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出現した寛政の奉納額(1994年8月3日号No.2 PDF TAGEN

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決定的一級史料の出現 「寛政奉納額」の「発見」によって東日流外三郡誌「偽書説」は消滅した 古田武彦


秋田孝季奉納額の「発見」 偽書説と真実

古田史学会報 創刊号 1994年6月30日 No.1
  特集/和田家文書

秋田孝季奉納額の「発見」

「和田家文書」現地調査報告

古賀達也

 和田家文書「喜八郎氏偽作」説と一対をなす主張に、「秋田孝季架空」説がある。秋田孝季という人物は和田家文書にしか現れておらず、これも喜八郎氏の手になる架空の人物という説である。私はさる五月五日から八日にかけて、古田武彦氏に同行し青森県五所川原市の和田家文書の現地調査の機会を得た。短い期日だったが多くの収穫を得ることができ、貴重な調査となった。そこで、秋田孝季実在の根拠となる史料と地元の人の証言を得た。なお、調査の詳細は本会会誌(本年十二月発行予定)にて発表するが、ここに概要のみ報告する。
 昨年八月発行の歴史読本特別増刊号『「古史古伝」論争』に掲載された藤本光幸氏の論文「『東日流外三郡誌』偽書説への反証」中に、秋田孝季が山王日吉神社に奉納したとされる額の写真がある。印刷が不鮮明なため正確には読み取れなかったが、「寛政元年八月」「土崎」「秋田」という字が読み取れた。
 この額が現存していれば和田家文書真作説の有力な証拠となるはずである。さっそく、藤本氏に問い合わせてみたが、現在どこにあるか不明とのこと。そこで、今回の調査目的の一つにこの奉納額の探索を加えたのだが、事態は二転三転、スリリングな展開を見せた。その話は別の機会にゆずろう。
 結論から言うと、その額は市浦村教育委員会に保管されていた。市浦村役場関係者のご好意により、じっくりと額を観察できた。額には二本の鉄剣が張り付けられており、その右上に「奉納御神前日枝神社」、右下段に「土崎住」「秋田孝季」、下段中央に「飯積住」「和田長三郎」、左上より「寛政元年酉八月?日東日流外三郡誌」「筆起」「為完結」と墨で書かれている。日付部分は木の節穴にあたり、何日であったかは不明。筆跡は明らかに明治写 本(和田末吉)とは異なる。鉄剣は全体に錆びており、額自体も虫喰いや雨などによる汚れが見られ、一見して古いものと感じられた。写真では不明だった額の全貌が解り、その存在が真作説を決定しうる内容を持っていることに、私たちがいかに驚いたか御想像いただけるであろう。
 秋田孝季と和田長三郎吉次が「東日流外三郡誌」の編纂を始めるに当たって、その完成を祈願して、山王日吉神社に奉納したという内容を持つ貴重な額であるが、念を入れる必要があった。それは、この額も喜八郎氏による偽作とする「中傷」が予想されるため、額の由来の確かさを押さえる必要があった。しかしここでも期待を上回る証言が得られた。
  青山兼四郎氏、七二歳。地元で建築関係の仕事に携わられておられ、郷土史にも詳しい方だ。青山氏の証言によれば次の通りだ(ビデオに収録。後日、手紙で再確認)。
 1 この額は山王日吉神社に掲げられていたものである。子供の頃から見て知っていた。
 2 昭和二八年秋頃、市浦村の財産区調査により測量を行ったが、自分以外にも調査関係者がこの額を見ている。存命の者もいる。
 3 当時、関係者の間でも大変古い貴重な額であることが話題になった。
 4 「日枝神社」「秋田孝季」という字が書かれていたことは、はっきりと覚えている。

 概ね以上の証言である。もはや多言は要すまい。百の机上(パソコン通信)の憶測・中傷よりも、一の現地調査である。「歴史は足にて知るべきものなり」だ。引続き額の鑑定、現地での聞き取り調査などを続行する予定である。
 最後に言わねばならぬことがある。当真偽論争では喜八郎氏を筆頭に、その関係者までもが偽作論者による言われなき疑いや中傷を受けている。しかし、現地で実際にその方々にお会いしたが、いずれもごく普通の真面目で実直な方々であった。そのことをはっきりと明記しておきたい。そして、和田家文書の真の学問的研究はこれからであることも。

