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和田家文書「偽作」説に対する徹底的批判
古田武彦
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拝啓
平松健と申します。先生のご著書はくまなく読ませて頂いており、ご講演も東京で行われる場合は欠かさず出席させて頂いておりますが、お手紙を差し上げますのは丁度六年ぶりになります。あしからずお許しください。
先般(四月二一日)のご講演では、先生の若さとバイタリティが年を追うごとに強まって行くことに、いつもながら深い感銘を受けました。本来なら講演会後の懇親会で質問させて頂きたかったのですが、予定あり、失礼させていただきました。その後問題点をあたためておりましたが、先般の『なかった』第三号でも、やはり疑問のまま残りましたので、書状で質問させて頂きたいと存じます。ただし、何分にもお忙しい御身の上、ご放念頂いても何ら苦情を申し上げることはございませんので念のため。
ところで、寛政原本が出てきましたことは誠にご同慶の至りであります。昨年セミナーで見せて頂いた時も非常に感動致しましたが、講演会の日もまた、感動を新たに致しました。ところが、長井さんでしたかの、質問にお答えになるときに、寛政原本は今まで五件で、明治写本に比べて九五対五程度であること、また、明治写本と比べて文章では基本的には一致する所はないとのお話でした。
これは非常に大きな問題のように私には思えます。以前に明治写本を多く見せて頂いたことがありますが、今回の五件がその明治写本に一致するところがないとすれば、何に基づいて写本したと言うことになるのでしょうか。私は寛政原本が寛政年間に作成され、明治写本が明治に作成された(もっとも一部は昭和初期のもあるそうですが)ことについて一毫も疑う者ではありませんが、明治写本が写本であることを証明するには、明治写本の中に寛政原本と一致するところがなければなりません。もちろん写本ですから、誤字、脱字、読み間違いなどはありますが、基本的内容において一致するところがあってはじめて、寛政原本の写本であることが言えます。一致する所がなければ、明治写本の原本はまだ他にあるか、もしなければ、今回出てきた寛政原本の明治写本がまだ発見されていない、あるいは失われてしまったと言うことになります。
明治写本は失われていないとすれば、寛政原本の五件はすべては明治写本の中に含まれなければならないのが道理です。同じ文章がなければなりません。文章が似ているというのでは、写本ということにはなりません。
繰り返しになりますが、同じ文章がなければ、現在ある明治写本は、今回出てきた寛政原本をもとに写本したものではない、と言わざるをえません。幼稚なたとえをすることは好みませんが、今ここに日本書紀卜部兼方本があるとき、古事記真福寺本が出てきたからと言って日本書紀の原本が出てきたことにはなりませんし、古事記の写本が日本書紀だと言うことも言えません。極論をすれば、同じ資料をもとに書いてあるにしても、明治写本に書かれていることが、寛政当時の原本に書かれていたという証明は、現在の時点では全くできていないと言わざるをえません。
同じことを何回も申し上げて恐縮ですが、現在の状態では、明治写本に書かれていることが、秋田孝季の書いていたと同じことを書いているという証明はできていないように思われます。「同じ事」と「同じ思想」とは全く別の次元のものです。簡単な話、今回の寛政原本の文章がすべて明治写本に基本的に同じ文章で書かれていたとしたら、明治写本の他の部分も寛政原本に書かれていたと推定することは不可能ではありません。今回は全く逆のケースです。明治写本に書かれていることのうち、寛政原本にも同じ思想はあるが、他の部分も寛政原本にあったということの証明には残念にして成り得ないと思います。
以上ご無礼を顧みず、私見を申し述べました。
敬具
二〇〇七年七月五日
平松健
古田武彦先生
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一
今回「発見」された寛政原本(A)と、従来の活字刊行本(「市浦村版」「北方新社版」「八幡書店版」)(B)とは、どのような関係にあるのか。この点、簡明率直に、事実と事の本質を指摘させていただきます。
