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『新・古代学』古田武彦とともに 第1集 1995年 新泉社
特集2 和田家文書「偽書説」の崩壊

ギリシア祭文の反証

奇想天外の「偽作」説

古田武彦

  一

 奇想天外な「偽作」論証が出現した。和田喜八郎氏が岩波文庫を「種本」にして盗作をした、という。レッキたる証拠がある、というのである。
 わたしには、実のところ、このような発想自体、どうにも理解しがたい。なぜなら、岩波文庫というのは、天下周知の書籍、しかも携帯便利、安価だから、インテリ万人の愛好するところだった。
 もちろん、今でもそうだけれど、わたしの青年時代など、他の文庫がほとんどなかったせいもあり、まさに岩波文庫は教養のシンボルだった。『ソクラテスの弁明』が、書店に出まわっていなかったため、松本の印刷所で(本の形ではなく)複製してもらって、学校の教科書代りに使わせてもらった。昭和二〇年代半ば、松本深志高校の新米教師時代だった。岩波書店に相談したところ、快諾して下さったのを覚えている。うれしかった。
 和田喜八郎氏は、わたしとほぼ同年、四カ月あとの生れ(昭和元年一二月三一日、届け出は翌日)だから、「岩波文庫」に関する読書環境は、わたしと大同小異であろう。この日本列島の中である限り、「岩波文庫をもっているのは、喜八郎氏ひとり。他は誰ももっていない」そのような事態は、誰人にも想定不可能。それなのになぜ。わたしにはこの問題は、はじめから「奇想天外」に見えていたのである。
 しかるに「偽作」論者は、この問題によっても、和田家文書の「偽作性」疑いなし、と声高(こわだか)にPRしはじめたのである。そして多くの同調者が現われた。

  二

 この問題は、実は、わたし自身が「発端」だった。
 平成三年六月二二日、神戸で行われた講演会で、わたしはその頃「発見」した「ギリシア祭文」の紹介をした。和田喜八郎氏より委託されて調査研究中だった和田家文書中の「丑寅風土記、全六ノ第四巻」の中に、この特異な一節を見出したからである。
 その内容は次のようであった。
「   唱題不詳
     一
心清らかに罪無く科無く
人の世を渡るは幸なる哉
さる人の胸を刺す復讐は
えふれじ安らけく生命の道
を行べしさあれ窃かに」
なる虐殺をなせし者
にこそ禍あれ我等夜
の怖しき春族はその
全身を掴*まん飛べば
とて脱がれ得べきや追ふ
にこそいよいよ速き我等
なれ蛇はその足にからみて」
地に倒すべし追ふて渡れず
憐れみて止むるものなし
絶ず生命の果てまで泰
平を休みをも得こそやらじ云々

     二
天と空と地の主よおお
王よおお父よ我が卑しき」
祈祷を聴き給へこの
雲を散じて天なる光
を返し給へ物見るを
得さしめ給はばアイア
スの願ひは足れりとても
滅ぶるべくギリシアな
らばやそれもよしさあれ

天日の前にこそ滅ばしめ給へ
     三
宇宙創造の神カオス
よ天空の神ウラノスよ
大地を創りし神ガイア
よ海を創りし神ポ
ントスよ人を造りし」
プロメテウスよ生々萬
物を造りしエピメテウス
よ救への女神アテナよ
神々の王ゼウスよ正義
の女神テミスよ純潔の
女神アストライアよ
水の神ポセイドンよ」
水を抜けるパルナツソスの
山神よ貝の神トリトン
よ時の神デウカリオンよ
オリユンポス山なる十二
神願はくば我が唱へし
祭文に聴きて四衆の」
悪なすものを消滅
なさしめ給へ吾が願ひは
今に唱へし神より他あらず
茲に請願申奉る
  右ギリシア古老より
  拝聞せしものなり
寛政六年八月廿日
        秋田孝季」
(「 」)は原冊子本における、一紙の末端をしめす)

掴*の別字。JIS第三水準ユニコード6451
祷のこざと偏は、示です。
(インターネットでは理解のために岩波文庫(大正二年版)と同一部分と判断されるところは赤色表示)