秋田孝季ら奉納額

秋田孝季ら奉納額(画像はコンピュータ処理しています。無断転用禁止2000.11.1)
70cmx33cm
写真撮映:古賀


  特集/和田家文書

偽書説と真実

−−真偽論争以前の基礎的研究のために−−

古賀達也

 1 和田家文書と秋田家

 秋田孝季に史書編纂(和田家文書)を命じたとされる三春藩主秋田家は安日王の末裔であることをあることを家門の誇りとしている。そうした祖先安日王崇敬の念は、下国安東氏(秋田氏)系図にも一貫して流れている。また一族の結束も強く、松前藩家老職の下国氏は参勤交代などで江戸に行く際にはほぼ例外なく三春の秋田家を訪れ、三春藩主への挨拶を欠かさなかった。また、こうした事実を周囲(徳川将軍家も含め)が容認するだけの歴史的背景が下国安東氏にはあったということでもあろう。
 たとえば、下国安東氏最後の当主であり、秋田氏初代藩主秋田実季は万治二年(一六五九)に八十四才で没するまで、自家の系図編集に情熱を傾けている。実季の目的は、藤原・橘・紀・源・平のどれにも属さない阿倍安東の系を記録することであり、北奥の神々と結び、被征服氏族安日王と結び付け、常に異端を歩んだ祖先を記録することであったという。実季は息子の俊季が徳川家に提出した系図(安日王を祖先としていないらしい)を、系図のすりかえであり「末代之瑕瑾」と批判している(『羽賀寺文書』)。
 こうした「朝敵安日王の末裔であることを誇る」という秋田家の認識は近代まで続いてる。明治になって華族(子爵)となった秋田家は、宮内省から朝敵長髄彦の兄安日王の子孫では困るので系図の書換えを命じられた。しかし秋田家は「当家は神武天皇御東征以前の旧家といふことを以て、家門の誇りといたしております。天孫降臨以前の系図を正しく伝へておりますものは、憚りながら出雲国造家と当家のみしか無いのでございます」と改訂を拒否したことを喜田貞吉が紹介している。これに対し秋田家は「拒否したと云ふ事実はない」と抗議し、喜田も取り消すという騒動が起こっている。もっとも宮内省の意向を拒否はしなかったと言うものの「長髄彦の子孫」であることを否定はしていない。
 このように安日王の子孫であることを誇りとする一族が近世(現代)まで存続してことは興味深い。寛政年間頃に成立したとされる和田家文書に一貫して流れる思想はこうした歴史事実と符合しており、三春藩秋田家を宗家とする安東一族の歴史的背景は真作説にとって有利な傍証となろう。
 これら事実は中近世史では良く知られているようであるが、和田家文書真贋論争における、一つの切口として検討していただければ幸いである。なお、本稿は海保嶺夫『中世の蝦夷地』を参考として執筆したものであり、詳しくは同書を読んでいただきたいと思う。

 

 2 奉行所か代官所か

 新人物往来社の別冊歴史読本『「古史古伝」論争』に掲載された安本美典氏の論文「『東日流外三郡誌』は現代人制作の偽書である」に次のような指摘がなされている。

 和田喜八郎氏は、「木作新田奉行和田壱岐」の布令の「文書」などを示すが、「木作新田奉行」(現在、青森県木造町)なるものは存在しない。存在したのは、奉行所ではなく「木作代官所」であった。

 安本氏は津軽藩史、あるいは青森県近世史をご存じないようだ。このような誤った東北の「歴史」を正すため、以下、知るところを述べる。
(一)津軽藩は新田開発のため各地に「新田奉行」を置いた
 津軽藩は新田の開発のために初代から明治初年まで、一部の中断期間を除いて、藩をあげて新田開発に力を注いでいる。そのための組織として開発地に新田奉行を置いた。参考までに『青森県の歴史』(宮崎道生著)の当該部分を引用しておく。
 
  御蔵派は、古知行開発のできない土地に対する開田策で、新田奉行を任命して監督させ、堰奉行・普請奉行を置いて水利面 を担当させ、“人寄役”を設けて他領からも百姓呼び寄せて実施したものである。
(同書百五十頁)

