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2012年3月刊行 古代史コレクション10

第六章 『東日流外三郡誌』を問う

ミネルヴァ書房

古田武彦

 真贋を問う

 すでに『東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)』のもつ秘奥の一端に、わたしはふれたようである。だが、ここで筆を止めることはできぬ。秋田孝季(たかすえ)の学問のもつ、未曾有の世界、それが眼前にあるのだ。
 しかも、本章の二つのテーマこそ、世の人々に「『東日流外三郡誌』は、後世の贋作ではないか」という、赤裸々な疑い、つまり「偽書説」をひきおこしたもの。その重要なテーマなのである。本書の偽書説は、果して成り立つのであろうか。
 冷静にして客観的な目で、これを観察してみよう。

 ダーウィンをめぐる疑惑にこたえる

和田家文書 東日流六郡誌絵巻 人類の誕生と進化 真実の東北王朝 古田武彦

 彼は、西欧伝来の学として、「進化論」を紹介した。『太古代絵巻』の中である。
  「生命の起れるは、日輪の陽光、地水源質物に化をなし、永きに渡りて、種の類を万物に異らしめ、海中生により陸にぞ寄りたるは、藻より草木となれる万物なり。次に魚よりなれる獣物、海虫よりなれる万物を総じて、一には菌、二には苔藻、三には草木、四に魚貝、五に鳥虫、六に獣物なり。われら人間の初めなる始祖ぞ、ネズミなりといふ。これを進化といふべく、世襲耐生にて、常に生々万物ぞ、生地にぞ適生に変化すともいふなり。
     紅毛人ダウイン説とて、和蘭陀人ボナパルドの講義
  寛政戊午(十)年一月七日  秋田孝季
                和田長三郎吉次」
 ところが、右に対して鋭い疑惑が出された。寛政十年は一七九八年だ。ところが、ダーウィン(チャールズ・ダーウィン)は「一八〇九〜八二」の人である。この一七九八年には、まだ生まれていない。だから、この時点で「ダウイン説」などあるはずもない、というのだ。一見、文句のない反証のように見える。
 しかし、わたしがこの問題を吟味してみると、意外な局面が現われた。
 「ダウイン」は「名」でなく、「姓」だ。ダーウィン家を意味する。その中に、エラスムス・ダーウィン( Erasmus Darwin 一七三一〜一八〇二)がいた。有名なダーウィン(Charles Robert Darwin)の祖父だ。イギリスの医師で詩人。『植物の園』(一七八九、九一)、『自然の殿堂』一八〇三)で「進化思想」を説いた、という。

 「フィラメント状の生命がかつて一度だけ海に生じて、漸次、種々の生物に発達したとし、G・L・de・ビュフォンの影響がうかがえる」(平凡社『大百科辞典』)。
 事実、右の講義中の「紅毛人ダウイン説」にも、同趣意が現われている。
  「地界ぞ炎球にて誕生せし後、冷却なし、地表の修理固成なるや、水湧きて海ぞ成り、水中に成れる菌なる如きものより生長せしは、生々万物の始祖にして、この生命の起るは、三十億年歳前といふなり」
 寛政十年は、エラスムス・ダーウィンは、六十七歳。『植物の園』が出て九年目、そのとき、すでに東洋の一角、長崎の地で、秋田孝季と和田長三郎吉次は、「進化論」の講義を受け、それを記録し、かつそれを“描いて”いるのだ。
 考えてみれば、最初の引用文の中に、
  「われら人間の初めなる始祖ぞ、ネズミなりといふ」
とあった。孝季側の絵にも、妙な「ネズミ人間」が描かれ、「祖猿獣」と名づけられている(本書一八二ぺージ、参照)。こんな“楽しい”説は、わたしたちの知る「進化論」、つまり孫のチャールズ・ダーウィンにはない。祖父の「家学」がずっと洗練されているのだ。
 わたしはさらに、エラスムス・ダーウィンの著作を求めた。そして東京大学に蔵されている、あのモース(エドワード・S・モース、一八三八〜一九二五)の蔵書を集めたモース文庫の中に、
 “Zoonomia or The laws of Organic life”
を見出した。日本の考古学の祖となったモースも、エラスムス・ダーウィンの読者だったのである。
 この本の中にも、“evolution”(進化)についてふれられている。
 孝季は、モースに先立つ、エラスムス・ダーウィンの学の紹介者、「口述による講義」の受容者だった。
 

 「ビッグ・バン」について

和田家文書 東日流六郡誌絵巻 ビッグバン 真実の東北王朝 古田武彦

 さらに驚くべきテーマに、孝季はふれた。「ビッグ・バン(宇宙原素大爆烈)」の思想だ。

「宇宙とは、その創誕の前たるや、ただ暗に在りて、固成なる日月星とてあらず、無明のなかに、雲霞の如き塵の漂ふ無辺界の中に、わづかに固まれる塵魂ママ成りて、初めなる宇宙界となりけるより、無尽の塵をその一星に引き寄せ、大ならしめたる動き起れるや、光熱起り、光明無辺の暗を照せり。これぞ、荒覇叶魂ママとて号(なず)く。
 この如き一魂ママより、大爆烈起り、無辺に散りし百千万億兆の分烈魂ママぞ、宇宙なる星座にして、日月地界とて、これより誕生せし一粒の星なると覚るこそ実相なり。・・・宇宙の成れるは、およそ一兆億年、星座大分烈を二百億年前といふ(「魂」は「塊」か。古田)。
 以上の説ぞ、紅毛大史学者和蘭陀人にしてレオポルド=ボナパルドの講義なり。
                  長崎ウイリアム邸にて
  寛政丁巳(九)年八月二日
              受講者 秋田孝季
                  和田長三郎
                  菅江真澄
                  由利頼母
                  小野寺早苗
                  秋田乙之助」

 「これこそ偽作の証拠」論者は、そのように論ずるであろう。確かに、この「ビッグ・バン」の説は
 一九四〇(昭和十五年)ビッグ・バン理論、提起される。
 一九六四(昭和三十九年)宇宙創成時の光、発見される。マイクロ波背景、発見される。
 一九七〇(昭和四十五年)クォーク、クェーサー、ビッグバン、ブラック・ホール・受けいれとれる。
 (リチャード・モリス著、はやしはじめ訳『光の博物誌』白楊社刊)

