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寛政原本と古田史学 古田武彦(古田史学会報81号)

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『新・古代学』古田武彦とともに 第3集 1998年 新泉社
特集 和田家文書をめぐる裁判経過

半田「鑑定書」に対する批判

前昭和薬科大学文化史教授 古田武彦

 ご依頼の、半田正夫氏による「鑑定書」(甲第二二一号証の二)の問題点について、次のとおり報告いたします。

一、「執筆」という用語について

 半田氏は「江戸時代後期に秋田孝季によって執筆されたとされるY文書(「東日流外三郡誌」および「総輯東日流六郡誌」を指す)」(二の (1) )とのべているが、「執筆」という用語は不当である。なぜなら、
 第一、右のY文書は (1) 神社・仏閣等に蔵されていた文書類を孝季や妹りくや門人の和田長三郎吉次が「書写」したもの。これが過半を占める。 (2) 孝季等自身が書いたもの。(これが「執筆」に当たる。)の二種類に分れ、さらに右の (1) の内容として、(a)故老の伝承などの「聞き取り」を行って記録したもの。(b)孝季以前及び同時代の学者等の文章を転載したもの。等に分れている。このような多彩な内容を「執筆」の一語で示すことは妥当性を欠く。
 第二、もしこれを氏が「筆を執る」という、単純な意味で使ったとしても、同文書の執筆者は孝季だけではない。今回問題になった、肝心の「紀州熊野宮之由来」などの絵画は、門人の吉次の「執筆」になったものである。同文書中にしばしば現れる「秋田孝季見取、和田壱岐(吉次)写画 注1」という解説がこれを証明している。
 よって半田氏の当規定は不当である。のみならず、著作権法の専門家として、あまりにも不用意である。氏はその著『著作権法の研究』の序文において、用語使用の厳密性が論述にとっていかに不可欠であるかを特記しているだけに、自らの年来の提言を、ここでは自ら裏切っている、と言わざるをえないのである。

二、東日流外三郡誌の発行時を「昭和五八年以降」としたことについて

 半田氏が、鑑定を求められたのがY文書の「北方新社版」であったため、右の年時規定となったものと思われるが、これまた半田氏の立論にとっては妥当性を欠くものである。なぜならY文書の初公刊は「市浦村史資料編 ーー東日流外三郡誌」であり、「上・中・下巻」をふくむ全五冊は、昭和五十年代初頭以降の刊行である。(昭和五十年四月に上巻刊行。市浦村長白川治三郎氏の「発刊のことば」は昭和五十年一月二九日。野村紀行文〈半田氏はこれをX文書と呼ぶ。〉が日本経済新聞文化欄に掲載された昭和五十年五月十四日より早い。)
 けれどもこれは東日流外三郡誌の全部には及ばなかった上、公的出版物(非売品)であったため、新たに藤本光幸氏(青森県藤崎町在住。)が編集・刊行の労をとられたものが、この「北方新社版」(七巻)である。従って前者(「市浦村史版」)の大部分は、後者(「北方新社版」)の中に含まれている。その故、Y文書の内容の成立年時を吟味するさい、この「市浦村史版」をカットして論ずることは不可能である。これ、同文書に関心を有する人々の間には周知のところである。
 半田氏の著作権法論の一特色は、「外面的形式」がたとえ一致していなくとも、「内面的形式」すなわち、その実質の論述内容が問題とされる二文献間に共通し、影響関係の存在が認められれば、その実質の事実を重視する、というにある。本「鑑定書」冒頭の「一般基準」でも、このような氏の持論が特筆されている。今問題の「北方新社版」と同一内容を多量にふくむ、昭和五十年四月「上巻」成立の「市浦村史版」について、これを等閑視して切り捨て、Y文書の成立年時をただ単に「昭和五八年以降」として規定すること、これまた氏の年来の主張に対して自ら裏切る結果となっているのである。

