「筑紫なる飛鳥宮」を探る 正木裕(会報103号)
論争の提起に応えて 正木裕会報(106号)
金石文の九州王朝 -- 歴史学の転換 古田武彦
生涯最後の実験へ 古田武彦
論争のすすめ 上城誠(会報105号)../kaiho105/kai10501.html
論争のすすめ
福岡市 上城誠
会報一〇三号の正木論文「『筑紫なる飛鳥宮』を探る」について、以下三点に絞り考察を進めてみたいと思う。
そのことによって氏が今迄発表された、各論文に対する研究及び再検証が活発になれば幸いである。
一、「古事記」序文の解釈について
氏は解放の6ページにおいて「古事記」序文の読み下しを次のように整理された。
(1). 飛鳥の清原の大宮~[シ在]雷期に應じき。
(2). 夢の歌を~基を承けむことを知りたまひき。
(3). 然れども~人事供給はりて、東国に虎歩したまひき。
(4). 皇輿惚ち駕して~区徒瓦のごとく解けき。
(5). 未だ?辰を~都邑に停まりたまひき。
(6). 歳大梁に次り~昇りて天位に即きたまひき。
[シ在]は三水編に在。JIS4水準ユニコード6D0A
そして『(1). ~(6). は古賀氏の分析どおり、「夜水」は筑後川の別名、「南山」は高良山と考えられ、天武の「筑後」雄状を示し』と云われる。古賀達也氏の『「古事記」序文の壬申大乱』(会報六九号)に依拠されたのだ。しかし、私達の前に、その再検証過程と依拠される理由は示されていない。
そのことに私は大きな違和感を覚える。古賀氏の研究論文に、「学ぶ」そして自身の再検証を通して「問いを発する」ことこそ、「学問のあり方」と信じるからだ。
氏に代わり古賀氏の当該論文を学んでみよう。
古賀氏は云われる。
『「日本書記」の壬申の乱の記事が虚構であることは、すでに述べたとおりであるが、そうであれば「古事記」序文の記事も「日本書記」の記述とは切り離して、再検討が必要である。
古田氏が指摘されたように、壬申の乱の吉野を佐賀県吉野とするならば、「古事記」序文に見える「夜の水」や「南山」も九州の地と考えるべきであろう。』
と述べられ、江戸時代の筑後地方の地誌「筑後志」及び、室町時代の連歌師宗紙の者「名所方角抄」にある筑後川の別名「一夜川」を「夜水」であろうとした(「水」を「川」と読むのは「古事記」注釈書各本ともに共通していて異論はみないようだ)。
しかし、「一夜川」の「一」が消えた理由は示されない。
また、筑後川の別名は「一夜川」だけではない。鎌倉時代、藤原長清撰集「夫木和歌抄」には、「河の部」に「ちとせ川(筑前)」に光明峰寺入道摂政の証歌として、
「君か為かきりもあらし千とせ川ゐせきの波のいくめくりとも」
と歌っている。
また江戸時代の僧、澄円の「歌枕名寄」西海部上には、
「我君のなかれ久しきちとせ川波しつかなる世につかえつつ」
とある。
そして、「肥前風土記」には「御井大河」と記されている。
太安萬呂は筑後川の別名「御井大河」「千とせ川」「一夜川」から、「一夜川」を選び、なおかつ固有名詞を成立させるに必要な「一」を消して「夜水」と表記したことになる。私には「四日市」は「日市」と表記すれば、万人が「四日市」と理解するのだという仮定と同じ位、理解できないことである。
「南山」を「高良山」とする見解についても同じである。
古賀氏は云う。
『「天の時未だ臻らずして、南山に蝉蛻し」た。この南山も当然九州だ。しかも夜水(筑後川)の近くでなければならない。そのような山はあるか。これも、ある。筑後川を渡るとそこには「曲水の宴」の遺構を持った筑後国府がある。そして、その先には有名な高良山神龍石山城が屹立している。この高良山こそ、九州王朝の都太宰府のほぼ真南に位置しており、南山と呼ばれるにふさわしい山である。』
と。
そうだろうか。
「古事記」序文は「臣安萬侶言」から始まっている。編者である太安萬侶から、第四三代元明天皇への上奏文という体裁をとっている。そこに現れる方向指示をともなった「南山」なのだから、その起点が「太宰府」であろうというのが理解しがたい。藤原京ないし平城京が起点でなければ文章として成立しないのではないだろうか。
