「宝剣額」研究序説 和田家文書の信憑性(『新・古代学』第一集 和田家文書「偽書説」の崩壊)
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「山王日吉神社」考(1)日吉神社 社殿は江戸時代に存在した(古田史学会報 第六号)
京都市 古賀達也
前稿までで「山王日吉神社」が江戸時代に存在したことを論証したが、偽作論者たちがやっきになって寛政宝剣額が同神社になかったとする「証言」について反論する。
斎藤隆一氏は地元の古老の「証言」として、「平成元年新築以前の日吉神社にあったのは御神体だけで、剣の奉納額など見たことも聞いたこともなかった。」「昔から日吉神社は何もない神社である。」などと紹介されているが(「『寛政奉納額』スキャンダル」、『季刊邪馬台国』五五号所収)、松橋徳夫宮司・青山兼四郎氏・白川治三郎元市浦村長らの証言から判断すると、まったく別の姿が浮かび上がって来る。
まず白川氏の記憶によれば、戦前あるいは氏の子供時代(昭和初期)の日吉神社拝殿には多数の絵馬が雑然とぶら下がっており、その中に宝剣額もあった記憶がなんとなくあるとのこと。また、木彫りの鬼などもあったとされる。
青山氏は子供時代(昭和初期)に初めて宝剣額を見たこと、昭和二六年に村の委託を受け、同地域を測量 したさいに村人と共に宝剣額を熟視され、「秋田孝季」などの文字が書かれていたことを記憶しているとのことである。戦前、拝殿には多数の絵馬があったが、その後数が減ったと証言されている。また、宝剣額は「鬼額」の下になっていたとも記憶されている(後日、「鬼額」は木彫りの鬼だったかもしれないと、白川証言に留意されている。)。
松橋宮司は昭和二四年日吉神社の宮司に就任した時、初めて宝剣額を見たこと、その当時、氏子の話では戦前からあったとのこと、「奉納御神前日枝神社」と書かれていたことを記憶していると証言されている。また、当時(昭和二四年)の拝殿には数枚しか絵馬はかかっておらず、その中の一枚が宝剣額であったとのことである。
三者の証言はそれぞれ個別に行なった聞き取り調査や手紙での返答によるものであるが日吉神社の絵馬の状況の変遷が見事に一致している。すなわち、昭和初期から戦前にかけて多数あった絵馬が戦後には数枚になっており、そのうちの一枚が宝剣額であったという推移が証言されているのだ。
この証言は先の斎藤氏が紹介した「証言」と真っ向対立するのだが、いずれが真実であろうか。
まず、故奥田順蔵氏(十三史談会会長)の論文「十三側面史」(『むつ』第一集所収、昭和六年刊)から、日吉神社の部分を紹介しよう。
「参殿して恭しく拝せば御本體は衣冠束帯笏を持し畳臺に坐し給ひ、山王様としては餘りに御モダン化して居らせられて右刻の猿像は大小数多御隣の小祠に群居し、剰つさへ木製猿は近頃の農民美術を誇り顔に並んである。真下の神楽拝殿梁上にあちらこちら破損した御輿が吊られて居るのを見て、流石に山王様の名残がしのばるる。」
昭和六年に発表されたこの論文によれば、当時の日吉神社には猿像が群居していたこと、拝殿には御輿が吊られていたことが記されている。すなわち、「昔から何もなかった」という「証言」を否定するのである。そして、戦前は木彫りの鬼や多数の絵馬があったという白川氏や青山氏の証言と整合するのではあるまいか。
更にもう一つ重要な状況証拠がある。市浦村史編纂に参画されていた故山内英太郎氏のことである。氏の意見により宝剣額は市浦村史グラビアに掲載されたのだが、氏は郷土史研究家として地域の遺跡などにも詳しかった方である。たとえば、古田良一氏の論文「津軽十三湊の研究」(『東北大学文学部研究年報』七号所収、昭和三一年)で次のように紹介されている。
「私も奥田氏から現地調査を勧められたが、同氏の生前には遂に行く機会がなかった。しかし相内には、奥田氏の仕事を助けられた佐藤慶治氏や、遺蹟に委しい山内英太郎氏が居られ、また十三出身の現木造町立吹原小中学校長豊島勝蔵氏は、先人の業を継いで熱心に研究せられ、その成果
をガリ版刷として配布しておられる」
ここで紹介されている佐藤氏、山内氏、豊島氏は後にいずれも市浦村史編纂委員として『東日流外三郡誌』を世に紹介されることになるのだが、東北大学教授古田良一氏から山内氏は遺蹟に詳しいと評価されているのである。また、豊島勝蔵氏は山内氏の人柄をうかがえる、次のようなエピソードを記されている。
「山王の鳥居をくぐり、昼なお暗き参道を歩む度毎に背筋を走る何ものかがあることを感じたものだ。故山内英太郎氏などは、一緒に白くなった細かい骨を拾い集め、お堂の傍らに埋葬し蝋燭をともして読経を捧げたものだった。」(『市浦村史』第一巻昭和五九年刊)