三、「十五里=六十キロ」間題について

 野村紀行文に次のようにある。「私が五万分の一の地図に記した石垣の総延長は、現在までの段階でおよそ六十キロメートルにおよんでいる。徹底的に調べれば、まだ延びるかもしれない。」一方、Y文書では「総輯東日流六郡誌」において「神域の石土垣」として、吉次の見取り図に描かれ、これに対し、「熊野山中十五里の石垣」と傍記されている。(元資料の方には「熊野神域石土垣図」及び「熊野山中十五里之石垣」とあるようである。印刷本の方は活字化のさい省略されたもの。七二頁)
 これに対し、半田「鑑定」は「野村紀行文からY文書へ」の影響を推定し、「この一致は、経験則上、偶然性の範囲を超えるものであって、明らかに無断引用」と稱している。本「鑑定書」の中枢認定となっている。しかしここには、幾多の論理の飛躍や矛盾が存在する。
 先ず、江戸時代には、この石垣が猪垣として実用されていた。だからこそ土地の人々がこれを今も「猪垣」と呼んでいるのである。現在とは異なり、これら野獣からの被害に対しても、銃砲を以てこれを撃ち殺すことなど、農民には許されるべくもない時代であるから、「猪垣」としての有効性は多大であったと思われる。従って台風等でそれが破損した場合には、修理が必要となるけれども、そのさいは庄屋などから当該役人に対する届出が不可欠であった。そのさい、全長の大約の「公稱」を記すべきことは当然である。また平常においても、「生活の必要物」である、この猪垣の全長のいかんについて関心をもたぬ農民がいたとは、これを信ずることができないのである。その「公構」を、孝季や吉次は「聞き書き」したものと思われる。その村方文書が現存しているか否かにかかわらず、その当時の実状は、右のように見なして、およそ大過なきものであろう。
 他方、現在では、すでに猪垣は農民たちにとっても生活上不可欠の存在ではなくなった。銃砲等によって逆に野獣を殺戮し、奥山へと追いこんでしまったからである。そのためにこそ、野村氏が現地で体験としたという「どのくらいの長さなのか測った人はいない」という発言が生まれるに至ったのである。しかしこの「無関心」を、猪垣実用時代であった江戸時代にまで押しすすめて「理解」というより、「誤解」したところに、野村紀行文の、いわば「認識の底の浅さ」があったのである。
 もちろん、精密に科学的に調査すれば、より精細な数値が生まれるであろう。これはこの三年間(平成五七年度)、高知県足摺岬周辺の巨石遺構に対する実験・調査を行い、種々の科学測定器具を用い、多くの科学者・技術者達の協力をえて測定作業の責任者となっていた筆者には、野村紀行文の数値も、Y文書の数値も、共に訂正さるべきこと、疑いようもない。注2
 けれども、もっとも表面から観察しやすい部分の石垣に関しては、孝季の年時記載による、寛政七年(一七九五年)八月から、現在(二十世紀)まで大異がない。その事実を両報告は証言していたのである。この点、たとえば寛永十三年(一六三六)に完成したという江戸城の内郭が「三十万坪を越える」とされ、現在の皇居もまた「百万平方メートルを越える」とされる。(正確には、一一五万〇四三六平方メートル。大日本百科辞典、小学館による。)「一坪=三・三〇六平方メートル」である以上、現在新たに皇居の石垣の周辺を測り直しても、同一の石垣による限り大異ない数値がえられるのではあるまいか。これと同じである。
 これは天正五年(一五七七)の成立とされる浜松城の石垣を測っても、近代の交通事情などによる、大幅な変更・変化などの事態のなき処は、同様の「成果」をうる他ないのではあるまいか。半田「鑑定書」は、「紙の数値」のみに目を奪われ、肝心の実体たる「物」そのものに着目することを忘れたようである。これが当「鑑定書」の致命的欠陥である。