それでもなお「南山」が「高良山」であると主張されるのであれば、「天武」が常に「大宰府」に居たことを証明しなければならないであろう。「南山」はどこまでいっても「天武」の居所ないしは元明天皇の都からの「南方の山」にすぎない呼称であるからだ。
もう一点、重要な論点が、古賀氏から出されている。
『南山で「人事共給」わる時を待つといったが、原文は「人事共給」であり、これを岩波古典文学体系の「古事記」では、「共給」と同義として、「そなわる」と読ませている。しかし、この読みは強引ではあるまいか。「共給」とあれば、「共に給わる」と読むのが普通であろう。
人と事を共に給わった、である。
ところが、この「給う」という語は上下関係を前提とした言葉であり、上位者が下位者に物与える時に使う用語である。従って、これでは天武よりも上位者が下位者たる天武に軍勢を与えたという意味になり、通説では理解困難な読みとなるのだ。岩波の編集者達が「共給」に「そなわる」という無理な訓を与えたのもこうした事情からであろう。』
とし、唐の進駐軍郭務宗が天武に軍をたまわったのだとされた。
さて、この見解はどうであろうか。
「給」の字義には、古賀氏が云われるとおり上位者が下位者に物を与える意味がある。これは「給う」と訓んでも、「給わる」と訓んでも、一切変わらない。
例えば、
天武は臣下に馬を給う。
天武は臣下に馬を給わる。
両文とも、意味は全く同じである。
「給」の字義には上位者から物をもらうという意味の「たまわる」は無いのだ。しかし、だからといって当該文章中には一切登場しない人物を「給」の動作主体に求めるわけにはいかないだろう。元明天皇はこの文章で理解できたのだから尚更である。
原文に戻ろう。
然
天時未臻。蝉蛻於南山。
人事共給。虎歩於東國。
見てわかるように対句になっている。「天時未臻」が「人事共給」に対応しているのだ。この「古事記」序文における天武は天の意思に従って行動しているのだ。「夢歌」による告知、「夜水」における確認、すべては「天の意思」であることを表現しているのだ。だから、当該文章は「天が天武に人事ともに給わる」と読むのが自然な読解であろう。(この「天」を主語とする読解については古田武彦氏のご教示を得た)
以上、古賀氏の論文に対しての疑問は述べた。私自身の勉強不足によって筋違いの論をなしている可能性大である。
それゆえに、是非とも、ここに述べた各点への正木氏の御教示をお願いしたい。
(補)「古事記」序文の原文において
開夢歌而相簒業
投夜水而知承基
と対句になっていることが判る。「夜水」が固有名詞であるなら、「夢歌」も固有名詞となろう。この点も注意されたい。
二、「阿志岐=明日香」説について
正木氏は『「阿志岐」は、万葉歌から本来は「明日香」であったのではないかと疑われる。』
『(1). の歌を見れば「明日香」が「明日か?」という疑問詞と一種掛詞として使われ、「今日」との句と対句になって意味をなしている事がわかる。
「秋萩が逝くのは明日か?いや今日の雨に落ち過ぎるのだ」というように。』
と云う。
(1). 万葉一五五七番歌
「明日香河 行き廻る丘の秋萩は 今日降る 雨に散りか過ぎなむ」
しかし、この歌の最終句は「散りか過ぎなむ」(原文=落香過奈牟)とあるように、強い推量を表しているのだから、「明日香川が流れめぐる丘の秋萩は、今日降る雨に散ってしまったのだろうか。」という意味になり「今日か?明日か?」などという掛詞になっていない。それゆえに、「明日香河」を「千曲川」または「御笠川」としても歌の趣は、まったく損なわれないのだ。たとえば、万葉一五五四番歌を見よう。
「大君の三笠の山の黄葉は 今日の時雨に散りか過ぎなむ」
と大伴家持が詠んでいる。
一五五七番歌と同様の歌趣である。ゆえに、正木氏の見解に私は従えない。また氏は、
『また阿志岐山(悪木山)も次の歌から、「明日香山」であった事が伺える。』
と云い、万葉三一五五番歌を取りあげる。
『悪木山 木末ことごと 明日よりは靡きてありこそ 妹があたり見む
これも「悪木山」では「明日よりは」が意味をなさない「明日香で初めて意味を持つ。
「明日香山の名の通り、明日よりは、木末ことごとなびけ」というように。』
私には、理解できない解釈である。
この歌は
