東北の真実ーー和田家文書概観(『新・古代学』第1集 特集1東日流外三郡誌の世界)
続平成・翁聞取帖 『東日流外三郡誌』の真実を求めて(『新・古代学』第4集)へ
和田家文書「偽作」説に対する徹底的批判(『古代に真実を求めて』第2集)へ
古田史学会報
1994年11月 3日 No.3
今年は、和田家文書にとって画期的な年となった。『東日流外三郡誌』など、和田家に蔵されてきた貴重な文書群に対し、所蔵者(和田喜八郎氏)の「偽作」と称してきた、その一連の論議が結局、道理に反し、真実に背いていたことが白日のもとに明白となったのである。
この点、詳細は後日にゆずり、今は簡明に要点を列記しておきたい。
二
第一は、「三内丸山遺跡」の出現である。青森県青森市内で発掘されたこの遺跡は、縄文前期後半から中期にかけての一大居住地帯であるが、中でも衆目を集めたのは「二十五メートル」もの木造建築物の出現だった。(新聞では「二十メートル前後」と報道。)宗教的建造物であろうとされたけれど、縦八・四メートル、横四・二メートルの面
積をもつ、これほどの建造物の存在は、誰人も「予想」しえなかったかに見えた。
しかし実は、「予想」どころか、その存在を明記していた文献があった。和田家文書の『東日流外三郡誌』がこれである。
「雲を抜ける如き石神殿を造りきあり、」
(第一巻、北方新社・八幡書店版)
同書では「神殿」の用語少く、「石神」の用語は頻出する。「阿蘇辺族の石神」「津保化族の石神」等。青森県下に「石神」の地名さえある。それゆえ「石の神殿」ではなく、「石神の殿(高殿)」の意であろう。その上「雲を抜ける如き」という形容句は、ピラミッドのような石造物よりも、相撲の櫓太鼓を下から見たときにこそふさわしい。すなわち、今回の高層木造建造物にピッタリの表現なのであった。
これは秋田孝季が「津保化族の風習」として記している一文であるが、その津保化族の代表的な集落として、その筆頭にここ「山内(「三内とも記す」と注記)」の地をあげているのである(「北斗抄十三」未公刊)。
孝季が「石塔山の由来書」をもとに書いたという、このような「石神殿」の記載は、もちろん今年の発掘より数年前に「公刊」されているものである。すなわち「偽作」論者の愛好する「出土事実を見て、喜八郎氏が書いたのだろう。」という類の遁辞は全く通用しない。とすれば、人々は、先入観なく、真実に従う理性を失わぬ限り、和田家文書「偽作」説という迷妄をいさぎよく捨て去る他、とるべき道はない。
三
それだけではない。孝季によれば、津保化族は靺鞨、珍愚志(ツングース)族の一派であるという。彼らは、東なる各地(大草原の国、常夏の国等)に遠征した後、故郷へ帰ろうとして筏群(「島なす大筏」)に乗じて西行し、下北半島(青森県)宇曽利(今の恐山近辺)に着き、青森湾岸やその周辺(是川・神威丘・石神等)に定住するに至ったという。ところが、最近黒耀石の鏃に対する屈折率の検査により、津軽海峡圏にもっとも分布する黒耀石の鏃(北海道赤井川産。札幌と函館との間。)が、黒水靺鞨の中心拠点の一つ、ハンカ湖(黒流江の支流の淵源)やウラジオストック周辺の遺跡から、多数出土していることが判明したのである。縄文後期を中心とする時期だ(三内遺跡の二〇〇メートルそばの近野遺跡は縄文後期)。
このような「津軽~靺鞨の領域」間の一大交流の事実は、古事記・日本書紀・風土記の世界からは全く「意味不明」だ。だが、和田家文書の視点からは、解明の道への光が開かれているのである。時代は下がるけれど、多賀城碑中の再末行「靺鞨国界を去る三千里」の一句も従来は「不可思議」としか見えなかったけれど、「縄文の」おそらくは(未開明ながら)「縄文以来の」靺鞨との一大交流史に立つとき、一筋の史的探究の道が開かれよう。
論じてここに至れば、一方の記・紀の類にのみしがみつき、貴重な和田家文書の所伝を「偽作のゴミ箱」に投げこもうとしてきた人々が、いかに痴愚にして理性を失った暴挙に奔っていたか、すでに一目瞭然であろう。
四
さらに、第二の重要な発見があった。『エラズマス・ダーウィン』(工作舎刊)の刊行である。昨年の六月の刊行だが、上城誠さん(「古田史学の会」静岡)のおかげでこの本を入手できたのは、今年の九月だった。読んだ。驚いた。いや、わたしの「予測」した通
り、このチャールズ・ダーウィンの祖父の段階で、すでに「ビッグ・バン」「進化論」の理論が萌芽的な形ながら、表現されていたのである。これは、二つの意味で画期的だ。