四、写真と「見取り図」のちがいについて

 右の筆者の推定が当たっていることを裏づけるのは、野村紀行文中の写真(全一葉)とY文書の「熊野山中十五里の石垣」の「見取り図」との対比である。写真は一面草茫々の荒れ果てた光景を活写しているのに対し、「見取り図」の方は、延々と見事に整理・清掃された姿が描かれている。このような状況を保持するには、一人や数人の力では到底足りず、幾十人、幾百人の農民総出の作業が必要である。猪垣として「生活を守る実用」の時代の姿である。これに対し、写真の方はすでに実用の時代が去ったあとの廃虚のような姿が写し出されている。両者の相貌のあまりのちがいからか、半田「鑑定書」も、これにふれていない。だが、これは重要である。なぜならY文書の主張するところは「(現在猪垣として使われていても)その真実の姿は、古代の宗教思想の具体化(「神域表示」後述。)であった。」というにあるのであるから、現実の草茫々の実情に対し、敢えてこれを変化させ、「清掃・整美」ならしめて描写する必要は全くないのである。逆に、さらに一段と“茫々たる蒼古の神域”らしく表現する方こそふさわしい。従ってここに描かれているのは、やはり「猪垣という、農民の生活を守る砦」として活用され、手入れされていた実情を実見して「見取り図」に描いたものと見なす他ないのである。
 もし将来の地球上に光速交通機のごときものが発明され、汚染度の高いガソリンを使った交通手段たる飛行機などが見捨てられる日が来るならば、現在「清掃・整美」の現況の成田空港も、やがて草茫々の荒れ果てた空地となる日が来るのであろうか。Y文書は、当時(寛政時代)を描いて、わたしたちの未来に対し、大きな幻視さえ与える力をもっている。野村紀行文の写真も、このY文書と対比してこそ、そのまさしき現代的意義をにないうるのである。これらの過去と未来を結ぶ視線も、すべて半田「鑑定書」は見失っているのである。

五、「十五里」問題に対する二つの補足

 第一、さらにY文書と野村紀行文との間には、次のようなちがいがある。(α)十五里(六十キロ)ズバリ。(β)十五里(六十キロ)以上。この両者のうち、Y文書は(α)をとり、野村紀行文は(β)をとっている。もし半田「鑑定書」のいうように、「野村紀行文からY文書へ」の影響であるならば、「以上」の形を敢えて「ズバリ」へと“縮少”すべきいわれはない。さに非ず、Y文書の場合、当地の「公稱」を現地で(役人もしくは土地の故老などから)「聞き書き」したからこそ、この「ズバリ」表現となったものと思われる。
 第二、またY文書では「石垣・土垣」とした上で、その石垣部分の全長「十五里」を記しているのに対し、野村紀行文では、はじめから「石垣」にしか関心がもたれていない。これも、「野村紀行文からY文書へ」の影響とした場合には、不審である。これに反し、Y文書の場合、この「石垣」と「土垣」がそれぞれ成立時期や築造集団を異にしているのではないか、という歴史学上の興味さえ、この描写から喚起されるのである。すなわち、Y文書は注目の仕方が重層的、野村紀行文は単一的、というちがいがあり、観察の視野の深さは、もちろんY文書の方が勝っている。この点も、半田「鑑定書」は見のがしたのである。

