和田家資料 1 2 3 4
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「和田家文書」に依る『天皇記』『国記』及び日本の古代史の考察1 2 3 4
藤本光幸 編
初めの数字は目次です。
021 山靼流通之記
021 波江加流湖及黒龍江之神武流波旡神之事
021 大山靼国見聞記
022 山靼国之神 神仕之鳥獣
024 奥州一統信仰之事
024 荒覇吐石化保野利我古神
026 陸奥六十三郡大要
029 不可思議なる神話抄
032 山靼人神伝書控
033 西山靼国往古神系譜 第一説
034 西山靼国往古神系譜 第二説
035 西山靼国往古神系譜 第三説
036 西山靼国往古神系譜 第四説
037 西山靼国往古神系譜 第五説
039 西山靼国往古神系譜 第六説
039 東山靼国往古神系譜
041 荒覇吐神之創抄
042 道奥草紙
044 採鉱鋳造史抄
046 船航日乃国海濤史抄
047 海難祈願処寺社絵馬
048 三界往来転生甦信仰
049 奥州風土之景記
050 陸奥観証 一
051 陸奥観証 二
052 陸奥観証 三
053 奥州五十三郡風雲録 天之巻
065 奥州五十三郡風雲録 地之巻
070 北辰之古話
070 東日流三千坊之事
071 一、 ほう葉経
072 二、 石神之由来
074 三、 神木之事
074 四、 魔障即滅法
076 五、 山靼しるべ
077 六、 泰平山之山神
078 七、 怪火天降
079 八、 阿陀多羅山悲聞
081 九、 宇曽利の石神
082 十、 奥州五十三郡之石神
082 安倍一族之顛*末記
084 地名史典抄
086 般若坂物の化退治
088 秘密道場石塔山
088 戸来上下大石由来
089 商益以て領民を富す
090 海濤史抄
091 伊治沼の古話
093 蛇尾川怪奇
095 我が記に想ふ
096 陸奥無名史跡
097 閉伊の名馬
098 元朝流鬼国放棄
099 閉伊東日流湊十二神山之事
099 忠臣菅野左京
100 奥州日本将軍支配諸郡
101 西海潮航之海路
102 安東船商益湊
103 古代通商之水陸路
104 荒覇吐五王政国造
106 荒覇吐族とは
108 奥州風土記一巻之言
109 山靼国流通信仰遺物之写
顛*は、[眞頁]JIS第3水準ユニコード985A
113 第一巻
115 第二巻
118 第三巻
123 第四巻
126 第五巻
126 奥州氏神系譜
127 石切神之系譜
128 筑紫邪馬壹系譜
130 耶馬台国大系
131 耶馬台神伝
132 病古血吸除法
132 飲草薬法
133 薬虫貝鳥獣用法
134 筑紫磐井王之事
135 第六巻
135 日之本国領図
135 安東水軍記
136 荷薩丁諸伝
137 平将門遺姫楓之哀伝
139 第七巻
140 東日流語部之事
142 第八巻
143 第九巻
145 渡島之太古史
146 陸奥史風土記 第十
147 つがるのしるべ
148 神 兆
150 神事極秘帳
151 葬礼之事
152 老骸寂滅魂魄新甦
158 序 章
158 第一章 荒覇吐王之事
161 第二章 丑寅日之本国の天上影
165 第三章 日高見川辺の遺跡
166 陸羽郡史抄
171 山靼語印
171 奥州霊山河之詩
173 薬師抄
174 北辰鑑 一
175 北辰鑑 二
179 北辰鑑 三
181 北辰鑑 四 通記
182 北辰鑑 五
184 北辰鑑 六
185 北辰鑑 七
186 北辰鑑 八
188 了 記 末吉追而
189 陸羽今昔抄
198 日之本之残影
199 康季状
199 羽賀寺文書抜抄
201 陸羽史跡巡遊記
