料を見学の後、向かいの多家神社(埃宮)を訪ねる。説明板の由緒には「この地は、神武天皇が日本を平定するため御東征の折、お立ち寄りになられた所と伝わる。『古事記(七一二年完成)』に阿岐国(安芸国)の多祁理宮に神倭伊波礼毘古命(神武天皇)が七年坐すとあり。『日本書紀(七二〇年完成)』には埃宮に坐すとある。この多祁理宮あるいは埃宮という神武天皇の皇居が後に当社となった。」と記されている。付近は、安芸国の中心地で、総社跡、安芸国庁跡(田所明神社)、安芸駅家比定地(下岡田遺跡)を巡る。古代は、現在の広島市内を流れる太田川の扇状地が十分に発達していなかったために、古代山陽道は新交通システムのアストラムライン沿いに広島市街地の北方を大きく迂回する。大町駅家比定地を経由、アストラムライン広域公園前駅に着く。
◆二十日目 四月十五日(木)沼田(一一時三三分)~廿日市(一八時三〇分)四二五五五歩
午前中、広島平和公園・平和記念資料館を訪れた後、アストラムラインに乗車、昨日の終着点広域公園前駅で下車する。下沖遺跡(弥生遺跡)を経て廿日市に向かう。聞いていたラジオが、広島造幣局の「花のまわりみち」(さくら公開)が今日から始まると放送するので寄り道して、満開の八重桜を鑑賞する。広島岩国道路沿いに大野浦への道を急ぐ、今川貞世(号は了俊)の歌碑を過ぎる。「とにかくにしらぬ命をおもうかな わが身いそじにおおの中山 むかしたれかげにもせんとまくしいの おおの中山かくしげるらん」了俊が応安四年(一三七一)足利義満から九州探題に任ぜられ、その任地に下がるとき中山を通過した際に詠んだという。大野町高畑に着く、高庭駅家跡・濃唹駅家跡碑と歌碑がある。碑には、肥後の国の人、大伴熊凝が国司の供人となって都にのぼる途中病気にかかり父母を慕い嘆き悲しみつつ十八歳でここで亡くなり、「出でて行きし日を數へつつ今日今日と吾を待たすらむ父母らはも」(万葉集巻五・八九〇)と山上憶良が本人に代わってその心持を詠った一首が記されている。
◆二十一日目 四月十六日(金)廿日市(一一時三五分)~岩国(一七時三六分)三二八四〇歩
今日も午前中は、寄り道して安芸の宮島に渡り散策する。JR大野浦駅に戻り、岩国を目指す。山陽自動車道に向かって緩やかな坂道を上って行き、振り返ると宮島が大きく見える。「西国街道(石畳)」の案内を見て雑木林の小道に入ると石畳道が現れてきた。長さは五十m程で昔ながらの古道が残っている。白壁の家並みを残す旧宿場・玖波の町を通過、亀居城跡(大竹市)を訪ねる。この後、山越え(苦の坂)ルートを予定していたが、その入口に「全面通行止」の看板があった。脇にある歴史の散歩道の案内看板を見ると、すぐこの先が苦の坂なのだが、あきらめて迂回するしかなく引き返し、海岸沿いの国道二号線経由で岩国に到着する。
◆二十二日目 四月十七日(土)岩国(八時二分)~周防高森(一六時二四分)四八九九八歩
JR西岩国駅(旧岩国駅)を通り、錦帯橋を訪ねる。対岸に吉川広家が築城した岩国城が見えるが、先を急ぐ。石国駅家比定地の関戸を通過、千体仏(柱野)を経て、欽明路峠の急坂を越える。下りきったところに「歴史の道 旧山陽道」の案内板がある。「周防なる磐國山を越えむ日は手向よくせよ荒しその道」(万葉集巻四・五六七)と、この峠が周防国の道筋の中で最も険しい処であることを詠ったものといわれている。先に進むと「史跡欽明寺」と刻まれた標石があるお寺があった。峠の名前の由来となったお寺で、縁起では「人皇第二十九代欽明天皇が御幸の際、休息され欽明の名をいただいて寺号とした」と伝えられている。境内には、石垣で囲った「欽明天皇腰掛の石」があった。周防源氏武田氏屋敷跡・墓所、岩隈八満宮、鞍掛合戦千人塚、筏山古墳移築石室を巡りJR周防高森駅に到着。四泊五日の旅を終え、一旦、帰神する。
