天は人の上に人を造らず・・・と云へり 総覧
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資料 和田家文書2 福沢諭吉『学問のすすめ』関係 天は人の上に人を造らず・・・云へり総覧

『東日流外三郡誌』(昭和五八年一二月二五日発行)
2,安倍次郎貞任遺文(秋田孝季写)康平五(一〇六二)年正月日 寛政五年写一巻518〜 20

安倍次郎貞任遺文 原漢文

 世にありにくき蝦夷の血脈は、茲に祖来千才を越ゆるとも安からず。侵せし国荒しの輩未尚以て吾等が安住を驚かしむ。
 戦こと好みに非ざるが、応ぜずして一族安かるなし。国を司る吾が意に叶ふは、何事もなし。
 生々此の方、父に武を習ひ、文を習ふるも心に悟ることはかなしな(ママ)、大事と想い慕ふその父亦、戦に死す。
 流転は常に心を犯し、吾亦それ覚りつつも修羅道に堕なむとす。依て、茲に末期の為に一筆遺し置くものなり。
 子孫に曰く。生は死に通ず、死は生に通ず、是く曰ふは荒吐神の要旨なり。依て、生死は怖るゝ勿れ何事も吾が心に偽るべからず。心に問ふ事ぞ神に通ず。亦、吾が意に自他を省みず猪進せるは邪道なり
 人の常、富貴にあれかしとも、亦、貧苦にあれ(ママ)ぐとも、日の光り当ること平等也。
 神とは像に非ず。口弁に非ず。尚以て美味、快楽、観喜(ママ)に非ら(ママ)ざるなり。人をして世に過し、国王より貧民に至るまで、衣を脱ぎて裸となりては、何くんぞ異なるや。
 人の生々は、己が為のみその威を慾するは常ならむ、人をして人に生れきは己れならず、神のみぞ覚るるところなり。
 道とははてしなく、人は道ゆい(ママ)に喜憂し、道ゆいに死す。道に正と邪を異にして聖は曰ふ。而乍ら、生く者は生々の為に肉を喰う者、草を喰む者とに異りぬ。是また神の授けき者なりせば、たれぞ恨むべきや。
 吾が一族は蝦夷とぞ称されきは詮もなき倭人の貧しきける心故なり。人の種性、神の創れるものなりせば、人をして人を否可しべきに非ざるなり。
 吾が祖は、よきことぞ曰ふ。即ち人に生る者、天日に照しては平等なりと、人を忌み嫌ふは人にして亦、人の上に人を造り、人の下に人を造るも人なり
 聖は人に善悪を説くも、彼亦、人なりせば神に非ら(ママ)ざる故に曰す事総て人の為ならず。亦、求道のしるべ外道にも支派暗に躍すなり。世に人をして万物一子の如く救済せる人の聖ありや。理非論々すとも己の行々能ざる多し。
 依て、荒吐神を崇拝せし我等が祖ぞ、今世に権をなす者にぞあり。憎しとも天日の如く人の道ぞ生死に当てよろしき哉。神の光とは平等なり。平等是和なり。和是救なり。是を乱す者は非人なり。心もたざる輩なり。
 人をして人を制すは神の真理に背く行為なり。何任をして神に近からむ者ありや。
 国王に位すとも神の御心に叶ふはなし。
 天日は無窮にして光明を万物一子の如く照す。是れ人をして能ざる法力なり。
 人師、論師とて語と行ふとは雲泥の相違ありき、何事をして神に代師とならふぞや。
 吾が一族よ、吾が遺せしを護るも捨つるも己れが心に問へよ。人心に如何なるときとも否可あり。その判断ぞ運命なり。
    康平五年正月日       次郎太夫貞任
 右黒沢尻北上邑阿部忠三郎之家宝
  寛政五年            秋田孝季写


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『真実の東北王朝』(第六章『東日流外三郡誌』を問う)「神は人の上に人を造らず・・・」

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