2011年 8月 8日

古田史学会報

105号

1、論争のすすめ
 上城誠

2、古歌謡に現れた
「九州王朝」の史実
 西脇幸雄

3、斎藤里喜代さんへの反論
 水野孝夫

4、橿(モチのキ)はアワギ
イザナギは彦島で禊いだ
 西井健一郎

5、古田武彦講演
  九州王朝
  新発見の現在

6,星の子3
  深津栄美

穴埋めヨタ話5
ヤマトタケルは女だった?

古田史学会報一覧

新羅本紀「阿麻來服」と倭天皇天智帝 西井健一郎(会報100号)
独楽の記紀 記紀にみる「阿布美と淡海」 西井健一郎(会報109号)

「橿(モチのキ)はアワギ」の発見

イザナギは下関市彦島海士郷町十四番地で禊いだ

大阪市 西井健一郎

一、「橿(キョウ)」と「檍(オク)」

 神世七代の第六代神を、記は“於母陀流おもだる神・阿夜訶志古泥あやかしこ神”と書く。紀はこの二神を上品に“面足おもだる尊・惶根かしこね尊”と写し、惶根尊の亦名として“吾屋あや惶根尊・忌いむ橿城尊・青橿城根尊・吾屋橿城尊”との四つを付記する。そして依拠校注本は、橿城にカシキとの訓をつける。それは亦名の吾屋惶根尊=青橿城根尊=吾屋橿城尊、つまり惶根=橿城根とみて、橿にカシと訓したと思われる。
 もっとも、応神記に、“吉野之白檮上、作横臼・・・”に続き“歌曰、加志能布邇余久須袁都久理 かしのふによくすをつくり”とある。「白檮」は「加志 かし」にあたる。神武記の白檮原(かしはら)宮を紀は「橿原」の地と記すから、橿は「カシ」と訓むことになったのかもしれない。なお、旁(つくり)の橿*には「かっちりかたい」の意がある。
      橿*は、木偏なし。

 だが、惶根尊の亦名にある「橿城」が本当に「カシキ」へのあて字なのか、との疑問をもつ。それは漢和辞典に「橿 きょう」の意は「モチのキ、樹皮から鳥もちをつくる」とあり、その近くに載る「檍 おく」にも「{意}モチのキ、同」と載るからだ。つまり、中国から輸入された時点の「橿」と「檍」はおなじ木種を指していた。橿に「{国字}かし、木の名前」とあるのは紀の用例に従ったもので、それ以前からではないだろう。また、檍には「{国}かし」の意は載せていないから、モチのキをカシとは呼んできてはいない。
 では、原伝承が記紀の種本に採録された時点での「橿」と「檍」をあてた木種はどのように呼ばれていたのだろう。その唯一の古例が、紀のイザナギがミソぐ地名“檍原”の原訓、“檍、此云阿波岐 あはぎ”(第7一書)である。「檍」つまりモチのキは、「アワギ」と当時、呼ばれていた。であれば、採録時点で用いられた「橿」も「アワギ」へのあて字と考えられる。ならば、「橿城根」は「アワギ・ギネ」へのあて字だったことになる。橿城の城(き)は、橿をアハギと読ませるよう城を重ねたとみる。推測するに、種本がアワギネへあてた「橿城根」を、紀の編者は「訶志古泥 かしこね」のあて字と間違えたのでは。