六、宗教思想(「荒覇吐神学」)の一貫性について

 Y文書の「市浦村史版」においてすでに「天然を尊び、その祭祀は今に遺れる石神信仰なり。」(「津軽無常抄、第三」〈上巻〉二三頁)「日月山川辺土海潮を神として崇むを以て神聖とせるなり。」(「津軽古代崇信譜」〈上巻〉九六頁)というような大自然崇拝、石神信仰が説かれている。その宗教思想はもちろん、「北方新社版」にもうけつがれている。
 さらに今問題の「熊野宮由来」(七二頁)の直前に「三輪大神神社の如く、山を御神体とて崇むる信仰ぞ、荒覇吐神にして、日本最古なる信仰なり。」(六五〜六頁)と言い、「山そのものを神となして、神殿を造らず、」(七〇頁)とし、その結果、当項(「熊野宮由来」)において「陸なる農耕、海なる漁業に水神を鎮むるは、古代信仰の創めにして、熊野信仰ぞその要にあり。邪馬台国王初代邪馬止彦、一族繁栄を祈りて、神域に石垣・土垣を築きめぐらしたるが、」(七二頁)と言うに至る。これは「古代に於ては、神域そのものを神となせる」(同右)証拠だと言っているのである。すなわちY文書の場合、この石垣は「神そのもの」の古代的表現であるという思想の表明であり、これは「市浦村史版」(昭和五十年四月)「上巻」以来の宗教思想にもとづく展開なのである。これに対し、野村紀行文の関心は、「山城」か「神域」か、その双方かという問題提起を行った上、古代の軍事防衛線(神武軍を迎えた先住民)として注目されているにすぎない。歴史思想・宗教思想上の理解の深度において、両者、比すべくもない。もちろん、Y文書の方がはるかに宗教思想として深く、かつ鋭いのである。しかもそれは「市浦村史版、上巻」以来の一貫した思想表明の上に立つものである。
 半田「鑑定書」は「巧妙な者ほど細部を変えて同一性を免れようと努めるはず」と言っているが、右の深遠にして一貫せる宗教思想の方が「細部」か、石垣の長さの数値(「十五里=六十キロ」)の方が「細部」か、およそ理性のある人なら、疑いようもない。また著作権法によって保護さるべき本来のものたる思想内容において、野村紀行文とY文書との間には天地の落差が存在する。しかも半田「鑑定書」の年時規定が妥当でなかったことを、この「市浦村史版、上巻」(昭和五十年四月)以来一貫した叙述が明白に裏づけているのである。半田「鑑定書」は「大部」と「細部」との概念規定さえ、これをおろそかにしているのである。

 

七、「重要な意味」問題について

 半田氏は右のような、あやまった「細部」論の上に立って、「重要な意味をもつ部分の無断引用」であるというのである。
 これはやはり全く錯乱した論法である。なぜなら、野村紀行文の意義は「猪垣という通称にもかかわらず、そこに古代遺跡への可能性を求め、一年にわたってこれを探訪しつづけ、世にこれを紹介した」という一点にあり、全長の数値そのものなどではないからである。先述したごとく、将来より科学的で精密な測量が一貫して実施されるならば、当然これは訂正されるものであり、野村氏自身もすでにその可能性を予告している。けれども、そのいかんを問わず、野村氏のアマチュアとしての問題提起そのものの意義は、失われることはないであろう。しかるに、その肝心の意義の方を敢えて矮小化し、数値の方に巨光を当て、これを野村紀行文にとって「重要な意味をもつ」と半田氏が稱するのは、極めて主観的な立言にすぎず、客観性をもたない。いわんやY文書側にとって「十五里」という数値には「重要な意味」など全くない。だからこそ「吉次の絵画の傍記」にわずかに姿を見せるにとどまり、肝要をなす、孝季の本文には一切姿を見せないのである。従ってY文書側が敢えてこれを他から「盗用」すべき理由など、本来存在しえないのである。
 思うに、半田氏の著作権法論にとって、問題の二者間の影響関係の立証が必要であるのみならず、その個所が全体の中で「重要な意味」をもつこともまた要請されているところから、右の強引な発言とならざるをえなかったのであろうけれど、これを理性ある人間の冷静な目で見れば、結局牽強付会の「こじつけ」と評する他はないのである。

