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書評

書評『和田家資料』(1〜4)を読む

古田武彦

     一
 遠い思い出である。かつて青森市で講演したとき、終って講師室へ引き上げようとすると恰幅のいい中年の紳士から質問をうけた。
 「先生に『東日流外三郡誌』の研究をしていただきたいとおもいます。」
 お答えした。
 「原本を見ませんと研究できません。」
 「原本をお見せします。」
 驚いた。それが藤本光幸さんとの邂逅だった。

 

     二

 藤本さんには既に著作があった。『東日流外三郡誌』七冊である。小館衷三氏との共同の編纂であった。第一巻は昭和五十八年十二月、最後の補巻は昭和六十一年十二月。わずか三年間のうちに次々と出版され、版を重ねていた。その活字本の元本が「原本」と呼ばれていたのである。
 けれども、実際に拝見してみると、それは決して本来の「原本」ではなかった。明治を中心として大正から昭和六年頃に至るまで、和田末吉・長作という親子の手によって再写されたものであった。わたしはこれを「明治写本」と名づけた。
 本来の原本、それは寛政年間を中心として文化・文政に及ぶ時期に、秋田孝季・りく・和田吉次の三者によって作製された古写本だった。わたしはそれを「寛政原本」と名づけた。
 藤本さんから和田喜八郎氏を紹介された。わたしと同年の人だった。農民であるが、先祖伝来の文書に対し、強烈な誇りと愛着をもった方だった。
 藤本さんは喜八郎氏との間の「縁結びの神」となられたのである。

 

    三

 大人(たいじん)の面影をもつ藤本さんは、終生喜八郎氏との交流を変えられなかった。いわば「あく」の強い、個性強烈な喜八郎氏であるから、受け止め手として、藤本さんの人柄なくしては『東日流外三郡誌』を語ることはできない。わたしにはそう思われる。
 藤本さんは右の七冊完結後も、なお和田家文書編纂の手を休めようとはされなかった。それはリンゴジュース会社の社長業の「かたわら」だったから、驚くほかはない。もしかすれば、御当人の意識とすれば、こちらの方が「本業」だったのかもしれない。医者として職業の「かたわら」に『古事記』の研究に終生没頭した、あの本居宣長の偉業をわたしには思い浮かべることができる。ただ一つ、両者の違いは、宣長の場合は「皇国の古伝説」を「明らか」にすることにあった。江戸時代の「定説」であった、中国至上主義の「くびき」から人の目を解放しようとしたのである。
 藤本さんの場合、津軽の地を中心に東北・北陸各地の「皇国とは異質の古伝説」を「明らかに」しようとされた。明治以降の日本国家の政府主導の「定説」である近畿天皇家一元主義の「くびき」から現代の日本国民の目を解放する。より深い歴史の真相を呈示する。その喜びの中で七十六年の生涯をすごされたのではないか。

 

    四

 時を経て、『和田家資料1』(北方新社)が藤本さんの編として公刊された。一九九二年八月である。
 本書の内容は四篇だ。「奥州風土記」「陸奥史風土記」「丑寅日本記全」「丑寅日本史総解」「丑寅日本雑記全」である。表題はさまざまだが、その本質は『東日流外三郡誌』や『東日流内三郡誌』と共通だ。
 その内容は豊富である。たとえば、「古来より陸羽の史になる古書中にいでくるは筑紫なる邪馬壹国なる史伝なり」(二九四頁)の一節は、「二 邪馬壹国」の表題の下に書かれている。
 それに続き、「筑紫に逝きママ大社にては、出雲大社を祖神にて今は客大明神と門神に配されきも、荒神谷に祀られたる地祖なる大神なり」(同右)の一節が現われる。
 さらに、「安倍国東くにはるのとき荒覇吐あらはばき神を大元師神、亦は大元神とて称号せし在り」(同右)とあるように、例の「荒神谷」の「荒神」とは「アラ神」であり、いわゆる「アラハバキの神」を指す。この神が祀られているから、この地を「荒神谷」というのだ、というのである。これは「康暦己未年(一三七九)五月廿日」の日付で安倍康季の署名の文章だ。
 もちろん、この「丑寅日本雑記」は、わたしの「邪馬壹国」説に賛成しようとして書かれたものではない。
 次いで、「(二千年前より)時、ややおくれ耶摩堆より阿毎氏は、日向佐怒王に敗れ、故地放棄なして来る安日彦及び長髄彦王の主従大挙して敗北せる事態なり。」(二九七頁)として、ここでは「耶摩堆」と書かれている。『後漢書』の伝える「邪馬臺国」だ。
 さらに「稲作伝来」を、右の敗北の「前史」として詳述している。「稲を此の国に伝へしは、支那の群公子一族なり」(二九八頁)。「茲ここに於て、安日彦王は支那群公子親族と力勢併合なし、更に地民の諸族を束合せり」(同右)。
 ここに見えている構図は次のようだ。
 (1).「この国」(日本。特に筑紫)に稲作が伝わったのは、中国の「群公子」の伝来による。
 (2).筑紫の(太古の)稲作人たち(安日彦と「群公子」親族)は、逃れてこの津軽の地へ来た。
 (3).これが津軽における「太古の稲作」の始まりである。
 わたしたちは九州の「縄文水田」(弥生初期)の存在を知っている。曲田や板付などだ。そして(途中を飛ばして)津軽に「縄文水田」が現われているのを知っている(砂沢、田舎館遺跡)。
 これらと「対応」するのが、右の史料なのである。けれども、考古学の研究者は、これを一切「無視」しつづけてきたのであった。