 というような順序で、科学史に登場した。最新の説だ。
 右の本の訳者、はやしはじめさんに直接おたずねすると、次のようだった。
「日本の理論物理学者が、この『ビッグ・バン』の説に関心をもち出したのは、昭和二十年以後、つまり戦後でしょう。それも、ごくわずかの人々でしょうね。
 昭和四十年代になると、理論物理学者なら、もう誰でも知っています。だけど、一般の人となるとどうでしょうね。やはり、昭和五十年代になってからではないでしょうか。多くの人々に、この説が『常識化』というか、広く知れわたったのは」と。
 となると、この説をすでに「記して」いる『太古代絵巻』(『東日流外三郡誌大要』巻の一加附。津軽書房刊『東日流六郡誌絵巻 全』所取)は、まさに「偽作」。それも、昭和五十年代。早くても、昭和四十年代に書かれたもの。そのように「断定」しうることとなろう。
 しかし、はやしはじめさんの意見は、ちがっていた。
 「わたしたちの知っている科学史は、いってみれば、その『精華』の部分です。ですが、それを生み出した背景、つまり、ヨーロッパやアメリカなどの、広い教養世界の歴史が必ずあるはずです。それを、わたしたちは知りません。
 だから、そこに『宇宙大爆発』という、“ビッグ・バン”的な説が書かれていたとしても、とてもわたしには、それを『にせもの』だ、と言う気にはなれませんね」と。
 真に、科学者による、科学者らしい見解だった。氏は、わたしと同じ学校(昭和薬科大学)の同僚(理論物理学)である。
 わたしも、全く同感だった。ローマは一日にして成らず、のたとえ通り、“同類の説”はくりかえし現われ、その洗練度を増してゆくのだ。先の、チャールズ・ダーウィンの進化論に先だつ、エラスムス・ダーウィンの進化論など、その好例ではないか。
 ともあれ、わたしたちは、今後、日本の科学史をのべる場合、この秋出孝季・和田長三郎吉次等の名前を「除外」することはできないのではなかろうか。「すべては明治からはじまった」 ーーこれは、一個の迷妄(めいもう)に非ずんば、明治政府が“信じさせたがっていた”イメージにすぎなかったようである。わたしたちはすでに、真相を知ったのである。

 「キュリーの反証」

 面白い反証が見つかった。『太古代絵巻』偽作説に対する反証だ。
 ここには「放射能」の記事がない、挿図がないのである。「何を」と思われるであろうけれど、次第は、次のようだ。
 周知のように、キュリー夫人は夫のピエールとの共同研究の中で、ウランの原鉱石ピッチブレンドの中から新元素を発見した。いわゆるラジウムである。これは、一八九八(明治三十一年)の事件だ。
 確かに「事件」である。
 なぜなら、この年以来、
 「現代は、はじまった」
 わたしは、そう言っていい、と思っている。なぜか。わたしたちの住む世界は、「核の下の世界」だ。戦争も、平和も、恐怖も、希望も、その下に展開されている。これは疑えない現実だ。そのような「現代」は、夫妻の、この発見の「時点」から出発したのである。それが、人類永遠の歴史にとって、吉だったか凶だったか、判定は後世にゆだねるとしても、この事実は疑えない。
 そのような重大な事件、その歴史的意義は別として、一個の自然科学上の事実としても、実に“面白い”事件であること、疑いえない。
 ところが、和田長三郎末吉は、(時問上の問題としては)この「事件」を知りうる立場にあった。彼は、大正二年三月二十八日に没している。すなわち、もし関心があれば、右のキュリー大人の“興味深き意見”を、十分に知りうる時間帯に生きていた。夫人の発見は、一九〇三年(明治三十六年)、ノーベル物理学賞を受け、世界に喧伝された。ベクレルや夫のピエールと一緒の受賞だった。
 ところが、和田長三郎末吉の、「再写」による、この『太古代絵巻』には、全くこの「放射能」の話がない。絵もない。 ーーなぜか。
 答えは、簡単だ。寛政年間、孝季や長三郎古次の時代には、まだ、この「発見」はなされていなかったからだ。それ以外にない。すなわち、この『太古代絵巻』は、文字通り、末吉の「再写」であって、末吉の「創作」ではないからである。もし、彼の「創作」であれば、宇宙創成の秘密と深くかかわり合う、この「放射能」の話、ベクレルの発見した放射性原石の「挿図」など、欠かせないところだ。だが、それはない。
 若く、好奇心に燃える魂である孝季等に講義した、レオポルド・ボナパルド先生は、まだ「放射能の知識」をもっていなかったのである。
 以上を、「キュリーの反証」と呼ぶ。もって「『東日流外三郡誌』や『太古代絵巻』等の、孝季文書をもって『偽書』のごとく疑う」人士の前に、つつしんで、この反証を呈したい。

 