八、「古文書と裁判」について

 以上の半田「鑑定書」に対する吟味は、そのいわゆる「鑑定」が一つひとつ真の鑑定に当たっていないことを明らかにする結果となったけれども、実はそれにとどまらず、Y文書の真実性、その信憑性をもまた強く裏づける結果をおのずから生むこととなったともいえよう。(この点、筆者の最近の論文「日本のはじまり ーー『東日流外三郡誌』抜きに日本国の歴史を知ることはできない」参照。注3
 しかしながら筆者は、当文書の真実性や信憑性に関する判定を裁判所に求めることは全くの筋ちがいであると考える。なぜなら裁判所は近代法の下で、その範囲内における判断を下すべき機能をもっていること、近代国家の常識である。それゆえ古典や古文書の信憑性に対する判断を裁判所が下したりすれば、それは「近代以前」の裁判への逆行とならざるをえないからである。古典・古文書がともないやすい宗教思想の問題をふくむ場合は、なおさらである。Y文書の場合も、「荒覇吐神信仰」や「荒覇吐神学」がこれに当たっている。
 その点でも、半田「鑑定書」が「本件の判断」の冒頭部でいきなり当Y文書に対し、「被控訴人の作成した偽書であるとの前提に立つこととする」と言い放っていることに、筆者は三驚せざるをえなかった。先の近代法の精神を踏みにじってかえりみぬていの揚言であるのみならず、学問的論述にとって忌むべき循環論法を大上段からふりかざしているからである。なぜなら本控訴が区々たる写真の「無断使用」問題を突破口として、彪大なるY文書全体の「偽作」判定を、裁判所に求めていること、すなわち、俗に言う「えびで鯛を釣る」ていの、巧妙な手口をしめしていること、理性のある人なら、誰でも認識しうるところであるにもかかわらず、その真の控訴目標たる「Y文書は被控訴人(和田喜八郎氏)による偽書である」という命題を先ずかかげ、これを「大前提」とした上で、控訴人の希望する「被控訴人による著作権侵害を認定する」という帰結に至っている。これは、たとえば「当物体は球体である」ということを先ず大前提とした上で、「当物体が球であることに関する具体的立証を行った」とのべるていの、堂々めぐりにして非論理の論法に属するものである。
 氏の著作権法をめぐる著述『著作権法の研究』『著作権法の現代的課題』『著作物の利用形態と権利保護』等について逐一これをみても、右のように強引な、大上段の循環論法はついに発見することができなかった。
 氏自身告白しているように、古典や古文書については「この道の専門家ではないので、ことの正否には立ち入らず」と“逃げ”を打った上で、控訴人の意向に沿おうとしたために、この失態を呈したのではあるまいか。
(一見、古典を扱ったかに見える「將門記」を扱った論文が、右の第三書に収録されているが、それは現代の学者の訓読文に関するものであり、古典の原文そのものを対象としたものではない。)
 もっとも実際は、古典や古文書に対する専門的知識が存在しなかったとしても、通常の理性をもつ人には、事の理非は明らかであろうと思われる。なぜならもし控訴人の主張するごとく、一片の野村紀行文(X)が、東日流外三郡誌を中心とする、厖大な和田家文書群の一資料となっているとすれば、その全体の完成のためには、X1・X2・X3・・・Xxという幾千・幾万、或はそれ以上のおびただしい基礎資料を被控訴人は身辺に必要としたこととなろう。このように厖大な資料群は、たとえ東京などの都会という情報量の中心にいる知識人ですら入手至難といわざるをえまい。いわんや青森県の一隅の一農村の一農民たる被控訴人などにとって、到底入手不可能であることは、闇夜に火を見るより一層明らかだからである。
 さらに一言する。Y文書の「市浦村史版」の上巻は、野村紀行文が日本経済新聞の文化欄に掲載される一ヶ月前に、すでに村長の「発刊のことば」を先頭に公刊されている。中・下巻以降(村史第壱巻、年表)も、すでに準備中であったこと、言うまでもない。(右の「市浦村史第壱巻」は昭和五九年三月三十日の発行であるが、その冒頭に「『市浦村史』発刊について」と題する被控訴人の文章がのっている。「村史編纂委員、代表、和田喜八郎」とあり、昭和五九年四月二十九日の日付である。)〈末尾の「編集後記」には、「昨年度完成」の予定のところ、遅延した旨の編者の文章があり、「昭和六十年十月二十二日」の日付がある。事実上の発行年時は、昭和六十年の方と見られる。〉
 それなのに、その「上巻発行後」に出た新聞記事(日本経済新聞の野村紀行文)をもとに、被控訴人がさらに「偽作」を試みるなどとは、全く正気の沙汰ではない。半田氏は、この野村紀行文に先立つ公刊年時をもつY文書の「市浦村史版、上巻」の存在、すなわち今問題の「北方新社版」と文字通り「内面的形式」を共有する、この存在を知りながら、これを当「鑑定文」の叙述や考察から敢えて「隠匿」されたのであろうか。
 わたしはむしろ、半田氏は控訴人側からその存在を“隠されていた”、一種の被害者ではないかとの一抹の疑いを禁じえない。なぜなら氏の著作権法に関する諸著作を逐次一覧しても、これほど姑息な隠匿の存在するような形跡を筆者は全く発見しえなかったからである。
 ともあれ、結果として、自己の年来の学問的主張たる「内面的形式」の重視という核心の主張に反し、非道理、非常識なる控訴人の主張を敢えて裏づけんとしたため、半田「鑑定書」は右にのべたような数々の矛盾や致命的な背理をはらむものと化せざるをえなかったのである。従来著作権法上の好著を数々公刊してこられた半田氏にとって、このような「鑑定書」を書かれたこと、まことに惜しむべし、と言う他はない。これを以て結びとする。