203 糠部濤史
205 糠部之史抄
206 糠部陸海異変之事
211 序 言
212 荒覇吐神大要
223 荒吐神要源抄
226 奉神信仰之誠
228 不信仰遺廃墟跡
229 信仰即安心立命
230 古代オリエント旅状記略
234 唐天竺山靼旅状記略
237 自意丑寅史遊記 一
238 自意丑寅史遊記 二
239 陸羽祭事記
240 議嶋大臣蘇我馬子編天皇記国記
241 荒覇吐五王之事
243 日輪神社之由来
244 日輪石神聖地之事
245 おかげ様奉納写
245 丑寅日本国号由来
246 耶馬臺国之事
247 筑紫東日流往来
248 イシカ起想抄
250 ホノリ起想抄
251 陸羽諸伝 一
253 陸羽諸伝 二
253 陸羽諸伝 三
254 陸羽諸伝 四
256 陸州海浜三十五景
265 寛政五年一月元日書言
266 渡峡史解
267 みちのくとはに
267 奥陸探抄 鮮卑書抜解
270 非理法権天
271 古抄録
272 舞草錬法鍛冶
273 厨川女子武者
273 天内山抄
274 兵法陣取之事
275 阿吽寺縁起顛*末
276 大陸羽史探抄
277 神変大菩薩
278 大光院法訓
280 石塔山荒覇吐神社由采
281 厨川柵落之談
281 安倍親族改姓録
282 覚明説法之事
283 陸羽王物語
284 安倍氏遺歌集 一
286 安倍氏遺歌集 二
289 陸羽信仰之儀
291 河童物語り
292 陸羽諸翁聞取帳
一、序に曰く 二、邪馬壹国 三、群公子一族稲作伝ふ
299 安倍寺社録
300 筑紫邪馬臺王系
301 伊冶沼之議談
302 陸羽雑記帳
305 降神山神話
306 神器鷲羽鶴羽白鳥羽
307 陸羽白山神信仰之事
308 石塔山に仏法入るの事
310 陸羽之天地水
311 筑紫松浦党之事
312 宗任大聞
313 筑紫藤崎神社之事
314 宗任雑記
315 頼義策略不為
315 貞任宗任異談
316 未来に戒言
317 書写後記
編者紹介
藤本光幸(ふじもと・みつゆき)
1931年生れ。
「東日流外三郡誌」(共著)(北方新社)の詳細を語る第一人者。
現在藤崎町教育委員、同町文化財審議委員を歴任。
現住所 略
和田家資料 1
奥州風土記他
________________________________________________________
1992年 8月15日
編 者 藤 本 光 幸
発行者 二 葉 宏 夫
発行所 北 方 新 社
印刷所 小 野 印 刷
藤本光幸
「和田家文書」のうち、昭和五十年以降に『東日流外三郡誌』の一部が『市浦村史資料編』市浦本として発刊され、昭和五十八年以降『東日流外三郡誌』の全部が北方新社本として上梓されて以来、古代史愛好家の間で喧伝され話題を呼んだ。
その後、昭和六十一年には『東日流六郡誌絵巻全』、昭和六十二年『東日流六郡誌全』を津軽書房が刊行、昭和六十三年以降八幡書店から再び『東日流外三郡誌』が、平成二年には、『東日流六郡誌大要』が刊行され、“東日流諸郡誌類”として全国古代史家からの注目をあびるにいたった。
その『東日流外三郡誌』の発見は、昭和二十二年八月のことである。青森県五所河原市飯詰福泉の旧家和田家に於て真夜中、天井板を突き破って大きな挟箱が落ちてきたのである。
和田喜八郎氏が驚いて天井裏を調べてみると、その他にも鎧箱や船荷箱などが、麻縄で吊されていた。その一つの縄が切れて落下したのであった。挟箱をはじめ他の箱も固い施錠で厳重に封じられていた。