(二)木作新田にいた奉行 
 『青森県史・二巻』に引用されている『要記秘鑑』の寛政二年十一月九日条に「広須組木作新田普請奉行平澤吉三郎」という記事が見える。このことから、木作にも新田奉行が置かれていたことが判る。

(三)「木作代官所」について      
 木作には確かに代官が置かれていたが、厳密に言うなら元禄頃に広須組から木作新田が分離するまでは広須の代官(代官所という表記はこの時にはされておらず、代官遣目と呼ばれていたようである)が木作村に存在していたので「広須代官」と呼ばれるべきものであろう。
元禄頃(一六八八−一七〇四)以降は木作新田が分離したので、広須と木作新田の両組の代官が木作村に並存していたようである。この時期であれば「木作代官所」という表記も成立する。ただし、安本氏が指摘された和田家文書が具体的にどの文書を指すのか不明なので、正確には判断できないが、おそらく『真実の東北王朝』に掲載された『天草軍記』末尾の「津軽藩布令覚書」のことと想像するが、同文書は「寛永十五年」(一六三八)と年代が記されているので、書かれてある通 り「木作新田奉行」で正しく、むしろ「木作代官」とある方が疑わしいのである。

 以上の史料事実が示す通り、「木作新田奉行」は存在しており、そのことをもって和田家文書偽作の根拠とはできない。

 

 3 「藩」表記について

--松田弘洲氏の偽作説検証

  和田家文書偽作論者の一人に松田弘洲氏がいる。その氏が別冊歴史読本『「古史古伝」論争』で指摘された偽作の根拠の中に、基本的な誤認が散見されたので、以下批判する。
 松田氏は和田家文書に見える「藩」について次の様に述べられている。

「東日流外三郡誌は藩許得難く」
「三春藩士」
なんてことも『東日流外三郡誌』には書いてあるが、江戸時代に津軽藩とか、三春藩などと称することはなかった。読者も手元の辞典を引いて、大名領をいつから“藩”と称したのか確認したらよろしい。

 この松田氏の一文を見て、唖然としたのは恐らく私だけではあるまい。なんと江戸時代に「藩」という名称がなかったとされているのだ。「藩」という表記は、たとえば吉田松陰の書簡などで見慣れているからだ。
○「肥後藩」 嘉永四年六月廿二日
       兄杉梅太郎宛
○「御藩之人」嘉永四年九月廿三日
       兄杉梅太郎宛
○「本藩」  嘉永五年正月十八日
       兄杉梅太郎宛

 このようにいくらでも「藩」表記は見られる。次に秋田孝季と同時代の「藩」表記も紹介しよう。『耳嚢』(根岸鎮衛著、1737−1815)の次の例だ。なお著者は南町奉行などを歴任している。

○「会津の藩中」(巻之八 竹橋起立之事)
○「尾州藩中」 (巻之九 滑稽才子の事)
○「佐竹の藩中」(巻之十 平沢滑稽文章の事)
  これもきりがないので、このくらいにしておく。次に氏の「忠告」に従って手元の辞典を紹介する。

はん 藩 
 江戸時代、大名の支配する領域およびその支配機構。大名領を藩と呼ぶのは江戸中期以後、幕藩体制を中国の封建制になぞらえ諸大名を幕府の藩屏として意識するところに由来するが、公称としては一八六八(明治1)維新政府が、旧幕領に府・県制を設けたのに対し、旧大名領を藩と称したのに始まる。(『角川日本史辞典』)

 このように手元の辞典にも「江戸中期以後」とはっきりと記されている。いったい氏は手元の辞典をきちんと引かれたのであろうか。それとも氏の辞典には明治以後とでも書かれているのか。おそらく明治政府が公称として「府県藩制」を実施したことを「藩」表記の最初と勘違いされたのであろう。人間、誰しも間違いや誤解は避けられないとは言え、氏は江戸期の文学や文書の素養もなしに、江戸期成立とされる和田家文書偽作説を提唱されているのだろうか。


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』第一集〜第四集(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)第一・二集が適当です。 (全国の主要な公立図書館に御座います。)
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