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九州王朝の史料批判 古田武彦(『なかった -- 真実の歴史学』 第6集)へ


特集1 究極の史料批判

金石文の九州王朝

歴史学の転換

古田武彦

     一

 到着は出発である。幸いにも昨年(二〇〇八)末、わたしは長年の日本古代史探究の結末を迎えた。一九七三年(昭和四八)以来、九州王朝説に基づき、論文をすすめてきた。『失われた九州王朝』(同年、朝日新聞社刊)の刊行以降だ。三十五年にわたる。その「確定」とも言いうる論証に今ようやく到達できたのだった。その史料は七世紀後半の銘文(金石文)である。
 さらにテーマは前進した。七世紀前半に唐朝の呈示した歴史書である隋書が、わが国の史書たる記紀(古事記・日本書紀)の記載様式を完壁に「予告」していたことが、改めて「発見」されたのである。「倭国」(帝紀)と「イ妥国」(東夷伝)との峻別表記だ。簡明に、これら三個のテーマについてのべてみたい。
 冬は過ぎようとしている。梅の時期が過ぎれば、必ず桜の開花の日を迎えるであろう。
     イ妥国のイ妥は、人編に妥。ユニコード番号4FCO

     二

 第一の基礎史料、それは「小野毛人墓誌」(崇道神社)の金銅銘版である。
 「(表)飛鳥浄御原宮治天下天皇 御朝任太政官刑部大卿位大錦上
  (裏)小野毛人朝臣之墓 營作歳次丁丑年上旬即葬」

 右に対する通例の訓(よ)みを記してみよう。
 「飛鳥の浄御原の宮に天の下を治らしし天皇、朝に御ぎょし、太政官、兼刑部大卿位、大錦上に任ぜらる。
 小野の毛人けひと朝臣之墓。營造、歳次丁丑年上旬、即そく葬る。」
 この金銅銘版は江戸時代、慶長十八年(一六一三)の十一月二十四日、山城国愛宕郡高野之里(現・京都市左京区高野)の天皇山から出土した。
 墓誌付属文書があり、宝永二年(一七〇五)に記せられている。
 「崇道天皇 西神主高林山城守政重
         高野村山城孫良古
           高林重右衛門(印)」
と末尾に記せられている。そこには系図も付けられていた。
 「小野氏系図 人王三十一代
 敏達天皇 春日皇子 妹子臣 毛人 毛野 岑守 篁 後生 良真(女子・女子)」
である。
 以上のように、出土に関する早期史料に関しても、比較的恵まれていたと言いうるであろう。

     二

 だが、出土以後、現在に至る研究史は意外にも「疑問」と「困惑」に満ちていた。そのため、出土当時から現在に至るまで、その銘版をめぐる議論が絶えなかったのである。
 すでに伊藤東涯(一六七〇〜一七三八、寛文一〇〜元文元)は「[車酋]軒小録」において次のように論じた。
 「此中疑べきこと二つあり。天武帝十三年に小野臣等五十三氏に姓を賜ひ朝臣と云。牌はい丁丑年に造時は、白鳳六年也。朝臣を賜より前八年也。然るに小野朝臣と書するは何ぞや。亦続日本紀に小錦中毛人と書く。然るに牌に大錦上と有り。此二ついぶかし。」(『日本随筆大成』第二期十二巻)
     [車酋]は、車編に酋。JIS第3水準ユニコード8F36

 右の論点は次のようだ。
 第一は、「飛鳥浄御原宮治天下天皇」とは、天武天皇である。
 第二は、日本書紀の天武紀では、その十三年(六八五)に小野氏等五十三氏に「朝臣」の称号が与えられている。しかるに、その銘文では、その八年前に没した小野真人が「朝臣」と称せられている。不審だ。
 第三は、続日本紀では小野真人は「小錦中毛人」と書かれている。ところが、この銘文では「大錦上」となっている。これも、不審である。
 以上の疑問は、その後の研究史上も、くりかえし問題とされてきた。
 大正六年四月五日発行の『考古学雑誌』第七巻第八号において、梅原末治は「小野毛人(エミシ)の墳墓と其の墓誌」という長文の報告書を発表している。その前半は、従来の研究史の紹介であり、後半は、現地の発掘調査報告である。
 まず、江戸時代以来の研究者、黒川道祐、伊藤東涯、狩谷掖齋、藤井貞幹、さらに明治以後の三宅米吉の名を挙げ、以下二十六項目にわたって各家の各論を紹介している。後半の梅原氏は、ひたすら考古学関係にその研究対象を集中されたこと、周知のごとくだが、ここでは文献関係にも広く研究対象を求めている。
 そして発掘報告では、従来の諸家の所述が必ずしも精密でなかった点を明らかにされた。その上、当墳墓が慶長十八年以後も、くりかえし「再発掘」された事実をも明らかにされた。大正五年、森鴎外が『大阪毎日新聞』に発表した『伊澤蘭軒』において此の小野毛人の墓の実情にふれていることにまで注意し、当墓がくりかえし「調査」されていたことに注意している。

     三

 敗戦後、昭和二十四年発刊の『日本上代金石叢考』(河原書店刊)において、当問題の“現在説”を「定置」されたのは、藪田嘉一郎氏であった。
 すでに戦前、昭和十八年九月号の『考古学雑誌』において「上代金石文雑考」(下)の中でのべたところを、ここで「再提唱」されたのである。すなわち「追弔説」である。
 「以上の考察によって、小野毛人の墓誌は、その子の毛野が毛人の墳墓を修造することがあって、その機會に製作し追弔したものであると考えることが、極めて妥當であろう。」(二一頁)
と。そして、
 「この時期は、持統天皇治世の初年より、毛野薨去の和銅七年までのうち、彼の経歴から考えて文武天皇の大寳二年、彼が参議に任ぜられた前後ではなかったかと想像せられる。」(同右)
とされたのである。


    四

 この藪田説を継承されたのが、東野治之氏である。
 「ただこの墓誌が丁丑年(六七七)に作られたかどうかについては、これを疑う説が有力である。即ち銘の文面には天武天皇をさすのに『飛鳥浄御原宮治天下天皇』という過去の天皇をさすような表現が用いられており、『大錦上』や『朝臣』の姓(かばね)も、『続日本紀』に『小錦中毛人』とあることや天武十三年(六八四)に小野氏の姓が臣から朝臣に改められていることを考えあわせると、贈位、改姓の結果に基くものとみられる。もしこの墓誌が葬送時のものとすれば、墓誌が土葬墓に伴なった確実な例となるが、上述の点から墓誌は少なくとも持統朝以降の追納とみるべきであろう。追納の時期は、毛人の子である毛野の時代とする説に従うべきであろう。」(『日本古代の墓誌』奈良国立文化財研究所、昭和五二年、七六〜七七頁)
 これは東野氏の早い時期の文面だが、後来の『日本古代金石文の研究』(岩波書店、二〇〇四年)においても、大局において全く変化は見られないのである。

