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1996年4月22日 No.13
古田史学会報 十三号 |
発行 古田史学の会 代表 水野孝夫
室蘭市 村井洋子
「私は一昨日パラオから帰って来ました。二倍年暦に関して、現地で調査をして来たのです。」
古田先生の昭和薬科大学での最終講義は二倍年暦の話から始まりました。
牛に引かれて善光寺参りならぬ、丑歳生まれの黒田幸さん(古田史学の会・北海道の仲間です)に誘われて、古田先生の最終講義を受講して参りました。譬えの意味が少し違うかもしれません。馬(私の干支は午です)が牛に引かれたのは確かですが、行く先はしっかり承知していました。渡りに舟とばかり、舟ではなく、飛行機に乗ったのでした。
それにしても先生のお元気なことには舌をまきます。「疲れ」「時差ぼけ」などという言葉は先生の辞書には無いようで、元気で張りのある声が昭和薬科大学の階段教室に響きました。
魏志倭人伝の記述「その人の寿命、あるいは百年、あるいは八、九十年」や、裸国・黒歯国まで「船行一年」、また、記紀の天皇の寿命を考えれば二倍年暦が妥当である。そして現在でも日本には二倍年暦の痕跡が沢山残っている。春祭り、秋祭り、年賀状に暑中見舞、ボーナスから飲み屋の付けの取り立てまで。どうして日本で二倍年暦か、古田先生は不思議でならなかったそうです。
暦とは、その土地の天然自然に根ざしているものです。それならば、日本列島は四倍年暦が妥当です。春夏秋冬がはっきりしているからです。そこで天然自然の風土に合うのは,東風西風・乾期雨期のはっきりしている赤道に近い国(島)々との結論に達します。
具体的で分かりやすく、説得力のある古田先生のお話は続きます。
パラオでは最近まで二倍年暦を使用していたという情報を得て、今回のパラオ行きとなったそうです。先生はアラッカベサンという所にある墓地へ行き、一八二五年に生まれ一九七七年に死亡と刻まれている墓石(コンクリート)を現実に見、写
真に写して来ていました。
バイブルに出て来る二十四倍あるいは十二倍年暦と思われる記述などを見ても、一つの文明に一つの暦があり、それは自然の風土に根ざしたものでなければおかしいとすれば、倭人伝に影響を与えた二倍年暦は、南の島から人間と共に、文明と共に黒潮に乗ってやって来たと考えるのが自然であろう。
二倍年暦は日本ばかりでなく、中国にまで及んでいる。司馬遷の史記に出て来る黄帝は百十一才、尭百十七才、舜百才、禹百十七才。これはどう見ても二倍年暦である。同じ様な事象があれば、全部中国が発信地と考えられがちであるが、その反対もあり得る。中国の風土は二倍年暦の発祥地とはどうしてもいいがたい。矢印はどちら?。パラオ→日本→中国である。土器についても日本が古く、中国が新しい。言葉にも日本から中国へ伝わったと思われるものがあります。
竹(TAKE・TIKU)、帆(HO・HAN)等等、日本から中国へと矢印の検証が続けられます。
二倍年暦のお話は前にも伺っていたものでしたが、一度目より二度目、二度目より三度目と論証が深まり、より確かなものになって行くのが分かります。
先生は黒板に「天」「空」と書きました。「あまとそら、どこが違いますか、かお(顔)とつら(面)、帰ると戻る、お尻とけつ、日本語には同じ物(事)に二つの言葉が存在します。同じ事を言っている、おしりは上品、けつは下品。同じ事で上品な言葉と下品な言葉の分け方に理由などありません。昔から決められているんです。古事記・日本書紀に書かれている言葉が上品とされているんです。「記紀」に使用されている言語は、とりもなおさず神武が博多湾糸島で使っていた方言にほかなりません。「記紀」は銅鐸圏を征服した征服者の書いたものなのですから。」