 ところが、聴講者の一人であった水野孝夫氏(当時、「市民の古代」研究会副会長、現在「古田史学の会」会長)が、講演終了後、わたしのところへ来て質問された。

「どうも、あのギリシア祭文は、ギリシア・ローマ神話で見たことがあるように思うんですが。」

 わたしは後日の調査を約束した。ところが、翌日大阪で行われた講演会のさい、水野さんは岩波文庫の『ギリシア・ローマ神話」を早速持参してきて下さった。「ブルフィンチ作、野上弥生子訳」だ。こういう、講演に対する直接の反応こそわたしの望むところ。いつも、わたしの認識はこの反応によって前進させられてきた。このときも、そうだった。
「これの載っていた『明治写本』の筆跡や『寛政原本』との対応の問題もありますから、慎重に扱って下さい」とわたし。
「わかりました。」
といった応答で、お別れした。

  三

 岩波文庫と「共通」していたのは、右の一と二の部分だった。

「『心清らに罪なくとがなき人は幸いなるかな。さる人にはわれら復讐はえふれじ。安らかに生命(いのち)の道を行くべし。さあれ窃(ひそ)かなる虐殺をなせし者にこそ禍(わざわい)あれ。われら「夜」のおそろしき眷族(けんぞく)はその全身をつかまん。飛べばとてのがれ得べきや。追うにこそいよよ速きわれらなれ。蛇はその足にからみて地に倒すべし。追うて渡れず、憐みの止むるものなし。たえず生命の果てまで、平和をも休みをも得こそやらじ。』復讐の女神たちはこう歌いながら、荘厳な音律の中で動きました。(下略)」
 (第二五章史上の詩人、イビュコス。二六三頁、一九九一年五月一五日、第二四刷)
「よく引かれる名高い詩句の中の彼の叫びはこの時のことでありました。
『天と地の父、アカイアの勢を暗黒より救いたまえ。
 空を清めたまえ、日をあたえたまえ。
 おん身の主権かくてあらば、滅亡こそ伴わめ。
 さあれ、おお、日をあたえたまえ。』(クーパー訳詩の意味) (1)

 またポープの訳したものの意味はこうなっています。
『・・・地と空の主よ。
 おお王よ。おお父よ。わが卑しき祈祷を聴きたまえ。
 この雲を散じて、天なる光を返したまえ。
 物見るを得しめたまわば、アイアスの願いは足(た)れり。
 とても滅ぶべきギリシアならば、それもよし。
 さあれ天日の前にてこそ滅びさせたまえ。』
 ゼウスはその祈りを聴いて雲を散らしました。それでアイアスはアンティロコスをアキレウスのところへやって、パトロクロスの討死したことと、死骸のためにすさまじい戦争の起ってることを知らせました。(下略)」
 (第二七章トロイア戦争、『イリアス』二八五〜六頁、同前刷)

 岩波本では「地の文」ではなく、引用文の形だ。その上、「よく引かれる名高い詩句」とあるから、『丑寅風土記』と岩波本と、両者に「同一の詩句」が出現しても、一応不思議はない。
 しかし、問題は「訳文の文体」だ。両者の八〜九割は“ダブッテ”いる。たとえば、

A.「とても滅ぶるべくギリシアならばや、それもよし。さあれ天日の前にこそ滅ばしめ給へ」(『丑寅風土記』)
B.「とても滅ぶべきギリシアならば、それもよし。さあれ天日の前にてこそ滅びさせたまえ。」(岩波本、同前刷)

の二つを比べてみても、「翻訳前の詩句(ギリシア語・英語等)」がたとえ同一だったとしても、これほど“ほぼ同一の文形と単語”になることは、「偶然の一致」としては、まず、ありえない。このように判断して、おそらく異論はないのではあるまいか。
 この事実から「喜八郎氏、岩波本典拠の盗作」説が発生することとなったのであった。 (2)