落下した挾箱の中から発見されたのが、江戸時代後期に編纂され、以来、門外不出他見無用の秘書として同家に於て、堅く戒められ秘蔵されてきた「東日流外三郡誌」をはじめとする「内三郡誌」「六郡誌」「六郡誌大要」「六郡誌絵巻」等々、いわゆる“東日流諸郡誌類”といわれる膨大な量の諸資料集大成の書であった。
更に近年、その他の箱も開けて見たところ、その中には数千冊に及ぶ版木本や刊本が蔵され、それらは世界史、進化論書、宇宙天文学書、宗教書、博物学書等々、いずれも東日流誌編纂に使用された参考書と思われる資料であり、これはこれで徳川後期から明治にかけての近世史研究にとって今後、貴重な資料となるものである。
一昨年、最後の一箱が開封された。
その中からは、安倍頼良着用と伝わる鎧と、その下から「丑寅日本記全」「丑寅日本雑記全、丑寅日本史総解」「奥州風土記」「陸奥史風土記」「丑寅風土記全」「渡嶋古史抄」「東日流古史抄、「陸羽古史抄全」「陸奥古史抄全」「陸奥古事抄」「東日流古事録」「語部古事録」「陸羽古史語部録全」「日下史大要語部録」「奥陸羽古代史諸證」「日之本史探證」「東北陸羽史談」「陸奥史審抄」「日下史大要絵巻」「陸羽古史絵巻」「日下北鑑全」等々、推定属千八百冊(巻)にも及ぶ、これまでの“東日流諸郡誌類”以上の、実に大量の資料が出てきたのである。
これらは、我が国で最初に“日之本国”と国称した坂東、東北、渡嶋(北海道)の国の古代中世史に関する敗者の側からみた資料集なのであり、大和王朝の成立後は、日高見国さらには蝦夷国と呼ばれ、体制権力側によって日の目を見る事が出来なかった大変な歴史資料集なのである。これらは今後「和田家文書」と呼ぶことにして、順次出版発表して全国の古代史、中世史研究家の皆様の御批判を戴きたいものである。
ところで、これらの「和田家文書」の成立はいつ頃の事であろうか。“東日流六郡誌序言”によると、「奥州三春藩五万五千石の御城下、天明乙巳五年の大火にて舞鶴城秘蔵の祖史書、諸文献をことごとく焼失せり。よって藩主秋田倩季公、太古なる祖伝をば東日流より諸縁者を訪ねて安倍、安東、秋田一族にまつはる諸伝を集綴し、三春藩往古の史源を末代に遺すべきを欲して、その再編に当るべしと、御身みづから不肖孝季に親しく通達さるありき。さりながら、もとよりわれ独りにて成就に及ぶべくもなき大業なれば、わが妹の主なる和田長三郎吉次とのをはじめ、多けき同志の助力を得て、東日流石塔山の大山祇神社境内、中山飛鳥の耶馬台城跡、十三千坊遺跡などにその実相ありと諸国に移りし一族を訪ぬること三十五年・・・・」と伝えてあるように、三春城主秋田信濃守倩季(はじめ千季)によって企図されたものである。三春城下は今の福島県田村郡三春町である。
当時、幕府に於ては鎖国のまっ只中であったが、時の老中田沼意次は海外事情を知り、国際的な情報を得るために、長崎で学び元長崎外藩目付をし、中国語、オランダ語、ラテン語に堪能であり、さらに史学、西洋学を修めながら秋田土崎湊由利家に浪人していた秋田孝季を外国事情調査のために認めたのであった。
正式に老中田沼意次から山靼国巡見の「許要」を受けたのは天明三年(一七八三)であるが、翌天明四年八月(一七八四)には、由理源太夫胤長、小野寺藏人の推挙により、三春藩主秋田倩季より調査の申付を受けたが、天明六年(一七八六)に田沼意次が逼塞を命ぜられたためか、寛政元年四月一日(一七八九)十三湊山王日吉神社に誓願し、「東日流外三郡誌」をはじめとする“東日流諸郡誌類”のための日本八十二ヶ国の調査巡脚をはじめたのであった。
「東日流外三郡誌」関係の調査は文政五年(一八二二)で一応終ったが、併進して行われたその他の資料のためか文政六年(一八二三)の調査のものもある事が、現段階での新資料で判明したが、和田長三郎吉次の没年が文政七年であり、秋田孝季が天保年間であるので、やはり文政六年までと思われる。