ここで糸島方言�神武弁の論証として神武歌謡「宇陀の高城に鴫わな張る…」を紹介していました。先生のお話からは次々と興味深い話題が飛び出します。今まで漠然と新旧の違いとしてかたずけていましたが、征服者と,被征服者の言葉と納得しました。
古田武彦教授退職記念最終講義で、日本の未来は夜明けという予想をし、これまでなんら干渉もせず、自由に研究と教育に当たらせてくれた昭和薬科大学に感謝の言葉を述べて先生の講義は終りました。
先生、十二年間本当にご苦労様でした。これからは京都へ帰り、更に研究を深められるとのことですが、身体には十分留意され、大学での講義は終っても、私達への講義は続けて下さいますよう、こころよりお願い申し上げます。
池田市 平谷照子
今から二十七年ばかり前、私は、あることによって古事記や日本書紀に書かれた、古代大和の大王登美の長髄彦と、その敵対者である大和朝廷の初代天皇になったという神武天皇が、脳に焼きついて消すことができないという、おかしな縁をひろってしまった。
長髄彦も神武天皇も、小学生女学生時代に皇国史で学んだ人物。それだけであるのに、妙なことに私の心の中に座を占められるようになり、私の方もこうなった以上は、この人物のことを調べてみたいという気になった。
古事記・日本書紀・風土記・古語拾遺から史記・魏志倭人伝・幹苑等々、手当り次第乱読していた。
まがりなりに、このような本をのぞくことができたのは、全くこの二人の人物のおかげで、それまでとは異なった道に、引き入れられたようである。古事記・日本書紀とは別
な長髄彦観、神武天皇観を林羅山に(日本の建国)、吉川惟順の長髄彦観を「研究史神武天皇」に、石川正明の長髄彦観を年々随筆に、その外に景行紀になったという本における長髄彦(言霊-ホツマ)を読んでいく中で、青森県から『市浦村史資料篇』として『東日流外三郡誌』がでている、そこには大和を落ちのびた長髄彦のことが列記されている。このことを知ったのは一九八〇年代の前半であり、この本を読むことができたのは、八幡書店から『東日流外三郡誌』全六卷が一九八九年に発行されたことによる。
津軽へ行こう--行ってどうなるものでもないが、犬も歩けば棒にあたる、である。何かを拾うことができるかもしれない。
津軽の旅の三日目、一九九五年十月十三日。私たち一行は石塔山に到達した。石塔山は『東日流外三郡誌』を世に出された、和田喜八郎氏の管理ときいていたので、和田家に入山許可の電話を出立前にしておいた。承諾して頂いたからと一行の世話人から報告されていた。世俗にまみれず、手入れの行き届いた静なかな神域を、各人各様の思いで参拝散策させてもらった。この時である。時を同じくして山に登って来られた和田喜八郎氏と出合い無断入山のお叱りをうけた。和田氏には私どもからの電話の件は連絡がおくれていたようである。一行のN氏が「自分は奈良のもので長髄彦を崇敬するグループの一員で、今回、津軽旅行に初めてまいったので是非ここにと参拝させてもらった」と安日彦長髄彦の霊標の前で話されると、和田氏はニコッとされてその後は、大山祇神社の社殿にあげていただき、改めて参拝。祭壇の横に和田家の先祖とおもえる方々の写真、和田氏ご自身の写真もあった。軍服姿のさわやかなものである。
弓矢刀剣衣服鞍鎧、鎧櫃には三春藩秋田氏の家紋があるのが目についた。和田氏は『東日流外三郡誌』別報1の中で、昭和六二年七月に石塔山に参拝された秋田一季旧子爵のことを書いておられたが、その折の記念写真が壁にかかっていた。こちらも見ていったらよいと、社殿横の収蔵庫を開けていただいた。内部は薄暗い。まず驚いたのは遮光器土偶である。ここの土偶には両足がある。出土する遮光器土偶の大半は片足だという。典雅なエジプトの神像、小さいスフインクス等、白磁の壺、玉