<その一>は、わが国の自然科学史上の意義だ。今後、これらの「西洋思想の到来」を叙述するとき、必ず「寛政十~十二年(一七九八~一八〇〇)」における、孝季たちの「受講」と図示・記述にふれなければならぬ 。ふれなければ、その科学史家は「無知」もしくは「偏向」に陥る他ないであろう。
<その二>は、孝季と和田長三郎吉次の実在だ。彼らの「実在」なしに、同時代(十八世紀末)のヨーロッパの新科学思想を「受容」することなど、不可能だからである。
そして“駄目押し”は、次の一点だ。
<その三>に、「和田家文書、喜八郎偽作説」の崩壊である。「ビッグ・バン」「進化論」の萌芽説を記した、孝季の「太古絵巻」が公刊(津軽書房、『東日流六郡誌絵巻・全』)されたのは、今回の工作舎本の公刊よりずっと前だから、「喜八郎氏の偽作」など、到底成立しえぬ
こと、自明である。
「渾沌全体が火薬の粒のように一斉に爆発し、同時にあるいは時をおかずして、無限の空間に向けてあらゆる方向に拡散した」(「現代宇宙論で流行しているビッグ・バン説も予見されている。」--著者の評)
「現存するすべての植物と動物は(太古の海の中で)自発的に生じた微少な生物を起源としている。」(「進化を信じるとの宣言」--著者の評)
さらに、孝季が「受講」し、記述した「適者生存」説もまた、この祖父の科学思想の中に存在した(同書三八三ページ)。恐るべき一致と対応だ。
この本の著者、デズモンド・キング・ヘレは英国学士院会員(物理学者)であり、科学・医学・技術史委員会会長である(一九二七年生れ)。(『真実の東北王朝』参照)
五
「偽作」説の崩壊を、喜劇的に象徴する事件がおこった。「因果応報」事件である。
「季刊邪馬台国」五四号(今年夏号)のグラビアに「左図」が掲載され、次の解説がのせられた。
「『和田家文書』の『陸奥古事抄全』のなかの『因果応報』の本文。『大正3年』の鏡字がかなり読みとれる。和田喜八郎氏が、『大正3年銘』の反故紙を入手し、不注意にそれと気つかず、『明治三十三年』と書いたと見られる。粗雑な偽書作成である。本文の斎藤隆一氏『荒覇吐神の幻想』参照。『大正3年』『明治三十三年』を、長円でかこんだのは編集部。」
一見、「偽作」の決定的証拠と見えよう。しかし、その実、「偽作説、否定」の決定的証拠となったのである。その証拠は、この冊子の裏にある(A図)。そこには「大正六年、和田家蔵」の年時が記載されている。その一枚前にも、やはり「大正六年」の年時署名があり、その上、本文中に「寛政二年より大正六年に至る」云々の文言さえ出現する。すなわち、当冊子は「大正六年」時点の執筆であり、「季刊邪馬台国」で指摘した部分は「明治三十三年時点の末吉の文章の再写
」にすぎなかったのである。
このようなケースは、よくあることだ。わたしが親鸞の教行信証後序を分析したとき、「流罪中(三十代後半)の自分の文章を元仁元年(五十二才)の親鸞自身が再写している」という視点に立ったとき、従来の研究史上屈指の難問が解決したのであった。(『親鸞思想--その史料批判』)。
末吉の明治写本の場合は、何回もこの類のケースに出合った。その上、偶然にも、当冊子がわたしの手元にあった(今年五月以来)から、その実物によって、右の事実が確認されたのである。
当冊子の筆跡は(末吉晩年に多く見られるように)末吉の子、長作(喜八郎氏の祖父)の筆跡である(B図)。喜八郎氏の筆跡(C図)とは、似ても似つかない。(長作は、末吉や喜八郎氏よりは、流麗な筆致の持主である。)
かくして、当問題は「一片の茶番劇」として終わったかに見えるが、そうではない。次の四点が重要だ。
<その一>「安本美典・三上喜孝責任編集」を名乗っているのであるから、その「責任」をとって、喜八郎氏に謝罪し、そのゆるしを乞うべきである。
<その二>斎藤隆一氏も、同様である。
<その三>このような「あやまち」がなぜおこったか。「季刊邪馬台国」は責任をもって追跡し、公表すべきである。なぜなら、当冊子の史料状況(くりかえし「大正六年」が出ている。)から見て、少くとも「原資料提供者」が「事の真相」を知悉していたこと、疑いがたいからである。
当誌がこのような、「責任」ある者として当然なすべき「追跡」「公表」「謝罪」を行わないとすれば、すでに「事の真相」を知りつつ「偽妄の論証」を行わせたのは、当誌の責任編集者自身である。--そのようにわたしたちは了解せざるをえないであろう。そのさいは、「責任編集」とは「犯罪的編集」の別名となろう。