二、橿城根尊はアワギネ尊

 「橿城根」が「アワギネ」だったと考える第二の理由は、紀の神世七代の神名群に続く一書にある。それが “(第1)一書曰、此二神(イザナギ達)、青橿城根尊之子也”と、続く“(第2)一書曰、國常立尊生天鏡尊。天鏡尊生天萬尊。天萬尊生沫蕩尊。沫蕩尊生伊奘諾いざなぎ 尊。沫蕩、此云阿和那伎あわなぎ”である。青橿城根とあるイザナギの親の名を第2一書では阿和那伎と記す。同一人の名前なのだから、橿は阿和(あわ)へのあて字なのだ。古来アワギネであったものが、イザナギがナギ称号を用いた以後、それ以前の祖先もナギ称号に付け替えられている。なお、沫蕩にアワナギとの原訓があるが、「蕩」は称号「タラシ」へのあて字だ。先行王の面足尊も「ツラのタラシ」だから。ツラは、紀カグツチの第7一書の“天吉葛、此云阿摩能與佐圖羅 あまのよさつら”からみて、葛(=国栖[くず]族)の意だから、面足の原称は「葛のタラシ」である。
 この第2一書は宋史日本伝中の日本僧?然(ちょうねん)が提出した日本国王年代紀の一部分なのだが、そちらには“初主號天御中主。次曰…。次天萬尊。次沫名杵尊。次伊奘諾尊。…”とイザナギの前にアワナギかアワナギネかが載る。ここでもカシコネの名は見えない。

三、カシコネ神は香の色許泥神

 となると、アワギネはカシコネとは別人かもしれない。その目でみると、先刊の記は訶志古泥(かしこね)神をイザナギの祖に、沫那芸神は孫神に別置している。
 カシコネを我流の漢字で書けば「香かの色許泥しこね」となる。「香」つまりカグの地出身の勇者あるいはカグの地を支配する勇者との称号を持つ王だった。ひよつとすると天萬尊か、イザナギに討たれた迦具土(かぐつち)神のことかも。なお、この基本地名「香」に集落名であることを示す語尾「シ(志など)」がつき、同地を「カ・シ」と呼んだ期間があり、紀の編者がアワギと混同した可能性はある。
 ついでに、シコオやシコメなどの「シコ(色許)」称号がつく記紀への登場人物はわずかである。初代大国主の別称とある葦原色許男(しこを 記)のほかは、孝元記の内色許男(うつしこを)命とその妹で皇后の内色許売(うつしこめ)命、同妃になる兄の娘の伊迦賀色許売(いかがしこめ)命ぐらいだ。この妃名は「五 十のカグ(香)のシコメ(姫)」であり、「カ・シコネ(惶根)」尊と同称号。香域でシコメ称号が使われていたことを示す。カシコネが代々継がれたから、区別のために「イ」が頭についた。
 親の内色許男命は開化紀に鬱色雄(うつしこを)命とあり、注に神饒速日(にぎはやひ)命の五世孫とある。これは物部(もののべ)系だから「物(ブツ)」はこの鬱(うつ)の替え字で、物部の源は鬱部(うつべ)。その「ウツ」に地名語尾「シ」がついた形が、顕国玉(うつしくにたま 紀・国譲り)の宇都志であり、津がつけば虚空津日高(うつつひこ)だ。
 ウツは神武紀の珍彦(うつひこ)、孝元記の建内宿禰(たけのうつのすくね)の祖父で木国造の宇豆(うづ)比古、応神記の宇遅能和紀郎子(うじのわきいらつこ)の支配地だった。建内宿禰と味師内(うましのうつこ)宿禰の名から、建とウマシも内(うつ)に属することがわかる。風土記逸文の山城国宇治条には「宇治若郎子が宮を作ったので御名により宇治と号した。もとの名は許乃国このくにといった」と載る。許(こ)の国は木(こ)の国造の地で、昔はウツと呼ばれていた地域だった。太古の彦島では。香はそのウツ(=小戸沿岸)域の一部である。

