藤本光幸 編
初めの数字は目次です。
031 丑寅日本記第二
039 日本国古史正伝
044 イシカカムイヘの求道
046 ホノリ神への求道
047 ガコ神への求道
049 アラハバキカムイヘの求道
050 甦必丑寅日本国史
052 馬神山由来之事
054 丑寅日本記 第三
054 荒羅覇吐之由来
056 古代奥州石神之事
057 荒覇吐神像解書
058 神託之譜
059 一統信仰之要
060 荒覇吐五王之政
061 荒覇吐霊術之事
064 荒覇吐神久遠
065 荒覇吐神疑問答書
067 荒覇吐王移殿之事
068 荒覇吐五王政之治領図
068 奥州廻遊之詞
070 日本将軍宣布之事
070 報恨討晴之事
071 平等教院之事
071 丑寅日本記 第四
071 東日流之上磯
072 立正史談
073 紫光魁北史
074 石塔山霊鎮之記
074 海航之創起
075 間宮状
076 西行旅譜
077 琥珀王位珠玉之事
077 日積寺勧進帳
079 東日流中山之由来
081 金剛不壊摩詞如来之事
082 丑寅日本記 第五
082 合浦宇涛安潟之事
085 東日流耶摩堆城之事
086 東日流中山史抄
087 外ヶ浜称名由来
088 倭皇化律令不丑寅渡
089 奥州語部極刑之事
089 津軽藩古人語禁止令
090 外ヶ浜遺宝
091 丑寅日本記 第六
091 終巻之言
091 倭史無丑寅之実観
093 渡島史抄
094 日本国倭国の対観
095 偽神迷導不惑可
096 名主知衆激怒
097 言語一句造敵勿
097 丑寅日本国悠久也
098 書 宣
099 本巻綴記之要
100 丑寅日本記 第七
100 注 言
100 山靼国夜虹史
102 天地水之法則
103 抹消之陸羽丑寅史
104 丑寅日本国史抄
105 天皇記国記之抄
106 石塔山古書目録
108 天皇系疑審書
109 陵墓改葬之事
111 丑寅日本記 第八
111 注 言
111 安倍抄記之序
114 古代百八十七王之事
115 丑寅日本国要記
116 丑寅日本今昔記
117 石塔山神器之由来
118 高星状
119 丑寅日本記 第九
119 注 言
120 序 言
120 二股川安倍氏之事
122 陸奥之史道
124 荒覇吐神之理
125 井殿仏語
127 丑寅日本記 第十
127 奥州陸羽之史証
129 光陰即生滅
131 天皇記行抄 一
132 天皇記行抄 二
133 丑寅日本久遠山河
135 良照入道之説法
136 丑寅日本記 第十一
136 注 言
136 北辰史探抄
137 北斗の創史
138 丑寅日本国実史
140 民族皆兵之事
141 丑寅日本主名鑑
141 日本国玄武柵之事
143 安倍氏兵法之事
144 丑寅日本一統信仰之事
145 丑寅日本稲作之事
145 晋群公子帝勅之事
149 丑寅日本紀 第一
149 豊実種之幸国
149 人智招レ慾犯二闘殺一
150 審二丑寅実伝以倭史一
155 宇宙創因之事
157 丑寅日本誕生基山靼流通
158 丑寅日本紀 第二
158 荒覇吐之記
159 丑寅日本国人誌
161 古言抄 一
162 古言抄 二
162 秘之巡脚記
164 古考史
164 霊語ゴミソ イタコ オシラ之事
165 尋史同異説之事
166 史読心得之事
167 丑寅日本紀 第三
167 オリエント旅状記
172 石塔山奉寄実物山靼オリエント巡脚遺物
175 丑寅日本紀 第四
175 語部笑話
176 東日流語部と語印之事
176 信仰抄
177 平征下之地民知識禁断
178 秘議三氏之誓約
179 北方未踏領日本国也
180 サンファンバプチスタ船之事
180 ノビスパンヤ巡視景
182 ノビスパンヤ之事
183 丑寅日本紀 第五
183 安東船之廻船之事
184 丑寅日本国草枕 一之記
184 二之記
185 三之記
186 四之記
187 西王母之事
188 神之入位秘薬
188 保若身秘薬
189 荒覇吐神社訓 汝人之被恨念勿 一
189 荒覇吐神社訓 憎謂雖至死勿 二
190 荒覇吐神社祈願法
190 唯一之信仰救己心
191 丑寅日本紀 第六
191 錯誤作為之丑寅史
193 侵入不可侵之東日流
194 圧制民之政事
195 非理由之征夷史
196 語部古史録
198 有史之創暦