<その四>さらに、決定的に重要な事実がある。それは「偽作論者たち」が、末吉と長作の筆跡の区別ができずにいることはもちろん、その両方を“ひっくるめ”て、喜八郎氏の筆跡と錯認していたこと、はしなくもその根本事実が、当茶番劇の終末と共に、クッキリと浮び上ったことだ。すなわち、「偽作」説の基礎をなしてきた「筆跡認識」は、“真っ赤な偽妄”だったのである。
運命の女神は、まさに無恥の「偽作論者」たちに対して、まぎれもない「因果応報」の決定的な処罰を与えたもうたようである。
(A)『陸奥古事抄全』末尾
(B)『北斗抄廿七』未公刊
(C)和田喜八郎氏の毛筆の字
六
第四に、さらに進んで『東日流外三郡誌』の本質を穿ち、史料内部からその真実性を明らかにする一大発見に遭遇した。問題は次の文だ。
「余(秋田孝季)が由利家に在住之砌(みぎ)り、(中略)先づ十三湊山王日枝神社に参拝仕り、剣絵馬を奉納仕り、諸国巡脚の無事たるを祈念し、石塔山に一字(「宇」か)の草堂を建立なして旅出でたり。
『寛政二年より文政五年に到る永きに渡る諸国の安東一族なる歴史は深く、茲に東日流外三郡誌、内三郡誌と題して七百四十巻余の歴書と相成りぬ 。然るに秋田千季是を見届けずして他界せるは悲しきなり。』
(a)文化二乙丑年正月元日 和田吉次
秋田孝季翁
明治廿年五月再筆 和田末吉 」
(「安東一族之故事歴巡脚」北方新社版 5 八幡書店版 6。括弧内と『』は、古田)
右の文面について次の二点が注目される。
<その一>『』内、(a)の文中に現れる二つの年時、
1 「寛政二年(一七九〇)より文政五年(一八二二)まで」
2 秋田千季の他界(文化十年<一八一三>)は、この文書末尾の執筆年時である「文化二乙丑年(一八〇五)」とは全く矛盾している。
なぜなら、右の1,2 はいずれも当文書成立時点(文化二年)よりずっと後の年時だからである。
<その二>これは、次の分析によって解明される。すなわち「」内、(a)部分は、「秋田孝季自身による、文政五年以後の追記」である。本来の文章が、この直前の「旅出でたり」で終っていたことは、この文書の表題「~故事歴巡脚」から見ても察せられよう。
孝季の追記の場合、行頭を上げるなり、両脇をあけるなりして、当然「追記の態」をとっていたであろう。
ところが、明治廿年の和田末吉の「再筆」の場合、その上下・両脇を地の文にそろえ、“べらーっ”と写してしまった。そのため生じた、一見「不可解」な文面なのではあるまいか。書写者の不用意としか言いようはないけれど、他の文献にもこのようなケースは少くない。たとえば親鸞の文書・書簡集にも同様の錯乱が生じており、血脈文集蓮光寺本の「発見」によって劇的な解決を見ることとなった(『親鸞思想--その史料批判』冨山房刊、参照)。
以上の史料批判の帰結は、次の重要な一点を指し示す。すなわち、当文面は「偽文」ではなく、真実(リアル)な文章なのである。
なぜなら「偽作」者が当初から、これほど年時関係の「錯乱」した文面を構成するなどということは考えがたい。ところが、真実な文面
をもとにした「追記」、そして書写者の不注意が重なった場合、右のような「年時錯乱」の生じうること、古写本研究史がくりかえしわたしたちに告げてきたところだからである。
すなわち、この「年時錯乱」問題は、「偽作」の証拠では全くない。逆に、「真作ならでは生じにくい」こと、その実状と証拠を明確にしめしていたのであった。
しかもこれは、当文面が真作であることをしめすだけではない。すすんで、次の二点をしめしたのである。
(A)「寛政二年から文政五年まで」約三十三年かけて完成した、という『東日流外三郡誌』の存在そのものが真実であったことをしめす。
(B)本来の文面にのべられた、右の直前(寛政元年)における「剣絵馬」(「宝剣額」)の日枝神社奉納が、真実であったことをしめす。
この二つの重大事実がやはり真実であったことをしめす“基本的叙述の史料批判”をなしていたのであった。
七
今年は、もう一つの重大な「再発見」の年となった。それは、右の「宝剣額」の問題である。ポイントを列記しよう。
1 当額には「寛政元年八月に秋田孝季(土崎住)和田長三郎(飯積住)の両名が当額を日枝神社に奉納し、東日流外三郡誌の筆起と完結を祈願した」旨が記せられている。