なお、現在までの新資料の調査では、秋田孝季、和田長三郎吉次の国外調査は天明二年(一七八二)以前と寛政十二年(一八〇〇)〜享和二年(一八〇二)の二度行なわれた事が判明しているが、今後の新資料で更にその回数が多くなることも予想される。ともあれ、いずれにしても「和田家文書」の成立は、江戸時代後期ということができる。
さて、これらの原資料は全て二部ずつ作成された。秋田家の正本と和田家の控本である。秋田家の正本は完成後、三春藩に提出されたが、秋田倩季が文化十年(一八一三)に歿し、藩主が謐季にかわったためか、田沼事件のためか、訳あって総括著者の秋田孝季に返還されていた。しかし、幕府の隠密によるものか寛政七年八月二十五日(一七九五)に何者かに放火されて、それまでの収集史書のことごとくを焼失し、更に文政十年八月(一八二七)土崎の近隣から火事が起って苦心の著書や研究書も全て灰燼に帰してしまったとされている。
幸いにして和田家所蔵の控書が残っており、それを和田家に於ては、「われら尋史の旅は一生をかけて終らざるものなれば、史続の旨は子孫に委ねて了んぬ」「追記また自由にして、余らが滅後なりとも魂もって悦ぶところなり」との原著者の意を体して、長三郎吉次の亡きあと長三郎基吉、長三郎権七、長三郎末吉と四代に渉って虫食い等の破損から守るために書写し、またその間に新しく採用された事項も適宜追記された。
なかでも苦心したのは四代目長三郎末吉である。明治二年(一八六九)からはじまった最終書写は彼の没年、大正六年十二月三日(一九一七)までの実に四十九年間に渉ってなされたものであり、書写完了後、二十五日目の大正八年九月四日に入寂した。彼の生涯をかけた書写事業であった。
〔訂正済です〕『和田家資料1』の解説中、四代目和田長三郎末吉の没年を大正六年十二月二十八日としたが、大正八年九月四日の誤りでした。お詫びして訂正します。
長三郎末吉は『東日流六郡誌大要』第二十巻“東日流之要”(明治四十年三月)の中で「本巻の要は史実を旨とし、集収編、選抜編、総括編、三類別なせり。東日流外三郡誌、内三郡誌は収集編に属し、雑旧雑多になるものなり。依て、史実に結ぶる証また難し。更に東日流六郡誌は選抜編にして荒洗しけるも、未解分ありてその補書とて東日流六郡誌大要を追補せり」と述べているので、いま、和田家に残る「和田家文書」は和田末吉版ともいう事ができるであろう。
ところで、「和田家文書」のうち『東日流外三郡誌』が発表されてから、それに対する評価は全く二つに分かれた。それは、学問的対象には勿論ならないし、昭和になってからの記録も追記された全くの偽書であるとして、一見する価値さえないと完全否定する人達、また一方では記紀にすら書かれていない事項が出てくる古代史の奇書として珍重する人達である。専門的に歴史学を勉強された文献史学界と、それを取り巻く学界の人達は前者に立つ人が多いようである。
しかし、この点に関しては「和田家文書」の原編纂者である秋田孝季、和田長三郎吉次とも「疑しき史伝もそのまゝにて記したれば、余多相違類似の史編となりけるも、是れ編者が創作に非ず、年号月日の相違と氏名異称もさり乍ら、事件に於ても諸説雑多にて正伝に判断を惑ふこと暫々なり。而乍、是を選抜せるもおぞましく、疑問は後世に委ねて皆記述せり」と述べているように、これは全てが史実という訳ではなく、伝説や伝承もおびただしく混在する資料集であり、しかも第一次資料ではなく、あくまでも江戸時代後期に取材した二次的な資料が多いので、収載資料のなかから厳密な資料批判をした後に、史実として採用出来るものは採用して、真実の歴史を再編成してもらいたいと、後世の識者に希望しているのである。