山内氏は山王坊遺跡発掘後も骨を拾って埋葬読経されるという誠実な信心深いお人柄であったのである。それを裏づけるように、今でも日吉神社参道には山内氏が奉納された鳥居がある。このように日吉神社や遺跡のことに詳しく、同神社を崇敬されていた山内氏がありもしなかった宝剣額を村史冒頭を飾るグラビアに掲載を主張されるとは考えられない。あるいは偽作論者が主張するように和田喜八郎氏が大半を書き換えたものであるなら、山内氏がそれにまったく気付かなかったとは考えにくい。こうした状況証拠は宝剣額偽造論では説明困難なのである。おそらく宝剣額が日吉神社に存在していたことを最もよくご存じであったのは山内氏だったのではあるまいか。故人に代わって私はそう言わざるを得ないのである。
最後に、偽作論者の一連の主張が巧妙に変節していることを指摘して本稿を終えよう。
当初、斎藤隆一氏は宝剣額は江戸期のものではなく、和田喜八郎氏が偽造して持ち込んだものとされていたが、鉄剣や額の調査結果 がいずれも江戸期のものとしたほうが妥当となったため全面偽造説はトーンダウン(知らぬふり)した。しかし、持込み説最大の難問は、昔からあったと証言する松橋宮司や青山氏の存在であった。そこで、偽作論者たちは次なる手段として、両氏への人格攻撃を開始した。だが、松橋宮司の毅然とした態度と氏の誠実な人柄に対しては効果不足と感じたためか、ついに“宝剣額は昔から日吉神社にあったものを一部書き換えたもので、それが神社から持ち出されたのは宮司の責任である。”という論点の変節に至ったのである(三上重昭「『寛政宝剣額』について」『季刊邪馬台国』五七号所収)。
この変節は二つの意味で重要である。一つは「昔から宝剣額などなかった」と「証言」した自説側の「証言者」を見捨てるという、手段を選ばぬ「犯罪心理」学者たちのやり口をよく現していること。しかも、その「証言」を収集した斎藤隆一氏とは別の論者に書かせているのも、言わば「論者」の使い捨てであり、「証言者」の使い捨てと同じ手口である。
二つ目は、真実の前に虚偽情報はいつまでも押し通せぬこと、これである。
寛政宝剣額を「再発見」した時、偽作論者からの反論として当初わたしが予想したのは、日吉神社にあった額の「一部書換え」説であった。そのため、真作説の根拠となる額面の文字、たとえば「東日流外三郡誌」「秋田孝季」という部分の記憶を、青山氏と松橋宮司に対して繰り返し確認し、ビデオや手紙で記録したのであった。しかし、何としたことか偽作論者たちは、宝剣額は昭和四十年代に作られたものとか、日吉神社にはなかったとか主張し始めたので、なぜこのような無理な主張に走ったのか不思議に思ったほどだった。「一部書換え」説なら、まだ青山氏や松橋宮司の「記憶違い」という言い逃れが可能なのだが、「宝剣額はなかった」などと一旦言ってしまっては取り返しがつかないからだ。
しかし、わたしのこの認識は甘かったようだ。「犯罪心理」学者たちは自説側の「証言者」を切り捨てることぐらい平気でやってのけたのであるから。そして、古田史学攻撃の走狗として、やがて使い捨てられる運命にあるのは「犯罪心理」学者たち自身であることも歴史が証明するであろう。
(つづく)
京都市 古賀達也
『季刊邪馬台国』五八号において、斎藤隆一氏は「反故紙論争パートII ーー 反故紙が偽造文書にされた」という和田家文書偽造論を発表された。論点の一つに、和田家文書『武州雑記帳 一』は反故紙(大福帳)に和田壱岐の署名と石塔山神社の印が後から書き込まれており、同文書を偽造とされたのである。
例によって、同文書のコピーあるいは写真の入手先を明らかにしていない。明らかにすれば偽作キャンペーンの構造やその人間関係が明白になるから伏せているのであろう。
斎藤氏の論文には史料事実の誤認や論理の脆弱さが、あいもかわらず多いのだが、氏の反省を促すために、学問の方法論も含めて、批判しておこう。
まず、こうした史料の批判は、写真ではなく、実物で慎重に行うべきである。同時に写真の入手経路も明確に記すのがルールであろう。それさえもできないようなモノに基づいて、史料の真偽を論じ、他者を偽造犯とするのは学問研究ではない。
最後に肝要の一点を述べる。同文書には石塔山大山祇神社の印が数箇所に捺印されている。「和田壱岐」の署名部分は署名の上から押印されているが、別の部分には押印の上から大福帳の文字が記されている。肉眼・ルーペ・顕微鏡等で調査したが、いずれも墨の上には印の朱色は見いだせなかったのである。この事実は反故紙を利用して文書を偽造したとする斎藤説が成立できないことを示す。
斎藤氏は学問の方法も、結論も共に間違われたようである。なお詳細は別途報告する。
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