2 当額の「宝剣」の裏から「寛政元年八月」(干支に誤差あり)「鍛冶、里原太助」の刻字が見出され、右の額面 の年時記載と一致した。(東北大学金属材料研究所)
3 当額の額面の内容は、右で、史料批判の結果、図らずも真作性の裏づけられた「剣絵馬」奉納の記載と一致し、対応している。
4 日枝神社(現、日吉神社、青森県市浦村)の現松橋宮司は、当宝剣額が就任当初(昭和二十四年)から当社にあった事実を証言。当時の氏子総代や氏子から「当額が古いもので、戦前からあった。」と聞いた、という。当宮司は「神に仕える身に、うそはつけません。」と言われる。(村人から「かかり合い」を恐れて「存否にふれるな」の言辞があったのに対する、当宮司の感懐である。)
5 中里町の青山兼四郎氏は、昭和初年(氏の小学校時分)から当額が日吉神社にあったこと、昭和二十八年頃、村から依頼された測量
のさい、当額を熟視したこと、現在の当額に何の不審もないことを証言された。
以上によって、当宝剣額については、その史料価値に何の疑いもない。
これに対し、「偽作」論者側から種々の批議が出されている。
しかしそれらはいずれも「中傷」に非んば筋違いの議論である。また文化財における
「再利用」という、基本の常識を無視した幼稚な「反論」にすぎぬ。その上に、例の如く「粗雑」な「誤、筆跡鑑定」を“上乗せ”しているにすぎぬ
。(文化財の「再利用」の例は、百済の武寧王陵や法隆寺釈迦三尊の台座等にあり、何等不思議とするに足りぬ のである。)
これらについては、筆を改めて詳述することとし、今は、四十年余、当社の宮司を勤めてこられた松橋宮司の、誠実にして勇気ある金言の重みを再び思いかえしつつ、いったん筆をおきたいと思う。西欧キリスト教国の法廷においては「神かけて」自己の証言の真なることを誓うをならわしとするようであるけれど、同宮司はその同じ重みを以て語り、ビデオに収録させ、簡潔な自己の文章にも表現して下さったのであるから。
宝剣額も、和田家文書も、決して「偽作」に非ず、貴重無比の真作である。わたしもまた、真実という名の「神」の前で、この一文を草し終ったのである。
一九九四、十月二十九日夜
古田武彦
一
『国史画帖・大和桜』は、偽作論者の宝典だった。「和田家文書の偽作性の立証は、これできまり。」そのように信じ込んだ人々も、少くなかった。--しかし、今、原本(画帖、それ自身)を手にしてみると、事実は全く逆、この画帖こそ「和田家文書が真作であった」こと、その事実に対する絶好の証人、無類の証言の書だったのである。
二
八幡太郎義家と安倍貞任をめぐる「衣川の戦」、これは両書(画帖と和田家文書)に共通の題材を扱っているから、対比上、貴重である(多くは、題材が異っている)。
和田家文書の場合、「東日流六郡誌考察図」の中にある(『東日流六郡誌絵巻・全』津軽書房、及び『東日流六郡誌大要』八幡書店、以下「考察図」と言う。)。その図柄は、義家と貞任の二人がそれぞれ矢筒を背負い、弓を手にし、馬に乗っている(A図)。これに対し、画帖の場合(B図)、義家と貞任と、二人の姿(馬と人)が酷似している。この点から、両書の間に(直接にせよ、間接にせよ)関係のあること自体は疑えない。これが今回の問題を生じた原因(の一例)であろうと思われる。
しかしながら、両書を子細に熟視すると、著しい差異が発見される。画帖の場合、義家が貞任の鎧を引きちぎり、右手にもっている。左手には、鉄棒をもつ。そのため、弓はもつことができず、地上にも落ちていない。すなわち、「矢筒を背負いながら、弓を持たぬ
」という、変則の構図の画と化しているのである。考察図の方が素朴にして平明、画帖の方は強引にして無理、この対比が鮮やかなのである。
三
義家の戦功を画いた著名の名画に「前九年の役合戦絵巻」がある。十三世紀中葉の成立であるが、ここには、あの「衣川の応答歌」の場面はない。義家が「衣の館はほころびにけり」と呼びかけ、即座に貞任が「年を経し糸の乱れの苦しさに」と答えたという、文字通り「画になる」場面は画かれていないのである。これに対し、同時期に成立した『古今著聞集』にはじめて右の応答歌の説話が登場する(これ以前の今昔物語集などには、ない)。従ってこの応答歌は「和歌者流の創作」というのが、『大日本史』以来の通説である(『大日本百科』小学館、参照,。)
そこで、次の三段階が存在しよう。
古形(A型)--応答歌ナシ
新形(B型)--応答歌アリ