類、石鏃、和綴じの書籍が何十冊か木箱に。たづねると長髄彦に関する記録だと。在庫品は書ききれない。
和田氏はこの日、自宅から一体の仏像を車で運んでこられた。元来は、まばゆいばかり,の金ピカの仏さまであっただろう。仏像を収蔵庫に納めるのを手伝った一行の人の話しでは、応永年間のものだという。収蔵庫にはこの石塔山から出た物、自宅から運ばれた物があるようだ。
石塔山の神域には一見しただけでは気がつかない位置に、洞穴または塚かと思われるものがある。大石で蓋がしてあり、小さい素末な鳥居が立っている。この神域に建つ大鳥居を仰いだ時、その正面
の奥まった方向に、心を引きつけるパワーを感じた。それをたどってみるとこの洞穴の所に出てきた。和田氏は長髄彦の塚だといわれ、於瀬堂は臣下のものであると--。
私たちは和田氏から『新・古代学』という本と古田史学の会の会報九号を紹介された。別れの時、和田氏は今度くる時に三輪山の石をお願いしたいといわれた。N氏がそれを引受けられた。
和田氏は一直線なものを感じさせる硬骨漢であった。思いもよらぬ和田家文書を護り、今日の位
置に和田家文書をもってこられたバイタリティを、その一直線なものの中に見る思いである。石塔山での偶然の和田氏との出会い。その和田氏から「古田史学」並びに「古田史学の会」の存在を教えられたことは、犬も歩けば棒に突き当たるとばかりに津軽に来た私にとって、たいそうな土産であった。
『東日流外三郡誌』は、長い年月追いかけてきた長髄彦によって知ることができた魅力ある本である。しかし、その長髄彦についても、この本を読めば突当る疑問は幾つもあるということである。最も素朴な疑問として、『東日流外三郡誌』に於て、秋田孝季は何故耶馬台国を耶馬台国と書いて耶馬臺国とは書いていないのであろう。台は臺の略字ではない。臺の略字は?である。そこで台を調べると、台は臺の俗字である。台は別字とある。大事な国名に俗字を使うのか。ところで、台はイと読むことができる。台台イイ=やわらぎよろこぶさま。秋田孝季は何を考えて耶馬臺国と書いているのだろう。これが第一の疑問である。古田先生の著書は殆ど知らない。
これから探して読ませて頂くわけだが、このことで古田先生の説がないかと期待している。長髄彦から『東日流外三郡誌』に入門したが『東日流外三郡誌』が包蔵する広い世界に触れたいと思っている。
奈良市 太田齊二郎
【一】
能に「綾鼓」というのがあります。「ジャポニカ」によれば、筑前の国木の丸の「御所」に庭師として働く老人に横恋慕された女御が、革に代えて綾を張った鼓を老人に渡し、それが鳴ったら貴方に会いしましょうと約束した為、可哀想に老人は鳴りもしない綾鼓を打ち続け、悲しみのあまりとうとう恨み死にしてしまいますが、その後女御は老人の亡霊によって悩まされ続ける、というストーリーのようです。続ける、と言うストーリーのようで
能について素人の私がこの「綾鼓」を知ったのは、梅原猛氏の「隠された十字架」に感激し一連の「梅原日本学」の中でも初期の著書「地獄の思想」を読んだ時でした。 古田武彦の第二書「失われた九州王朝」以前の事もあって、「綾鼓」と「九州王朝」との関わりを読み逃したとしてもその罪は許されていいでしょう。従って今から数年前、NHKの「綾鼓」の放映を観ましたが、その動機も「梅原日本学」の重要な課程の一つである「地獄の思想」の「綾鼓」を見たいが為という単純な理由からでしたし、それだけに、その字幕スーパーに「筑前の朝廷」(「皇居」だったかも知れません)という文字を見た時の私の驚きと興奮はご想像頂けるものと思います。
