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藤田友治氏作成『東日流外三郡誌』「人の上に人を造らず、」一覧へ
『東日流外三郡誌』(昭和五八年一二月二五日発行)
6,安東一族抄第六巻 藤井伊予 元禄十(一六九七)年五月 二巻304〜09
安東一族太古は耶馬台国五畿七道に君臨し、阿祖宇賀耶命、知保鳥見媛命を太祖とせる安日彦命、長髄彦命の東王即はち陽王、西王即はち陰王の二王なる一系にして、荒羽吐族なる五王の総主とて日高見国東日流に君臨せし絞吾呂伊度祖人系民なり。
紋吾呂伊度とは、白黄黒の肌を風土に習はせて人を創誕せし、猿の如き人祖にして、世界万民皆此の化縁に血脈し、もとより人は兄弟姉妹なり。依て、人の種別を笑ふ勿れ、また嫌ふなかれと曰す。
而るに、世は幾万年前より闘争をくりかえし、故地を追れし者、また異土に冒する者をして人間諸国に分布し、その言語、肌色ら異にせるなり。
安東一族は古来よりかくなる人祖の理を覚り、天秤の如く、人をして上下を造らず、種別を嫌はず、戦を好まざる民族なり。
奥州の雪国に祖来し、二千年に渡[亘カ]りき倭王の征夷未だ祖怨のやるかたなきところなり。蝦夷ぞとは何ぞや。
虎狼の如き、人に非ざるものぞと忌む輩の自尊称なり。
安東一族は曰ふ。北国は水も剣となり、橋となり、船となり、住居になると言ふ。即はち、氷雪も住むる者にして宝なりと云ふ意なり。寒気また而なり。土上の運びは重けるも雪上なる運びは軽し、依て、人の暮しまた風土に習ふなり。牛馬は住居に飼ふも一族の祖来にして、穀物をたくはふもまた而なり。
建武元年に至りては、東日流に於て安東一族の試練のときにて、天皇親政方と幕府方との一族一大事派閥の争々たる頃なり。時も時、足利尊氏天皇親政に反旗し、安東一族また宮方即はち天皇方に援ずる総領家、武家方即はち幕府方に組せる庶子家が争々たる領割を強行し、茲に東日流は卍巴の如く騒々たり。先づその兆[挑カ]発は、大光寺、持寄城の争いに始りて、東日流は洪河の乱以来亦一族同志の内乱起りぬ。
而るに、天なる怒りか地なる神の怒ぞや、興国元年に兆したる地震が大津浪となりて、東日流西海に起り、一挙に死者十万と曰ふ災害の起る惨事と相成れり。
一刻の大津浪は十三湊を廃湊とし、安東水軍の威勢も皆滅せる天災なり。かかる惨事のあとぞ、人力に巨費を投ずるも、もとなる復興ならず、この惨事に合せ南部氏の東日流領侵犯起しむ兆しに、曽我光高、師助ら安東一族とともに糠部なる居城を攻めて圧せるも、洛中洛外の南面、北面の戦には、南面の旗風振はず、萬里小路中納言藤原藤房公の北部に依りて、南部氏の勢東日流に及び、正平十一年に東日流に鎌倉幕府以来の御家人曽我一族は亡びたり。
追日に落来る南面武士と文中二年八月、出羽河辺郡和田城主に伴なはれ、北畠一族大挙して安東氏のもとに食客し、行丘の地を施領に戴きて安住し、茲に北畠大納言顕成卿を以て行丘御所一世となる。
亦、先に落来たる藤原中納言藤房卿も入道して秋田に赴き、亀像山補陀没寺に法名を無等良雄大和尚とて、第二世とて入寂し、遺子なる景房は東日流に残り、安東氏より飯積高楯城を戴きて安住し、茲に安東一族の領中は南面の武家、落衆に固められたり。
而るに、元中九年、南北朝合と相成り、茲に幕府は安東一族の隆勢[盛カ]なるを怖れ、南部光政を八戸根城に進駐せしめ、東日流統一を企つに謀れり。
かくして、応永十七年、南部守行を陸奥守として東日流岩楯城に遣したるは、安東一族への討伐を企つ策略の前兆なり。
守行は常にして安東教季が居領を押して無法なる侵犯を重ね、藤崎城攻めの因起を作為せるも、是れに乗ぜぬため、汗石川の流れを留水なして稲田への水利を困窮させたる故に、詮なく藤崎城主安東教季は挙兵して南部守行に応戦し、遂には応永二十九年八月、両軍の攻防は東日流野に死屍をさらし、流血惨々たる戦を続け、是れを幕府に訴へて裁決せんと安藤陸奥守関五郎守季が幕府に馬二十匹、鳥三百羽、鵞眼二万匹、海虎皮三十枚、昆布五百把を献上なし、朝廷には飽田砂金五十貫〆を献上せしめて、和の宣を請願せるも、幕府は朝廷を圧し和を断じて、守行に武具を届くる始末なり。
依て、藤崎城は一族の議談に決し、戦場を十三湊領に南部氏誘滅せん軍謀なし、自から藤崎城を焚きて脱城し、教季は福島城主大納言安東太郎盛季と兵を合せたり。
されば南部氏の攻めは広大なる東日流大里にその先陣は敗られ、応永三十一年より嘉吉三年十二月に至る長期の戦に、南部一族は初期なる軍勢を半滅して、唐崎城、盛多大館、権現城、福島城、羽黒城、鏡城、唐川城、柴崎城の合戦を以て、茲に安東一族を東日流より追討せるも、もとより故地の棄領を軍策せる安東一族は、即にして飽田なる桧山城、土崎湊城、松前大館、上国勝山城、華沢城、州崎城、夷王山館を以て一族の安住なる処、備はり、一人の領民も残さず移り去り、外三郡の地は荒芒たる無人廃処となりにける。
亦、安東康季の嫡男義季は鼻輪郡如来瀬に狼倉城及び高館を築き、外浜には安東潮方重季の嫡男政季が後方(しり)鉢城を築きて、南部一族への反撃を備へたるに依りて、外三郡の地は放棄し、是を朝日一族即ち飯積高楯城主が是をゆずりうけたり。
安東一族が一挙に兵を挙げたは享徳元年十月にして、狼倉城の戦は起り、南部一族またも多くの戦殉をなして、同二年八月ようやく狼倉城を落しめたるも、抜けの空なるあとなり。
しかさず外浜にて安東政季が兵を挙げ、外浜の合戦には流石の南部一族も戦に生魂[精魂カ]尽きかけ、康正元年五月、ようやく後方鉢城を落しめたるが、時に運悪くも安東政季は脱退におくれて捕はれたり。
而るに、南部氏は茲にあらたなる敵をむかへて驚きたり。是そ行丘城北畠一族、飯積高楯城朝旦族の連合勢が挙兵し、南部一族の討伐に兵馬を外浜討未辺に布陣せば、南部勢渫*を以てようやく糠部に遂電し、茲に永き東日流の兵乱は治まれり。
元禄十年一月八日 藤井伊予
渫*は、三水編の代わりに、舟。
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