◆二十三日目 四月二十四日(土)周防高森(一〇時三一分)~徳山(一八時三六分)四八五九四歩
一週間ぶりに、JR周防高森駅に立つ。五月の連休中には完歩したいので、一気に太宰府まで歩くことにした。高森天満宮、松原八幡宮、生屋駅家比定地を経由して、花岡宿を通る。花岡八幡宮の境内にある閼伽井坊塔婆を見学する。この多宝塔は、藤原鎌足の創建した日本十六塔の一つと伝えられている。JR徳山駅に到着。今日はこれといった史跡がなく地理や景色を楽しむだけとなる。
◆二十四日目 四月二十五日(日)徳山(八時一四分)~防府(一八時二分)五四九九九歩
JR徳山駅を出発、山崎八幡宮、船山神社を通り、椿峠を越えて行く。峠道を下ると周防灘が見えてきた。富海海岸を散策の後、海岸沿いに防府市街地に入る。岸津神社(百済聖明王の第三王子・琳聖太子来朝着岸之地)を参拝、防府市文化財郷土資料館を見学する。三田尻御舟倉跡、鋳物師大師塚(玄室の前に前室を持つ横穴式石室)を見学の後、車塚古墳を訪れる。この古墳は、古墳時代後期の前方後円墳で、全長五十五m、高さは約五~六mを測る。前方部と後円部のそれぞれに横穴式石室があり、いずれも玄室・前室・羨道の三部構成になっているそうで、九州系の特徴を持っている。
◆二十五日目 四月二十六日(月)防府(八時三〇分)~鋳銭司(一八時二分)四七八七〇歩
午前中、周防国衙周辺を歩く。東大寺の大仏を模して造られた高さ約三mの木造阿弥陀如来坐像の多々良大仏を拝んで、周防国衙跡に行く。ここは、全国の国府跡の中でも最も早く昭和十二年に国の史跡に指定された。国衙域の北側を進み、佐波神社(総社)に出る。すぐ東に惣社古墳がある。佐波神社はもとは金切神社といい、説明板には、「仲哀天皇が熊襲御親征のため筑紫に御西下の時、岡縣主このことを聞いて当周防国佐波浦に参り迎えて三種の宝物ならびに魚塩の地を献じて帰順の意を表したので、天皇はこれを平定の吉兆であると喜ばれ賊軍退治の御祈願のため天照皇大神他十三柱の神を祀られたのである」と記している。国分寺の前から西へ行くと防府天満宮に出る。北野・太宰府と並んで日本三大天神の一つである防府天満宮は、延喜四年(九〇四)日本で最初の天満宮として創建されたそうである。佐波川を渡り、大日古墳を訪ねる。前方後円墳で後円部に横穴式石室がある。石室は花崗岩で作られ、羨道の天井部に段差がついたり、玄室の側壁上部が内傾するなど、石室の構造が明日香村の岩屋山古墳に似ており、また、石棺には竜山石の刳抜式家形石棺が据えられていることなど畿内地方の影響を強く受けている。被葬者は、大内氏の祖先といわれている百済国の王子琳聖太子という伝えもある。周防国一宮の玉祖神社に参拝の後、向山古墳群に寄りJR四辻駅に向かう。
◆二十六日目 四月二十七日(火)鋳銭司(九時三分)~小郡(一六時三三分)二八八八四歩
出発直前にゲリラ豪雨、しばらくJR四辻駅舎で雨宿りするが止みそうになく、雨の中を出発する。防府市境を越えたところ、山口市鋳銭司の田んぼの中に
ぽつんと案内看板が立っている。国指定史跡の周防鋳銭司跡だ。周防鋳銭司は全国に置かれた鋳銭司のうちで最も長期間貨幣の鋳造が行われ、平安時代の八二〇年代から九五〇年にかけては唯一の貨幣鋳造所だった。小郡に近づくにつれ雨も上がり、日が照ってきた。ここから寄り道してバスで秋吉台・秋芳洞に向かうことにした。草原の爽やかな風にふかれながらカルスト台地を歩き、秋芳洞を探索した。小郡に戻り、浄福寺古墳(嘉川)まで歩く。