  四

 ここからはじまった「一連の事件」は、いわば「偽作」論者にとって“運命的”な展開を見せていった。
 その第一幕は次のようにして開いた。
 水野さんは、律義なこの方に似合わしく、自分の小文をまとめて、他の「同好の士」へと送られた。それは、「偽作」論へと傾いたものであったけれど、「これを史実と信じるならば」「もしこの三首の祭文が寛政時代のギリシアの古老とはなんの関係も無く、後代の日本人の作文とするならば」(傍点、古田 インターネットでは赤色表示)といった文体からもうかがえるように、「断定」を加えたものではなく、あくまで「同好の士」の間での問題提起、という一線にとどまるものだったようである。
 水野さんにとっての不幸は、この「同好の士」の一人に斎藤隆一氏(福島県)のいたことだった。
 第二幕は、斎藤氏の手によって“開かれ”た。当時、斎藤氏は「市民の古代」研究会のメンバーであっただけでなく、仙台の会の世話役であったから、水野さんが“心を許され”たのは、無理もなかったけれど、水野さんの小文は、御本人の「了承」をうることなく、突然「活字」として、水野さんの眼前に現われた。『季刊邪馬台国』五二号がそれである。 (3)
 第三幕は、「喜八郎氏、偽作」説の“疑いえぬ”証拠、いわば「花の論証」であるかのごとく、この「ギリシア祭文」が脚光を浴びた場面だ。右の雑誌のグラビアに、この祭文の写真がかかげられ、

F「岩波文庫」から盗作した「古代ギリシア祭文」

という表題がつけられている。その解説にいわく、
『和田家文書』の一つ『古代ギリシア祭文』は、昭和二八年以後に、『岩波文庫』から盗作したものだ。文字も、和田喜八郎氏のものである。」
と。ここでは、完全に「喜八郎氏の盗作」との断定が行われている。
 本文でも、水野さんの小文がほぼ全文掲載された上、編集部(安本美典氏責任編集)の手によって、簡明かつ決定的なコメントが付されている。

「『岩波文庫』からの盗作なのである。」

 この一文によって「ギリシア祭文、喜八郎偽作」説は、「あともどりのできぬ」地点に立ったのである。

  五

 最初から、わたしは別の視点に立っていた。
 第一に、筆跡。この『丑寅風土記、全六ノ第四巻』末尾には

「明治四十二年三月筆了
    書写 和田末吉」

とあり、それは明白に、和田喜八郎の筆跡ではない。そして当然ながら「古代ギリシア祭文」をふくむ、全篇同一筆跡だった
(この筆跡は、和田末吉ではなく、和田長作〈末吉の子供、喜八郎氏の祖父〉の筆跡である。現在の、わたしにとって「末吉」と「長作」の筆跡の相異は、判明している。長作は末吉の“秘書役”をしていたようである。長作は昭和一四年没)。

 この筆跡問題は、改めて別論文で扱うけれど、わたしは喜八郎氏との間に長い期間の交流をもってきたから氏の筆跡を熟知すると共に、問題の厖大な和田家文書群(そのほとんどは、末吉もしくは長作の筆跡。明治初年より昭和七年に至る)ととり組んできた。年来の研究対象である。従って「喜八郎氏の筆跡」と「末吉・長作の筆跡」と、両者の相異は、自明であった。
 この点は、何回くりかえしても(あらかじめ「耳をふさいでいる」人の耳にはとどかないであろうけれど)、くりかえし足りぬ、今回の「喜八郎氏、偽作」説不成立の、最大のキイ・ポイントである。
 ともあれ、わたしにとって、この「古代ギリシア祭文」問題を考える上で、不可避の原点の一つがここにあることは疑いがない。
 第二に、知識。永年(一〇年前後)のおつき合いで、わたしには自明の認識がある。それは、和田喜八郎氏が「中近東・ギリシア方面」に対して、いちじるしく不案内だったことである。「だった」と書いたのは、昨年八月前半、アメリカの映画会社(ワーナー・ブラザース)の招きで中近東・ギリシア・エジプト等を巡回されたから、当方面に対する氏の知識は急増・倍加したことであろう。それは疑えない。けれども、それ以前は、氏の当方面に対する「認識」は、きわめて乏しかったのである。
 これは、全く、氏の不名誉ではない。なぜなら、わたしの場合、田んぼの手入れやリンゴの世話については全く不案内だ。和田喜八郎氏から見れば、当地方の「児童以下」の無知識者であろう。しかしながら、わたしはその事実を必ずしも不名誉とは考えない。それと同じだ。
 このような、わたしにとっては「自明」の知識、それが「喜八郎氏、偽作」説を、いわば全くうけつけない第二の理由だ。当説は、喜八郎氏に接せず、氏の人柄と知識を知らぬ人々によってのみ“唱えうる”ものだ。無知の足台の上に立てられた、壮大なガラスの積み木細工、それが「喜八郎氏、偽作」説の実態である。氏は小学校、農業学校一年間在学の農民である
(中野学校云々の件は、安本美典氏が「勝手に」想定されたような、「四年の正規卒業者」ではなく、通信研究所〈中野学校関係か〉の「一年間の特殊訓練」をうけたことをのべているにすぎぬ。この点すでに一〇年前後以前から、わたしは喜八郎氏からくりかえし、同一の述懐を聞いてきたのである)。