 「神は人の上に人を造らず・・・」

 最後のテーマに入ろう。
 秋田孝季は、次のようにのべている。
  「神は人の上に人を造らず、亦、人の下に人を造り給ふなし」
    (「荒覇吐神之事」寛政二年〈一七九〇〉七月。北方新社刊『東日流外三郡誌』補巻、五二〜五三ページ)。
 これを見て、驚倒する読者も、少なくはあるまい。なぜなら、あの有名な、
 「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと云へり」
という、福沢諭吉の『学問のすすめ』における冒頭言、あれを思い浮かべない人は、少ないであろうから。
 これこそ、「偽作」の証拠か。そのように論じた人もあった。 ーーしかし。
 和田長三郎末吉の“自作文書”が残っている。そこでは、次のようにのべている。
  「この一書をもつて、拙者の一代に果したる東日流外三郡誌、内三郡誌 六郡誌大要を書写仕り、ここに了筆せるこそ、祖父、亡父、先代に遺言せらるを果したり。・・・(中略)
   祖訓の一句を、有難くも、福沢諭吉先生が御引用仕り、『学問ノ進メ』に、天ハ人ノトニ人ヲ造ラズ、人ノ下ニ人ヲ造ラズ との御版書を届けられしに、拙者の悦び、この上も御座なく、幾度も読み返しをり、今更にして、福沢先生の学問にもつて不屈なること、不惜身命の勇ありと、感じをり仕る・・・」
 このようにのべて、末尾に次の署名を行っている。
  「明治庚戊(四十三年)一月一日
                        和田宗家四十六代
                           和田長三郎未ママ吉(花押)」
 『学問のすすめ』は明治五年二月以降の刊行であったから、その三十八年のちに、書かれた文なである。
 ただ、注意すべき点がある。この文章は、依拠原本(この活字本 ーー『東日流六郡誌絵巻全』津軽書房刊ーー のもとになった、と見られるもの)を実見したところ、長三郎末吉自身の「自署名」ではなく、彼の子供の和田長作の「再写」にもとづくもののように見えた。この点、再確認したい(長作は、昭和十四年四月十日没)。和田家における、徹底した「再写主義」、すなわち“複製本造り”の情熱に、深い敬畏をおぼえざるをえない。
 さて、問題の本質を見つめよう。
 以上の末吉の「跋文」を見れば、ことの真相は明らかだ。
 第一。末吉は、福沢諭吉に、『東日流外三郡誌』の一節を見せた。右の一文の(中略)部は、次のようである。
  「東京の秋田重季子爵、福沢諭吉先生、西園寺公望閣下、加藤高明閣下の御親交を賜りたる拙者の生涯、悔ひ無き栄誉を戴きたるも、先祖の遺訓を大事とし、白河以北一山百文の国末に、日木帝国の空白なる奥州の史実、世襲にはばかる故に、拙者、祖来の尋蹟五代の労も、いまだ平等なる日輪に光当を妨ぐる武官の権政に好まれざれば、これを子孫の代に遺し、日浴平等に、自由民権の至る世まで、極秘に封蔵仕るなり」
 秋田孝季ゆかりの秋田子爵(孝季の弟〈異父同母〉の系統)を通じて、末吉は福沢諭吉に会った、あるいは書面を通じての知遇をえたものと思われる。
 第二。そこで福沢は、問題の一句を記し、
  「・・・と云へり」
という形で結んだ。これが自己の「独創」ではなく、何者かからの引用であることをしめしたのである。この点、福沢に「盗作」の意図はなかった、といってよい。
 第三。福沢は明治三十四年(一九〇一)に死んだ。福沢の死後、この一句は赫灼(かくしゃく)たる後光を帯びた。福沢思想をしめすべき「スローガン」的な位置を占め、教科書等に特記される慣わしとなったのである。 ーーそれは、西欧の天賦人権説の輝ける祖述者・紹介者としての福沢を、一言にして表現した一句、とされたのだ。
 だが、いずこにもなかった。その典拠に擬せられたアメリカの「独立宣言」やフランスの「人権宣言」、いずれをとっても、この一句に対し、「翻訳の原本」と見なすべき「原文」を発見できない。もしできれば、それはおそらく“above man”“below man”といった簡明な英文(もしくは仏文等)であったであろうから、明治以降の英語の教科書では、喜んでこれを使用したことであろう。 ーーだが、それはなかった。
 これに対し、『東日流外三郡誌』には、おびただしく存在する。
(A)安倍頼時 ーー天喜元年(一〇五五)五月二日(寛政五年十月、秋田孝季写)
 「日高見国末代に住よき国造り、夢追ふが如く民にはげまし、いざこそ是れ荒吐族世の如く南越州、東坂東より北領の住人の国境及び司者を除きて住民一緒の政を布してより、飢え民ぞなかりしに、朝賊の汚名を蒙むりて、帝は征夷の勅を以て吾れ討なむとせり。誠に浅猿しき哉。
  絹衣を朝夕にまといし都、麻を着る民の汗をついばむ輩に、何が故の献税ぞや」
  (北方新社本、第一巻五二〇〜二一ぺージ)
(B)安倍次郎貞任 ーー康平五年(一〇六二)正月日(寛政五年、秋川孝季写)
 「吾が祖は、よきことぞ曰ふ。即ち人に生る者、天日に照しては平等なりと、人を忌み嫌ふは人にして亦、人の上に人を造り、人の下に人を造るも人なり」
  (北方新社本、第一巻五一九ぺージ)
(C)秋田頼季 ーー元禄十年(一六九七)七月(秋田孝季写)
「吾が一族の血肉は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」
  (北方新社本、第六巻三〇二ぺージ)
 右の他にも、数多い。
 この問題に関し、すぐれた共同研究者である藤田友治氏の作成された一覧表を掲げる(二四二〜二四六ぺージ)。もって、いかに累代、この思想が、いわば「安倍・安東・秋田家、累代の共同思想」として累積してきたかが知られよう
 (ただし、冒頭は古田 ーー 作成後述参照)。

 

『總輯 東日流六郡誌 全』一五四ぺージ 作成・古田武彦

題目・氏名 内容 年月

日之本将軍安倍安国状

 (秋田孝季書)

もとより、天は人をして上下に造りしなく、光明は無辺に平等なれば、いかでやおのれのみ、もって満足に当らんや。よって、わが荒覇吐の血累は、主衆にして一人とも賎下に制ふる験しなし。主なりとて、生命の保つこと久遠ならず、従なければ天ならず。民一人として無用なるはなかりき。よって、わが一族の血には、人の上に人を造らず、人の下に人を造ることなかりき 寛政五(一七九三)年八月

 

『東日流外三郡誌』 作成・藤田友治(典拠資料・北方新社版)

題目・氏名 巻数・頁数 内容 年月日

(1) 安倍頼時之遺文
 (秋田孝季写)