【二】
NHKテレビから間もなく、その興奮を中小路駿逸先生にお伝えした所、「それについては丸山晋司さんが何かに発表されていますよ」というご返事に何となく、しばらくそれを確認することもなかったのでしたが、半年ほど前丸山晋司氏に問い合わせた所、それは「朝倉宮に『崩』じた『天皇』」(「市民の古代研究」第四集)のことであるが、それは「九州王朝」の立証にはならないだろうという内容のご返事を頂きました。合わせた所、それは同論文によれば、「綾鼓」が「九州王朝」の立証にならない理由を、現地に残る「斉明」「天智」に関わる伝承(大野誠『太宰府歴史散歩』からの引用)の出所が不明であるということに求めているように思われるのですが、一方筑紫の君)との関連が予想され得るようであるが、今回はそこまで踏み込めなかった」とあり、丸山氏自身は必ずしも「九州王朝」の存在を否定してはおられないようでした。
従って、「綾鼓」は「九州王朝」の立証にはならないと附記されていた丸山氏からのご返事は私にとって意外なものでした。、丸山氏もて「ジャポニカ」によれば「綾鼓」は作者不明、世阿弥以前の作とあり、梅原猛氏も前掲書において、世阿弥による古曲の編集であると解説しておりますが、私には、この「朝廷」なる言葉が、何時でも何処に対しても気軽に使用出来たものとはとても思えません。嘗て筑前に、「歴史事実」としての「九州王朝」が存在していたからこそ、そこに(或いは「古田武彦」が説く「遠の朝廷」)に対してのみ、特別
にその使用を許されたものであり、従ってこのことは、「綾鼓」の観客、つまり京都御所や室町将軍家も含めた当時の日本人の間に、その昔筑前に「朝廷」なるものが存在していたという共通
の認識があったことを示すものと考えざるを得ません。
【三】
いうまでもなく、科学としての「人文科学」は、研究者に対しいたずらに「直接証拠」を探し求めてさまよう「宝探し」のようなものを期待してはおりません。学問にそのような「おいしそうなもの」等ある訳はないし、特に「古代史」においては、或るテーマに関し元々「直接証拠」があれば研究なんて初めから必要ないからです。いい換えれば、そこに「直接証拠」がなかったからこそ「研究」が始ったという事が出来るのです。思わせていますが、「人文科学」が求めている「科学的研究」とは、裁判に似て、数々の「状況証拠」に対する客観的な「体系化」、そしてその積み重ねであって決してそれ以外の何物でもありません。
さて、この度「綾鼓」から思いがけなくも、丸山晋司氏の「朝倉宮に『崩』じた『天皇』」という力感あふれる論文に接する事が出来ましたが、「通
説」に安住し、真の研究のあり方を忘れ、学問的怠慢に耽るのみか、「直接証拠」の提示がない限り「九州王朝」の存在を認めない等とうそぶいている多くの「一元論者に対し、真の学問への反省を念願しつつ本稿を締めたいと思います。
(一九九六年一月)
《本の紹介》
平 野 雅 曠 著
本会会員の平野氏(熊本市)が表記
の著書を出された。氏は古田説に立ちながらも、独自の視点から地元熊本や九州の伝承に注目された論者である。本書でも過去の論争や、呉王の末裔が肥後国菊地郡に渡来したとする興味深い仮説を提示されている。これまでの論点をまとめた小稿が主だが、それだけに読み易く、また論多岐にわたる。その是非はともかく、読者を飽きさせない佳書である。
定価二千円、送料三百十円とのこと。希望者は左記にご注文下さい。(古賀達也)
◇ ◇ ◇ ◇
平野雅曠
〒862,熊本市田迎町出仲間
096-378-0282
古田史学会報,十二号,正誤表,お詫び申し上げ、訂正いたします。(編集部)
(誤) (正)
1頁2段,三行目 東南アジア起源 東と南アジア起源