第三に、「寛政原本」問題だ。わたしが今、研究を喜八郎氏から委託されている「明治写本」(明治・大正・昭和〈七年まで〉の三代にわたる)は、和田家において明治以降に行われた貴重な「書写」(「書き下し」「改正」〈地名など〉をふくむ)であるけれども、もちろん「寛政原本」そのままではない。星の名前など、昭和段階の「書き加え」もあるようである(「冥王星」など、古賀達也氏による)。
 従って詳細・厳密の立論や指摘を行う場合には、必ず、基本をなす「寛政原本」においてその問題点を確認せねばならぬ。これが学問にとって不可欠の方法だ。
 だから、このような「手つづき」を待たず、軽々に「偽作」断案に奔るなど、真の学究的研究者のとるべき道ではない。 ーーこれがわたしの信条であった。

  六

 従ってわたしの基本方針は、長らく次のようであった。

「寛政原本が出るまで、寝ている。」

と。もちろん、三国志や古事記・日本書紀等々、わたしの取り組むべき課題は多い。その方面に、わたしの時間と努力を向ける。これが根本方針であった。
 その方針を「転換」したのは、「和田家一族(と子供たち)」に対する「いじめ」間題の存在を知ったからであった。
 この点、別稿に述べたから、反復しない。
 ただ、そのような「転換」(昨年五月上旬)以来、「偽作」説の論点を一つひとつ再吟味したところ、面白いほど各所各点において再批判が成立し、逆に、真作説を指示し、裏づけうる幾多の論証を発見するに至ったのであった。それらはすでに「古田史学会報」三号等に掲載され、「いじめ」問題の解消(もちろん「最終的解消」ではないであろうけれど)に役立つ幸いをえた。

 その上、さらに発見された新論証、それがこの「古代ギリシア祭文」問題であった。
 今、問題点を列記し、解明してみよう。
 第一、(一)の冒頭部を、対照させてみよう。

(A)「古代ギリシア祭文」(丑寅風土記、明治四二年書写本)
(1).心清らかに罪無く科無く人の世を渡るは幸なる哉
(2).さる人の胸を刺す復讐はえふれじ

(B)『伝説の時代』(大正二年、尚文堂)
1). 心清らに罪なく咎なき人は幸ひなる哉
2). さる人にはわれ等復讐はえ觸れじ
〔昭和二年に岩波文庫から『ギリシア・ローマ神話』として刊行〕(文庫内の改版につき、別に詳論する。

(C)ブルフィンチの原本(Thomas Bulfinch "The Age of Fable" Everyman's Library)

1. Happy the man who keeps his heart pure from guilt and crime!

2. Him we avengers touch not,

 (1).に対して 1).は、「人の世を渡る」がない。意味は変わらない。だから、単に
 (1).が( 1).を手本として )この句(「人の世を渡る」)を「付加」したか、
 1).が( (1).を手本として )この句を「削除」したか、二つに一つ、だ。