     五

 しかしながら、わたしにはこの「定説」に対して「諾(イエス)」と言うことができない。ハッキリと「否(ノウ)」と言わざるをえないのである。その理由は、簡明率直だ。
 「もし、毛人の子、毛野が八世紀になって『追弔』するため、『追納』したとすれば、八世紀に成立する『日本書紀』や『続日本紀』の記載、その記事内容と“一致する”ように「直す」べきだ。“相反する”ように「直す」ことなどありえない。
 たとえ八世紀初頭の「追弔」であったとしても、「近畿天皇家の公的史書」に“矛盾”するような「直し」など、無意味である。」
 右の道理に立つ限り、従来の、いわゆる「定説」なるものに対して、わたしには全く“うなずく”ことが不可能なのである。

     六

 では、脱出路はいずこにあるか。これも回答は簡明だ。
 従来の通説では、日本書紀や続日本紀を“正”とし、これに反する金石文を疑った。正しい歴史学の方法は「逆」だ。
 「金石文を正とし、日本書紀と続日本紀の叙述を疑う。」
 これだ。同時代の金石文としての「銘文」こそ、本来の基軸なのである。
 この点、従来の歴史学は、近畿天皇家の「正史」たる、日本書紀や続日本紀への「信仰」を基本としてきた。日本書紀の場合も、さかのぼれば「諸論」あれ、少なくとも「天武紀(上・下)」や持統紀に関しては、これを“疑う”ことを厳に“禁じ”てきていた。これが原因だ。
 わたしはこれと異なる。すでに「新庄命題」によって、持統紀成立の「真相」を知ったのである。すでに『壬申大乱』に詳述したところであるけれど、今、その要点を摘記しよう。
 第一、持統天皇の「吉野紀行」は、三十一回に及んでいる。ところが、その「時期」が毎月二〜三回、春夏秋冬とも、ほぼ平均している。「桜のシーズン」の二〜三回(旧暦)がことに多いわけではない。真夏や真冬も、桜のシーズンと大差ないのである。考えがたい。
 また「干支」(丁亥)において、持統紀に存在しない干支が出現している。
 第二、これに反し、これを新庄智恵子さん(京都生れ)の提言に従って、場面を九州に移し、時期を「白村江以前」に移すと、情勢は一変した。
 (1).都(太宰府)から吉野ヶ里まで、数メートルの高さの「ハイ・ロード」(堤上塁跡)が築かれているが、その間の往還と見られる。(あるいは、久留米、小郡近辺より)
 (2).その目的は「桜見物」などではなく、「海上・陸上の軍の査閲」である。有明海が海上の軍の集結場所となっていたのだ。
 (3).先の干支問題も、ピタリと一致する。「白村江の会戦」の数カ月前までで、右の往還は終結しているのである。
 第三、以上によって、わたしの従来からの主張通り、日本書紀の「原書」は、九州王朝の史書であり、その記事を「換骨奪胎」して、日本書紀を「構成」していたのであった。
 しかも「九州王朝の史書の中の、中心的軍事行動(査閲)記事を以て、持統天皇の「桜の名所(同名の「吉野」)に転ずる、という野放図にして「大胆不敵」な“盗用”だったのである。以上だ。

     七

 この点、実は“意外”ではなかった。
 すでに坂本太郎・井上光貞氏等による「郡評論争」を経過したわたしたちにとって、「七〇一」の一線において、それ以前が「評」、その後が「郡」という、行政制度の一変の存在したこと、常識となっている。
 これに対して、井上光貞氏は、これらの「郡」(「七〇一」以前)を以て「評」として“読み変える”ことを提唱され、ほぼ学界全体の“従う”ところとなっている。
 けれども、改めて静思し、「再思」してみれば、これは「不可解」だ。なぜなら、
 「郡を評へと“書き変え”た日本書紀」
などは、一切存在しない。そのような「評の日本書紀」の古写本も、古版本も、皆無なのである。ただ、後代の一学者(井上光貞氏)によって「案出」された、いわば「新・写本」ないし「新・版本」にすぎない。
 実在する史書たる日本書紀、それも七世紀中葉(孝徳紀)から、七世紀末(持統紀)の間には、すべて、史実としては「虚偽の史実」が列記され、群記されている。そのように見なすことこそ、冷厳な視野に立つ、冷静な観察なのである。

     八

 さらに、重大な事実がある。それは、
 「廃評立郡の詔勅の欠如」
である。「七〇一」という一線を以て、「評から郡へ」と行政名称が一変する、この事実は、決して“偶然の所為”でもなく、“自然の成り行き”でもない。必ず、権力者の意志、いわゆる「鶴の一声」によって、一大転換が行われた。そう考える他、ありえないのだ。
 だが、その「声」、つまり詔勅がどこにも存在しない。日本書紀の持統紀にも、続日本紀の文武紀にも、全くその「姿を見せない」のだ。これは奇怪だ。不可思議の極みの一事なのである。
 けれども、従来の歴史家たちは、全くこの一点に対して追求の「目」を向けようとしていない。「不問」に付してきたのである。

     九

 率直に言おう。右の「欠如」は、何を意味するか、と。その答は、次のようだ。
 「評は、近畿天皇家の行政組織ではなかった。」
と。もし、「評」が現在の通説のように(鎌田元一氏等)、「孝徳天皇の創始」などであったとすれば、この一事を、この重大事を“削り取り”、「孝徳天皇による、廃評建郡の詔勅を消し去る」必要など、毛頭存在しない。否、あってはならない道理なのである。
 この点を静思すれば、ことの“すじ道”はおのずから明らかとなろう。それは次のようだ。
 (1)「評」の長官は「評督」であり、九州から関東へと分布する「評」と「評督」全体に対する監督官は「都督」である。
 (2)「都督」は、宋書の「倭の五王」の項にくりかえし出現している。その「都督」の存在する官庁は、「都督府」である。
 (3)日本列島に「都督府」の存在した痕跡は「筑紫都督府」のみである。文献(日本書紀、天智紀)にも、現地名(太宰府の「都府楼」は「都督府楼」の略)にも、ただ一つ、筑紫にしかない。「難波都督府」や「大和都督府」など、文献上も、現地名にも、一切存在しないのである。
 日本書紀が“隠して”いるのは、前王朝たる九州王朝の存在である。