199 丑寅日本紀第七
199 蒙古軍之事
201 蒙古大帝国之事
202 海国兵談之事
203 古代シュメール之伝史
205 古代エジプト之事
206 古代ギリシア神之事
208 天竺仏教之事
209 丑寅日本紀 第八
209 注 言
209 興丑寅日本国史
210 古代耶摩堆五畿王
212 丑寅日本古考
213 倭国天皇記国記之事
215 丑寅日本史の深層
216 先古之民荒覇吐族
217 蝦夷名之由来
218 丑寅日本紀 第九
218 廃神改神令
219 筑紫東日流之往来
220 古代丑寅日本匡異史
221 追而 宇宙測之器案
221 宇宙の力動
223 万物生々進化之事
224 人誕生の古期抄
225 諸神併合之荒覇吐神
227 神格構成之事
228 丑寅日本紀第 十
228 注 言
228 丑寅日本国史大要
230 紅毛人国之記史抄
232 丑寅日本国鑑
236 安倍累代之資蔵
237 丑寅日本紀第十一
237 安東史
238 姫塚白蛇伝
239 あねこもさ
241 日本国丑寅秘伝
241 神秘之宇宙
244 不迷信心史
245 正中山光降の事
249 日之本史探証 一
249 序 言
249 総 序
251 閉されき山靼交流
253 山靼之神々を伝ふ
255 陸羽語部典 方言篇
257 陸奥物語
265 通説陸奥之役解
267 朝夷家実記
268 和田氏之事
269 陸奥羽奥百選抄
273 白鳥物語
274 耶摩堆之乱史
275 荒吐神信仰史談
277 山靼神信仰史談
279 終章之辞
280 終章之辞
281 日之本史探証 二
281 序 言
281 始祖之衣食住
284 安倍氏之求学
284 紅毛人国語典抄
285 陸羽求学之跡
286 行丘城要史
287 行丘城史
288 興国被浪志
289 曽我氏之事
291 工藤氏之事
291 安倍氏諸草紙
294 衣川しるべ
296 奥のしるべ 一
297 奥のしるべ 二
300 正史立証文
302 丑寅の魁星痕
304 諸説多伝之事
306 宗任転末史
307 宗任状
308 安東水軍起抄
308 安東船改造之事
編者紹介
藤本光幸(ふじもと・みつゆき)
1931年生れ。「東日流外三郡誌」(共著)(北方新社)の詳細を語る第一人者。
現在藤崎町教育委員、同町文化財審議委員を歴任。
現住所 略
和田家資料 2
丑寅日本記他
________________________________________________________
1994年 7月15日発行
編 者 藤 本 光 幸
発行者 二 葉 宏 夫
発行所 北 方 新 社
印刷所 小 野 印 刷
藤本光幸
本回の『和田家資料2』は「丑寅日本記」全十一巻、「丑寅日本紀」全十一巻、「日之本史探証」一・二巻より成っている。
これらの「和田家文書」の発見時の事情や成立過程については『和田家資料1』冒頭の“和田家文書について”で紹介しているのでここでは省略したい。
ところで、それに対する評価についてであるが、ここの所、安本美典氏が責任編集となっている季刊雑誌『邪馬台国』五一号、五二号、五三号で「『東日流外三郡誌』は現代人製作の偽書だ、虚妄の偽作物『東日流外三郡誌』、徹底追跡・偽書『東日流外三郡誌』」の見出しで虚妄の偽作物として、その偽書説を主張している。
これに対して私は反論したい。
安本美典氏は『邪馬台国』五一号に於て「編集部では『東日流外三郡誌』をはじめ、一連の「古文書」の資料提供者である和田喜八郎氏自身の長文の自筆原稿を入手した。その筆跡をみると『東日流外三郡誌』をはじめとする一連の『古文書』と同じものである。和田氏の原稿にも一連の『古文書』にも、共通の誤字がある。」として、一三三六年に書かれたはずの「古文書」と一九九二年に書かれた和田喜八郎氏の自筆原稿とを比較し、同じ誤字、同じ筆癖を指摘している。
しかし、「古文書」は一三三六年に書かれたものではなく、四代和田長三郎末吉によって明治期から大正初期に書写されたものである。また書写本は毛筆書であり、和田喜八郎氏の自筆原稿はペン書である。しかも、比較書体は特に似ている数字のみをとりあげている。これでは筆跡鑑定の根本を間違っているのでなかろうか。