一巻520〜 21 絹衣を朝夕にまといし都、麻を着る民の汗をついばむ輩に、何が故の献税ぞや。・・・平等救済に国造らむ・・・ 天喜元年(一〇五五)五月二日 寛政五年十月写
(2) 安倍次郎貞任遺文
(秋田孝季写)
一巻518〜 20 国王に位すとも神の御心に叶ふはなし。天日は無窮にして光明を万物一子の如く照す。 康平五(一〇六二)年正月日 寛政五年写
(3) 祖教偲慕譜
 安東太郎貞季
二巻240〜 42 天日の下、生々平等なる恵みを受け乍ら、人は人を殺生なし、亦己意に従かはしむは、天地の平等思恵に外れ・・・ 文治二(一一九六)年四月十九日
(4) 安東律義法度
 安東太郎太夫貞季
二巻 317〜19 一、上に謀るもの、下にありて労々の者、互にむつむを以て、生々和合を保つべし。
一、吾等一族の中にありては、権に利をむさぼらず、法に上下の離りなし。不平等なるはなく・・・
建保二(一二一四)年孟春五日
(5) 日高見国実史雑抄
一巻 179〜82 人は人をして富貴貧賎をつくり、人の上下を位し、なんたる浅猿しき行為ぞ。平等は人と生れしものの生々なるも、国土をして主をなし、衣食住の安養をむさぼるものはたれぞ。  
(6) 安東一族抄第六巻
  藤井伊予
二巻304〜09 安東一族は古来よりかくなる人祖の理を賞り、天秤の如く、人をして上下を造らず、種別を嫌はず、戦を好まざる民族なり。 元禄十(一六九七)年一月八日
(7) 抜抄篇第三
 藤井伊予
一巻64〜65 われら人祖の祖血は世界皆一族にして、いかで人のうえに人ぞあるべきか。また富貴貧賎ぞ如何に以て人の世にのみぞあるべきぞ。・・・
荒吐族は古来より全能の神なる天地水の荒吐神を平等摂取の神となし崇拝しきたり。・・・平等なる人の生々を子孫に遺しけるは尊ときところなり。
元禄十(一六九七)年五月
(8) 恨言述書
  秋田頼季
六巻 301〜02 津軽祖来の安倍一族を蝦夷と称すは都人の通称なれども、蝦夷とはなんぞや。・・・吾が一族の血肉は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず、平等相互の暮しを以て祖来の業とし・・・ 元禄十(一六九七)七月
(9) 津軽秘聞抄
 藤井伊予 
 荒磯神社祭文
五巻83〜84 荒吐神は天地一切、万物一切を神とし、男女の律儀を一夫一妻として護り、犯す者を赦さず科罪す。一族の者にして富貧をつくらず、人の上下を造らず・・・荒吐神は常に日輪の光明の如く、いかなるところに住むる者と云いども照らす照らさざるといはれる教へなく、老若男女、何れに住むる者なるとも一子の如く世の渡りを平等とせり。 元禄十(一六九七)年八月三日
(10) 北辰暗国談第二巻
 藤井伊予
四巻 417〜18 荒吐族とは、諸族併合の一族なれば、倭族なるごとく人の上に人を置くことぞなく、人の下に人の置けることぞなし。 元禄十(一六九七)年八月
(11) 日高見国大要
 藤井伊予
一巻 394〜98 荒吐族は階級平等に私権なけれども、職をして、その暮し異りぬ。・・・荒吐一族として、倭に対立して王国を得たる日高見国は、君民平等の故に私を赦さず、衆結を崩さざる契り固けるが故なり。 元禄十(一六九七)年八月
(12) 藤崎城譜
 藤井伊予
二巻 226〜29 神は、人の上に人を、人の下に人を造り給ふなし。 元禄十(一六九七)年
(13) 荒覇吐神之事
補巻52〜53 神は人の上に人を造らず。亦、人の下に人を造り給ふなし。・・・人心にて夢想せし神なるはもとより架空なるものなれば、心して是を信じるに足らん。神あるとせし真理に於ては、天然自然なり。古人は是を、あらはばきいしかかむいと拝し、唱へては・・・ 寛政二(一七九〇)年七月
(14) 秋田一族の秘は石塔山に存す 秋田孝季
補巻27〜29 石塔山に祀らるる諸々の聖霊ぞ人に上下を造らず、平等摂取の心身を自他倶に及して崇むこそよけれ。 寛政五(一七九三)年一月

(15) 奥州匿史抄下巻
 秋田孝季

一巻 386〜87 蝦夷ぞ、神代のいにしいより世浴を当らず。・・・天に一つの日輪あり。その光明は平等にして、日本八州いづこにも照さざる処なし。 寛政五(一七九三)年
(16) 東日流内三郡大法典第二
 秋田孝季
四巻 369〜72 安倍一族の自戒十句(タテフゴク)と曰ふ。一、人は護るべきもののために闘かふ。二、人はみな道を求め、無に葬じぬ。六、人の逝く未、水泡の如し。七、人の眼に神の相はあらか見ゆなし。八、人を上下に造るべからず。 寛政五(一七九三)年六月七日 寛政五(一七九三)年六月七日
(17) 津軽審偽史録
  秋田孝季
六巻 348〜49 然るに、その実相はかくなれやと審さば、人皆祖にして平等なりとぞ思ふべし。 寛政五(一七九三)年
(18) 紋吾呂夷土史談
 秋田孝季
 史談者季慶民
 和田長三郎
四巻 460〜70 天は平等に光陰を万物に与へ、人のみのためならず、万物生々のもの総て神なる子なればなり。・・・神は人を人の上に造らず、人の下に人を造らず、万物ことごとく神の子なり。 寛政五(一七九三)年八月十七日
(19) 荒羽吐神起原大要
 秋田孝季
五巻57〜58 ・・・人をして人を征する世に到らば、自ら造りし具物に民族の絶滅あらむとして・・・ 寛政五(一七九三)年十月
(20) 秋田水月抄
 秋田孝季
五巻 682〜83 吾等が奥州にしては、古来より一族の血脈に於て、人の上に人を造らず、亦人の下に人を造るなし。 文化二(一八〇五)年正月元日
(21) 怨霊不滅之譜
 末吉記
五巻 676〜79 一族をして人の上人を造らず亦、人の下に人を造らざる古来の崇神に基きて成る主義を尊べり。 明治二(一八六九)年五月十九日
(22) 中山秘問帳
和田長三郎末吉
補巻96〜97 吾レ学志ナル福沢氏ノ請願ニ耳荒覇吐神大要ヲ告ゲケレバ、彼ガ世ニ著シタル一行ニ引用アリ。『学問の進メ』ニ題セル筆ニ『天ハ人ノ上ニ人ヲ造ラズ、人ノ下ニ人ヲ造ラズ』ト吾等一族ノ祖訓を記タル者也。 明治二十(一八八七)年三月四日
(23) 自由民権之事
 末吉
五巻 677〜78 神は平等摂取にして、人の上に人を造らず、人の下に人を造るなし。…自由民権は今ぞ日本民族の夜明なり。明治二十(一八八七)年八月四日 明治二十(一八八七)年八月四日

天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと云へり 総覧

 