3-4段古田氏新年の挨拶末尾に「仰いで天災を悼み、伏して人災を観る」を追加。
2頁2段,後から六-五行目 癌遺伝子 ウィルスの
3段 後から十一行目 唐人駄場遺跡 佐田山遺跡
4段二-三行目,絹が織り込んであるという (削除)
4頁2段,後ろから2行目 六六二年 六七二年
3段 算簒 簒奪
(インターネット事務局より2000.12.1
会報の公開では、これらは全て訂正済みです )
大阪市 大塚勝己
先日、『魔がさすとき』(紘一郎著、(株)法研刊)という本を読み、その最後に「方言マップ」という地図が載っていました。おもしろそうな地図だと思い、御紹介します。
この本は、事件の犯人の心理状態を探る本ですが、その最後の章に、「犯人からの脅迫電話を元に、出身地や素性…等を方言学、音声学から探る」箇所があり、そこから勝手に抜粋させてもらいました。
下図の濃く塗られた地域では、例えば「下(した)を、[shita],ではなく、[s(i)ta]のように、母音のiが無声化して、聞こえにくくなる」特徴があるそうです。
また、図には示されていませんでしたが、
「2拍名詞のアクセントの一部、第一類がずれるのは、東京近郊ではなく、関東周辺地域か、中国地方から九州の入口、福岡あたりが考えられます」と本文中にあります。
図をご覧になっておわかりのように、「九州、琉球地方と出雲(大国)、越、そして関東から東北に共通
点がみられる」という、古田先生の著作を読んできたものには、大変興味深く思えるものでした。
最近(と言ってもここ数年)、古田先生の学説が次々と証明されています。「室見川の銘版→吉武高木遺跡」「国引き神話の解釈」「縄文人太平洋横断説」など。古田史学会で、これら『業績集(仮説的中集?)』をまとめて出版すればどうでしょう。古田先生が出せばまた訳のわからん連中が騒ぐし、一般の読者にも題名だけ見る人には「自慢じみて」映るかもしれません。
新しい読者を増やす為にも、古田史学の業績を確認する意味でも、いいと思うのですが。
方言マップ 地図略
◇◇ 連載小説 『 彩 神 (カリスマ) 』第三話 ◇◇◇◇
--古田武彦著『古代は輝いていた』より-->
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇ 深津栄美 ◇◇
◇ ◇
「ヤアッ!」
小さな影か突進する。
が、たちまち弾き返され、砂の上に転がった。
「どうした、それだけか?」
挑発されて、
「クソオ……!」
影は再び、頭からぶつかった。油断して体を開いていた相手はまともに頭突きを食らい、よろめきかけたが、かろうじて踏み堪え、回しをつかんだ。小さな影は遮二無二全重量
をのしかからせようとしたが、何分体が未熟で思うように力が入らない。遂にうっちゃられて尻餅を突いた。
「ハハ、須佐之男とやっているのか、石蕗(つわぶき)?」
「チビ横綱さん、奉納相撲の稽古かい?」
通りかかった少年二人がはやし立てる。いずれも童顔だが体格は良く、特に柵原(ヤナハラ)の吉備津彦の方は、故国(くに)の名産藺草(いぐさ)の実のように赤銅色に日焼けしていた。
「何なら、今度は俺が相手になってやろうか?」吉備津彦が胸を叩き、
「どうだい、見事倒せるかい?」
隠岐の羽山戸(はやまと)が腰に手を当て、顎を突き出す。彼は「天の日栖(ひす)の宮」の後継(あととり)で、須佐之男と同じく親が大国(おおくに。後の出雲)の朝日山の祭礼へ出かけている間、天国(あまくに、現壱岐対馬)に預けられているのだった。
「畜生、負けるもんかーー!」
石蕗ははね起き、三度(みたび)飛びかかった。
が、相手は素早くかわして、
「ほれ、どこを見てるんだよ?」
