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「山王日吉神社」考(2) 「民活」偽作論の虚妄
古田史学会報1995年 6月25日 No.7
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「山王日吉神社」考(2)

明治の神仏分離と日吉神社の変遷

京都市 古賀達也

 前回は、江戸時代に「山王日吉神社」はなかったとする斎藤隆一氏の寛政宝剣額偽造論に対して、安政二年に編纂された津軽藩による神社調査記録『神社微細社司由緒調書上帳』に山王宮の存在が記されていることを指摘したが、今回は秋田孝季と同時代の文化年間に「山王日吉神社」が存在していたことを裏づける史料を紹介する。青森県地方史の研究誌「うとう」二十一号(昭和十三年二月)に、「十三往来と福島城(上)」と題した小友叔雄氏の論文が掲載されている。その中の「山王阿吽寺跡」という一節に、文化十三年(一八一六)に日吉神社に参拝した「順礼者紀行」が次のように紹介引用されている。

「この社堂雨覆殿内の小祠の屋根棟木菊花御紋章全四寸五分厚さ五分のもの二箇打付けなり。
 文化十三年八月開扉して拝観したる順礼者紀行には當時金幣十二本並べ建て金鈴一箇あり誠に尊く拝したりとあり是等の貴重品何時の頃より失ひしや不明なり。
 順礼日記に又曰御づ子は桧の薄板にて叮嚀に出来御扉の右方上部に出羽宗順の記したりと云へど是又今ハ不明なり。相内村蓮華庵の建物ハ山王坊より其侭に移転し佛像佛具等も亦茲に納めたりといふ庵裏に山王坊古墓石の断片多し、曾て附近田の中より青磁の香爐を発見し暫く相内村にありしが今は所在不明なりと、五輪塔及古墓石は累々として所々にありしが今は散逸して少し云云。」

 ここに紹介されている「順礼紀行」あるいは「順礼日記」の出典を調査中だが、文化年間に「山王日吉神社」が存在したことの一級史料となろう。これによれば、江戸時代の山王日吉神社には金幣や金鈴などがあり、かなり立派な神社であったことがうかがえるのである。
 また斎藤隆一氏が紹介した、明治十一年に書かれた「旧社尊崇之儀ニ付願」にしても、明治の神仏分離令により神明宮に合祠されていた「日吉神社」を元の山王日吉神社社殿に遷座させて欲しいという村民の請願書であり、明治になって初めて日吉神社社殿が再建されたことを示す文書ではない。その証拠に次の史料を示そう。それは明治三年に編纂された『神仏混淆神社調帳』(弘前図書館蔵)である。同書は明治新政府の神仏分離令(慶応四年三月公布)による津軽での「神仏分離」の調査記録であり、それによると相内村の日吉神社は同村の飛竜宮(春日内観音堂)へ合祠されたことが記されている。おそらくその後更に神明宮へ合祠移転したものであろうが、山王日吉神社の御神体が明治の神仏分離により転々としたことが理解できよう。そして最終的には元の山王日吉神社社殿に戻ったのである。こうした津軽藩での神仏分離・廃佛毀釈について、小舘衷三氏が次のように指摘している。

「現在ではこの合併させられた各部落の神社がもとのところに、ほとんど全部存在して産神として祀られているのは、明治八年に合併伺い済みの神社のうち、大半が教部省に復社願を出し、同年末に神仏各宗に信教の自由が示達され、次第に旧に復くしていったためである。」(小舘衷三「津軽宗教史と廃仏毀 釈」『うとう』八十号所収、昭和四十九年五月)

 このような明治の神仏分離の歴史状況の中で、先の「旧社尊崇之儀ニ付願」を読み取らねばならないのである。         
 以上、いずれの史料事実も江戸時代に「山王日吉神社」が存在していたことを指し示すのであるが、次回は、江戸時代に「山王日吉神社」が無かった「根拠」として斎藤隆一氏があげた「菅江真澄遊覧記」について述べる予定である。そこでも斎藤氏の誤断が明白となろう。(つづく)


「民活」偽作論の虚妄

「偽作論」は学問の方法がゆがんでいる

京都市 古賀達也


 昨今の『東日流外三郡誌』偽作キャンペーンというものは、まことに奇妙な現象である。『東日流外三郡誌』をまともに読んでもいない人々が、あるいは直接会って聞き取り調査もせずに、虚偽情報あるいは誤情報に基づいて、その所蔵者を偽作者と名指しで批判する。そしてそれをマスコミや雑誌が拡大再生産する。このようなことが学問として許されるのであろうか。