      十
 以上の立場から、改めて「小野毛人の墓誌」の史料批判を、率直に行なってみよう。
(一)「朝臣」問題
 朝臣は九州王朝の制度、その官位名だ。それを日本書紀では、天武紀へと“挿入”し、時間帯も、「天武十三年」へと“転置”したのである。すなわち、金石文(銘文)の示すところが正しく、天武紀の記載は“転用”なのだ。
(二)「大錦上」問題
 この点も、金石文(銘文)が正しい。ことにその文末は「葬」の一語で結ばれている。「丁丑年(六七七)」の時点で葬られているのである。無上の「同時代史料」だ。
 もちろん、何回か「再発掘」や「再葬」があったとしても、それは何等「八世紀時点の“書き直し”」などを意味しはしない。
 続日本紀の「小錦中」問題も、奇異ではない。「丁丑年」と和銅年間(七〇八〜七一四)の間には、重大な画期線がある。「七〇一」だ。それ以前は、九州王朝、そのあとは近畿天皇家の時代だ。だから、各氏族について「官位の“見直し”」が行なわれた。それによる「七〇一以後の再評価」が、この「小錦中」なのである。
 一方では「真人」であった天武天皇が、新しい歴史(日本書紀、続日本紀)では、「最高位」におかれた。一大変動だ。「真人」に準ずる「毛人」に対し、「逆」の“見直し”があったとしても、不思議ではない。続日本紀の記載は、その“見直し”の「正直な記載」なのである。従来のように、この“見直し”を「原点」と見なし、無上の「同時代史料」である金石文(銘文)の“手直し”を図る。これは倒錯した手法と言わざるをえないのではあるまいか。

    十一

(三)「天皇」問題
 問題の核心に迫ろう。
 日本の歴史を探究するさい、不可欠の「キイ・テーマ」がある。「天皇」問題だ。
 「わが国には、近畿天皇家以外の天皇なし。」
 これがわが国の歴史学を貫く「根本信念」である。「信念」である以上、学問的仮説として、これを冷静に観察し、思惟する“余裕”を、日本の学者たちはかつて持たなかったのである。これを検してみよう。十二分の叙述は他の機会に待たねばならないけれど、今は本稿の論証に不可欠な限り、簡明に論述することとする。
(A)中国の中の「天皇」について
 すでに『失われた九州王朝』で詳述したように、中国の文献には、多種の「天皇」呼称の歴史がある。
 (1)古えに天皇有り。(史記、帝紀六)
 (2)天皇・地皇・人皇兄弟九人。(春秋保乾図)
 (3)夫れ越王勾践、東僻と雖も、亦、天皇の位に繋がるを得。(超絶書・越絶外伝記呉王占夢)
 (4)唐書高宗紀、上元三年八月壬辰、皇帝天皇と称し、皇后天后と称す。(称謂録、天子古称、天皇)
 唐帝から越王に至るまで、東アジアに「天皇」の称号は少なくなかったのである。
(B)東アジアの中の「天王」について
 (5)呂光、僭して天王と称し大涼と号す。使を遣して朝貢す。(皇始元年、三八六)
 (6)呂光、其の子紹を立て天王と為す。(天興二年、三九九)
 右は四世紀末の北涼(三九七〜四三九)における用法である。
(C)日本の中の「天皇」について
 (7)天皇、阿礼奴跪を遣はして、来りて女郎を索(こ)しはしむ。(百済新撰、雄略二年、四五八)
 (8)大倭に向(まう)でて、天王に侍らしむ。(百済新撰、雄略五年、四六1)
 (9)日本の天皇及び太子・皇子・倶に崩薨(かむさ)りましぬ。(百済本紀、継体二十五年、五三一)
 以上だ。

    十二

 右の問題につづく文献、それは隋書である。有名な「日出ずる処の天子」の出現する「倭国伝」中に出現する「天子」だ。詳しくは、後述するけれども、今は一点だけを指摘しよう。それは、「神籠石」山城の分布との関係である。
 わたしが『失われた九州王朝』でのべたように、「日出ずる処の天子」を以て太宰府の地「紫宸殿」という字地名の地に「定立」するとき、「神籠石」山城は、西のおつぼ山山城(佐賀県)から東の石城山山城(山口県)、そして南の女山(筑後山門、福岡県)と北の玄界灘、その「四方」によって見事に囲繞されているのである。
 四・五世紀から七世紀中葉(白村江の敗戦)に至る時期に、長大なる労働力を傾注して築造された、この巨大山城群に対して、古事記、日本書紀とも、一言もこれにふれることがない。これが近畿天皇家の「手」による築造物ではなかった、何よりも有力な、“証拠の石証”となっているのである。

    十三

 一転して、この問題を「下限」(七〇一)からふりかえってみよう。七世紀後半の「評の時代とその分布」だ。すでに述べたように、九州から関東まで分布する「評」、そしてその監督官の「評督」の上に立つ「都督」がいた、その官庁を「都督府」と呼んだ。筑紫都督府だ。
 一方、白村江の敗戦以降、「日出ずる処の天子」は敗れ、唐の占領軍は筑紫へと「進駐」してきた。占領軍である。天智紀、九年のうちに六回も「千名単位」の軍勢が来た。このような中で、七世紀前半以来の「天子」の名を“名乗る”ことができたはずがない。これは推定といっても、およそ「確実な推定」に属する。とすれば、それに代る“名称”は、何か。 ーー「天皇」だ。あるいは「大王」なのである。筑紫都督府にいたのは、筑紫の天皇であり、筑紫の大王だったのである。
 すなわち、七世紀後半の「白村江の敗戦」以降、九州から関東までの間の「木簡」や「伝承」等の分布の中に出現する「天皇」は、この「筑紫の天皇」だった可能性が高い。従来の学界の「通念」にとっては意想外であるけれど、論理の女神の指さす“目盛り”は、厳としてその方向を示していたのであった。