 

    五

 また「未来に戒言」と題された「寛政五年六月一日」付の秋田孝季の二文には、彼の心魂が込められている。
 「我国を一統せる朝幕の政は世界に心眼をもたず。自から貝蓋かいふたを閉ざすは末代は貧土、世盲の国と相成り、内に国民の反乱起るるは必如ひつじょなり。」(三一六頁)。幕末の「反乱」が予告されているのである。
 「人の王たるも人なり。権政を独りにほしいままとせるに渉わたらば、自からを神とし、祖を神の一系にせむ。活神いきがみとまで民の生命を下敷に国を危ふく堕おとしなむ」(三一七頁)。今回の「敗戦」が予告されているのだ。いささか「寸づまり」の文体であるのは、「末吉・長作」の「古文読解の未熟」の表現であるかもしれない。しかし、「思想家」としての彼の本領はまがうべくもなく、ここに光輝いている。
 後代の読者はいぶかるであろう。「これほどの文章を、なぜ偽作者風情ふぜいに書きえたと、あの時代の『偽作説』派は“思いこまされ”てしまったのか」と。「文は人なり」とは、寸鉄の金言なのであるから。

 

    六

 次いで『和田家資料集2』(一九九四年七月)が公刊された。「丑寅日本記」「丑寅日本紀」「日之本史探証」である。そこには「丑寅日本稲作之事」と題する一文がある。「元文庚申年(一七四〇)二月十五日、津田六郎右衛門」の文章である。
 「丑寅日本国に稲作の渡れるは、初に群公子一族が支那の戦乱に敗れ、西海を北辰に流漂し、定着せしは七里長浜なる上磯郷なり。大船七艘にして、その二艘は宇曾利の宇曾利山北麓浜、五艘は往来川本流を登りて船を捨たり。農耕の民なりせば住居を葦原に定住しければ、土民との住分なる争動もなく定着せり。稲作の創耕なり。
 是く後に大挙して落着せし耶摩堆の阿毎氏即ち、安日彦、長髄彦の衆と晋民は併合なして大葦原を開き、王国再興の種をぞ速しママたり。晋民の定着せし処、何れも稲田拓きて稔豊たりき」(一四五頁)。
 記述は具体的だ。その要旨は次のようである。
 (1).まず、晋の群公子一族が直接、この津軽の地へ来た。
 (2).次に、耶摩堆の阿毎氏(安日彦・長髄彦の衆)が津軽へ来て、これに合流した。

 わたしたちには「未見」の歴史だけれども、中国側の歴史書と果たして「対応」するか、検してみよう。

 