和田喜八郎氏によれば、和田氏は飯詰小学校卒業後、同校高等科を卒業、自宅で農業に従事、その後、静岡県天竜市二俣町通信研究所(旧工兵第三連隊庁舎)に入隊、終戦後帰還して来たが、このような経歴のため歴史に関しては全く無知であったが、「和田家文書」の発見によって、以後、それを教科書として熱心に歴史を勉強した。従って、筆癖や誤字が似てくるのは当然のことであると語っている。
さて、『邪馬台国』五二号P72で編集部は“おわりに”「要するに『東日流外三郡誌』のすべては、現代人和田喜八郎氏が現代において入手しうる新聞、雑誌の記事、あるいは論文などをもとに、想像を大幅に加えて製作した偽書なのである。」と結論づけている。
ここに安本美典氏の一大誤謬の根元がある。現代の和田喜八郎氏が虚妄に立って偽作し、今なお製作し続けていると、思い込みによる先入観を大前提としていることが安本美典氏の失敗の原点になっているのである。
偽書論者は、筆癖、誤字、旧仮名づかいと現代かなづかいの混同、古文であるのに「係り結び」の間違い、「用字、語法」の誤りなどを偽書説の論拠にしているが、現在、その対象とされている原資料は、全て明治から大正初期にかけての四代目和田長三郎末吉の書写本なのである。これを一方では現代の和田喜八郎氏の捏造本であるとし、また一方では古文であるとしている。この矛盾をどの様に理解したらよいのであろうか。
また偽書論者は、末吉写本の年号の矛盾を指摘するが、これに対しては、東京大学東洋文化研究所平勢隆郎(ひらせたかお)助教授の“「史記」司馬遷の誤り”をもってお答えしたい。それによると「君主が代替わりするときの「元年」の数え方として二つの方法がある。「踰年称元法ゆねんしようげん」前君主が亡くなると翌年の正月をもって新君主の元年が始まったものとして数える方法。「立年りつねん称元法」前君主が死ぬとすぐ次の君主の元年が始まるとする方法。中国では古くは「立年」で年代を数えていた。だが司馬遷が生きた漢時代には「踰年」が採用されていた。司馬遷は「立年」で記録された古い時代の資料を「踰年」式で読んでしまったのだ。」
この様に「和田家文書」に資料を残した人々も、「踰年」と「立年」を混同して年号を湖るという誤りを冒したものと考えられるが、更に古田武彦教授の御指摘もある。
古田氏は親鸞上人の文書について長年研究調査をされているが、それによると、親鸞上人も「改元後は年頭にさかのぼってその新年号下と見なす」というルールによって文書を書かれていることを著明の例だとしている。従って、この事をもって偽書だと結論づけることは出来ないと思う。
更に一歩譲って、現代人和田喜八郎氏が製作し続けていると仮定してみよう。
その書かれた内容面を見ると古代信仰及びその神名(アラハバキ神、ルガル神、ブルハン神など)、宇宙観、天文学、世界各国の戦争、地理、民族、地名、言語、文字、伝説、伝承、詩歌(私が今まで原稿化したものだけで二千数百首ある)などなど、その内容面の豊富さをどの様に解釈したらよいであろうか。和田喜八郎氏が、もし創作したのであれば、彼は希代の大天才であり、大学教授以上の博学者と呼ばずして、何んと呼べばよいのだろうか。しかし、「和田家文書」は彼が創作したものではない。今から五年程前に和田氏は右腕を骨折し、ペンを持つにも非常に苦労している現況である。その彼が、これからも創作を統けてゆけるであろうか。
更に偽書論者は「和田古文書」の紙質鑑定として高知県紙業試験場で紙質鑑定を行なっているが、これは「ホテルサンルート五所川原」から借用したもので末吉書写本の原本ではなくレプリカである。戦後につくられたものであるという結果が出るのは当然である。しかも、まだこのレプリカを返還していない。「ホテルサンルート五所川原」では困っておられるようだ。また物品の鑑定もしてもらっている様だが、それも大山祇神社に信者が寄進した戦後の物(レプリカ)を本物として鑑定を依頼し、それが偽物と出たから「和田家文書」も偽書であるとしている。偽書論者は、なぜに末吉書写本の原本を対象として論争をしようとしないのか。おそらく偽書論者は一人として末吉書写原本を見ている人はいないからであろう。いや、一人それはいる。
