入鹿殺しの乙巳の変は動かせない 斎藤里喜代
斎藤里喜代さんへの反論
奈良市 水野孝夫
会報一〇三号の「入鹿殺しの乙巳の変は動かせない」に反論。
わたしの説は、会誌『古代に真実を求めて・第十四集』にあるが、(大化のクーデターは六九五年に起きた)という小見出しがついているので、斎藤さん論はわたしの説への疑問でもあると考える。
そこで反論稿を送ったのだが、会報一〇四号では応募稿が多くて、わたしの稿は溢れ、西村氏の稿が掲載された。そこで西村稿との重複は省き、新しい視点を入れる。
斎藤さんは論点(2).=「年号・大化が六九五年~」には賛成されている。
これは『二中歴』の年代歴(以下A)を承認されていると考える。
Aは『日本書紀』(以下B)とは反する年号を記載しているのだから、Aを承認するならBの記事は否定するのが当然と思う。
論点(1).=「入鹿殺しの乙巳の変は書紀は皇極四年としており、大化とは無関係」
会誌には説いたが、Aには「大化」項に、「覧初要集云皇極天皇四年為大化元年」(1)という注釈がある。これは「皇極天皇四年(クーデターの年)を六九五年とする文献があった」と理解せざるを得ず、わざわざ書いてあるということは、A編者は「それが正しい」と理解していたことを示す。
論点(3).=『続日本紀』(以下C)天宝宝字元年(七五七)に「乙巳年功」の記事がある。すでに西村稿があるが、百十二年以前の功田の細部について、太政官で審議してわざわざCに載せること自体不審である。クーデター年が乙巳ではなかったのをCが「乙巳」年に固定しているのである。
養老元年(七一七)項に「行至近江國。觀望淡海。」として、もとは八代海のことだった「淡海」の語を琵琶湖に固定したのと同様。
論点(4).=皇極四年紀に「三韓」があるが、六九五年には新羅しか残っていない。これには反論があるのをインターネット上で見つけた。曰く「もし三韓の使者がクーデターを目撃したのなら、大事件であり、本国へ帰還後に報告したはずだが、朝鮮半島の史書にそのような記述はない」。なるほど納得。
Cは史実性が高いとされるが、Bとは基本的には矛盾しないように作られている。これは継続する王朝の史書として当然である
余談=C天宝宝字四年(七六〇)には先朝太政大臣藤原朝臣(不比等)に対する表彰記事がある。死後四十年、異例に持ち上げ、「宜依齊太公故事」「近江国十二郡を追加し、封じて淡海公と為す」。(近江に封じたのなら「近江公」でよいはずなのに、なぜ「淡海公」なのか?。近江=淡海を強調する作文である。)
「齊太公故事」とは司馬遷の『史記』に登場する 太公望・呂尚、つまり大戦略家を得て成功した話。B及び『藤氏家伝』(以下D)によれば、戦略家として功績があったのは鎌足であり、不比等ではない。鎌足および不比等の墓はどこだか定説がなく二人の墓は混同されつづけている。Dには鎌足伝があって「史(ふひと)伝は別に」と記載されてはいるが、伝わってはいない。六九五年のクーデターで、戦略を立て、太公望に比すべきは不比等であった。これが六四五年では不比等は登場できない。そこで戦略家は鎌足と作文されたのだと理解する。
本年四月の当会ハイキングで山科へ行った。駅西のJRと国道が交わるあたりに「山階寺址」石碑があった。考古学的に研究されているのである。それはDに鎌足「薨于淡海之第、火葬於山階之舎」(版本により「火」字がない)とあって、Dは信頼できる文献(淡海は琵琶湖、山階は山科)というのが定説だから。
七月ハイキングは高槻市の今城塚と(その)古代歴史館へ行った。ここには阿武山古墳に関する展示も。昭和九年に発見、埋葬人骨は漆棺もろとも当時にレントゲン撮影されていて、人物は鎌足説がある。もし、火葬なら骨が整然と写る写真はあり得ない。仮説をもっているとハイキングは実におもしろい。
註
(1)「云」字は古田武彦氏は読み取っておられないが、『古事類苑』および版本写真からあると判断した。
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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