    十四

 近畿天皇家以外の「天皇」をしめす伝承は、日本列島中、決して少なくはない。
 たとえば、九州の久留米近くには、「安徳天皇に関する伝承」が残されている。この天皇は森の中の大樹の下で敵に囲まれ、弓矢によって「射たれ」て死んだ、というのである。
 明らかにこの天皇は、あの平家滅亡のときの壇ノ浦で海中に没したとされる幼帝とは同一人物ではない。九州の中の「王朝の最後」に当るような、そういう性格の「天皇」なのである。太宰府の西には今も、「安徳台」の地名がある。数メートルの高さの台地であり、かなり“広大”な、その地は、今は果樹園となっている。出土遺物も少なくないのである。
 けれども、これらの例が「口承」や「伝承」による限り、絶対年代が不明だ。
 これが基本的な「弱点」だ。
 この点、時期の明確な、文献による証拠がある。それは万葉集の柿本人麿の作歌である。すでに『壬申大乱』に述べたところ、今、簡約しよう。
 「天地の 初の時 ひさかたの 天の河原に 八百萬 千萬神の 神集ひ 集ひ座(いま)して 神分(はか)り 分りし時に 天照らす 日女(ひるめ)の尊 天をば 知らしめすと 葦原の 瑞穂の国を 天地の 寄り合ひの極(きわみ) 知らしめす 神の命と 天雲の 八重かき別けて 神下し (いま)せまつりし 高照らす 日の皇子(みこ)は 飛鳥の 浄の宮に 神ながら 太敷きまして 天皇(すめろぎ)の 敷きます国と 天の原 石門(いはと)を開き 神あがり あがり座(いま)しぬ (下略)」(一六七)
 この作歌の表題は「日並皇子尊の嬪(あらき)の宮の時」だとされている。天武天皇と持統天皇との間の皇子、草壁皇子の死に対して、人麿が作った歌だというのである。草壁皇子は持統三年(六八九)四月十三日没とされている。
 しかし、万葉集の歌、特に巻一〜三などの掲載歌は、「表題」と「歌の中味」とが矛盾し、“くいちがって”いるものが多い。したがって「表題」を“分離”し、歌の内容そのものを“純粋に”論ずる。これがわたしの万葉分析、その史料批判の方法だ。『古代史の十字路 ーー万葉批判』『壬申大乱』(いずれも東洋書林、二〇〇一年)はいずれも、この方法で一貫している。
 今、問題の、この「一六七」歌も、その典型なのである。その「原文」を見よう。
 「天地之 初時 久堅之 天河原爾 八百萬 千萬神之神集 集座而 神分 分之時爾 天照 日女之命 天乎婆 所知食登 葦原乃 瑞穂之國乎 天地之 依相之極 所知行 神之命等 天雲之 八重掻別而 神下座奉之 高照 日之皇子波 飛鳥之 浄之宮爾 神随 太布座而 天皇之 敷座國等 天原 石門乎開 神上 上座奴(下略)」
 右の詩句中に“散りばめ”られている「下座」と「上座」の句は、九州の筑前国に出現する地名だ。延喜式民部省の部である。
 この「下座郡(シモツクラ)」と「上座郡(カムツアサクラ)」が、大和(奈良県)などになき地名であること、自明だ。すなわち、この地にありとされている「天皇」が、「大和の天皇」ではなく、「筑紫の天皇」でなければならぬこと、人間に理性的判断のある限り、また自明と言わねばならない。

    十五

 ここに示された問題は、ただ「筑紫の天皇」の実在、というテーマだけではない。その天皇とは、
 「飛鳥之浄之宮」
にあり、とされているのだ。ここにわたしの永年呈示してきた「筑紫の飛鳥」(『壬申大乱』(第七章)問題が現れているのである。略記しよう。
 (一)明治前期の字地名表では三井郡(小郡市)の井上村の項に、
 「飛鳥(ヒチヤウ)」
の地名がある(全国村名小字調査書、第四巻、二八九頁下段、四行目、中項、ゆまに書房)。
 (二)この朝倉郡には麻氏良布(までらふ)神社がある(杷木町志波五四五七)。麻氏良布山の山頂である。
 『太宰管内志(上)』には、この神社の祭神として、
 「明日香皇子」
がある(神社志、六四六頁)(『壬申大乱』八四〜八五頁)。
 記紀にも万葉集にも「明日香皇女」はあるけれど、この皇子名はない(内田康夫の同名小説は、現代の創作である)。
 すなわち、右の小郡市の「飛鳥」が本来の地名としての「アスカ」であった事実を示している。
 (三)現在、この地は「飛島(トビシマ)」と呼ばれているが、これは明治以降、明治政権の唱導した「近畿天皇家の淵源」としての「大和の飛鳥(アスカ)」と同名であることを“はばかり”、「改名」したものと思われる。
 すでに江戸時代のはじめ、それまで「徳川」と呼ばれていた宝満川は、かつて「得川とくがわ」ないし「徳川」と書かれていたけれど、江戸時代に入り、徳川家に“はばかり”、その使用を止めたという(小郡市史編さん室、黒岩弘氏)。
 豊臣家攻撃の“口実”とされた「国」事件の記憶は失われていなかったようである。
 (四)キイポイントは次の一点だ。万葉集読解上の一難点、それは「飛鳥」を「アスカ」と読み、「飛ぶ鳥の」を「アスカ」の枕詞とする、この著名な事例の解説だった。諸万葉学者、こぞってその「解明」にとりくんできたけれど、「解決」はなかった。むしろ“こじつけ”めいた解説さえ、少なしとしなかったのである。
 しかし、ここ「筑紫のアスカ」ではちがった。「井上」からの水路が斜面を下降し、この「飛鳥」の地に至っている。さながらその水路は“飛ぶ鳥の”ごとき形状を示しているのである。したがってこの「筑紫の飛鳥」の場合、「大和の飛鳥」とは異なり、その「解説」は、きわめて平明、きわめて容易だ。自然地形にもとづいているからである。

    十六

 ようやく、本稿の本来のテーマに向うときが来た。京都の崇道神社出土の「小野毛人朝臣の墓誌」が筆頭にあげている、
 「飛鳥の浄御原の宮」
問題だ。この天皇が「九州王朝の天子」系列であるとすれば、ここの「飛鳥」もまた、「大和の飛鳥」ではなく、「筑紫の飛鳥」となろう。現・小郡市である。この問題に立ち入る前に、その「読み」について、若干の考察を試みておこう。
 (その一)「浄」は訓の“キヨ”ではなく、音の“ジョウ”である。この“ジョウ”は南九州を中心に、九州全体に分布している(関東にも)。都城(宮崎県)の他に、宮崎市内にも三個の「〜ジョウ」の字地名がある。奄美大島から鹿児島県にかけて、「ジョウ」姓が分布している。城島(福岡県)、城(久留米市)など、北部九州にも及ぶ。「柵のある集落」の意のようである。清流の流下する、この「飛鳥」の地にふさわしい。
 「アスカ」は、「ア」(接頭語。「我が」か)「ス」(鳥や人間の集落。鳥栖とす、須磨すまなど)「カ」(神聖な水。「かは」(川)の「カ」。「言素論」参照)。「安宿」というような「韓国語」系ではない。本来の日本語である。
 (その二)「御原」は“ミバル”。前原、平原等、北部九州を中心に「バル」は分布している。「集落」の意である。「御原(ミバル)」は“御所”に当る表記。
 (その三)右の「訓み」は次の点を示す。小郡の「飛鳥(アスカ)」に囲まれた、現・三井高校(旧・松崎城)の地が、これに当る。