 「安・長、欠落の論証」

和田家文書 東日流六郡誌絵巻 東日流土民の阿蘇部族・津保化族と併合す 真実の東北王朝 古田武彦

 このような「史料事実」に対し、なおこれを「明治以降偽作者」の手になることを疑う論者あり、としよう。そのような人士に対して、わたしが新たに提出したいのは、
 「安日彦・長髄彦欠落」問題
である。
 『東日流外三郡誌』における、最大の強調点、くりかえしまきかえし累述・重記してやまぬところ、それは言うまでもない、「安日彦・長髄彦説話」だ。
 だが、それらの中に、一回として、この二祖が語ったところとして、
  「人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」
の言を記すところはないのである。
 ところが、右にしめすように、平安時代頃になって、はじめて右の頼時や貞任の発言に出遭うのだ
(後述の安倍安国の場合、平安初期。三二ぺージ)。
 それはなぜか。
 思うに、その理由は、難解ではない。
 なぜなら、安日彦・長髄彦の場合、彼等は「外来の征服者」であった。被征服民は、先住の阿蘇部(あそべ 辺とも表記)族、津保化(つぼけ)族であった。阿蘇部族の多くは、岩木山の墳火の中に滅び去った、というのであるけれど、津保化族には、そのような伝承はない。
 では、「征服者」たる安日彦・長髄彦等の部族と、「被征服者」たる津保化族との間の関係いかん。秋田孝季は、
  「抑々、東日流先住の創めに阿蘇部族、次には津保化族、次に支那及び韓民にして、これに倭人大挙して落着以来、民族併合なして荒吐族とぞなりにける」
  (「東日流外三郡誌抜抄篇、第一」、北方新社本、第一巻五八ぺージ)
と言っているけれど、、反面、現在の青森県において、「このツボケ」というと、“この馬鹿”の意味として実用されている(藤木光幸氏等による)と聞くから、そこにはやはり「征服・被征服の残影」は、二十世紀にまで遺存しているとも、うかがわれよう。ともあれ、『東日流外三郡誌』は、「安日彦・長髄彦」に関しては、明白かつ印象的な、この言を記すことがないのである。
 これに対し、平安時代前後は、近畿天皇家の軍事的、政治的圧力が、いよいよ、当時の安倍氏の本拠だった北上川の中・下流域、今の岩手県へと及んできた時期である。「金」と「鉄」の宝庫、この豊穣の土地を、確保し、拡大しようと考えたのであろう。頼時が、断乎として非難を加えている「帝」とは、当然ながら、後冷泉天皇である。天皇は、無事・安泰に生活してきた我等に対して、無理無体の「献税」を、武力をもって迫ってきた。そのようにのべているのである。そのあと(右の文につづき)、
  「依て、一族に富貧強弱を制へき吾国の策にて、平等救済に国造らむとせるは何事ありて国賊ぞ」
とのべている。「平等」思想だ。
 これに次ぎ、子供の貞任に、(のちに、より早い『總輯 東日流六郡誌 全』に安倍安国の言、発見。二六二ページ参照)、
  「人の上に人を造り、人の下に人を造るも人なり」
の鮮烈な一句が現われるのである。これは、「吾が祖」の言った、
  「即ち人に生る者、天日に照しては平等なり」
という言葉の“祖述”であり、“展開”である、というのである。
 すなわち、この一語は、「近畿天皇家の暴虐と差別の武力政策」に抗して発せられた、一語なのである。これが肝心の一点だ。
 このように見てくれば、この一語が「安日彦・長髄彦」に現われず、頼時・貞任に至って強調された、その歴史的背景が了解せられよう。
 ちょうど、イエスの「平等なる愛」の宗教思想が、旧約聖書以来の精神的伝統を背負いつつも、直接には、大ローマ帝国の軍事的圧迫、政治的統一という、「外来の武力征服」に遭つてはじめて、光り輝きはじめたこと、あの歴史事実と軌を一にする現象なのではあるまいか。
 この点、右の秋田頼季(C)の場合も、
  「津軽祖来の安倍一族を蝦夷と称すは都人の通称なれども、蝦夷とはなんぞや。
  血肉の異る紅毛の西蕃人なるか、安倍一族に生を受け、孫幾代に渡りたるも、日本都人ならでは蝦夷なるか。伝て、都人の智謀術数なる輩に従せざる者は蝦夷なるか」
とのべ、その直後、右の、
  「吾が一族の血肉は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」
との言にすすんでいる。
 すなわち、ここでも、近畿天皇家から「征夷大将軍」の称号を与えられ、莞爾(かんじ)として、この「称号」を愛用してきた江戸幕府の将軍たち、要するに自分たちを「蝦夷」と蔑称してきた「近畿」や「関東」の権勢・権力者の総体に対して「日本都人」の名が使われている。そして彼等に投げつけた言葉。それが、あの鮮烈な一句なのであった。
  わたしの言いたいこと、それをハッキリ言おう。
「もし、後代〈明治以降〉の偽作者が、福沢の名著冠頭の一句をもって、己が“家学の思想”として偽わり誇った、としたなら、必ず、この一句の発言者を『安日彦・長髄彦』の創句として、重出・累記せしめたであろう」と。
 これだ。これを一切行わず、はるかに後の、平安時代の安倍家の人々、ことに近畿、天皇家に対する「敗残者」に、この一言の創句者の栄を与えること、解しがたいのである。
 もちろん、史料史学上の問題としては、黒沢尻、北上邑の阿部忠三郎の家宝を、孝季が「書写」した、という、その原本(「安倍次郎貞任遺文」)の探究が必要だ。それが貞任の「自筆本」でなく、「再写本」「再々写本」の類であったとしても、それは欠かせぬ探究だ。
 だが、今、思想史上の判断、という立場に立てば、「後代偽作説」は容易に成り並ち難い。そういう相貌を呈しているのである。
 もし、然らず、とし、「後代偽作説」論を貫かんとする人士は、この「安日彦・長髄彦欠落」の論証、簡略して、
 「安(あん)・長(ちょう)、欠落の論証」
に対して、これを回避せず、男らしく立ち向かわねばならないであろう。
 しかしながら、「明治から、すべてははじまる」という、明治政府のPR下の教育に馴れ親しんできた現今の日本近代史の学者に、この真実という名の「火中の栗」を、敢えて拾う勇気があるだろうか。わたしは、それを知らない。
 もし、それが不可能と知ったならば、旧来の「天賦人権説等、西欧の新思想の編約・翻変・紹介」という解説を、敢然と書き改める誠実さが、なお彼等に存するであろうか。わたしはそれを知らない。
 おそらく予想される事態、それは次のようであろう。従来の註解に対して、
 「なお『東日流外三郡誌』の同趣意の文にもとづく、との説もある」
といれ一文を付加する。それがせいぜいではあるまいか。なぜなら現今、かつては明治には存在した、裂帛(れっぱく)の気魄、それを保つ人、あまりに貧しきを見るからである。しかし、きたる事実はいかに。わたしはいまだ、それを知らない。