改変形(C型)-「鎧を引きちぎる」
考察図は、右のA型に属している(津軽書房版)。これに対し、同じ考察図でも「八幡書店版」の場合、B型に属している(この問題については、後記)。
ところが、画帖の場合、C型である。人口に膾炙した、つまり平凡なB型にあき足りず、「鎧を引きちぎる」という、一層「画になる」新工夫を導入したのである。この画の作者、延一(明治二十三年以降、歌川派)の手法であろう。そのため、画の構成に無理を生じたこと、前述のごとくである。
四
考察図の「原型」に、問題の「応答歌」の存在しなかったこと、それをしめすのは、「解添書」である。これは、考察図に付した孝季の解説、すなわち「絵解き」であるが、問題の「衣川の戦」に対しては、全く「応答歌」の片影もない。清原氏の「反忠」によって、衣川柵も、「壮絶無比なる激闘ののち、遂に陥りたり。」とのべるのみ。「応答歌」なき「津軽書房版」の図柄と対応している。
ところが、「八幡書店版」の場合、同じ図柄の上に、右の「応答歌」が記入されている(C図)。これは、「後時の追記」であろう。なぜなら次々頁(二つ目)の「貞任自決の場」(D図)では「御遺歌」として「世の常を逆らふ人の心をばわれ逝くあとに雪ぞ降れ降れ」の歌が記せられている(「八幡書店版」)が、解添書ではこの同じ歌に対し、「遺歌一首」として、敬語の「御」がない。
「御」のない解添書の書法が、孝季自身の用法をしめすのに対し、「御」を付した書法は、別 人(たとえば、和田長三郎吉次。あるいは明治の末吉)の「手」をしめしているのではあるまいか。孝季にとって、貞任は「祖先の同族」であるが、吉次等にとっては「上層者」だからである。
もちろん、孝季はこの「応答歌」を知っていた。「古今著聞集」以後の世代である上、衣川の合戦に甚大・悲痛の関心をもつ彼であるから、当然である。しかしながら、彼はこの「新伝承」を拒絶した。なぜか。「それは古伝承ではない。」という、ストレートな理由と共に、「憎むべき侵略者」たる義家と、じゃらつく如き「応答歌」を交わすなど、彼の好み、及至矜持と合わなかったのではあるまいか。
これに対し、「八幡書店版」の「追記」の場合、それほど「剛直な立場」をとらず、人口に膾炙した「風流の場面 」として、「追記」したのではあるまいか。もしこの「別人」が、吉次その人であったとしたならば、わたしたちは従来、「一枚岩」の如く見えていた「孝季と吉次との間」の誤差を発見したのかもしれぬ
。あのマルクスとエンゲルスとの間の誤差のように。
しかし、ことは「寛政原本」の出現時に確認しうるところ、今はこの「八幡書店版」の場合にも、「鎧を引きちぎる」ような「無理ある新工夫」の見られぬ
点、ふたたび特記しておきたい。「画帖を元にして、考察図を書いた」というような結論は、粗雑な観察にとどまり、精細に事実を観察せぬ
「偽作」論者の妄想にすぎなかったのである。(「津軽書房版」と「八幡書店版」の文章部分は、他にも、異同多く、別 本である。)
(A図)「考察図」
(B図)『国史画帖・大和桜』
五
第二に対比すべきは、「高星丸脱出」図(E図・考察図)と「曽我の夜討」図(F図・画帖)である。このケースは、両書題材がちがう。ちがうけれど、男二人、女一人の姿勢の酷似していること、一目瞭然だ。ここでも、両書の間に(直接にせよ、間接にせよ)関係のあることは明瞭である。
しかし、子細に観察すると、前者が図柄として百パーセントと言っていいくらい「自然」なのに対し、画帖は「不自然」きわまる構図となっている。(当画は、秀湖。明治二九年没、楓湖の門人。)
まず、考察図の場合、貞任の自決のあと、遺児高星丸を落ちのびさせるため、乳母の一の前が抱いて外に出ようとする。向って左端には矢巾甚内が刀の刃を直立させて、外方を看視している。その後方に管野左京が抜刀寸前の姿勢で、侵入者を警戒している。さらに右端上方では、高畉(=畑)越中がかがり火をさし出して、落ちのびるべき路をさししめしている。幼児をかかえる乳母が廊下から足を踏みはずさぬよう、との用意であろう。すべて、脱出の緊迫のただよった名場面である。
これに反し、画帖の場合、女中風の女性が雪灯(ぼんぼり)を抱きかかえている。雪灯は、外を照らす明かりであるから、下を支えるか、上からつるすか、いずれにせよ、中間の和紙を張った部分を外に露出させなければ、用をなさぬ