    十七

 偶然は人間を運命の地へと導く。わたしは平成二十年十月二十五日、この三井高校の地から軽気球を挙げ、当地帯の形状を撮影した。「飛ぶ鳥の“アスカ”」の地理的位置を確認するためだった。わたしにとって畢生の研究実験は成功した。多くの方々のおかげである(「生涯最後の実験」『古田史学会報』No.88、「飛鳥研究実験」Tokyo古田会News,No.123,二〇〇八年十一月、「閑中月記」第五十六回、参照)。
 その第一の目的は、右のとおりだった。同時に、この時はすでに万葉集中の「飛鳥」探究のみではなく、日本書紀孝徳紀の、いわゆる「大化改新」問題との相関も、深く意識していたのだった(『なかった真実の歴史学」第五号、「大化改新批判」参照)。
 けれども今回、図らずも上城誠氏の御示唆を受け、問題の金石文(銘版)「小野毛人朝臣」冒頭の一句、
 「飛鳥浄御原の宮」
の地が、ここ三井高校の校域(旧・松崎城)そのものであったことを知るに至ったのである。その論証を述べよう。
 第二のポイントは「曲水の宴」の現場だ。この三井高校に隣する久留米市の久留米大学の正門前の領域から発見された。この宴は、本来は中国の庶民レベルの“遊び”であったであろうけれど、すでに高級文人ないし天子の宴遊の名となっていたこと、著名である。王義之の名筆で知られた「蘭亭記」はその遺作だ。これがわが国に“流入”され、各地にその“跡”を残している(太宰府、平安京、多賀城等)。
 筑紫の久留米市の場合、「国衙」跡とされているけれど、全国の各国衙とも、それぞれこのような「曲水の宴」の“跡”を残しているわけではない。全国でも、その「数」はきわめて“限られ”ているのである。
 久留米市の場合、時期を「八世紀から九世紀以降」へと擬せられてきたけれども、それはいわば“使用下限”であり、その「開始時期」はやはり「七世紀段階」、すなわち九州王朝」(七〇一以前)にさかのぼるのではあるまいか。
 第三のキイポイントは、「正倉院」の発掘である。その「存在」はすでに江戸時代の文書にも「予告」されていた。
  「生葉郡
   正倉院
    崇道天皇御倉一宇
    西二屋一宇 五間
      前帳云、無実者、今検
              同前」
(『久留米市史』第七巻、資料編、古代・中世、平成四年六月三〇日)
 右の文書の趣意は次のようだ。
 〈その一〉生葉郡に「正倉院」の地名が残されている。
 〈その二〉これに対してこの地に崇道天皇が居られ、そのために、この「正倉院」という名がその倉に名づけられた、という見解があった。
 〈その三〉しかし、「前帳(所写原本)では、「その事実(崇道天皇の駐留)を調べたけれど、その実はなかった」旨、書いている。
 〈その四〉今回、もう一回検してみたが、右と同じ結論(崇道天皇の駐留、無根)に達せざるをえなかった。
 以上は、わたしが「閑中月記第三回」の「『筑紫、正倉院』の発見」に記したところだった。しかし、その後、「その実」が発見された。右の所記の「正倉院」の遺構が正しく存在し、現実に出現したのであった。小郡市飛鳥(三井高校の校域周辺)から「車で五分」の地域、太刀洗町の中だったのである。
 それは大和(奈良県)の正倉院(奈良市)と「同規模、同配置」の遺構だったのだ。
 「では、どちらの正倉院が古いか。」
 この問いへの回答は容易だ。
 (α)筑紫の正倉院(古)
 (β)大和の正倉院(新)
である。なぜなら、先に(β)があったとしたら、その「同規格の模倣機構」を、一地方に造る、などということはありえない。考えられないのである(「正倉」は、各地にあり)。
 それゆえ、当然「成立の順序」は、右の「古」「新」となるほかない。
 ところが、当の「正倉院」(古)の存在が「真(リアル)」だった。ということは、その「創つくり手」とされている「崇道天皇」の存在もまた「真(リアル)」だった。そのように理解する以外の道はない。 ーー近傍の「飛鳥の浄の御原」(三井高校)が、その拠点だ。
 すなわち、「小野毛人朝臣」に対する任命者としての「飛鳥の浄の御原の宮」で天下を統治した天皇、崇道天皇の「核心」がはじめて明らかになったのである(一二〇年後の、早良親王の「追号」との同一名称問題については別稿(本号)に論ずる)。

    十八

 従来の近畿天皇家「帝室論」にとって、いわば“デッドロック”をなすところ、それが天武天皇の「飛鳥浄御原宮」問題だった。従来から、いわば「疑問」に満ちていたのである。略述しよう。
 第一、遺構の規模が小さく、“地方豪族の屋敷”のスケールに過ぎない。
 第二、「大極殿」に当る遺構がない(小字名エビノコ郭」、のち「飛鳥村、自転車置場」が当てられているが、位置が不適切)。
 第三、周辺に“豪族・官僚の屋敷”がない。
 第四、現地に「大極殿(跡)」の「地名伝承」もない(平城京〈奈良市〉や長岡京〈向日市〉には、いずれも「地名伝承」があった。
 第五、九州の太宰府には「紫辰殿」「大裏だいり」「朱雀門」等の「地名伝承」がある(博多湾岸から筑後川流域に及ぶ都城域の中に小郡市・朝倉郡太刀洗町等がある)。
 第六、筑紫の「カムツアサクラ(上座)」「シモツクラ(下座)」の「座」は、結伽扶座の「座」である。隋書の「イ妥国伝」において「日出ずる処の天子」を称した多利思北孤について、
 「天未だ明けざる時、出でて政を聴き趺跏して坐し、」
と記せられているのである。
 その「上座」の一端に「飛鳥浄御原宮」は存在した。「筑紫の天子」が白村江の敗戦以降、「筑紫の天皇」となったのである。それが「小野毛人朝臣」の金石文(銘文)冒頭の王者の名であった。
 従来「自明」と見られてきた「天武天皇」説には、重大な「?」が投ぜられた。むしろ「否(ノウ)」の帰結へと至らざるをえなくなったのである。