    七

 『漢書地理志』の燕地に、「殷の道衰え、箕子きし去りて朝鮮に之く」の一文があり、「其の民に教うるに礼儀を以てし、田蚕織作せしむ」と述べられている。殷墟の出現で知られる殷は、黄河流域下流を中枢とする国であった。箕子が殷を去り、朝鮮に「田蚕織作」を伝えたのは、殷末、前十二世紀だ。この燕地の末尾に有名な、
 「楽浪郡中に倭人有り、分れて百余国をなす。歳時を以て来り献見すと云う。」
の一句が存在する。
 このあと、三国志の辰韓伝に注目すべき記事が現われている。
 「辰韓は馬韓の東に在り。其の耆老、伝世して自ら言う。古の亡人、秦の役を避け、来りて韓国に来適す。馬韓、其の東界の地を割きて之に与う。城柵有り、其の言語、馬韓と同じからず。(中略)秦人に似る有り。但ただ燕斉の名物に非ざるなり。」
 これは周末、秦の始皇帝の迫害を避けて、周から亡命してきた、というのだ。そのため、中国の中央部(洛陽)近辺の言語や用字が今(三世紀)もここ(辰韓)では使われているという、興味深い記述である。
 では、先にあげられた「晋の群公子」の「晋」とはどこか。
 「晋(国の名)。周の同姓。侯爵。成王が弟の叔虞を晋水の辺、堯の故墟、即ち唐に封じて建てた国。今の山西省太原県の北。(下略)」(諸橋大漢和辞典)
 要するに、「晋」とは周の天子の一族であり、洛陽の北西部に建国した。したがって秦の始皇帝が周を滅ぼした時、晋人が辰韓へ亡命した可能性は高い。
 さらに殷末にも、周に亡ぼされた殷王朝の一族が、同じく亡命したというケースは、右の『漢書地理志』の記事に照らしても、大いにありうるところなのである。
 しかし、今はこれ以上立ち入らない。それはこの「書評」の域をはるかに超える世界であろうから。しかし「一笑」に付しえぬリアリティをもつ。それは確実だ。

 

    八

 最後に述べたいのは、『和田家資料3』(二〇〇六年一月)と『和田家資料4』(二〇〇七年七月)の二冊だ。いずれも、藤本光幸編とされているが、藤本氏はすでに亡い(二〇〇五年十月二十一日逝去)。
 それを受け止められたのが、実妹の竹田侑子さんである。両冊とも、竹田さんの理と情をこめた「まえがき」「あとがき」が付されている。藤本大人は良き妹をもった幸せな方である。
 その内容は、「北斗抄 一〜十」「北斗抄 十〜総括」だ。わたしが「明治写本」(コピー)で読みふけり、その公刊を朝に夕に熱望してきたものである。それが今回実現したのである。たとえば「東日流今昔語」(三、二十二頁)一つとってみても、今後、言語研究上、逸しえぬ好資料だ。世がいわゆる「偽書説」に惑わされていたため、従来の研究者はこれに「ノータッチ」のままできていたのである。

 

    九

 『和田家資料4』は珠玉の章をふくむ。ここでは和田末吉本人が語っている。
 「此の維新は百年も保つこと難し。(中略)自由民権の圧したる如く、この国は必ず大国ならん野望に亡ぶ危うきにたどらん前兆あり。あと二十年乃至は三十年に保つや否や。親睦、露もなかりける大日本帝国のありかたぞ、全能なる荒覇吐神のみぞ知る処なり。」
 大正六年に和田末吉自身の文章として掲載されている。これは一九一七年の発言であるから、この二十八年後の一九四五年、大日本帝国は滅亡した。末吉の予言はあまりにも的確に的中したのである。
 けれども、明治・大正・昭和史の論者、また「自由民権」研究者も、このような末吉像に目を向けえず、いたずらに「偽書」の名において葬り去られようとしていたのであった。
 しかし、すでに「寛政原本」が姿を現わし、その迷霧と妄霞は消え去りつつある。一部の「残り火」だけを残していても、すでにこれは決したのである。
 今あらためて、偉大なる藤本大人(たいじん)の大業に対して厚い敬意をささげたい。そしてすでに「終稿」されてありと聞く『北鑑』全巻の刊行をさらに待ちたい。そのときこそ「旧ふるき日本の歴史像」が決定的に立ち去りゆく姿を日本国民の一人ひとりがハッキリと見ることとなろう。
 出版界の長かった逆境に耐え、この「北斗抄」まで、完全刊行された北方新社の方々に対し、心からの感謝の念をささげて筆をおきたい。
 これは、未来の日本国民、そして将来の世界を代表する、ささやかな謝辞なのである。


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