 次に、(2).の場合と 2).とは、意味が全くちがっている。
 (2).の方は、次の意味だ。
「(1).のように、表面幸せな人々にも、内面には“胸を刺す”復讐心は必ずあろう。しかし、わたし(コロスの女神)たちは、そのような“復讐”には関係がない。」
(コロスの女神は、「母親殺し」の息子に対し、徹底した復讐を行うべき任務をもつ。エリーニュス。)

 2). の方は、次の意味だ。

「(2).のように、幸な人々は、わたしたちの“復讐”などとは全く無縁の人たちだ。」
 すなわち、「祭文」の場合、“世の中の人々は、表面幸せに見えても、皆「復讐心」をもっている”という人間観に立っているのに対し、弥生子の方は、“世間のほとんどの人は、「復讐心」などない”という立場に立つ。
 両者、「人間観」を異にしている。 (4)

 そしてこの場合も、二つに一つだ。
 (2).は、(  2).を手本として )この句(「胸を刺す」)を「付加」したか、
 2). は、( (2).を手本として )この句を「削除」したか。

 (1).と 1).の場合、同じ意味ながら、1).の方がずっとスッキリしている。従って「(1).→ 1).」の形の「削除」の行われた可能性の方がより高いであろう。

 (2).と 2).の場合、意味がちがう。しかも、(2).の方が格段に「人生観」ないし「人間観」が深い。従って「 2). →(2).」の形の「付加し(「胸を刺す」)が行われた、とは考えがたい。

 では、状況は、どのような姿を“暗示”しているか。
 それは、次のようだ。「弥生子は、右手に『祭文』を持ち、左手にブルフィンチの英文を持っていた。
 そして『祭文』をもとにして、英文によって校訂(削除)を加えた。」
 まことに、一見“奇想天外”ながら、右の状況を「仮定」する以外に、両史料の誤差を解決する道は見出しがたいのである。

 第二、右の状況をさらに裏づけるのは、左の対照だ。
(D)「ギリシア祭文」
「とても滅ぶるべくギリシアならばやそれもよし」

(E)「伝説の時代」(「神話」)
「とても滅ぶべきギリシアならば、それもよし。」

(F)ブルフィンチの英文
"If Greece must perish we thy will obey"

右を精視すると、次の事実が判明する。
〈イ〉右の「F」の英文から、「E」の訳文は“生じ”えない。なぜなら
"We thy(「あなたの」“神の所有格”)will obey"
という英文は、バイブル(聖書)の章句にもとずく訳語であり、直訳すれば、
「わたしたちはあなた(神ーーゼウス)の意志に従います。」
となろう。このような重要な、肝心の章句を
「それもよし。」
の一語で訳すことなど、わたしには到底考えられない。では、何故か。

「弥生子は、お手本とした(D)の表現を“踏襲”した。」

 この理解なら、可能だ。すなわち、

ブルフィンチの英文から、ストレートに弥生子訳は成立できない。

 これが動かすべからざる「推定」だ。わたしには、そのようにしか考えられないのである。

  七

 次の例に移ろう。
(G)『伝説の時代』
「天と地との父よ、おん身のアカイアの軍兵(ぐんぴょう)を暗黒(やみ)より救ひ給へ。
 空を清め給へ、日輪(にちりん)を與へ給へ。
 おん身の主権(しゅけん)かくてあらば、滅亡こそ伴はめ。
 さはれあゝ日輪を與へ給へ。」
         (カウパーCowper譯) (5)

(H)「ギリシア・ローマの神話」(岩波本、一九七八)
「天と地の父、アカイアの勢を暗黒より救いたまえ。
 空を清めたまえ。日をあたえたまえ。
 おん身の主権かくてあらば、滅亡こそ伴わめ。
 さあれ、おお、日をあたえたまえ。」
          (クーパー訳詩の意味)

(I)ブルフインチの英文
"Father of heaven and earth! deliver than Achaia's hast from darknss; clear the skies; Give day; and, since thy sovereign will is such, Destruction with it; but, O, give us day. Cawper"

 右の(G)と(H)とを比べると、古文調の仮名等が直されているだけで、趣意・行文に大差はない。
  その上、いずれも、(I)の「ブルフィンチの英文」を、忠実に、そして平板に「逐語訳」されていることが知られよう。
 "thou"も「おん身の」という形ながら、省略されていない。
 そこには、先出の(E)のように、
 "we thy will obey"