 一例をあげよう。偽作論者は『東日流外三郡誌』に見える「民活」という用語を「民間(企業)活力」という現代語の略語であるとし、それをもって現代人による偽作の根拠とする。その後は、別の偽作論者により「民活」の存在が偽書の根拠として無批判に使用され、それを読んだ一般 読者は『東日流外三郡誌』の内容さえ知らぬまま「偽作」として自らの知識にインプットするという具合いである。

 問題の「民活」という用語は『東日流外三郡誌』八幡書店版第一巻百五十五頁に見える。

  阿蘇辺一族とは、津軽の最古民にしてその種姓は西大陸よりの渡民なり。
 津軽の国は当時、山海の地理よく、狩漁の幸は住むる民の飢えを能く保てり。然るに、寒処なりせば、津軽中央なる阿蘇辺平野に地湧く温泉の辺に集ふて、冬を過す民を阿蘇辺一族と曰ふ。
 一族の暮しは、占が総ての民活に要となり、その導者は君主なる坐に存す。(後略)
 (『東日流外三郡誌』総集篇第六巻所収 「津軽阿蘇辺一族の滅亡」)

 この文章で「民」とは文字通り「民衆」「人民」の意で使用されており、問題の「民活」も「民の生活」といった意味にしかとれない。これを「民間企業の活力」などとしたら、文脈が意味不明となろう。ようするに「民心」とか「民生」とかと同様の用例なのである。意訳すれば、次のようであろう。

「阿蘇辺一族の暮しぶりは、人々が生活する上で占いによる判断が要となっており、そのため占い師が一族を統率する君主となる。」

 占い師や祈祷師がシャーマンとして一族に君臨することは、邪馬壱国の女王卑弥呼を持ち出すまでもなく、古代史ではよく知られていることだ。このように、何ら問題無い文章や用語を、勝手に現代語の「民間活力」の略語と誤断し、偽作の「根拠」としてしまう。もはやあきらかであろう。おかしいのは『東日流外三郡誌』ではなく、偽作論者の「理解」の方だったのである。しかし、偽作論流通の過程で、根元の誤解は表面に現れないまま、「民活」イコール「民間活力」だから偽作、という誤った「結論」だけが一人歩きしているのである。ここに、当偽作キャンペーンが持つ社会現象としての恐ろしさを感じるのは私一人だけではあるまい。学問の方法と論理がゆがんでいるのだ。

 より決定的な論点を述べよう。現代経済用語としての「民活」の成立よりも、『東日流外三郡誌』の「民活」の方が「出現」が早いのである。なぜなら、経済用語の「民活」が世間に流布したのは昭和五五年頃以降であるが、それに対して『東日流外三郡誌』約二百冊は昭和四〇年頃には既に藤本光幸氏の手元に来ていたし、「民活」が記されている「総集篇第六巻」は昭和四六年頃から市浦村史版『東日流外三郡誌』が発行された昭和五〇年までには、市浦村史編集委員会に渡っているのである。その証拠に市浦村史版『東日流外三郡誌』上巻には、「総集篇第六巻」に収録されている「津軽無常抄」などが掲載されている。「民活」が記された「津軽阿蘇辺一族の滅亡」が市浦村史版に収録されていない理由は不明だが、「総集篇第六巻」が市浦村にわたっていることは確実である。従って、藤本光幸氏の証言からも、市浦村史版に掲載された「総集篇第六巻」の記事の存在からも、『東日流外三郡誌』の「民活」の方が先であり、真似しようにも世間では「民活」なる現代経済用語はまだ存在していなかったのだ。このように「民活」偽作論はその「論拠」が根底から狂っていたのである。

 さらに今回の偽作キャンペーンは、偽作者と名指しで中傷されている所蔵者や関係者たちへの直接調査を欠いたまま、「欠席裁判」の如く続けられているのもその特徴の一つだ。
しかも、偽作説に不利な証言をする者は偽作の「共犯」とみなされ、それらの証言は「第三者としての客観性を持たない」という「理由」で無視ないし軽視されるのである。一旦こうした方法が許されるなら、誰でも「有罪」にできよう。偽作論者もそろそろ自らの行為のおかしさに気付いてもよい頃と思うのだが、首謀者たちの真の狙いは古田武彦叩きと古田史学(多元史観、九州王朝説など)つぶしであろうから、彼らの良心に期待すべきではない。当真偽論争の本質が、和田家文書問題を利用した古田説「支持者」をも取り込んでの一元史観側からの古田史学(多元史観)への攻撃にあることを、偽作論者は今や隠そうともしていない。それに対して、私はこれからも偽作論者の虚偽情報を一つひとつ批判していくつもりである。「日本のドレフュス事件」を許してはならないのである。


これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』第一集〜第四集(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)第一・二集が適当です。 (全国の主要な公立図書館に御座います。)
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