 秘められた福沢諭吉との約束

 ここに興味深き疑問が残されている。
 福沢は死んだ。完黙のまま、死んだ。人々は、この一句をもって、福沢の「発明」と信じた。少なくとも、本邦における「発明」と信じた。先軌は西欧にのみあるべし盲進した。そして、福沢は「盲信」させたままで死んだのである。これはなぜか。
 その死後、九年。末吉は、その福沢に感謝し、躍如する文面を書いた。これはなぜか。
 末吉は自家の祖先累代の“宝玉の思想”を、福沢の「名」に帰せしめて“欣喜”するほど、それほどの“お人好し”だったのか。あるいは、いわゆる“田舎っ平”だったのだろうか。
 また、福沢は、そのような“末吉の人格”につけこんで、死に、至るまで、終生「虚名」をほしいままにして平然たる、それほどの没徳義漢だったのか。悪徳者だったのだろうか。
 わたしは、右の、二つとも否。そう思う。なぜか。そこには少なくとも「秋田重季子爵」が媒在しているからだ。他の、西園寺公望(さいおんじきんもち)、加藤高明(たかあき)も、ある程度まで、事情を知っていたことであろう。そのような、第三者の介在という事実を見れば、客観的にも、到底、右の二つの事態を“肯定”することは不可能。わたしにはそう思われる。では、なぜか。その疑間を解くカギは、左の二点にあろう。
 第一はこの「覚」と題された、末吉の文章が、「全『東日流外三郡誌』の跋文」の位置におかれている、という点だ。すなわち、末吉は「ことの真相は、やがて公になる日が来る。全『東日流外三郡誌』を見てもらえば、直ちに、判明しよう」、そういう自身に立った、喜びなのである。
 そのためには、現在(明治期)のような、うわべは「自由民権」でも、その実は「官権横暴」の世の中ではなく、真の「自由民権」の世になる必要がある。そのようになるために、「実際の典拠を省いて」その思想のきらめきをしめす。その役割を、「福沢先生」に代行してもらおう。 ーーこれが、末吉の真の企図、長い時間のパターン(構成)をめざした、作戦だったのである。
 第二に、右の企図をしめすのが、福沢問題を記した置後にしるされた、左のしめくくりの文だ。
   「安東一族に秘むるの一行、世に出たるは、この一行なりとも、末代に全書の公開あらん時世の至るを念じつつ、この史書を永代に秘蔵せしものなり。
    わが子孫の幾代か後世のことに聞くものに、以上の過却にあるべく、一族、永代に保護仕るべし」
 この「一行」の“実名抜き”公開はやがてきたるべき「全書」公開の予備段階。そういう、彼の、未来の歴史への見通しが、とつとつたる文体の中に、十分に読み取れるではないか。
 ハッキリ、言おう。末吉は、「福沢先生」に対して、「全書公開」のための「前座」をつとめることを求めたのである。もちろん、真の引用典拠の「秘匿」をもふくめて、要請したのであろう。
 福沢は、男らしく、それを引き受けた。それを自己の、「代表作」の冒頭に飾った。そして死に至るまで、事情を明かすことがなかった。それが、末吉との「男の約束」、否、人間の約束だったからである。
 第三に、右の末吉の「企図」を、一層詳細に掘りこんでみよう。念のためだ。
 彼にとって、福沢の「代表作」冒頭の一句が福沢のそれとして、天下に有名になればなるほど、それは望ましかった。天下の「有識者」は、それを「西欧伝来の名句」として喧伝し、福沢を“もち上げる”かもしれぬ。それでよかった。
 事実、明治五年から、明治三十四年までの二十九年間、事態は、そのように推移した。末吉の文の執筆時点まで、福沢死後の九年間、いよいよ、そうだった。それでよかった。
 なぜなら、未来のある「全書の公開」のときが来たら、その口、真相は一気に明らかになるであろう。なぜなら、安倍頼時、貞任以来、連綿と、右の一句が、またその一句をめぐる思想の歴史が、くまなく明らかになるであろうから。
 その上、何よりの証拠がある。自分(末吉)の書写した、その原本、和田長三郎吉次の書いた本書だ。それは「明治の紙」でも「明治の筆跡」でもない。明治人が見れば、すぐ分かることだ。その寛政当時の紙、寛政当時の筆跡で書かれた全書。その中にくりかえし現われる。
  「人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」

の思想を見れば、誰にでも分かろう。寛政の人が、福沢先生を「模倣」できる道理のないことを。
 万一、その吉次の原本が、虫害で痛んだとしても、わたしの再写本を、心ある人が見れば、どちらがもとで、どちらが引用か、一目瞭然であろう。
 そのとき、福沢先生に帰せられていた栄誉は、一挙に逆転して、『全書』のものになろう。しかも、福沢先生の場合は「西欧思想の模倣」と見られていたものが、古代の東日流(つがる)人の独創であったことを、結局、万人は承認せざるをえないであろう。
 以上が、末吉の心裡をひたしていた自信、そして歓喜の泉をなした心情であったものと、わたしには思われる。

 福沢思想とはなじまず

 如上の明白な道理と叙述を見ても、なお、首を縦にふろうとせぬ人々も、あるいは少なくないかもしれぬ。
 なぜなら、人間は“りくつ”で分かっても、“気持”が納得せぬ。しばしば、そういう性情をもつ動物のようだからである。
 幼いとき、あるいは少年、少女時代、頭のコンピューターにセットされた情報と正面から衝突する新情報には、たとえそれが真理であっても、拒絶反応をおこすこと、科学史、芸術史、学問史、宗教史、至るところに見出しうる状況だからである。
 たとえば、わたしの九州王朝説に対し、「あんまり、りくつが合いすぎる。古代というものはそんなものではない。だから、信用できない」と、ハッキリとのべた人にさえ再三出会ったのである。
 そこで、別の側面から、最後の論証を行おう。
 『学問のすすめ』冒頭の一句は、福沢の思想になじまない。 ーーこの意外な事実を、左に分析しよう。
 福沢に『帝室論』の一文がある。
 「帝室は政治社外のものなり。・・・之を古来の史乗に徴(ちょう)するに、日本国の人民が此尊厳神聖を用ひて直に日本の人民に敵したることなく、又日本の人民が結合して直に帝室に敵したることもなし」
 彼は、このように書きはじめる。そして次の判断に至る。
「或は今日にても、狂愚者にして其言、往々乗輿(じょうよ)に触るる者ある由、伝聞したれども、是れとても真に賊心あるものとは思はれず。百千年来絶て無きものが、今日頓(とみ)に出現するも甚だ不審なり。若しも必ず是れありとせば、其者は必ず癒癩(ふうてん)ならん。癒癩なれば之れを刑に処するに足らず。一種の艦(をり)に幽閉して可ならんのみ」
(『福沢諭吉集』明治文学全集、筑摩書房刊、七七〜八ぺージ)