     十九
 第二の基礎資料、それは「船王後墓誌」の金石文(銘版)である(大阪、松岳山出土、三井高遂氏蔵)。
(表)
「惟舩氏故 王後首者是舩氏中祖 王智仁首児 那沛故首之子也生於乎娑陀宮治天下 天皇之世奉仕於等由羅宮 治天下 天皇之朝至於阿須迦宮治天下 天皇之朝 天皇照見知其才異仕有功勲  勅賜官位大仁品為第
(裏)
三殯亡於阿須迦 天皇之末歳次辛丑十二月三日庚寅故戊辰年十二月殯葬於松岳山上共婦 安理故能刀自同墓其大兄刀羅古首之墓並作墓也即為安保万代之霊基牢固永劫之寶地也」
 右に対し、わたしの「訓みくだし」を記してみよう。
 「惟(おも)ふに舩氏、故王後首(おびと)は是れ舩氏中祖 王智仁首の児那沛故首の子なり。乎娑陀(おさだ)の宮に天の下を治(し)らし天皇の世に生れ、等由羅(とゆら)の宮に天の下を治らしし天皇の朝に奉仕し、阿須迦(あすか)の宮に天の下を治らしし天皇の朝に至る。天皇、照見して其の才異にして仕へて功勲有りしを知り、勅して官位、大仁、品第三を賜ふ。阿須迦(あすか)天皇の末、歳次辛丑十二月三日庚寅に殯亡しき。故戊辰年十二月に松岳山上に殯葬し、婦の安理故(ありこ)の刀自(とじ)と共に墓を同じうす。其の大兄、刀羅古(とらこ)の首(おびと)の墓、並びに作墓するなり。即ち万代の霊基を安保し、永劫の寶地を牢固(ろうこ)せんがためなり。」
 右の趣意は次のようだ。
 第一、舩氏の(故)王後の首(おびと)は、舩氏の中祖に当る王智仁の首の子、那沛の(故)首の子である。
 第二、彼(舩王後)は三代の天皇の治下にあった。まず、「オサダの宮の天皇」の治世に生れ、次いで「トユラの宮の天皇」の治世に奉仕し、さらに「アスカの宮の天皇」の治世に至り、その「アスカ天皇」の末、辛丑年(六四一)の十二月三日(庚寅)に没した。
 第三、(アスカ)天皇は彼の才能がすぐれ、功勲のあったために、「大仁」と「第三品」の官位を賜わったのである。
 第四、その後(二十七年経って)妻の安理あり、(故)刀自(とじ)の死と共に、その大兄、刀羅古(とらこ)の首(おびと)の墓と一緒に、三人の墓を作った。彼らの霊を万代に弔い、この宝地を固くするためである。
以上の各天皇の宮に対する「比定」は次のようであった。
 (1)乎娑陀宮 ーー 敏達天皇(五七二〜五八五)
 (2)等由羅宮 ーー 推古天皇(五九二〜六二八)
 (1)阿須迦宮 ーー 舒明天皇(六二九〜六四一)
 けれども、この「比定」に関しては幾多の「?」がある。
 (その一)敏達天皇は、日本書紀によれば、「百済大井宮」にあった。のち(四年)幸玉宮に遷った。それが譯語田(おさだ)の地とされる(古事記では「他田宮」)。
 (その二)推古天皇は「豊浦宮」(奈良県高市郡明日香村豊浦)にあり、のち「小墾田おはりだ宮」(飛鳥の地か。詳しくは不明)に遷った。
 (その三)欽明天皇は「岡本宮」(飛鳥岡の傍)が火災に遭い、田中宮(橿原市田中町)へ移り、のちに(十二年)「厩坂うまやさか宮」(橿原市大棘町の地域か)、さらに「百済宮」に徒(うつ)った、とされる。
 (その四)したがって推古天皇を“さしおいて”次の欽明天皇を「アスカ天皇」と呼ぶのは、「?」である。
 (その五)しかも、当、船王後が「六四一」の十二月三日没なのに、欽明天皇は「同年十月九日の崩」であるから、当銘文の表記、
 「阿須迦天皇の末、歳次辛丑十二月三日庚寅に殯亡しき。」と“合致”しない(この点、西村秀己氏の指摘)。
 (その六)その上、右の「時期」の中には、多くの「天皇名」が欠落している。
 (1)用明天皇(五八五〜五八七)
 (2)崇峻天皇(五八七〜五九二)
 ーー以上、「六四一」以前
 (3)皇極天皇(六四二〜六四五)
 (4)孝徳天皇(六四五〜六五四)
 (5)孝徳天皇(六四五〜六五四)
 (6)斉明天皇(六五五〜六六一)
 (7)天智天皇(六六一〜六七一)
 (8)弘文天皇(六七一〜六七二)
 (9)天武天皇(六七三〜六八六)
 ーー 当銘文成立(六六八頃)以前ーー
 もちろん、これらの「天皇名の欠落」に対して、種々の「弁明」はなされうるであろうけれど、この文面全体のキイポイントが、「各天皇代とのかかわり」を主眼としている点から見れば、やはり「不自然の欠落」と言う他はない。
 (その七)「阿須迦天皇の」という表記から見ると、当天皇の「治世年代」は“永かった”と見られるが、欽明天皇の「治世」は十二年間である。
 (その八)当人(舩王後)は、「大仁」であり、「第三品」であるから、きわめて高位の著名人であるが、日本書紀には、敏達紀、推古紀、欽明紀とも、一切出現しない。最大の「?」である。

    二十

 率直に、わたしの理解を述べよう。
 第一、三つの「天皇の宮室」の名は、いずれも九州王朝の「天皇(旧、天子)の宮室」名である。もし「近畿天皇家の宮室」だったならば、右のように諸矛盾“錯綜”するはずはない。その上、何よりも「七世紀中葉から末(七〇一)」までは「評の時代」であり、「評督の総監督官」は「筑紫都督府」であること、前述のようだからである。
 「乎娑陀(オサダ)宮」 ーー 曰佐(乎左)(福岡県那珂郡。和名類聚抄。高山寺本)
 博多の那珂川流域の地名である。
 「等由羅(トユラ)宮」 ーー 豊浦宮(山口県下関市豊浦村)
 日本書紀の仲哀紀に「穴門豊浦宮」(長門、豊浦郡)(二年九月)とあることは著名である。この「豊浦宮」だ。
 「阿須迦(アスカ)宮」 ーー 飛鳥(アスカ)。福岡県小郡市である。「飛鳥の浄御原の宮」だ。「阿須迦天皇」は、前述の「明日香皇子」か、その先であろう。