「阿志岐山よ、お前は、その名前のとおり<悪しき山>だな、そこにある木末もすべて悪しき山だ。だから今、妹が住んでいる家の辺りが見えない、本当に悪い山だ。明日からは是非木末が横たわっていて欲しい。そうすれば私は妹が住んでいる辺りが見れるのに」
と解釈すべきではないのか。「木末ことごと」は「悪木山」と「靡きてありこそ」の両方に掛けて読むべきであろう。
以上、「阿志岐=明日香」は成り立ちえないと思われる。
のため、氏が取りあげた他の万葉歌にも触れておこう。
万葉一五三〇・一五三一番歌については、言うべき言葉も無い。仮に今日ではなく、明日歌っても「今日を始めて万代に見む」と詠うのであって、何も「今日」と「明日」を対にする必要は無いのだ。
万葉一一四八番歌が良い証拠となろう。
「馬並めて 今日わが見つる住吉の岸の黄土を万代に見む」
どこにも「明日」に関る語句は出現してない。
万葉三五六番歌はどうであろうか
「今日もかも 明日香の川の夕さらず
かはづ鳴く瀬の さやけくあるらむ」
その歌意は
「今日もまた、あの明日香川の、いつも夕暮れに、必ず蛙の鳴く瀬は清らかだろうなあ」
であって、「今日」と「明日」を対にさせたわけではない。試みに、「室見の川」と置き換えて詠唱されてみるといい。なんら変化がないことに気付かれるであろう。
以上、「阿志岐=明日香」説に対しての私見は述べ終わった。
この点においても正木氏の御教示をまちたい。
(補)氏は当該論文の註一二において、
『可能性として、「安子奇命」自体が本来「アスカ(安子可など)」だったとも考えられる』
とも云われる。しかし、氏が参照された、古賀達也氏の「九州王朝の筑後還宮 — 玉垂命と九州王朝の都」(『新古代学』第四集)においては、初代高良玉垂命は三九〇年没であり、その九人の皇子の一人として「安志奇命」の名がある「子」ではない。また、「安志奇命は五世紀の人物ということになるのだか五世紀あるいは、日本書紀成立時点においても、「子」に「ス」音は無いのだ。「子」を「ス」とも読むようになったのは鎌倉時代以降である。「呉音」「漢音」には「シ」音しか無いのだ。ゆえに「安子奇」とあったとしても「アシキ」であって「アスキ」ではない。
また註一三においては、
『万葉歌で地名が変えられている例として、古田氏は万葉二五番、二六番歌と三二九三番歌をあげ筑紫の「耳我嶺(三根)」が「耳我山」、そして大和の「御金嶽(金峰山)」に換えられたとされる』
と述べられる。
古田武彦氏の『壬申大乱』(東洋書林)に基づいているのだが(同書一四五~一六〇貢)古田氏の主張は、本歌(二五番歌)も存在して類歌への書き換えの進行を論証したのであって。正木氏が論証しようとしている、「本来の地名を消し去って、他の地名を名付ける」ことを論じているのではない。佐賀であるべき「耳我嶺」を大和に求めた結果の書き換えであることを論証したのだ。
ゆえに正木氏の主張の傍証とするには無理が感じられる。
三、として「伊勢王、九州王朝天子説」について論じる予定であるが、それは次回の課題としたい。
本稿の目的は、「古田史学の会」の論者相互の論争のすすめである。「会報」を見れば判るとおり、各論者が自己の仮設を発表しているだけで終わっている。そして、その大部分に対して検証・反論なきまま仮説が積み重なってゆき、いつの間にか「古田史学の会」が認めた「定説」であるかのように、インターネット上にホームページを有する論者が扱い、また自説の根拠として利用したりしている。
それで良いのだろうか。
もっと会報上で論戦を繰り広げるべきであろう。古賀、正木、西村という関西を背負う論客諸氏が相互に礼節を伴った論争を繰り広げ会報上にその論争が展開される日が来ることを望むのである。
「古田史学の会」を設立するにあたっての古賀氏の精神的、肉体的苦闘を知る者の一人として「会報」が一〇五号を数え、その発行する「古代に真実を求めて」が一四号にも及んだことを大いに喜び、古賀氏を中心とする関西の諸氏の努力に頭を垂れつつも、現在の会のありようには、言葉に表現できない、大きな違和感を感じざるをえない。それを解消する第一歩として、会員諸氏の大いなる論争の開始を願って、この稿の結びとしたい。
これは会報の公開です。
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