四、イザナギの禊の地、アハキ原

 話をアハギネに戻す。
 橿が檍と同地であれば、イザナギがなぜ檍原(あわぎバル?。九州に多い村の意の語尾)で禊(みそぎ)を行ったかがわかる。彼を養育したアワギネの出自地だったからだ。紀には「産む時に至り、まず淡路洲を以って胞となす。意、不快あり。故、名を淡路洲と曰う」とあり、注に、「胞はエ(兄)。第一子は産み損ないだから、アハヂ(吾恥)とつけた」とある。この淡路はアハギからの造作であり、アハギが胞衣(エナ。「胎児を育てる膜と胎盤」広辞苑)となってイザナギを育てたことを伝える。ただ、それが不快とあるのが不可解。誰が何を不快としたのだろう。記では、国生みの初子を淡道(あわじ)の穂の狭別嶋(さわけじま)と記し、淡道を忌避していない。私見では、狭別嶋はサベツ島、(周芳の)沙麼津(さばつ)だ。
 イザナギはアハギ原でミソギをすることによりアワキネ(イザナミと同人物)の庇護やくびきから独立することを宣し、イザナキ族の初代王の地位についた。それは男王制の始まりで、それまでの巫女王制からの脱却だったから伝承に残った。
 記はこのミソギの地を“到坐竺紫日向之橘小門阿波岐原ちくしひゅうがのたちばなのおどあはぎはら”と記す。記紀の種本の源は下関市の彦島伝承とするわが偏固な史観からは、「チクシ日の向むこのキツの小戸おどのアハギバル」と解す。竺(ちく)はタケ(竹・建)の書き換えであり、高天原(たかあまがはら)や高尾張邑(たかのおわりむら)のタカと同じ広域地名である。シと日は、ともに今の○○村のような前出の地名語尾で、重複して用いられている。向(むこ)は地名、紀ミソギ第10一書の“故還向於橘之小門、而拂濯也”も「キツの小戸にある向むこへ還かえって」と読める。神功紀には務古水門、継体紀に高向(たかのむこ)と載る。橘はキツ、前出の“天吉葛あまのよさつら”の吉(きつ)で国栖族の地を意味する。橘小門(きつのおど)とは、小戸つまり下関の小瀬戸の国栖族が支配していた部分を指す。

五、アワ(粟・淡・沫)は「大の咋」の地

 このミソギの地、阿波岐(あはぎ)は、記紀に多出する「アワ(淡・粟)」とは別地である。
 第10一書の前出部分の直前に“故欲濯除其穢惡、乃往見粟門及速吸名門。然此二門、潮既太急。故還向於橘之小門、…”と、橘小門とアワの瀬戸を別記するからわかる。
 後者の速吸名門(はやのすいなのと)は、神武紀に“舟師東征。至速吸之門。時有一漁人、乘艇而至。天皇招之。因問曰、汝誰也。對曰、臣是國神。名曰珍彦。釣魚於曲浦。聞天神子來、・・・”とある。曲浦には「アタのウラ」との訓が依拠本にあるから(理由不明)、そこは「吾(阿)田の浦」で小椅(おばし)君の地。小椅は「乎波之おばし(+理)」で尾羽張(おわばり)神の裔。曲がるという地形から推して、響灘側から東に入った小戸が急に北向き曲がる部分か。一方の粟門(あわのと)は景行記に“此之御世、定田部、又定東之淡水門”とあるから、関門海峡側の小戸東口である。
 その粟門の岸辺がアワの国、記の“粟國謂大宣都比賣おおげつひめ”の地だ。オホゲツ比売は「大の齧(げつ クイ)」であり、「大の咋くい」と置換できる。咋は首長称号だから「大域のボス」、その支配地が粟国なのだ。大とは大戸(おおど)、関門海峡の大瀬戸に面した地域名である。小戸はこの大戸に対する比喩地名。地名の語頭に大のつく地名は彦島側には残っていないが、門司側には大里が頭につく町名群が存する。
 この大域の歴代のボスが、大戸日別神や大年神(大戸主の訛)である。スサノヲ神譜(記)に刺国大(さしくにおお)の神名がみえる。国は地区名で、大国主は代々の「大域の国地区のボス」称号だ。鼻口などから食物を呈してスサノヲに殺される大気津比売(おおげつひめ 記)の説話をみると、粟国は物成りが豊かのようだから小戸東側の平地部、現在の彦島本村町(ほんむらまち)とみる。この本村町は誉田(ホム・タ。タも地名語尾)の名残りだ。
 粟国(本村町)の東前面が淡海(あわのうみ)、現在の下関漁港。その東対岸の大和町は埋立て前は砂州と岩礁が並び、関門海峡から岩列を越して入る潮で泡立つ入り海だった。