原田実氏である。原田実氏は古田武彦教授の助手として、共に数年に渉って末吉書写原本を実見して居り、写真にとっている。それによって昭和薬科大学紀要第二五号に“北辰のロマン派”の表題で和田家史料群の論文を発表している。その中から抜粋してみると「ただし現存している写本はいずれも明治時代、和田長三郎末吉(長三郎の名は世襲)の手になるものである。・・・・同じ東北の地に昌益をしのぐような巨星が埋もれていたとしても不思議ではないだろう。・・・・重要なことは孝季、吉次らの史料編纂における思想的な基礎が単に西欧ロマン主義の影響というわけではなく、彼らの先祖以来受け継いできたという誇りに支えられていた点である。・・・・ロマン主義思想の本流は人間の自由と平等を謳歌し、権力の抑圧に対する戦いを辞さないものであった。・・・・ビッグ=バン理論の先駆けともいうべき着想をビュフォンはすでに唱えていたのかも知れない。その裏付けが得られれば、和田家史料群がきっかけとなって西欧科学史を書き換えるような新発見がもたらされることになろう。」と述べている。
その原田実氏が『邪馬台国』五二号では偽書論者の側に立って「私たちは和田喜八郎氏の筆跡サンプルをいくつか入手していたが、それらを「『和田家史料』群の写本の筆跡と比較しても、同一人物の手によるものと断定できるほどには似ていなかった。」とし、それが『和田家史料』群の書き手の筆跡が和田喜八郎氏のものと一致すると実証された現在では、私は躊躇することなく偽作説の立場をとることができる。」と論点が変って来たが、どの様に実証されたのであろうか。
また、『邪馬台国』五三号では“和田家史料群調査顛末”の表題で寄稿しているが、その中で「和田家史料群の書写あるいは造作が昭和期になっても作られていたこと、それを物的証拠によって裏付けたという点で、私は青森古文書研究会、安本美典氏『季刊邪馬台国』編集部の各位に深く感謝するものである。・・・・そして、理性は私を和田家史料群、現代人偽作説へと導いたのである。と結んでいる。(物的証拠とは何か、具体的に示してほしい)
更に、これは昭和薬科大学の名誉を守るためになされたものだとしている。しかし、仄聞するところによると、今度の原田実氏の変節は職制上に問題があったとも聞いている。
原田氏が引用した古田武彦教授の言葉「批判という言葉の真の意味から考えれば、まず史料に加わるみずからの「手」を見つめ、それを徹底的に「理性」の目にさらさねばならぬであろう。それが独断に汚されていれば、その「汚れた手」は史料を汚すだけとなるであろうから。史料批判とはその根底において、その史料をあつかう自己自身への批判でなければならぬ。」をそのまま原田実氏に進呈したいものである。
弘前大学助教授小口稚史氏は『邪馬台国』五二号の中で“『東日流外三郡誌』をどうあつかうべきか”の表題の中で、「いずれにしろ、現在までの論争では状況証拠でしか批判が行なわれていないことが気になるのである。厳格な実証主義史学の立場からすれば、状況証拠はいくら積み上げても所詮状況証拠でしかない。一つでもいいから直接の証拠を必要とする。『東日流外三郡誌』の早期の直接の調査が待たれる所以である。」と結んでいるが全くその通りである。
また、偽書説論者はあまりにも個人に対する誹誇、中傷が多過ぎる。個人攻撃は思い込みによる感情論であって、学問的な反論になる筈もなく、学問の世界に個人攻撃、感情論を持ち込んではならないと思う。
さて、いろいろと「和田家文書」偽書説に対する反論を述べてきたが、私達の側にも反省すべき点は多々ある。まず、秋田孝季、和田長三郎、和田りく等の実在と、その史料編纂の事蹟を裏付ける証拠を実証することである。私自身「和田家文書」の刊行を急ぐあまり、この点を疎かにして来たことは反省せざるをえないと思っている。従って、この点に関しては今度の偽書論争に感謝せざるを得ないと感じている。という事は、今度の偽書論争のお陰で、全国的に関心を持ってくれる同志が出来て、その人達がいろいろと助言をしてくれることである。例えば、秋田孝季、和田長三郎吉次の友人に高山彦九郎、林子平、前野良澤等がいるが、今度、林子平の真筆と思われる書が発見され、目下それを鑑定中である。このような事から秋田孝季、和田長三郎吉次の実在性を証明出来るかもしれないからである。