 わたしは、一読、呆然(ぼうぜん)とした。
 これは何だ。明治の、いわゆる「大逆事件」で、幸徳秋水たちの遭った運命、また、福沢の死後、大正から昭和にかけて、陸続と実行された、社会主義者・平和主義者・民主主義者たちに対する「逮捕」や「予防的拘禁」や「社会的幽閉」、世界に今や悪名隠れもなき、一連の思想弾圧は、何のことはない、この「福沢テーゼの実行」だったのだ。
 もちろん、福沢のきらった、藩閥・官僚たちが、その直接の責任実行者だったであろう。
 しかし、いわゆる、福沢思想を信奉する「舶来思想」家や「人権思想」家たちも、この「福沢テーゼ」に従って、右の官権弾圧を“指弾”しなかった、否、できなかった、その思想状況がありありと、看取できるのではあるまいか。
 その上、大正・昭和(戦前)の、高位高官たち、また財界上層人や高級インテリたちが、この「帝室論」を読んでいなかった、とは考えられない。読んでいれば、陰に陽に、あの官憲の「弾圧」に対する“協力者”となったこと、容易に察しうるところではあるまいか。
 現今の、福沢思想の祖述者や信奉者や讃美者にはあえて“触れたくない”テーマではあろう。しかし、わたしの欲するものは、真実だけだ。真実のためには、この史料事実を直視せざるをえないのである。以上の意味するところは、何か。福沢思想においては、「一般人の上に、『天皇』があり、一般人の下に『瘋癲(ふうてん)』があった」 ーーこの一事だ。『学問のすすめ』冒頭の、輝く一句とは、およそその思想の本質を異にしていたのである。
 次は近来、有名になった『脱亜論』を見よう。
  「我日本の国土は亜細亜の東辺に在りと雖ども、其国民の精神は既に亜細亜の固陋を脱して西洋の文明に移りたり。然るに爰に不幸なるは近隣に国あり、一を支那と言い、一を朝鮮と、言う」

とのべた上、
  「其人種の由来を殊にするか、但しは同様の政教風俗中に居ながらも遺伝教育の旨に同じからざる所のものある歟」

といい、もし「改革」の「大挙」がなければ、
  「今より数年を出でずして亡国と為り、其国土は世界文明諸国の分割に帰す可きこと一点の疑あることなし」

という予測をのべた。したがってこの両国と交誼を結んでいると、西洋諸国から、日本も「無法律の国」、「卑怯にして恥を知らざる国」、「惨酷無情の国」として、彼等と同一視されるであろう、という。これ、「我日本国の一大不幸」といい、結論として、
  「寧ろ其伍を脱して西洋の文明国と進退を共にし、其支那朝鮮に接するの法も隣国なるが故にとて特別の会釈に及ばず、正に西洋人が之に接するの風に従って処分す可きのみ。悪なを親しむ者は共に悪名を免かる可らず。我れは心に於て亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり」
(『時事新報』明治十八年三月十六日。『福沢諭吉集』近代日本思想体系2、筑摩書房刊)
 いつもながら、理路整然たる福沢の主張は、一種壮快の気さえともなう、といってよいかもしれぬ。また、時務策として、あるいは、まことに時宜(じぎ)をえたもの、そのように評する論者もあろう。わたしも、その点に関しては“一応認める”のにやぶさかではない。
 だが、しかし、問題は次の一点だ。
 これは「日本人の上に、西欧人をおき、日本人の下に、中国・朝鮮人をおく」議論ではあるまいか。そしてこのように“利口な”議論をする日本人「識者」を、果してアジア人は、信用するだろうか。わたしが、この両国人なら決して信用しない。
 このあと、日本は「日韓併合」を行い、「支那事変」を強行した。その中で、日本の政府、軍部、そして一般将兵、一般日本人まで、「支那人」と「朝鮮人」を蔑視した。残虐の限りの行為を行った。この歴史的事実に対し、果して福沢の“利口な差別策”が、「言論責任」を負わずにすむかどうか。わたしは、これを深く疑うものである。
 日本列島は、アジアの一隅にあり、これをヨーロッパやアメリカ大陸内に“移し植える”ことは不可能である。とすれは、そのアジア人の「信」を失って、日本人に生きる道はあるか。 ーーわたしは、ハッキリと「否!」と言う他はない。
 さて、肝心の一点は、おわかりいただけよう。ここに現われた福沢思想は、『学問のすすめ』冒頭の、あの鮮烈な一句と、決してなじまない。「氷炭」といわずとも、「天然ダイヤモンドと人工ダイヤモンド」のごとく、一見似て、非なる本質を深くいだいているのである。

 至宝の一句に原産あり

 これに反して、和田吉次は言う。
  「人間、もとより、万物生々の一生物なれば、生々子孫を育むべき適生地に移住し、さらに進化を遂げたるは、地の風土に適生し得るべき体質に、体種を変異進化せしめたり。即ち、肌白き青眼の紅毛人、または、肌黒き黒人あり」
   (「紋吾呂夷土モンゴロイド人抄記」寛政十二年八月、『總輯 東日流六郡誌 全』三八ぺージ津軽書房刊)
 至って簡単、至って道理。一探求者として風格が歴然としている。
 ともあれ、今、わたしの注目するところ、それは、あの鮮烈の一句、
  「天(神)は、人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」
の精神と、何等の齟齬(そご)を見ぬ、この一点である。
 以上の考察の意味するところ、それは何か。
 いわく、福沢の場合、それはしょせん、「借り物」であり、福沢思想の全体系、全構想の中に、適正な位置を有しない。 ーーこの一事だ。
 それに反し、秋田孝季・和田長三郎吉次の場合、純乎として矛盾なく、間然(かんぜん)するところ(いろいろと文句をつけること)がない。 ーーこの一事である。
 以上によって、あの宝玉の一句の“原産地”と“模倣者”もしくは“引用者”とが、いずれか。『学問のすすめ』か、『東日流外三郡誌』か、すでにその帰趨は明らか。 ーーそのようにいうべきではあるまいか。