「それもよし」の一句で現わされる、といった「飛躍」は存在しないのである。

 その上、全体としても、(E)が奔放・流麗な文語調を駆使しているのに対し、こちらの(G)(H)の方は、素直、かつ平板なのである。
 もちろん、この(G)(H)の場合は、「ギリシア祭文」の中には、該当する部分がない。すなわち「お手本」がなかったのである。弥生子「本来の」訳文の姿が、ここに現わされているのではあるまいか。

  八

 全体の姿を見よう。そこには、次のような注目すべき点がうかがわれる。

〈その一〉弥生子訳は、「大正二年本」より、現岩波本に至るまで、すべて「地の文」は口語文の「です」「ます」調だ。
 その「です」「ます」の大海の中に、先記のような「文語の詩」が、ごく少数(五指に満たぬくらい)、“浮んで”いるのである。
 これに対し、「ギリシア祭文」の方は、全文が同一の文語調であって、「段差」がない。これは、重要な点だ。

 〈その二〉そしてもっとも重要な点、それは、弥生子訳は「ブルフィンチの原作」全体の訳ではない、という一点である。
 原作には、「一九八個」(数え方で若干差はあるが、二〇〇個前後)の「叙情詩」もしくは「叙事詩」が各節ごとにあげられている。いいかえれば、弥生子の訳した「ストーリー部分」は、これらの「詩」の“解説”的役割をになっているのである。

 しかし、弥生子訳では、これらの「詩」のほとんどすべてが「カット」されている。その上、そのような
 「原作 ーー 訳著」
の間に一大変更の存在する旨の「ことわり書き」もまた、一切存在しないのである。
 そのような、一種“不可解”な状況の中の、いわば「稀な例外」、それが今、本稿で扱っている「詩」なのであった。(6)

  九

 もう一つの「例外」をあげよう。

(J)弥生子訳(岩波本)
「日の御神の二輪車の御者なるパエトンは、ゼウスの
 雷電に打たれて
 この石の下に眠る。
 父の火の車は御し得ざりしも、登らんと思い立ちしは
 ゆゆしかりき。」

(K)ブルフィンチの英文
"Driver of Phaebus' chariot Phaeton.
Struck by Jove's thunder, rests beneath this stone.
He could not rule his father's car of fire,
Yet was it much so nobly to aspire."

 ここでも、(J)は(K)に対し、ほぼ忠実な訳だ。"nobody"を「ゆゆし」と訳すような“工夫”はあるものの、全体としては素直な訳文である。そこには格別の「飛躍」はない。

 一〇

 ではなぜ、弥生子はこのような「詩の大量カット」を行ったのか。
 その理由は、否、「削除の事実」をも、本人が語っていないのであるから、判明しようはないけれど、あえてわたしの「推察」をのべさせていただければ、

「詩のリズムをもつ、口語訳は難しかった」

からではあるまいか。さりとて「文語訳」となれば、大正期の英文系の教養の持主たる少女(「大正二年」には、二八歳)にとって、「文語」を“使いこなす”ことはなかなか困難事に属したのではあるまいか。
 萩原朔太郎が長く「口語詩」を作りながら、突然最晩年、「文語詩」に転じた経緯は、文学史上著名だ。それまで「口語詩」では現わせぬ「詩の世界」へのフラストレーションに悩まされていたのである。
 田山花袋の『蒲団』以来、「散文」の世界では、著々と口語文化は進展した。しかし、詩の世界、ことに「詩の翻訳」ともなれば、上田敏・小林秀雄のような鬼才を待たずしては、容易にはなしがたかったのではあるまいか。
 ともあれ、ブルフィンチ自身は、当著(一八五五)の前後に
 Herbrew Lyrical History 1853
 Poetry of the Age of Fable 1863
があるように、「詩を愛し」「詩を重んずる」人であったこと、疑いがないようである。そして当著もまた「詩をめぐる、伝説の時代」として著述されていたのであった。