。しかるに、考察図の幼児(高星丸)の位置に、そのまま雪灯を入れかえたために、このような珍妙な画像となった。
さらに不自然なのは、十郎(向って右側)の持つ松明(たいまつ)だ。ここは、敵、工藤祐経の邸内である。この点、考察図が自分の邸(安倍館)からの脱出であるのと、全く逆の設定だ。だのに、あかあかと松明を焚いて侵入するとは。およそ馬鹿げているとしか言いようがない。「潜入」の態をなしていないのである。不自然きわまる画像である。
以上のように、正確に観察すれば、考察図の方が自然な「古型」をしめし、画帖の方が不自然な「改変型」をしめす。その事実は、およそ疑いがたいのである。(C図)
これに対し、これほどの「改変型」をもって原型とし、「古型」をもって現代人(和田喜八郎氏)の偽作視するとは。正気の沙汰ではない。先入観をもって見れば、「見れども見えず。」その好例として、後世に語り継がれることであろう。
(C図)(衣川合戦の図)
(D図)(厨川太夫貞任自決 一子千代堂丸 添是)
(E図)「考察図」
(F図)『国史画帖・大和桜』
六
第三に対比すべきは、「將門奮戦」図である。これも、両者題材が同じである上、將門と馬の姿勢及び向って右前方で、刀を持ってのけぞっている武者の姿勢が同じである。(考察図は武者に秀郷と記す。)
ところが、考察図がこの両者のみ描く(G図)のに対し、画帖の主人公は別人である(H図)。解説文によると、平貞盛が右上方に小さく描かれ、馬上から弓に矢をつがえて引きしぼっている。父の仇と放った、この矢が將門の眉間に当り、朝敵の末路にふさわしい最後をとげたというのである。
この画帖の場合、(原本でなければ、コピーでは判りにくいが)中心部の二人(將門とのけぞった武者)以外の人物の輪郭や色彩が必ずしも鮮明ではない。ことに、背景の多くの軍勢の描き方は、甚だ素描じみ、色彩もぼけている。これに反し、もっとも描法・色彩の鮮明なのは、考察図と共通する二人なのである。この点から見ると、やはり原型図は考察図側の方であるという可能性が高いのである。このケースは、第一、第二例ほど先後関係が明確ではないが、一応の可能性としてしめしておきたい。(他に、差異点として、考察図は“寝まき姿”で、樹木を引き抜いて闘う姿を描き、秀郷の裏切りと不意打ちに会った將門をしめすのに対し、画帖は正装し、鉄棒をふるう將門を描いているけれど、両者の先後関係は定めがたい。)
(G図)「考察図」
(H図)『国史画帖・大和桜』
七
第四は、「実季の軍功」図(I図・考察図)と「犬千代の首取り」図(J図・画帖)の対比である。ここでも、人物と馬の姿勢が共通 し、両書の関係(直接もしくは間接)は疑いがたい。
ところが、重要な差異がある。画帖の場合、槍に敵の首を突き刺している点、印象的だ。その上、馬上にも前に一つ、後に二つ、生首を腰にぶらさげ、残酷画風の描き方である。しかし、考察図の場合、全くその影もない。槍ならぬ薙刀にも首はなく、腰の前後にもない。腰の後に兜が見え、もしかすると、この下に敵將の首があるかもしれぬが、画面には現れていない。
このように両書を対比すると、画帖を「モデル」にして、考察図が描かれたことは、考えがたい。なぜなら、そのさいは「四個の生首」を画面から削除したこととなるけれど、考察図に付せられた解添書によると、実季は「天王寺裏にて森豊前守勝永と戦ひ、首四十四級を得たり。」と結ばれているのであるから、「生首四つ」を画面から、わざわざ削除すべき道理がない。(犬千代は「十七騎」を討った旨、解説文にある。)
事の真相は次のようであろう。考察図は平明に実季の軍功図を描いた。これに対し、画帖はこれにあきたらず、残酷画風のパンチをきかせた画に「改変」したのである。(後述するように、画帖は明治の画家の画を編修したものが多い。これも、明治期に流行した残酷画の画風の反映ではあるまいか。)
ともあれ、このように、素朴な「古型」と残酷な「改変型」とを対比・熟視するとき、「考察図は現代人(喜八郎氏)が画帖を“モデル”にして偽作した。」というていの主張が、いかに誇大妄想、自家の先入観のみを重んじて事実から目をそむけた妄断であるか、明白ではあるまいか。
逆に、考察図は明治以降の「偽作」に非ず、解添書の記す通り、「寛政五年、孝季」の真作であることをしめしている。たとえ武運つたなく、敗れたりといえども、その敗将の生首をこれ見よがしに“見せびらかす”ような図を描くことなど、心得ある武士にして学者であった、寛政の孝季には唾棄すべきことだったのではあるまいか。明治以降、わたしたちは、そのつつしみを失ったのであろう。