 

 決定的な証拠今年

 今年(平成元年)十二月十一日の深夜、もう十二日になっていたのだけれど、わたしは決定的な証拠を見出した(傍点、古田 インターネット上では赤色表示。)。
  「もとより、天は人をして上下に造りしなく、光明は無辺に平等なれば、いかでやおのれのみ、もって満足に当らんや。よって、わが荒覇吐の血累は、主衆にして一人とも賎下に制ふる験しなし。主なりとて、生命の保つこと久遠ならず、従なければ天ならず。民一人として無用なるはなかりき。よって、わが一族の血には、人の上に人を造らず、人の下に人を造ることなかりき
  (「日之本将軍安倍安国状」寛政五年八月、古書写・秋田孝季、原本和田家蔵『總輯 東日流六郡誌 全』一五四ぺージ 山上笙介編、津軽書房刊)
 ここでは、明白に「天は・・・」という主語でのべられている。中間に若干の文章がはさまれているけれど、当然ながら、同趣意だ。
 だから、右の文の「縮約」として、『学問のすすめ』の冒頭の、鮮烈な一句、
  「天は、人の上に人を造らず、人の下に人を造らず、といへり」
の文面は成立している。そのように見なして、およそ無理なきところ、むしろ必然といわざるをえない。
   にもかかわらず、この問題に対して、賛同せず、反対せず、「無視」の一手を用い、依然「福沢思想の秀抜さ」を鼓吹する。かりにもし、そのような「福沢先生」祖述者・讃美者のみ相次ぐ、としよう。
 そのとき、わたしは、あえていわねばならぬ。率直にして、正直を旨とした福沢精神は、死滅した、と。後継を称する人々の中に、今や、なし、と。

今なお脈打つその思想

 『東日流外三郡誌』等、和田家文書の所蔵者、和田喜八郎氏は、最近、『知られざる東日流つがる日下ひのもと王国』(平成元年、八幡書店刊)を出された。かつて出されたもの(青森市広告社製作協力、一九八七)の増補版だ。
 氏は、当然ながら、秋田孝季の立場を祖述されたから、安日彦(あびひこ)、長髄彦(ながすねひこ)をもって、大和の地から佐怒(さぬ「神武天皇」に当る人物)に追われて、当地(津軽、石塔山)へ来たもの、として叙述される。
「もとより、彼らは耶馬止彦やまとひこ王を祖に、その故地の大和において、千年余の王国を継いだ王孫であった。安日彦王は三輪山みややまの箸墓に君臨し、長髄彦王は北生駒いこま山の富郷白谷とみのさとしらたにに地領していた」(同書三六ぺージ)
のようである。
 しかし反面、本書の出色をなすもの、それは、『東日流外三郡誌』と津軽の弥生水田との関係の指摘だ。
  「東日流の地に、農耕文化が西日本よりはるかに古くから存在していた事実は、今にして『東日流外三郡誌』の記述の正当性を立証するものであるが、学閥は以前としてこれを無視している」(同書二二ぺージ)

 氏は、昭和五十八年の田舎館(いなかだて)村垂柳(たれやなぎ)遺跡の発掘が、『東日流外三郡誌』の真実を証明した、と力説している。
 一方で、垂柳を「大規模な縄文稲作遺跡」とし、他方でこれを「耶馬台族」(大和の佐怒たち)の到来による、とされるなど、年代上、地域上の齟齬(そご) は生じているものの、基本的には、氏の指摘の正しかったこと、前章に立証したごとくである。この点、明記する。
 さらに氏は、次のような歴史観をのべている。
  「北海道の先住民族、アイヌたちと、津軽の覇者、安東一族との交際は平等であり、結婚にも、人権的差別はなかった。しかし、興国の津浪によって被害を蒙って安東氏が衰え、南部一族の侵攻に地領を放棄して秋田に移ったあと、蠣崎氏(かきざきし 松前氏の旧称)が北海道を渡党(わたりとう)として掌握するようになるとアイヌを迫害差別するようになったため、争いが絶えず、コシャマインの乱とか、シャクシャインの乱が起こった」
 そして明治政府の「土民保護法」が、アイヌ民族にとって「絵に描いた餅」であったことをのべた上、
  「彼らは異邦的民族として賎(いや)しまれながら、徴兵令だけは日本人として召集された。
   戦争が終わり、シベリアに捕虜となって帰還しても、恩給の支給すらなく、いま人生を終わろうとしているアイヌたちを救済しようという気は、現在の政府にもない」

と明言している。
 そして、
  「これが少数民族アイヌの現実だが、彼らには歴史や伝統も、領土や信仰もあった。だが、いまアイヌたちが、内地から観光にくる人々にカムイの舞いを演じて見物させても、やがてそれも消滅する運命をたどりつつある。
   いまさら、化外地の蝦夷でもあるまいに、まだ蝦夷征伐は続いているのだ」(同書一〇二ぺージ)

と言う。
 長文を、あえて引用したのは、他でもない。ここには、秋田孝季、和田長三郎吉次、りく等の依拠した、
  「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」

の魂が脈々と脈打っているのを、人は見ないであろうか。わたしには、それが見える。
 当書の末尾には、
  「再中興、安倍晋太郎」

として、大正十三年の誕生から「現在、自由民主党幹事長」に至る、氏の経歴が、一切の解説抜きで掲載されている。氏が安倍一族の系統に当たっておられることは事実のようであるから、この紀載は正当だ。
 だが、和田喜八郎氏がアイヌ族の運命に筆を及ぼすとき、明治政府、歴代の政府、現在の政府に至るまで、いささかも指弾の手をゆるめず、苛責しておられないこと、右のごとくだ。わたしは、その志を貴し、とするものである。


(1)青森県五所川原市に石塔山大山祇神社がある。
(2)『東日流六郡誌大要』について(和田喜八郎)(『東日流六郡誌絵巻 全』津軽書房刊二六二ページ)

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