《補》
 東日流外三郡誌をふくむ和田家文書には、文書性格上、次の三種類がある。
〈その一〉寛政原本
 寛政年間を中心とする時期、秋田孝季、妹りく、和田長三郎吉次(りくと結婚)の三名を中心として書写・著述・編集された古写本。 ーー未公開。
〈その二〉明治写本
 右の腐蝕・破損が進行したため、和田末吉・長作の親子を中心として書写(漢文読み下しをふくむ。)された写本。書写期間は、江戸末期より、明治を中軸として大正・昭和(十五年頃まで)に至っている。末吉・長作の述懐の文をふくむ。この二人は和田長三郎吉次の子孫である。長作は、現喜八郎の祖父。
〈その三〉その他。
 右の明治写本から、さらに「再々写」された、現代写本。今回控訴人から提示された「熊野宮由来」は、これに属する。末吉・長作・喜八郎氏、そのいずれの筆跡でもない。注4 喜八郎氏が能筆家に依頼して書写してもらったもののようである。

《注》
(1)「和田家絵画の史料批判ー『八十八景』の異同をめぐってー」(吉田史学会報十四号三頁上段末)
(2)「足摺岬周辺の巨石遺構 ーー唐人駄馬・佐田山を中心とする実験・調査・報告書」(土佐清水市文化財調査報告、一九九五年、土佐清水市教育委員会)
(3)「古田史学の会・北海道ニュース、第五号、一九九六年七月」所載
(4)『親鸞思想 ーーその史料批判』(明石書店、一九九六年六月三十日刊)、『新古代学、第二集』(一九九六年七月中句刊、予定)、「古田史学会報十四号(第二論文)古田の筆跡研究は、上記の書籍・会報に収録。

   平成八年七月十日
 弁護士五戸雅彰殿
『古代に真実を求めて』第2集)へ

 《追記》
 批判の進展は「和田家文書「偽作」説に対する徹底的批判--筆跡学から『偽鑑定』を正す」(『古代に真実を求めて』第2集所収)


他の報告書・陳述書は以下のとおり

報告 報告書 和田家文書をめぐる裁判経過 古田武彦

報告 陳述書 和田家文書をめぐる裁判経過 (齋藤陳述書〔甲第二八四号証〕)古田武彦

報告 陳述書 和田家文書をめぐる裁判経過 (野村孝彦氏陳述書[甲第二八三号証])古賀達也

報告 陳述書 和田家文書をめぐる裁判経過 (野村孝彦氏側斎藤隆一氏報告書【甲第二八五号証】)古賀達也


和田家文書「東日流外三郡誌」など〕 訴訟の最終的決着について(『新古代学』第三集)へ

寛政原本と古田史学 古田武彦(古田史学会報81号)

和田家文書「偽作」説に対する徹底的批判『古代に真実を求めて』第2集)へ

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