ところで『和田家史料1』でも述べたが、秋田孝季、和田長三郎吉次ともに、この資料は玉石混合を承知の上で収集したものであり、自分達も歴史の専門家ではないが、後世の聖(専門の歴史家)が、万粒の砂の中から真実の一粒を探し出して、真実の日本国歴史を再構築してもらいたいと念じているのである。
勝者の歴史は残るが、敗者の歴史は消されるのみである。従って、残っている敗者側の資料は矛盾を承知の上で出来得る限り採集したのである。これを読者の皆様の公平な目で多いに検証して戴き、再構成のための真偽の篩(ふるい)にかけてもらいたいものである。内容面を検討しての反論は歓迎するところであるが、個人に対する攻撃はやめてもらいたい。
「和田家文書」は推定量約千八百冊(巻)にも及ぶ膨大な量である。私はまだこの中の十分の一にも目を通していない。生涯の使命としてその原稿化に努めているが、学問的な検証はこれからである。全体に目を通していないので、学問的誤謬もあるかもしれないが、真実の日本国歴史再構成のために、今後共読者皆様方の御指摘をお願いする次第である。
なお最後に『和田家資料2』は昨年中に発刊の予定でしたが、今日まで順延したことをお詫びしペンを置く。
平成六年六月二日
藤本光幸
〔訂正済〕『和田家資料1』の解説中、四代目和田長三郎末吉の没年を大正六年十二月二十八日としたが、大正八年九月四日の誤りでした。お詫びして訂正します。
一、編集の方針としては、既刊『東日流外三郡誌』では項目別、年代別の編集を行なったが、今回の『和田家資料』では冊子別、巻別が明白であるため原本の分類を尊重する事にした。現存の「和田家文書」の状態は冊子本、巻本、一枚物、裏打ちのないままの巻紙状の物等、様々な体裁である。
一、原本は「此の書は前後相混ずる処あるも、文献の見付次第に記されし者なれば、順々不乱も詮なし」とあるように全体が統一テーマによって編纂されたものではないので、統一的な流れはないが、御了承を願いたい。
一、本文については新字体を心がけたが、人名、地名などはできるだけ原字体のままとした。また当て字なども多いが、意味のとれるものはそのままとし、明らかに誤字、脱字、重複字のわかるものについては訂正した。
一、記述の内容において間違いと思われるが曖昧なものは、そのままにして(ママ)と付した。
一、現本には句読点および改行一字下げはないが適宜これを施した。なお、原本にはまれにルビや傍線があるが、そのまま存置し、編者によるルビはない。
一、新資料のうち「丑寅日本記全」、「丑寅日本紀全」、「日之本史探証」を合本して一冊とした。
一、本巻は北斗抄二十八巻+総括のうち一〜十を収録した。
和田喜八郎
市浦村より村史資料編として「東日流外三郡誌」が初めて世に出たのが、昭和五十年であった。
それが、全国的な話題になるようになって、もう十八年にもなりました。
そして忘れかけていた頃「偽造説」を提訴する者や、新聞、週刊誌、刊行本などに提稿する者などが、私の名誉を侵害するような記事を載せ、地元のマスコミなどに提供している。
だが、私としてはいかに書かれようが史料の出自にかかわる偽造をしたこともないので「真実はひとつであり、ふたつはない」と断言できる。
私自身をして、此の世に生まれて六十七年の歳月を過ごし、時代の目まぐるしいまでも速い移り変わりを見てきました。変わっていないのは私自身であり、青春時代に志した唯一の美がある。抜擢されて、短期間ではあったが静岡県天竜市二俣町の通信研究所に学び、我が国の捨て石となって果てる信条を心身にその教育を受けたのである。
三三荘途の歌
柳田摸作詞
一 赤き心で 断じてなせば
骨も砕けよ 肉また散れよ
君に捧げて ほほえむ男児
二 いらぬは手柄 浮雲の如き
意気に感ぜし 人生こそは
神よ与えよ 万難我に
三 大義を求めて 感激の日々
仁を求めて ああ仁得たり
アジアの求むは この俺たちだ
四 丈なす墓も 小鳥のすみか
砕けし骨を モンスーンにのせて
散るや世界の すべてが墓だ
五 丈夫生くるに 念忠ありて
闇夜を照らす 巨燈を得れば
更に要せず 他念のあるを
六 南船北馬 今我は征く
母と別れて 海こえて行く
同志よ兄等と いつまた合わん
これは私にとって心の鉄則で、いつまでも変わらない。
平成六年六月二日
和田喜八郎
古田史学会報一覧 へ
「和田家文書」に依る『天皇記』『国記』及び日本の古代史の考察1 2 3 4