天は人の上に人を造らず・・・と云へり 総覧へ
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『東日流外三郡誌』(昭和五八年一二月二五日発行)
3,祖教偲慕譜 安東太郎貞季 文治二(一一九六)年四月十九日 二巻240〜 42
奉納天台寺安東太郎貞季
諸行無常是生滅法生滅々己寂滅為楽とぞ仏聖釈迦牟尼が衆生に説きける無上道なる悟りも人をして仏告相異にす。
抑々、仏法に宗を創め支派己々異にせる宗旨ぞ真理に当て覚る処は、生死の輪廻に四苦解脱の求道、是皆ひとすじにて迷いば自業自得の奈落に堕なむ。
生々する者常に流転して刻尚過却に進むる耳にて悟道自覚何くんぞ心に離して求道に乗ぜんとせるも、仏理は近遠に非ず、外道の制多に迷ひて方所に惑ふ耳なり。
茲に心を無我な童心に帰りて仏道の真理に乗じべし。心固くして学に長じ、非理法権天論々せるとも、是れ求道のさたまげにして、その真理仏道に当て見るに、悟道しるべ何ぞ証跡もなし。
人身をして世に生じ、父母に育まれし大慈悲、山海の高深を蒙り、生々吾が心長じ、子を育み、安きことなき三界の流転は生老病死なる輪廻に不退の苦にあえぎ時には怒り悦び悲しみ悩み恨むる人心にありければ、かくを解脱せむ方所を求めて求道す。
神仏を崇むは、このゆいに発起す。依て、その悟道とて人の創れるものなれば、明暗異にす。亦、迷信是に依りて生ずるなり。
神仏とは何処にありてその救[求カ]道真にありや。深く是を求むれば、無に帰する耳なり。
依て、救への道は学文[問カ]に非ず、心を無我としその境地に入りて、身命を天命に安じ、心を諸行に惑はず、生々の流転は生死の輪廻と覚り、諸慾を断って是を心不動にして行いば、その真理自ら得るなり。
人の創むる神仏の道は何れを願ひ、何れを崇むとも真実は一路なり。吾が安倍の一族は古来より荒吐神を崇めきたりしは、是れ人の造れる偶像崇拝に非ず。人の創む神仏の教理にも非ず。天地一切なる天然の恵みと、その障害に生死の安心立命を願ふ事、要とす。
荒吐神とは人の創れる其諸行諸法に非ざる故に如何なる心侵の教理にも惑はず、ただ一途なる荒吐神、即ち天然自然の万物天地一切のものを荒吐神と崇拝せるに要す。
依て、生死は形骸にして心は不死なり、と未来世の出世あらむために、死を悩まず、死の期に至りとて心苦かる者ぞなし。死は生命の誕生に通ずと信じ、外教に迷はず崇むひとすじの求道、安心立命に覚る荒吐神ぞ安倍一族の信心なり。
仏道とて四苦諦は荒吐神なる教理に異ならず。是れ諸世界民族一天の下、一連の海に通ず、安倍一族は倭人に蝦夷とぞ今尚非人の如く忌み嫌はるは何故ぞ、天日の下、生々平等なる恵みを受け乍ら、人は人を殺生なし、亦己意に従かはしむは天地の平等思[恩カ]恵に外れ、黄泉に赴くとも再び人の世に正を受け難く、永き魂の苦限を受く也。
文治二年四月十九日 安東太郎貞季
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