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和田家文書は真作であるー「偽作」論者への史料批判ー(古田史学会報3号)
『新・古代学』古田武彦とともに 第1集 1995年 新泉社
特集2 和田家文書「偽書説」の崩壊
三つの質問状
古田武彦
はじめに
この二、三年来、『季刊邪馬台国』の和田家文書攻撃は、目に余る暴状をしめしている。学問研究上の基本ルールを踏みにじった上、人間と人間との間の「最低限の礼儀」さえ放棄してかえりみない。そういったていの実状をしめしているのだ。
今年以降、それらを逐一再検討したいと思っている。だが、今は、その中でもいちじるしい問題点を三つ、とりあげてみたい。
一
今、「和田家文書攻撃」と記したのは、他でもない。単なる「文書分析」や「史料批判」の領域をはるかに踏み越え、和田家文書に対して真面目に、というより通常の姿勢によってとりあつかう者に向って、あたりをかまわぬ「中傷攻撃」をほしいままにする。それが『季刊邪馬台国』の基本姿勢となっているからである。
わたしにとって、許しがたい一文があった。次のようだ。
「岩手県胆沢郡衣川村に、安倍頼時の菩提を弔う九輪塔と、安倍一族鎮魂碑が再建されている。その地は、昔から九輪堂と呼ばれていて、藤原清衡が建立したという伝承があった。そこの奥まった一角に、突然安倍頼時の墓が出来た。(中略)
実は、和田喜八郎氏が、石塔山荒覇吐神社にあった安倍頼時の骨を、衣川青史会に寄贈し、墓が出来たというわけなのである。なぜ頼時の骨が津軽にあるのかも疑問だが、その骨を鑑定したというのが『古田武彦』氏なのである。」
(藤村明雄「ご神体と縄文灯台 ーー古田氏は、どこまで『和田家資料』に加担するのか」『季刊邪馬台国』五四号、一〇九頁)
さらに「古田氏がどこで鑑定したのかは、鑑定書が提出されていないのでわからないが」と言い、「津軽に頼時の墓があって、そこから掘り出した『骨壷の中の骨』を鑑定したという古田氏のいい加減さも相当なものだが」と言い、「勝手に墓を造ったり、骨を埋めたりしてもいいものかどうか、大学教授や歴史の会としての良識を疑いたくなる」と結んでいる。
わたしは、これを読んであきれた。噴飯ものだ。否、笑う気にすらなれなかった。「安倍頼時の骨」など、見たことも、聞いたこともない。それどころか、わたしには「骨を鑑定する」ような、能力もなければ、趣味もない。かつて誰人の骨も、「鑑定」したことなど、一切ないのである。
誰か、他の学者(人類学の専門家)と“とりちがえた”か、さもなくば、全くのガセネタ、つまり「作り話」であろう。
問題は、次の一点だ。これほど事実無根一〇〇パーセントの「古田攻撃」について、一回も、わたし自身に「確認」をとらなかったことである。とれば、事実無根は、すぐ判明したのに、全くせず、「活字」にさせた。
この「活字」を、例の『アサヒ芸能』(一九九四・九・二九)が“活用”した。例の偽念書、偽証人使用による「古田攻撃」の先鞭をつけた雑誌(徳間書店)だ。
「これだけではない。岩手県衣川村では安倍一族の墓苑が掘り出され、和田氏のところから発見されたという安倍頼時の骨が埋葬されている。この骨もまた古田教授の鑑定によるものだ」(一九二頁)
この記事を『季刊邪馬台国』五五号は、そのまま「転載」している(一四頁)。
「偽念書」「偽証人」に加え、この「偽鑑定」問題、いずれも、『アサヒ芸能』と『季刊邪馬台国』との、連係プレイであることが明白だ。文字通りの「自作自演劇」である。「ウソを、何回もくりかえせば、人々はホントと思う」このヒトラー宣伝法の真髄が、「犯罪心理学者」によって実行されているのだ。わたしは、次の二点を要求する。
第一、藤村明雄氏、安本美典氏、そして徳間書店責任者(社長)は、右の「骨鑑定」が古田によった、という証拠を提出せよ(「偽証人」の手法は不可)。
第二、それができなければ、率直に、明白に謝罪した上、「和田家文書攻撃」を停止せよ。
以上だ。
二
「偽作」説の崩壊を、喜劇的に象徴する事件がおこった。「因果応報」事件である。 『季刊邪馬台国』五四号のグラビアに図1が掲載され、次の解説がのせられた。
「『和田家文書』の『陸奥古事抄全』のなかの『因果応報』の末文。『大正三年』の鏡字がかなり読みとれる。和田喜八郎氏が、『大正三年銘』の反故紙を入手し、不注意にそれと気づかず、『明治三十三年』と書いたと見られる。粗雑な偽書作成である。本文の斎藤隆一氏『荒覇吐神の幻想』参照。『大正三年』『明治三十三年』を、長円でかこんだのは編集部。」