 一一

 わたしは「弥生子の非」を論ずるために本稿を草したのではない。全くない。なぜなら、弱冠二八歳(実際の訳業は二〇代半ばであろう)の身で、この著述を世に贈ったこと、日本の読書界の「ギリシア・ローマ神話」認識に対する、多大の寄与であった。爾後、改版・増刷を重ねた事実が何よりこれを証する。晩年「文化勲章」を得るに至った生涯の閲歴の、これは出発点であった。その事実を疑うことはできないからである。

 しかし反面、本稿にのべたところもまた、疑いえぬ事実だ。その事実を正視する限り、

『古代ギリシア祭文』は、弥生子からの盗作などではありえない。

 この帰結に至るまいとしても、他の道はありえないのである。そしてこの帰結をのべること、わたしには決して「弥生子の本旨」にもとるものではない、と思う。
 なぜなら、弥生子が「つて」によって当「ギリシア祭文」を入手したとしても、その「出所を明かさぬしことが、その前提条件となっていたと思われるからである。
 その点、福沢諭吉の『学問のすすめ』冒頭の

「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと言えり。」

の場合と、同様であった。
 福沢諭吉は、豊前の中津の出身、弥生子は豊後の臼杵の出身、同じ大分県だ。豊前・豊後は、同じく小笠原氏の領するところであった。 (7)
 弥生子は詳密な日記の執筆者として著名であるが、関東大震災によって「明治・大正年間」の日記は失われて存在しない。

 一二

 本稿は、その論証を「完結」していない。否、することができないのである。
 なぜなら、この問題こそ「寛政原本」の出現を待って、はじめてその「最終決着」を迎えるべきものだからである。ことの本質上、この理路は変えがたい。
 しかるになぜ、今本稿を草したか、と問われれば、最初にのべた「いじめ」問題がその答だ。
 「喜八郎氏、偽作」説の「決め手」のように『季刊邪馬台国』五二号に報ぜられ、これを「盲信」する同調者が少なくなかったから、これに対して、今の時点で反撃し、「いじめ」を消滅させる、あるいは軽減する、その一助となることを願ったにすぎぬ。
 しかるに、研究の進展の結果は、意外な局面を現わすこととなったのであるけれども、わたしには他意なきこと、すでにのべたごとくである。
 それにしても、本稿で明らかになったこと、それは「偽作」論者の“粗雑さ”だ。
 弥生子側についても、当初の「大正二年本」を検せず、ブルフィンチの原著も検せずに、「断定」だけを急いだ。
 その上、肝心の「古代ギリシア祭文」にしても、『丑寅風土記』(六冊本)の全体を検せず、ために「明治四十二年三月筆了、云々」の末吉奥書(秘書役の長作の筆跡)にもふれることなきまま、「断定」だけをあせった。どのような「弁解」をなそうとも、現実の一人の人間(和田喜八郎氏)に対して、「偽作者」呼ばわりする以上、努力の「省略」の許されるべき理由はない。
 わたしは、ギリシア語原文への遡及、その探究を学問上の目標、楽しみとしているのが現在だ。学問には、時間と労力が不可欠なのである。

 一三

 最後に、弥生子訳には全く出現せぬ、「三」の祭文についてふれておこう。
 最初に「十四神」の名をあげ、それに「オリュンポス山なる十二神」を加えている。
 右の十四神から「神」のつかぬ「プロメテウス・エピメテウス」を引き去っても、通例わたしたちの知っている「オリュンポスの十二神」とは全く一致しない。「十二」という数合わせをしてみても、問題の解決にはならないのである。
 わたしは次のように考える。「オリュンポス十二神」という「定型」の成立するまで、つまりそれ以前に、幾多の(「十五」「二十」等)ワン・セットの神々があった。それぞれのセットは、それぞれの「氏族」と対応していたのであろう。それら「セット群」の中から、最終定型としての「オリュンポス十二神」が成立し、“最高権威”のごとく見なされるに至ったのである。
 この「十四神」は、そのような「オリュンポス十二神成立以前」の、一つの「セット」をしめすものであろう。
(そのような、各地の「定型化」進行の最後に、「エホバ神」<ヤーウエ神>とという「一神の定型」が出現するに至ったもの、とわたしには思われる。) (8)