(I図)「考察図」
(J図)『国史画帖・大和桜』
それが、国家側の援助によって版を重ねた、この画帖にこの画が採録し、流布させられた背景だったのではあるまいか。
昭和十年以降、日本の皇軍が中国大陸や朝鮮半島などでなしたこと、アジアの民衆が今も口から耳に伝え、忘るる能わざる、真実(リアル)な「残酷」絵巻を思うとき、この画帖のしめす「時代精神」の存在に、わたしたちは慄然とすまいとしても到底不可能なのである。(わたしの所持している画帖は、昭和十年八月初版、同年十二月には早くも六十五版となっている。)
八
画帖の序文には、次の一文があった。「吾社茲に感ずる所あり、国史画帖、大和桜を刊行して聊か精神教育の資料に供せんと企図し、資料は我が国神代より明治維新に至る間の歴史により、絵は古今に於ける武者錦絵中の日本趣味豊かな名画より採り、どこまでも本書の題名に相応しい感じを与へたのが本書の特色である。」
わたしは当画帖にもとずく「偽作」論証にはじめて接したとき(『季刊邪馬台国』五号)、その所載絵画が「昭和十年の創作画」として扱われているもの、と信じた。なぜなら、その一点を既定事実とせぬ
以上、「昭和十年以降の『偽作』説」は、論理上成立しえぬこと、自明だからである。各絵画中の署名(いわゆる「落款」)か、巻末に各現代画家の名が列記してあるもの、そのように「想像」したのである。(そのさいは、「昭和十年頃の創作」に対する元画の有無が問題となろう。)
けれども、事実はそうではなかった。逆に、明白に「昭和十年時点の創作画ではない。」と明記してあったのである。「偽作」論者は、この記載事実を隠した。読者の眼前に紹介しなかった。なぜか。この記載事実を紹介すれば、「偽作」説は、簡単には成立しがたいこと、自明だからだ。だから隠したのである。卑劣としか言いようがない。
この一文を正視すれば、当然当画帖採録画の“身元探し”を行わねばならぬ。それを行えば、逐次、次の各事実が明らかとなろう。
1 当画帖中の署名(落款)あるものは、ほとんど明治の画家のものである。
2 明治の「錦絵」画家の作風として、その多く「創作」はなく、江戸期の錦絵の「模倣」及び「換骨奪胎」によるものが一般 であること、研究者にとって周知の事実であった。
3 江戸の後半期においても、実はすでに同様である。武者絵の第一人者として著名な国芳は、海外にも知られた著名画家であるけれど、彼の「神宮皇后の『三韓征伐』図」(K図)は、玉山画の「絵本太閤記」(L図)の換骨奪胎であったこと、著名の事実である。(『浮世絵百華』7)
4 孝季の時代たる「寛政年間」は、錦絵の最盛期である上、多色の錦絵が高価なため金持ちの入手するところだったのに対し、版下の下絵は黒一色のため、安価であり、庶民の間に流布したこと。そして孝季の「考察図」もまた、黒一色であり、この下絵タイプのものであることも、同時代の姿として注目せられよう。
以上によって知られるように、本稿で扱った「考察図」が「古型」であるという事実は、必ずしもそれらが孝季の「創作画」であることをしめすものではない。将来の研究によって、孝季の依拠した元絵類が、彼以前の錦絵や下絵類から発見されること、期して待つべきものがあると言えよう。
要は、このように学問上当然至極の探究を一切行わず、自家の「偽作説」に不利な文章をひた隠しにしたまま、「この大和絵問題で、『偽作』は決定」したかのごとく宣伝しつづけ、偽わられた賛同者を増やしつづけてきたこと、その非はいかに強調してもしすぎることはないであろう。
さらに、それに“上乗り”し、紙面にこの問題を大きく扱って、青森県下に「偽作説」ムードをもり上げ、そのため「和田一族いじめ」の風を瀰漫させ、「いじめ」問題を惹起したジャーナリズムの責任は重大であると言うほかはない(東奥日報、一九九三、十二月五日)。
(K図)『三韓征伐』図(『国史画帖・大和桜』)
(L図) 「絵本太閤記」
九
十九世紀末から二十世紀初頭、「ドレフュス事件」はフランス社会に激震を与えた。無実のドレフュス大尉に五年の流刑が科され、その無実を叫びつづけたゾラは、亡命の中にその最晩期をすごすこととなった。
今回の「和田喜八郎事件」は、幾多の点において、この「ドレフュス事件」と相似する側面をもつことを知ったので、最後にこの点に触れておきたい。