◆二十七日目 四月二十八日(水)小郡(七時五九分)~小月(一八時四五分)六四〇六六歩
JR嘉川駅を出発。山口市と宇部市との境である割木峠を越える。山陽道の西端長門国に入った。峠の頂に「東周防国吉敷郡、西長門国厚狭郡」と刻まれた花崗岩製の方柱が建っている。厚東川を渡り、舟木宰判御高札場跡、岡崎八幡宮など舟木宿を通る。厚狭川を渡り厚狭を過ぎ、談合峠を越えると埴生の手前で初めて九州が見えた。途中、雨が降ってきたので小月までの道のりを急ぐ。特に見所もなく、できる限り西へと距離を稼いだ一日だった。万歩計が全行程中最大の歩数を表示する。
◆二十八日目 四月二十九日(木)小月(八時三三分)~門司(一八時一六分)五〇八八三歩
JR小月駅を出発、孝行塚を見てJR長府駅まで歩く。ここで寄り道して、JRに乗り梶栗郷台地駅(山陰本線)で下車する。下関考古博物館を見学の後、付近の梶栗浜遺跡(我が国最初の多鈕細文鏡が発見された)、陶?が出土したことで知られる綾羅木郷遺跡(弥生時代の集落遺跡)、川北神社(上の山古墳)、仁馬山古墳、秋根古墳(一号・二号)を散策する。長府駅に戻り、忌宮神社を訪ねる。ここは、仲哀天皇が九州熊襲平定のために西下のおり、七年間滞在した豊浦宮の跡といわれており、長門国二の宮である。乃木神社、長門国分寺跡を見て、和同開珎を鋳造していた長門鋳銭所跡を訪ねる。長府の町をあとに山裾を抜ける道を歩いて行くと前方に海が見えてきた。対岸に門司の山並みが見え、続いて関門橋が見えてきた。国道九号に合流するあたりが、臨門駅家の比定地で山陽道の終着点だ。壇ノ浦古戦場の下関側に関門トンネル人道(海底トンネル)の入口があり、エレベーターで地下へ降りる。ここから福岡県との県境地点まで四〇〇m、ゆるやかな坂道で、県境あたりが一番低くなっている。県境を過ぎると今度は門司に向けて四〇〇m、ゆるやかな上りとなっている。エレベーターで昇ると、そこが和布刈神事で有名な和布刈神社で、この近くが西海道豊前国社埼駅家に比定されている。ここからは西海道を歩くことになる。西海道は小路の扱いとなっているが、山陽道と繋がる太宰府路は大路の扱いとなっている。
◆二十九日目 四月三十日(金)門司(八時三〇分)~折尾(一八時三八分)五五九七九歩
JR門司港駅を出発、国道三号線沿いに対岸の下関彦島を見ながら進んで行く。次の到津駅家は小倉城址付近になる。北九州埋蔵文化財センターを見学の後、県道二九六号線に沿うように進むと板櫃川の北側に到津八幡神社が見えてきた。このあたりは、藤原広嗣の乱の古戦場跡で、荒生田神社は板櫃川の合戦で破れた広嗣を住民が崇敬し祀ったのが起源とされている。豊前国と筑前国との国境である北九州八幡東区と八幡西区の境界を挟んで山麓沿いに古代駅路の跡とみられる旧道が残っている。直線経路を辿り、急傾斜で自動車は通れず階段になっているところすらある。その脇に史跡古官道の石碑が建っている。独見駅家、夜久駅家の比定地を通過、JR折尾駅に向かう。
◆三十日目 五月一日(土)折尾(九時一分)~福間(一八時四二分)五〇八〇九歩
JR折尾駅から芦屋町を目指す。遠賀川河口を渡り、大塚古墳石室(移築)を見学、近くの岡湊神社を訪ねる。日本書記の仲哀天皇八年春正月条に記されている岡の浦(芦屋の古称)の大倉主命、莵夫羅媛命の二柱を主祭神としている。また、このあたりは書紀にある筑紫國岡水門(古事記には竺紫の岡田宮とある)の比定地とされている。航空自衛隊芦屋基地の南にあたる嶋門駅家比定地を通過、岡垣町、原町宿(唐津街道)、津日駅家の比定地(福津市畦町)を経由してJR福間駅に着く。