第一、(A)と(B)との間に、「全く同一の形式と内容」をもつものはありません。すなわち(B)の一部が「寛政原本」として出現したのではないのです。
第二、肝心の点は次の一事です。近世の古文書として、必要な質と体裁と料紙をもつ、(A)こそが、本来の『東日流外三郡誌』ないし『東日流内三郡誌』です。これらがまず、判断や論議の中心におかれねばなりません。(一部は、『なかった』第三号、他はオンブック社のコロタイプ版に収録。)
第三、その上で、これとは「類似部分」はあるが、「別系列」の活字本について“論義すべき”なのです。決してその逆ではありません。
第四、この点、他の例をあげてみます。親鸞の消息文の場合、「真筆」は少数です。「御消息集」などの後代写本の方が多数です。右の両者に共通する消息もありますが、しないものの方が普通です。
しかし、両者の間には、親鸞の「語り口」や文体、思想、そして文法や語法が共通していますので、「非真筆」の消息文に対して、いきなりこれを「偽物」視する論者はありません。当然のことです。(部分的には、問題提起あり。)
『東日流外三郡誌』そして『東日流内三郡誌』の場合も、同様です。今回の「寛政原本」によって、この両者が江戸時代の寛政年間中心の時代に「実在」したことが明晰となりました。もちろん、当の秋田孝季・和田長三郎吉次の名も、そこにありました。
また、別種の文書(詩集『瀛奎律髄えいけいりつずい』下、「道中慰讀書、孝季」など)によって、秋田孝季の筆跡もまた、確認されました。
従って、これらと語法・文体・論旨・思想・内容を多く共有する、いわゆる「明治写本」(和田末吉・長作の再写)に対して、いきなりこれを「偽書」呼ばわりすることは、適切ではない。(部分的に否定論証を提示することは、無論、可能です。)
この点、親鸞文献の場合と本質上、大異はないのです。親鸞もまた、明治・大正期、学界から「架空の人物」扱いされ、『教行信証』すら「偽物」扱いされたのです(「代作者の代筆」説。喜田貞吉)。
しかし、先述のように、その筆跡研究(辻善之助等)や思想研究、系譜研究等によって今は「親鸞架空説」は消え去り、一時「偽物」視されていた『教行信証』(坂東本 ーー 自筆本)は、今や晴れて「国宝」となっているのです。
『東日流外三郡誌』『東日流内三郡誌』もまた、やがて同じ運命を経験することでしょう。
二
なお、注意すべき若干の点をあげてみましょう。
第五、現在の活字本(『東日流外三郡誌』)は、今回「発見」された「寛政原本」とは“別系列”です。確かに、語法・文体・思想等、確実に「共有面」をもつ。それはまちがいないのですが、「全く同一の形式と内容」ではないことから判明しますように、両者は本来的に“別系列”なのです。
ことに、第五種の『東日流内三郡誌』次第序巻と第一巻(合冊)の場合、孝季のもっとも煮につめられた宗教観や宇宙観が率直に明示されているけれど、これと「形式と内容」の同一なものは活字本にはない。第一、活字本は「題」がしめしているように、『東日流外三郡誌』であって、『東日流内三郡誌』ではないのです。すなわちこれにつづく第二巻以降の彪大なるべき内容は、わたしたちにとって今も「未見」なのです。今後、「出現」する可能性は高い。喜ぶべきことです。そして期待すべきことなのです。
もう一歩すすめて言いましょう。明治から大正・昭和にかけて「再写」しつづけ、昭和のはじめ(六年頃)、「再写し終った」と書いている、長作(とその父、末吉)は、今回のこの(これらの)『東日流内三郡誌』群を見ていなかった。その「洞窟」を知らなかった。その可能性が高い、と考えざるをえないのです。和田喜八郎氏は、死の直前(前年)、それを「発見」した。そしてわたし(古田)に「あった。あったよ。」と告げられたのです。
今後が期して待たれます。
第六、現行活字本の「元もと」をなした「寛政原本」は未見です。長作が「再写」終了後、これを未知の「洞窟」などに“収納”したのではないかと思われます。これも、今後に期待されましょう。
ーー 二〇〇七年八月二十日記了
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