秋田孝季は「如何なる同説たりとも一行の異説ありては、記入に事欠かざれど、私にして史趣の評、亦は収除是無く綴りたり。依て、史読判断は読者の心に以て賛否の労考を仰ぎ、玉石混合とぞ評あるべきも勇筆なせり。元より百視百論に尽しとも真実はひとつなり。その一つを万粒の砂より選ぶる心算にて本書は成れり。依て、本書は史実解明書ならず史実参考の書と思いとるべし」と述べている。和田長三郎吉次は「諸説抜選せず、総てを集記し、正しき定統の判断は後世の史学分野に委ね置く。依て、玉石混合に綴らるとも真実は一つなり」と述懐している。
また、本書が成立した寛政年間(一七八九〜一八〇一)から文政年間(一八一八〜一八二九)にかけての前後は、世界史上“大博物学時代”といわれる時期であった。従って両人は史実はもとより伝説、伝承、民話、民俗、民族、詩歌、言語、文字、薬、療法、神、信仰、宗教、神話、宇宙の創造、天文、地理、人命の尊重と平等思想、等々採集した全てのものを矛盾を承知の上で諸説を並記列挙しているのである。これを矛盾としてとらえ、偽書説の根拠の一つにかかげる人もいるが、この事については秋田孝季、和田長三郎ともに「邑一つ異なれば説また矛盾す。しかし必ずや人世救済夢覚の書たらん。辞書とならん」と喝破しているのである。
いみじくも、奥野健男多摩美術大学教授は“日本文化の原風景”の中で「この書が成立した寛政前後は世界的にもそうなのですが、菅江真澄や少し前の時代の平賀源内などに代表される博物学の時代です。博物学というのは、集めた事物を整理したり、系統だてたりしないままに、本物、贋物、取り集め羅列する学問です。たとえば『東日流外三郡誌』にはアラハバキ神の出自については三十くらい違った説が書いてある。おそらく編者である秋田孝季や和田長三郎は、古代津軽について取材した話を博物学的方法で真贋の吟味なしに全部並べたのでしょうね。偽史を作るのであれば、もっと整然と合理化した形にするのではないでしょうか」と述べている。
「和田家文書」について賛否両論いろいろ論じられてきたが、実は今までに実際に現本を実見して論じた人は一人もいない。
幸いにして今回、昭和薬科大学教授古田武彦先生、同副手原田実先生が現本を実見した上で、その調査報告書の中で次のように述べている。「和田家に伝来する文書は、わが国の歴史学上きわめて貴重な文献である。 ・・・・その実情を見るに、当書の原本はもとより、現本(明治の再写本)さえ実地に実見することなく、みだりに過讃を加え、みだりに罵言を下す者の多かったこと、わが国の一般好事家乃至学術の徒の学的水準の所在を赤裸々にするものでなければ幸いである。・・・・ 当現本を実見することが出来、その結果、当書が類稀なる貴重なる文書集成であることを知ったのである。 ・・・・『日本の百科全書派』の名を呈しても過褒ではないであろう」さらに原田先生は「これは和田家に伝わる膨大な資料のほんの一部にすぎないが、いずれも他に類を見ない特異な内容を有しており、一つ一つが近世東北史、宗教史、さらには中世史や古代史の各方面について従来の歴史像を一新しうる可能性を秘めているといえよう」と述べている。そして、古田教授は和田末吉による明治の再写本の紙質について顕微鏡写真、電子顕微鏡写真による撮影によって、明治期の紙に間違いのない事を科学的検証によって証明され、少なくとも学問的探究の対象としての資料価値のある事を主張された。
なお、教授からは「和田家文書」を採用するについて、S資料(原資料)とR資料(再解釈資料)の区別をし、注意しなければならないとの適切な御指導までいただいた。