六、海士郷町と賊の麻剥

 一方のアワギ原は檍原、そこは橿原。その位置を神武紀は“觀夫畝傍山東南橿原地者、蓋國之墺区乎。可治之”と記す。注目は「墺」、「(1) 山の麓に入り込んで住むのに適した所。(1) 入り江の奥にある岸」(漢字源)とある。イザナギは小戸の両口の潮が速く禊(みそ)げずに向(むこ)へ戻ったのだから、向の檍原=橿原は墺の地、つまり入江の奥にある岸辺の地でぴったり。「墺」が種本のままとすると、地形を正確に伝えている。そこは小戸沿岸でキツの二丘陵間の狭間(はざま)、海士郷町の十四番地あたり、とわが史観からは比定できる。
 ついでに、畝傍山はウムビの山へのあて字、神武記の吉野行に載る井氷鹿(いひか)や石押分(いのおしわけ)など “生尾うむび の人”の地、そこも「吉(きつ=国栖くず)野の」地域。小戸の橘(きつ)の檍原とは同域だ。
 面白いことにアワギは小戸沿岸族(国栖族)にとっては聖地だが、それに対抗する本村町の平地族にとっては蛮徒の地にすぎない。それが証に、アワギのボスとみる「麻剥 あさはぎ」という賊が景行紀に載る。帝の将を出迎えた神夏磯媛が賊だと訴える中の一人が“三曰麻剥。潜聚徒黨、居於高羽川上”なのだ。アサハギと訓ませるが、アハギへのあて字である。

七、檍は奥、そして瀛

 一方、アワギの檍を「オク」と呼び替えて、「奥おく」と置き換えた形跡がある。
 神武紀が橿原を墺区としたのも、同地が「オク」とも呼ばれていたからでは。古くは奥山津見の名にも見える。であれば、そこは大年神(おおとしかみ)と香用(かよ)比売との子・奥津(おくつ)日子神と奥津比売神、亦名大戸(おおと)比売で竈の神(かまどのかみ 記・大年神譜)の地である。母の香用比売の用は「モチ(いる)」へのあて字で「香の母遅もち」の姫だ。「カのシコネ」とは祖裔の関係がありそう。その子に擬す奥津日子達はその支配域にある。奥津は大戸に近い。であれば、竈(カマド)は「香の窓」であり、大山津見と野椎(のづち ヤのツチ)神が産む大戸惑子(おおとまどひこ)・大戸惑女神(記・神生み)の「オオトのマド」と同地か。
 ところが、紀に「奥津」はない。記は孝昭帝の后の余曾多本毘売(よそたほひめ)の兄を尾張連祖・奥津余曾(おくつよそ)と記すが、紀は瀛津世襲(おきつよそ)とあてる。前述したが「余曾よそ・世襲よそ」ともに“阿摩能與佐圖羅あまのよさつら、一云與曾豆羅よさつら”のヨソ、つまり吉(きつ)であり、葛族の意だから、奥津の国栖族のボスである。なお、多本(たほ)毘売は瀛津の姫だから、多木(たき)毘売の誤記だろう。
 ここでは奥津余曾=瀛津世襲、つまり奥はさらに瀛に置換されている。
 であれば、なぜ天武帝が「瀛真人おきのまひと」との称号を名乗ったのかがわかる。瀛は奥(おく)=檍(おく)であり、橿なのだ。そこが彼の出自地の祖神イザナギが王として独立を宣した聖地だったからであり、後には大域とアマ域を出自とする大海人(おおあまの)皇子こと天武帝の氏族の開祖で初代王の磐余彦いわれひこ](神武帝)もまた即位し都と宣した聖地でもあったからである。その地名を多種の用字で書き分けたのは、実際の出自地(片田舎すぎた小戸)や神武東遷の虚構を韜晦(とうかい)するためだ。
 「倭」を捨て新国号「日本」をつけた日本書紀は、天武帝の日嗣(ひつぎ)の正当化をより図るために、天武帝の出自地の系譜と伝承から造作された古事記をさらに発展させ、創られた史書である。天武紀の初頭にある“壯雄抜神武(壯雄、神武を抜く)”を説明するために、紀が書かれたと云っても過言ではない。その神武と天武をつなぐ一環が橿=檍=瀛なのだ。(終)

〔依拠資料、岩波文庫「古事記」「日本書紀」。注と補注も同資料のもの〕


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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