   二十一

 わたしの判断を“裏付ける”のは、神籠石山城の分布図だ。右の三宮とも、右の分布図の内部に「位置」していたのである。
 福岡市や小郡市がその中心部に存在すること、当然だ。だが、注目すべきは豊浦宮である。この神籠石山城の東端に石城山(山口県)のあることは、よく知られていた。福岡県や佐賀県の神籠石山城と全く同一の性格と構造をもっている。しかし、なぜ「ここに?」という“問い”への回答がなかった。
 それが今回、判明した。石城山の下、瀬戸内海に臨むところに「上関(カミノセキ)」がある。下関(市)と“相対応する”位置だ。その中核に豊浦宮(下関市、東寄り)があるのである。
 太宰府や筑後川流域を中心に、その西におつぼ山(佐賀県)、その東に御所ヶ谷・唐原(福岡県)があるように、この「豊浦宮」を中心にして、東にこの石城山(山口県)が存在したのである。
 四〜五世紀から七世紀末に至る、これら神籠石山城群に“囲まれ”ている。この考古学的分布図との「対応」ほど、わたしの史料批判を“裏付ける”ものはない。

   二十二

 さらに「発見」があった。日本書紀の孝徳紀、白雑元年(六五〇)二月の項である。
 「詔して曰はく、『四方の諸(もろもろ)の国郡等、天の委(ゆだ)ね付(さづ)くるに由りての故に、朕総(ふさ)ね臨みて御寓(あめのしたしら)す。今我が親神祖(むつかむろき)の知らす。穴戸国の中に、此の嘉瑞有り。所以(このゆゑ)に、天下は大赦す。元を白雉と改む」とのたまふ。」
 右のあとも「穴戸堺」「穴戸の三年の課役」
 といった句がつづき、この「白雉、改元」がこの国の中の嘉瑞によったことが述べられている。それだけではない。この穴戸国は、
「今我が親神祖の知らす、穴戸国」
 だと述べられている。なぜか。先述の仲哀天皇や神功皇后の場合、
 「(仲哀二年)九月に、宮室を穴門に興(た)てて居(ま)します。是を穴門豊浦宮と謂(まう)す。」
とあるけれど、直後(八年正月)は筑紫に向っている。すなわち、ここ豊浦宮はいわば“筑紫行の途中逗留地”の形であり、この地を中心に天下を統治していた、という形ではない。したがって、白雉元年項の、
 「今我が親神祖の知らす、穴戸国」
という表現とは、何か「違和感」があった。
 ところが、今回はちがった。「大仁」であり、「第三品」に任ぜられた、という船王後の首(おびと)が、
 「等由羅(トユラ)宮に天下を治(し)らしし天皇の朝に奉仕した」
というのであるから、
 「我が親しき神祖
と呼んでいるのも、きわめて「自然ナチュラル」なのである。違和感がない。
 「白雉(六五二〜六六〇)」(二中暦)
という「九州年号」の“一誕生譚”としてきわめて“ふさわしい”。適切なのである(日本書紀の白雉と「二年のずれ」がある)。
 やはり、日本書紀は「九州王朝の史書」からの「転用」によって構成されていたのである。それを「証言」したもの、それがこの「船王後墓誌」という、七世紀後半に成立した金石文(銘文)だった。ーー以上だ。

   二十三

 第三の基礎資料、それは「那須直韋提碑」の金石文(碑文)である。栃木県の著名な石碑だ。
「永昌元年己丑四月飛鳥浄御原大宮那須国造追大壹那須直韋提評督被賜歳次庚子年正月二壬子日辰節殄故意斯麻呂等立碑銘偲云(下略)」
 わたしの解読は次のようだ。
「永昌元年(六八九)己丑四月、飛鳥浄御原大宮、那須国造・追大壹を那須直韋提評督に賜わる。歳次は庚子年(七〇〇)正月二壬子の日、辰節殄(みまか)る。故に意斯麻呂等碑銘を立て偲びて云う。(下略)」
 従来説では、これに対し、「飛鳥浄御原大宮(天武天皇)、那須国造・追大壹・那須直韋提に評督を賜わる。」
と解してきた。
 わたしの理解では、「評制」はすでに七世紀中葉から存在していたのであるから、この時点で新たに授与された「官位」は、「那須国造」と「追大壹」であると考えたのである〈詳しくは、『古代は輝いていたIII』朝日新聞社、一九八五年、第六部第一章参照〉。

   二十四

 けれども、今回の「新しいテーマ」は当然、次の一点だ。
 冒頭の「飛鳥浄御原大宮」は決して天武天皇ではない。九州の小郡市の「飛ぶ鳥の“アスカ”」の地の大宮、すなわち三井高校の地であり、その人は崇道天皇だ。それ以外にありえないのである。「評制」の原点が筑紫の都督府である点からも、この一点は疑いえない。
 この天皇、「白村江の敗戦」以降の九州王朝の王者(天皇、もしくは大王)の背景、真の一大権力者が誰か。この金石文はリアルに明示する。ーー則天武后なのである。
 わたしたちは、これら三個の金石文によって当代(七世紀後半)の歴史の真実に対面したのではあるまいか。歴史は古びた「虚像」の衣(ころも)を脱ぎ捨てて、真実の女神の微笑をもらしはじめたのである。

   二十五

 最後の論証がある。唐朝が成立の直後、いち早く公刊した隋書と古事記・日本書紀との相関関係である。従来の論者はこの喫緊のテーマに対して、いつも“目をそむけ”つづけて今日に至っていたのである。
 根本のテーマは次の一点だ。
 「隋書の帝紀の大業六年(六一〇)に「倭国の貢献」が明記されているのに対して、東夷伝たる流求国伝(一回)やイ妥国伝では、九回にわたって絶えずイ妥国と表記され、大業四年(六〇八)の交流のあと、『此後遂絶』と結ばれている。この両記載のもつ、歴史的意義の確定が不可欠である。」
 しかし、従来の論者(たとえば、岩波文庫本を代表とする)は、右の十個の「イ妥国」と「倭国」記載を「不問」に付し通して今日に至っているのではあるまいか。
     イ妥国のイ妥は、人編に妥。ユニコード番号4FCO