第一は、差別問題である。「ドレフュス事件」の背景がユダヤ差別にあったこと、周知の事実であるが、「和田事件」の社会的背景は「蝦夷差別
」「東北差別」にある。「京都の貴族の子孫の邸などならばともかく、青森の片田舎などに貴重無類の文書など、あるはずがない。」これが一般
の“感じ方”であると共に、当問題の社会的基盤となっている。
(東北出身の「和田家文書攻撃者」が“珍重”されるのも、この事実の“裏返し”現象であろう。)「ドレフュス事件」の場合も、ユダヤ人なら、売国的なスパイ行為をやっても不思議はない。」という“国民的感情”がこの事件の社会的基盤となった。第二は、筆跡問題である。「ドレフュス事件」を一貫したものが筆跡問題であったこと、周知のところであるが、「和田事件」でも、筆跡問題が終始重要な位
置を占めてきた。
「ドレフュス事件」の場合、ゾラは三人の筆跡鑑定人、ベロム、バリナール、クアルを告発する。「無実のドレフュス」有罪の判定は、この三人の筆跡鑑定に依拠していた。そして同じく筆跡鑑定上、ただ一人「当文書(密書)の筆跡はドレフュスに非ず。」として否認してきたゴベールの鑑定は顧られずに処断されたのであった。しかし結局「ドレフュス無実」が明白となり、真の犯人(密書の執筆者)が明らかとなった現在、事件を支え、リードしてきた三人の鑑定は「偽鑑定」もしくは「誤鑑定」だったと言う他ないのである。
(真犯人はエステラージー。)けれども、その「誤鑑定」がドレフュスやゾラという人間の運命を左右したのであった。
同じく、当「和田事件」の場合、和田家文書をもって、喜八郎氏の筆跡とする「鈴木政四郎・佐々木隆次・安本美典」三氏の筆跡鑑定が当事件を支え、リードしてきた。(他にも、付和する鑑定者が出現するかもしれぬ
。)
これに対し、喜八郎氏の筆跡(郵便物等)を熟知し、同時に和田家文書(明治写本)の原物に早くから大量に接触し、目下これらに対し、学問的に研究中のわたしが「明白に両者は別筆跡である。」とくりかえし明記しても、「偽作」論者は一切耳を傾けない。
ことは、「ドレフュス事件」の様相とまさに酷似しているのである。この点、公正を望む方々のために特記しておきたい。
第三は、「贋作文書」の件である。ドレフュス有罪の証拠とされていたのが「変造物」すなわち、アンリ中佐による「贋造文書」であったことが判明した。他にも、幾多の贋造「証拠」があげられ、ドレフュスやゾラを追いつめていたが、最後にことは逆転し、これらの「贋造」であったことが明らかになったため、逆に、「ドレフュス無実」の決め手となったのである。
今回も、喜八郎氏やわたし自身に対しても「贋作文書」が表に裏に出まわりはじめているようだ。たとえば「古田が和田家文書作成を依頼した。」という類だ。(週刊アサヒ芸能、第四十九巻三十六号、今年九月末)
これらの流言飛語は、一時的には「偽作」説を喜ぶ人々を勢いづけ、「真作」と見なしていた人々を“動揺”させうるかもしれぬ 。
しかし、結局は「偽作」論者にとって真の「いのち取り」となること、「ドレフュス事件」の教訓のしめすところである。もちろん、 それは、そのために「ドレフュスの五年の流刑」や「ゾラの英国亡命」といった、とりかえし得ぬ
悲劇を生んだ、そのあとであったのであるけれども。
くりかえして言う。すでに生じている「和田一族に対する、いじめ」が、陰惨な事件を起こさぬうちに、学界やジャーナリズム界が、冷静で真実の態度を回復すること、それを関係者に特に切望して、この筆をいったんおかせていただくこととしたい。
<補>
甲図と乙図と図柄が相似している場合、両者の関係(直接にせよ、間接にせよ)があることは明らかでも、両者の「先後関係」は確定しがたいこと、一般
である。たとえば、安倍宗任(M図・考察図)と明智光秀(N図・画帖)との間のごときである。然るに、両者の「相似」をしめしたことにより、「考察図」が明治以降の「画帖」を模倣し、「偽作」した現代人の作である証拠と見なすとすれば、根本的な論理思考の欠如である。
「偽作」論者の拠説は、すべてこの種の「論理的思考の不在」に非ずんば、「先入観にもとづく悪意」に満ちている。まことに、わが国の現在と未来の学問のために、「寒心」せざるをえない。
(M図)「考察図」
(N図)『国史画帖・大和桜』
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