以上が「和田家文書」発見以来の現在に至るまでの経過であるが、いずれにしても秋田孝季、和田長三郎吉次が「忠実なる実史は世襲の勢者に消滅さるを防がむために、後世いつの日か陽光を信じて唯一心に綴書せり」と述べているように、従来の歴史知識として来たのは、もっぱら“勝者側の文献”に偏向し、同一事件を“敗者側”から把握する事のなかった史学界に、平成の今日こそ前後左右あらゆる側面から事象を見て、真実の歴史を解明してもらいたいものだと警鐘を鳴らしているのではなかろうか。
東北、北海道の真実の歴史は未だ解明されていない。あえていうなれば日本国の半分の歴史しか明らかにされていないのである。「和田家文書」が残る半分の歴史解明のための鍵となる事を信ずるものである。
「和田家文書」は前にも述べたように膨大なる量である。ようやくその一端を『和田家資料』として刊行することになったわけである。学問的な探究はこれからの課題であり、秋田孝季、和田長三郎も「後世の識者にそれを委ねたり」と期待しているのである。真実の日本歴史解明のために読者皆様の御研鑽を切望するものである。
平成四年五月
一、編集の方針としては、既刊『東日流外三郡誌』では項目別、年代別の編集を行なったが、今回の『和田家資料』では冊子別、巻別が明白であるため原本の分類を尊重する事にした。現存の「和田家文書」の状態は冊子本、巻本、一枚物、裏打ちのないままの巻紙状の物等、様々な体裁である。
一、原本は「此の書は前後相混ずる処あるも、文献の見付次第に記されし者なれば、順々不乱も詮なし」とあるように全体が統一テーマによって編纂されたものではないので、統一的な流れはないが、御了承を願いたい。
一、本文については新字体を心がけたが、人名、地名などはできるだけ原字体のままとした。また当て字なども多いが、意味のとれるものはそのままとし、明らかに誤字、脱字、重複字のわかるものについては訂正した。
一、記述の内容において間違いと思われるが曖昧なものは、そのままにして(ママ)と付した。
一、現本には句読点および改行一字下げはないが適宜これを施した。なお、原本にはまれにルビや傍線があるが、そのまま存置し、編者によるルビはない。
一、新資料のうち「奥州風土記」「陸奥史風土記」「丑寅日本記全」「丑寅日本史総解」「丑寅日本雑記全」を合本して一冊とした。
一、本巻は北斗抄二十八巻+総括のうち一〜十を収録した。
和田喜八郎
歴史、神話、伝説とは縁遠い現代科学のもっとも先端的な素粒子、原子核の研究において、ミクロ、マクロ、ウラニウム、プルトニウムなどの名称があるが、どこかで聞いたようであり、思い出してみると、ギリシア神話に出てくるクロノス、ウラノス、プロメテウスなどの神々の名と類似している事がわかった。
現代科学が引用するギリシア神話になる神々の名称や神話のエピソードは、西洋哲学や心理学の用語として利用されているが、その神話になる古代ギリシアやローマの宗教は現代においては一人の信者も遺っていない。
また、文字と古代都市国家を創造したシュメール文化、ギルガメシュ王になる信仰の叙事詩、アラ、ハバキという神の信仰や古代都市跡も、今では砂の底深く埋れ、ジグラットとか瀝聖の丘などの砂山に名残りを遺すだけである。更に、遺跡を誇大なまでに遺すエジプト王朝文化においても、現代に遺る信仰はない。
ところで、なぜ私達の郷土の歴史を研究するために、古代オリエントの信仰や事項が必要なのか。これは、本書のテーマの中に、これらの要素を不可欠とする記述が随所に現われてくるからである。