   二十六

 わたしはすでにこの問題を論じた。『失われた九州王朝』(朝日新聞社、一九七三年)および『古代は沈黙せず』第五篇(駿々堂出版、一九八八年)である。
 その要点は左のようだ。
 隋書には、帝紀に二箇所「倭」の表記が出現している。
 (1)(大業四年)(二月)壬戌、百済・・赤土・迦羅舎国並遣使貢方物。〈隋書帝紀三、場帝上〉
 (2)(大業六年)(春正月)己丑、倭国遣使貢方物。
 これをイ妥国伝において大業三年(六〇七)と明年(六〇八)の交流のあと、
 「此後遂絶」
で結ばれているのであるから、右の「倭国」と同一国であるはずはないのである(詳細は右の第五篇所載論文、参照)。

   二十七

 以上は、わたしにとってはすでに「到達ずみ」のところ、既知の事実なのである。けれども、従来のわたしにはいまだ「未達の認識」があった。それはこの問題こそ、わが国の代表的史書とされる記紀(古事記・日本書紀)の基本構造、その全体像を「解明クリアー」にすべき、肝心要のテーマだったのである。この点を指摘しよう。
 隋書は唐朝「公定」の史書である。唐朝は北朝系の国家であり、その創始は北魏(三八六〜五三四)にはじまる。従来の周からの秦・漢・魏・西晋と連続してきた王朝は、鮮卑の南侵によって亡び、西安(前漢)・洛陽(後漢・魏・西晋)の地を失った。北朝の成立である。西晋の一部は揚子江の建康(南京)に拠り、東晋を開いた。南北朝の開始である。
 周知の歴史の大観を述べたのは、他ではない。その北魏において、“公表”された史書、それが「魏書」だった。その魏書には「倭国伝」も「倭国」も存在しない。高句麗伝・百済伝は存在する。高句麗の好太王については詳述せられているけれども、その好敵手だった「倭国」や「倭王」や「倭軍」に関する叙述は皆無なのである。なぜか。
 「倭国は北魏に朝貢しなかった」
からだ。それ以外にない。
 「朝貢しなかった国は、存在しなかったものと見なす。」
 この「大義名分の道理」が貫かれていたのである。
 この「北朝の大義名分論」を継承したのが、今問題の隋書だ。大業六年、はじめて北朝系統の隋に朝貢してきた倭国、それが「史上最初の存在」として、その国家名がここに記せられたのである。おそらく近畿天皇家であろう。もちろん、吉備(岡山県)その他の国々が、これと“同調”している可能性はあるけれど、その「中心」はやはり近畿天皇家(九州王朝の分流、地方豪族)であろう『失われた九州王朝』において、
 「ここにも、『イ妥国』と天皇家の国のちがいは明瞭だ。隋は東方からはじめて姿を現わした国”として、天皇家の国を見ているのである。」(第三章四)
と述べた。
 すなわち、北朝系の唐朝におって、大業六年以前には、歴史上、「倭国は存在していなかった」
のである。
 これが「北朝の論理」だったのである。

   二十八

 これに反し、「客観的な歴史」の実在において中国側(漢・魏・西晋・南朝側)と「国交」を結んできた「倭国」の存在してきたこと、当然だ。漢書・後漢書・三国志・宋書・梁書の明記するところ。そして南朝の陳の滅亡以後、みずから「天子」を称するに至った。すなわち「日出ずる処の天子」の自称である。
 これは唐朝の拠って立つ「大義名分論」に反していた、ために、「倭」と似て非なる文字「イ妥」をもって、これに“当て用いた”のであった(この「倭」と「イ妥」の両字の“使い分け”については、史記(魯周公世家)に先例がある。右の第五篇、参照)。
 すなわち、有名な「日出ずる処の天子」云々の「言辞」は、近畿天皇家とは無関係だった。 ーーこの一事が重要である。
     イ妥(タイ)国のイ妥は、人編に妥。ユニコード番号4FCO

   二十九

 記紀の編集者はこの一事を知っていた。なぜなら、当時(八世紀前半)のアジア最大の実力者、権威と権力をもつ存在、それが唐朝だったからである。その唐朝「公定」の史書たる隋書に無関心だった、などということは万に一つもありえない。
 それはたとえば、今回の敗戦後の公式文書、憲法などの日本側関係者が、アメリカの占領軍の存在を知らなかった。そんなことがありえないことと同様だ。これら“最高の「権力の意向」抜き”で、公式文書が成立することなど、ありえないのである。
 (一)記紀には「志賀島の金印」の記事がない。なぜか。これは「イ妥国伝」に属するところ、すなわち「南朝系の史料」系列に属していたからである。
 (二)記紀には「俾弥呼」の記事(本文)がない。日本書紀の神功紀も、「注記」の形で、実名(俾弥呼・壱与)抜きの形にすぎない。なぜか。これも「南朝系の史料」に属していたのである。
 (三)もっとも“目立つ”ところ。それは「日出ずる処の天子」の記事がない。なぜか。これこそ「南朝系列の後継者」だからである。

 古事記序文では、天武天皇の詔として「削偽定実」の一句が強調せられている。この「偽」は「南朝系の史実」、「実」とは「北朝系の史実」すなわち「魏書から隋書に至る」歴史像だった。これを“微細なる、系譜上の異同”と見なし、「重大なる」天武天皇の「発言」を以て、単なる「系譜上の校正係」レベルの言辞と見なしてきたこと、根本的な(本居宣長以来の)一大誤読だったのではあるまいか。

    三十

 津田左右吉は「記紀造作説」をもって“学名”を称された。だが、その「造作」の真相は、近畿天皇家一元史観をスッキリと「確定」することにあったのである。
 井上光貞の古代史「確立」上の功績は抜群だ。今は周知のところである。倭の五王を「応神・仁徳から雄略へ」と当て“定め”てきた。しかしこの「方法」は前述のように、一個の「壮大な錯覚」だったのではないか。すぐれた先達の研究者たちに対して失礼ながら、この真実を避けることは、ついにできないのである。
 最後に願う。一つの国家には、その国の歴史がある。その歴史が学校という組織を通じて若い国民に伝えられる。その歴史とは、学界内部の自由な討議と自在の論争に委ねられていなければならない。これを「回避」するとき、その国家は「偽装された歴史」にささえられた存在となろう。すなわち「偽装国家」だ。
 そのような“疑惑”を回避するためには、「フェアな論議」以外の道はありえないのではあるまいか。 ーー未来の若い国民のために。
 真の「変化」が必要なのは、わが国である。
 二〇〇九年一月二十一日記了


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