「こっちだ、こっちだ。」
と、少年の頭を小突き、両手でなぶり、腰を蹴りつけ、髷(まげ)を引っ張り、石蕗は風に舞う羽のように翻弄された。
「よせ!」
見かねて須佐之男が割り込み、
「石蕗はまだ子供なんだぞ。俺達と同じ事が出来る訳なかろう?」
息絶えだえの少年を二人からもぎ離すと、
「フン、梅図ン所に生まれたかずおみてエな双頭児じゃあるメエし--。」
吉備津彦が鼻を鳴らした。
「そいつは言わない約束だった筈だぞ。」
須佐之男が睨めつけると、
「貴様、俺とやる気か?」
吉備津彦の目に、ネコがネズミを虐(いた)ぶるに似た光が浮かんだ。
「よーし、俺が審判してやらア。」
羽山戸が腰に挿していた八ツ手の葉を抜き取り、扇のように構える。
須佐之男は軽蔑し切った視線をそちらへ投げると、吉備津彦めがけて躍りかかった。
今度は対等に渡り合える相手だ。吉備津彦はがっちりと両腕で受け止め、回しを握った。二人は互いに隙を伺い、身を捻り、足を飛ばし、砂煙を巻き上げつつ二頭の獣のように暴れ回った。
「ハッケヨイ、残った残った。」
羽山戸が、八ツ手の葉で二人を煽(あお)り立てる。
吉備津彦がやにわに片足で、須佐之男の膝裏を突いた。不意を打たれて須佐之男はよろめいたが、吉備津彦も爪先を砂に取られ、丁度傍に来ていた羽山戸も巻き込んで横転してしまった。
「ハハ、口程にもないんだな、二人共。」
暫く休んで元気を回復した石蕗が笑い出し
「何だと、こいつーー!?」
羽山戸が拳を振りかざした時、
「やめろ!」
井伏老人の大喝が飛んで来た。
◇ ◇
「須佐之男、痛くない?」
天照(アマテル)が薬草を口で湿しては、血の滲んだ指先に塗ってくれている。
「平気さ、これ位……。」
須佐之男は顔を赤らめていた。天照の桜色の唇が触れる度、快い火花が体内を駆け抜けて行く。柔かな髪のそよぎ、肌の温もり、甘やかな吐息……全て、吉備津彦らと渡り合っていた時の汗臭い武骨な雰囲気とは違い、光の靄(もや)にくるまれ、溶け消えてしまいそうだ。母の体内に在る子は、丁度こんな感じなのではあるまいか……?
天照が手当に熱中している後ろでは、木を割ったり削ったりする音が盛んに響いていた。井伏老人の指図で、男達が船を作っているのだ。
井伏老人は、今でこそ裏の洞穴で孫の霊を慰める為の石像を刻む毎日だが、本職は船大工で、頼まれると監督にやって来る。無論、後継は大勢いたが、支柱の構造や綱の張り具合いなどにかけては、井伏老人にまだ一歩も二歩も譲る者が多かった。
「オーイ、その梁はもっと削らんかい?節だらけだぞ!」
井伏老人がどなると、
「これ以上やったら、唯の木ッ端になっちまうぜ、井伏の爺さん。」
「元々枯れ木だしな。」
「山椒魚の皮で補うか?」
二、三人がまぜ返し、笑い声が起こった。
「越が吉備(岡山)と組んで大国を狙っているって、本当かなア……?」
熱心に船の建造を眺めていた須佐之男が、井伏老人に聞いた。越や天国の豪族達は年に一度、大国の朝日山の祭礼に参集する慣しだったが、今年、有力者の子供達が対海(つみ)へ預けられたのは、各国家間が険悪になったからだとか、今回の祭礼は韓(から。現南朝鮮)の北方に進出して来た異民族対策を講じる為の会議だとか、不穏な噂が流れているのだ。
「ああ、大国は宝の産地じゃてなア。」
井伏老人は黒曜石の刃を見せ、
「汝(ぬし)の故郷の須佐には、赤銅(あかがね)や黒鉄(くろがね)がある。金属は、武器には最適の代物なんじゃよ。主だった豪族はウの目タカの目で狙っておるじゃろう。くれぐれも注意する事じゃ。」
と言った時、
「天照、須佐之男、御飯ですよ。」
澄んだ女の声が呼んだ。
(続く)
古田史学の会代表 水野孝夫