一見、「偽作」の決定的証拠と見えよう。しかし、その実、「偽作説、否定」の決定的証拠となったのである。
その証拠は、この冊子の裏にある(図2)。そこには「大正六年、和田家蔵」の年時が記載されている。その一枚前にも、やはり「大正六年」の年時署名があり、その上、本文中に「寛政二年より大正六年に至る」云々の文言さえ出現する。すなわち、当冊子は「大正六年」時点の執筆であり、『季刊邪馬台国」で指摘した部分は「明治三十三年時点の末吉の文章の再写」にすぎなかったのである。
このようなケースは、よくあることだ。わたしが親鸞の教行信証後序を分析したとき、「流罪中(三〇年代後半)の自分の文章を元仁元年(五二歳)の親鸞自身が再写している」という視点に立ったとき、従来の研究史上屈指の難問が解決したのであった(『親鸞思想〜その史料批判』)。
末吉の明治写本の場合は、何回もこの類のケースに出合った。その上、偶然にも、当冊子がわたしの手元にあった(今年五月以来)から、その実物によって、右の事実が確認されたのである。
当冊子の筆跡は(末吉晩年に多く見られるように)末吉の子、長作(喜八郎氏の祖父)の筆跡である(図3)。喜八郎氏の筆跡(図4)とは、似ても似つかない(長作は、末吉や喜八郎氏よりは、流麗な筆致の持主である)。
かくして、当問題は「一片の茶番劇」として終わったかに見えるが、そうではない。
次の四点が重要だ。
〈その一〉「安本美典・三上喜孝責任編集」を名乗っているのであるから、その「責任」をとって、喜八郎氏に謝罪し、そのゆるしを乞うべきである。
〈その二〉斎藤隆一氏も、同様である。
〈その三〉このような「あやまち」がなぜおこったか。『季刊邪馬台国』は責任をもって追跡し、公表すべきである。なぜなら、当冊子の史料状況(くりかえし「大正六年」が出ている)から見て、少なくとも「原資料提供者」が「事の真相」を知悉していたこと、疑いがたいからである。
当誌がこのような、「責任」ある者として当然なすべき「追跡」「公表」「謝罪」を行わないとすれば、すでに「事の真相」を知りつつ「偽妄の論証」を行わせたのは、当誌の責任編集者自身である。そのようにわたしたちは了解せざるをえないであろう。そのさいは、「責任編集」とは「犯罪的編集」の別名となろう。
〈その四〉さらに、決定的に重要な事実がある。それは「偽作論者たち」が、末吉と長作の筆跡の区別ができずにいることはもちろん、その両方を“ひっくるめ”て、喜八郎氏の筆跡と錯認していたこと、はしなくも、その根本事実が、当茶番劇の終末と共に、クッキリと浮かび上ったことだ。すなわち、「偽作」説の基礎をなしてきた「筆跡認識」は、“真っ赤な偽妄”だったのである。
運命の女神は、まさに無恥の「偽作論者」たちに対して、まぎれもない「因果応報」の決定的な処罰を与えたもうたようである。
三
もう一つ、言っておきたい点がある。それは『季刊邪馬台国』における「偽、筆跡鑑定人」群の存在についてだ。
筆跡鑑定者には二種類ある。第一は、学問的筆跡鑑定者、第二は、御用筆跡鑑定人だ(以下、御用鑑定人と略称する)。
御用鑑定人とは何か。江戸時代に流行した「箱書き」の能手である。「菅原道真公の直筆」「豊臣秀吉の直筆」といった形で、地方の素封家に伝来する書蹟に対し、「本物」であることを“裏書き”するのである。もちろん、「鑑定料」を入手する。それらのすべてがまちがっていたわけでもないであろうけれど、その多くは、「依頼者の要望」に応じたにすぎない。この場合、依頼者のもとに、その書蹟がいかにして伝来したか、その出所の研究など、一切問うところではない。
これに反し、学問的筆跡鑑定者の場合、当の書蹟は、研究の出発点である。当然、「伝来」や「入手」「出所」などの研究が、そこからはじまる。そして大切なこと、それは当該資料(鑑定対象)と同類、同質の相当量の比較資料に恵まれない場合、またその比較資料(筆跡資料)の出自・身元が不確かな場合、その学問的鑑定者は、断固として「分かりません」と告げる。その勇気の所在の有無こそ、「学間的鑑定者」と「御用鑑定人」とを峻別すべき一点なのである。
では、『季刊邪馬台国』に動員された(大学・高校・小学校教師等の)「鑑定者」たちは、そのいずれだったであろうか。次号において、じっくりと、慎重にその一点を鑑定させていただくこととしよう。
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