 一四

 秋田孝季の「中近東巡回」は、天明年間(一七八一〜一七八八)のことのようである。
 その経験を、「寛政六年八月廿日」に記したのである。それを「ギリシアの古老より拝聞せしものなり」と言う。
 はじめわたしは、この表現が不満だった。「町の名や個人名」が書かれていないからである。
 しかし、一つの重大な事実に思い当った。
 天明年間、ギリシアはトルコ領であった。回教の支配下にあったのである。その中で、
「吾が願ひは、今に唱へし神より他あらず」
と言うとき、たとえそれが「古代の祭文」の“復唱”であったとしても、「、アラーの神」「、ギリシア正教(キリスト教)の神」の信条告白となっていたのではないか。「匿名」は必然だったのかもしれぬ。
 ブルフィンチは、その著の冒頭で
 「古代のギリシア・ローマの宗教は滅びてしまいました。いわゆるオリュンポスの神々は、今では一人の信者も持っていません。」(弥生子訳)
と書いているけれど、確かに「公的に」はそうであろう。しかし、事実はどうか。
 かつて掘田善衛は、その名作「アンドリン村にて」において、スペインの祭を叙し、表面のキリスト教の行列の、過ぎ去ったあと、多神教のケルトの踊りと歌が生き生きと“とり行われている”状況を活写している。
 多神教の往年の聖地、ギリシアには、そのような状況は存在しなかったであろうか。
 わたしたちの探究は、まだその緒についたばかりである。

〈注〉
(1) ブルフィンチの原文(英文)では、"Cowper"の一語だけである。

(2) この点、岩波本(各版)とも、大同小異、同じ結論である。

(3) 同誌は、絶えず「無断盗載」をつづけている。「盗載誌」だ。日本の社会では、この点“ルーズ”な慣例があるようであるけれど、世界に恥じぬ近代社会に入るためには、このような「盗載」が許されてはならぬ。今回の「筆跡誤認」問題は、まさにそれに対する「項門の一針」となろう。

(4) 『丑寅風土記』の場合は、“いかなる人間にも、内心には「復讐したい相手」がいる。しかし、わたしたち(コロス)の役割は、父親殺しのような重度の復讐のみだ”という人間観である。これに対し、「ブルフィンチ〜弥生子」の場合は、“大部分の人々は、「復讐」にはかかわりがない。しかし母殺しのような重度の罪を犯す人が(例外的に)ある。これをわたしたち(コロス)は許さない”というのである。観客の立場からは、後者の方が“安心”して見うるけれど、人間観自体は、前者の方が、はるかに「深い」のである。

(5) 注(1) 参照

(6) これに対し、角川文庫本の『ギリシア・ローマ神話』(大久保博訳)では、「詩」もすべて訳されている。
(7) ただし、他に幕府の直轄領などがある。
(8) この点、別に論ずる。



〈補〉

 本稿終筆後、驚くべき問題に遭遇した。イリヤッド(イリアス)のギリシア語原文を詳細に検討したところ、意外にも「孝季訳」(『丑寅風土記』の中の「古代ギリシア祭文」第二節)の方が、ギリシア語原文と深く対応している事実が判明した。これに反し、「弥生子訳」(大正二年本及び岩波本)は(本稿に論証した通り)「ポープ訳」とは、“似て非”なる側面をもつことが、一段と明確に判明することとなった。

 その結果、第一、やはり「弥生子訳」(この個所)は、「ブルフィンチ」及び「ポープ」訳からではなく、「孝季訳」に依拠していた。

 第二、「孝季訳」は、場合によると、イリアッドの「原典クリティーク」に対し、一点ながら、重大な寄与をなす可能性が存在すること。

 この二点が浮び上ってきた。もはや「偽作、云々」といった、低次元の問題にはとどまりえぬ新状況が出現したのである
(この問題については、次号で詳述したい。この点、上林昌太郎氏〈「多元的古代」研究会・関東〉のおかげを深くこうむった。感謝したい。そしてこの問題に私の目を向けて下さった水野孝夫氏にも、また)。


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