本会会員で大津市在住の中谷義夫氏が二月十六日永眠された。七九才であった。氏は「市民の古代研究会」の前身「古田武彦を囲む会」の創始者のひとりであり、初代会長を勤められた。かって書店を経営され、出版関係の事情に明るく、ご自身にも『古代史私淑』『大阪歴史散歩』の著書がある。
近年は療養に専念されていて、療養に便利な大阪近郊への移住を計画されていた。「古田史学の会」には発足時から激励と財政援助を頂いた。氏の激ましの言葉を聞く機会を永久に失ったことは淋しい限りである。蔵書の整理を会員・藤田友治氏に委託されたので、また利用させて頂く機会もありうる。ご冥福をお祈りする。
関西例会
《例会報告》
二月例会では、室伏氏より斎宮論と題して天皇家の斎宮と九州王朝との関係が論じられた。古賀からは菅江真澄日記に見えるアイヌの年齢が二倍年暦で記されていること、阿波国戸籍に見える百歳以上の年齢を二倍年暦の観点から見直す必要性が指摘された。また、對中如雲著『広重「東海道五十三次」の秘密』の紹介がなされ、司馬江漢と田沼意次の関係や、江漢の平等思想、長崎出島での洋学研究などから、和田家文書や秋田孝季との関連があるかもしれないとした。
三月例会でも、室伏氏から斎宮論との関連で、藤原不比等と持統との盟約論が展開された。古賀からは、豊後の安倍宗任伝承と和田家文書の分析から、宗任の没年が共に永久二年(一一一四)と一致することから、和田家文書真作の根拠になると発表した。(古賀達也)
□□ 会員総会のご案内
□□
きたる五月十二日、古田武彦氏関西講演会終了後、同会場で第二回定期会員総会を開催します。議案は活動決算報告、予算案などです。人事は任期二年の為、継続となります。
会則に基づき、委任出席が認められますので、出席できない方は出席される会員か事務局に委任状(様式は自由)を提出して下さい。
□□ 事務局だより □□
▽古田武彦を囲む会の産みの親、中谷さんが亡くなられた。既に危篤と伝えられていたとは言え、無念であった。葬儀の日は大雪。東京からの新幹線も大幅に遅れ、古田先生が駆けつけられた時、葬儀は終っており、先生は遺骨と対面された。未亡人が遺骨に向かって「先生が来てくださったわよ」と語りかけられ、先生は遺骨に永く黙祷された。「囲む会」の第一世代の物故が続く悲しみは絶え難い。
しかし、私たちは前進する。学問と真実と未来のために。どうか天国で私たちを見守っていて下さい。
▽『古代に真実を求めて』が誕生した。作って下さったのは北海道の吉森さんたち。感謝に絶えない。しかし、この本が生まれた真の背景は真実を愛する人々の存在であろう。同時にこの本は「未来への証言」でもある。二〇世紀の終り、真実の日本の歴
史が語り合われていた、ということを未来の青年達に残すためだ。幸い、好評を得て、出版社からの発行の話も進んでいる。全国の書店に並ぶ日も夢ではあるまい。なお、残部が若干あり、ご希望の方は事務局(古賀)まで御一報願いたい。
▽古田先生は最終講義で「現代日本は独創の時代に向かって、産みの苦しみの中にある。しかし歴史的に見て、やがて独創の時代が来ること間違いない」と述べられた。古田史学は日本人の精神文化にとって独創の時代への起爆剤となり得るであろう。
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』第一集〜第四集(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)第一〜六集が適当です。
(全国の主要な公立図書館に御座います。)
新古代学の扉 インターネット事務局 E-mailは、ここから。
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