◆三十一日目 五月二日(日)福間(八時三八分)~南福岡(一七時五七分)五九三八〇歩
JR福間駅から、九州自動車道古賀SAの方向を目指す。このあたりから、太宰府道はこの自動車道に沿うように進む。糟屋郡新宮町、久山町を通過、糟屋町に入る。夷守駅家は内橋遺跡に比定され、多々良川を越えた住宅地にある。現在は変電所となっている。太宰府への赴任、離任、あるいは駅使などの歓送迎の場所としても使われたそうだ。駅路はJR博多駅に向かう。ちょうどJR博多駅の筑紫口あたりが美野駅家にあたる。ここから直角に曲がり、南東方向に太宰府を目指す。那珂八幡古墳(那珂八幡宮)に寄る。この古墳から出土した三角縁神獣鏡の同笵鏡が、椿井大塚古墳、湯迫車塚古墳(岡山市)からも出土している。板付遺跡と板付遺跡弥生館を見学の後、JR南福岡駅に到着する。
◆三十二日目 五月三日(月)南福岡(七時四)~太宰府(一五時四三分)三九三三七歩
JR南福岡駅を出発、駅前の十日恵比須神社に参拝、雑餉隈恵比須神社を見て、一路太宰府を目指す。東西に連なる小高い丘が目に入ってくる。太宰府の入り口水城跡で東門から太宰府に入る。筑前国分尼寺跡、陣ノ尾1号墳、筑前国分寺跡を巡る。国分瓦窯跡と文化ふれあい館の中庭にある箱式石棺を見る。すぐそばの御笠団印出土地に寄る。説明板によると、大宝令に定められた軍団の印判が発掘された所である。苅萱の関跡を通り王城神社に行く。神社入口に小字「扇屋敷」の石碑がある。王城神社は、事代主命を祭神とする通古賀の神社で、説明板の由緒によると、その創始は太宰府の護り神として大野山に祀られていたが通古賀の扇屋敷に遷り御鎮座した九州で一番古いえびす様らしい。榎社を訪ねる。菅原道真が、太宰府に左遷されてから逝去されるまで謫居された跡である。すぐ近くの太宰府条坊跡の史跡を巡り、竈門神社(下宮)を目指す。大宰府政庁の鬼門に当たる竈門山(宝満山)に、大宰府鎮護のための神が祀られたと伝えられ、玉依姫命、相殿に神功皇后・応神天皇を祀っている。太宰府天満宮から観世音寺、戒壇院、学校院跡などを巡り、終着地の都督府址に到着する。
全行程三十二日間、百四十万四千歩の旅が終わった。歩くことは多少の自信があったので、なんとかなるだろうと歩き続け目的を達することができた。帰路の新幹線の車中は、長かった旅の余韻にひたりながらビールを飲んだ。ひかりレールスター五八〇号は、わずか二時間三十分で新神戸駅に到着した。
[参考にした文献・資料]
※「はりま風土記の里を歩く」播磨学研究所編 神戸新聞総合出版センター
※「地図でみる西日本の古代 : 律令制下の陸海交通・条里・史跡」平凡社
※事典「日本の古代の道と駅」木下良 著 吉川弘文館
※「山陽道駅家跡」岸本道昭 著 同成社
※「日本古代道路事典」古代交通研究会編 八木書店
※「歴史の道調査報告書集成9 近畿地方の歴史の道 兵庫1」 海路書院
※「完全踏破 続古代の道」武部健一 著 吉川弘文館※「日本の古代道路を探す 律令国家のアウトバーン」中村太一 平凡社
※「古代の道路事情」木本雅康 吉川弘文館
※「新訂増補国史大系」26 吉川弘文館
※「新訂増補国史大系」22 吉川弘文館
※道路地図「県別マップル(兵庫県・岡山県・広島県・山口県・福岡県)」 昭文社
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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