私達の東北の歴史において、今までの歴史では、まつろわぬ化外地の蝦夷というほかは、その征夷討伐紀行だけが、大和王朝側の倭史(公史)として遺されて来た。しかも、従来の史家達はこれを信じて疑う者がなく、諸々の史書は西高東低に論じられて来たのである。これはまさに、私達の東北日本国に対しての、古代から中世にかけての侵略を正統化するための民心洗脳の工作史であり、日本国(ひのもとこく)と呼称された東北日本国の国号までも奪取し、蝦夷と汚名を蒙らしめ、東北日本国住民とその王政治国の古事史実を葬むるための体制側に立った歴史であった。
だが果して、東北日本国は『古事記』や『日本書紀』に記述されたような国だったであろうか。私は、諸々の今までは禁断とされていた東北の史書を繙き、東北日本史の蝦夷の側に立った一つの真実史を究明して筆を進めてみたい。
この東北に人類が住み付いた最初の痕跡は、昭和五十九年十一月に、宮城県黒川郡大和町の中峰遺跡で発掘された石器について、奈良教育大学の市川米太教授が、熱ルミネッセンス法による年代測定を行なった結果、この石器は今より十四万年乃至三十七万年前の前期旧石器であることが確認され、人類学的にみると、ホモエレクトス即ち、中国大陸の北京原人と同時代に、東北日本に日本原人が定住していた可能性が発表され、人類学上に大きな波紋をなげかけたのである。
更には、紀元前の稲作跡、縄文時代の人骨、縄文時代の象形文字と思われる印が刻まれた縄文土器や、信仰を顕すと推定される遮光器型土偶などが、続々と発掘されており、その埋蔵量は未だ氷山の一角を発掘したにすぎず、東北は考古学上、埋蔵文化財の宝庫であると、考えられる。また、神として祀られた巨石と石神信仰の遺跡、ストンサークルや巨石ドルメンの数々など、超異次元を思わせる遺跡群が存在し、私の庇護している石塔山もその一つである。
このような遺物や遺跡を遺した東北日本国に住んでいた古代人、そして縄文文化の基礎を造りあげた東北日本人が、古代から中世にかけて、祖先渡来のルーツ、即ち山靼国(東山靼国、西山靼国)との往来をしていた痕跡は非常に深く、しかもそれが私達東北人の代々に受継がれている事が、近年次第にわかって来た。しかし、これらの事柄は、守るいとまさえなく、中世以降は侵略洗脳され、且、弾圧されて化外の民、蝦夷という名称の下に、倭史の一方的な見解に押えられて来たのが、今日までの状況でなかろうか。
はたして、東北日本国は倭史に掲載されているような蛮民の住む国であっただろうか。紫式部が『日本書紀』を「片そばぞかし」と評した如く、これは東北日本国を未知な上に、根拠のない架空想定に立脚した作説史で描かねばならない行為にほかならず、三十七万年に渡る私達の東北日本の人跡と古代王政国には、既にして、山靼や西アジア、古代オリエントの信仰や知識が流入して居たという事実をどのように解釈したらよいのであろうか。その一例として、現在なお消滅もせず遺されている古代信仰が東北日本には遺っている。それは古代において集合統一されたアラハバキ神の信仰である。
この信仰のルーツを原点に湖れば、古代シュメールのギルガメシュ王が遺したアラ(翼有獅子)ハバキ(地母)神よりなる信仰が、アルタイ、モンゴル、アムール河をロードとして、はるか古代の東北日本国に流入し根付いたものであることがわかって来た。
『人国記』に「東北には青い眼の人間が住む」と冒頭に記されている事が、これらのことをよく物語っている。
以上のような古代から中世にかけての東北日本史の真実を知るために、一層の掘り下げた研究をするためにも、本巻の全体に眼を通して戴きたいものである。(「和田家文書」原本所持者)
平成四年四月
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