齋藤陳述書〔甲第二八四号証〕について
〔1〕時代と筆跡
齋藤氏はこの項の最初に、筆者が「報告書」でとり上げた「鎌倉時代の親鸞の例」について、八百年もの前のこと故、「時代錯誤」と称しながら、この項の最後では、三百年前の松尾芭蕉の場合、「充分に有効」と称している。恣意的である。要は、「一定の流派内において誤字・あて字が“継承”されやすい」というテーマは、鎌倉・江戸・現在に共通するテーマである。いわゆる蕉門下においても、芭蕉の「誤字・くせ字の“継承”」はありえたはずであり、それが芭蕉の真筆か否かを判定する場合の、一キイ・ポイントとなっていることは当然考えられる。もしこの問題を顧慮せぬ鑑定者ありとすれば、甚だ不用意である。
〔2〕和田章(ふみ)子さんの筆跡
被控訴人側が章子さんの筆跡を提出することは甚だ容易である。それを敢えてしないのは、本人が女の手、単独で、二人の子供を学校に通わせるという、生活上“必死の毎日”を日々斗っているため、裁判の場へのかかわりを“避けさせ”たために他ならない。しかし、本人が水沢市側あての「和田喜八郎、講演要旨」(「知られざる聖域、日本国は丑寅に誕生した」)について、「本人(章子)の筆跡である」旨の証言(末尾、自署名)も、筆者は所有している。父(喜八郎氏)の証言と同一である。
〔3〕控訴人側の「盗用」
右の「和田喜八郎、講演要旨」を、控訴人側が「筆跡鑑定用」へと“転用”すること自体には、何等の問題はない。ただそれには次の前提条件が必須である。イ、喜八郎氏に対し、右のような鑑定目的への“転用”と署名の自己確認などの承認をうること。ロ、それは当然「偽作」の有無「未明」の段階であることが必要となろう。以上の当然の行為を彼等(控訴人側)が行っていたら、この段階で、喜八郎氏から「いや、あれはおれの筆跡ではないよ。」という、ザックバランな答を得ていたことであろう。これを行わなかったため、今回の引き返せぬ“醜態”を招いたのである。
〔1〕控訴人側の判断
控訴人側は『九州王朝の歴史学』所載の顕微鏡写真・電子顕微鏡写真について、高知県の顕微鏡写真関係の紙業技師の鑑定を受けて、「戦後の紙」であることが判明したかのように称しているが、これは極めて不適切である。
〔2〕不適切の理由
なぜなら、当技師は、右の各写真を撮影した被写体(和田家文書)自体を観察したことがない。ところが、昭和薬科大学の中村卓造教授は、筆者が依頼した各文書(和田家文書関係)について、くりかえし顕微鏡写真・電子顕微鏡写真を撮影し、その結果は、前回(報告書)に記したごとく、何等の不審を抱かせるところのない旨、証言及び証明書を記してもらった。これに対し、イ、原物も見ず、ロ、数多くの写真の中の一部(各二枚)しか見ない、高知県の技師が「断案」を下しうるはずがない。もし、それをなしたならば、彼は「非科学的研究者」に過ぎぬであろう。おそらく“一定の留保条件”の上に立ちつつ控訴人側の“要望”にこたえたものと思われる。これを以て、控訴人側は「鬼の首」をとったかのように扱い、「科学的検証」であるかに、ふりかざしているにすぎないのである。
齋藤氏は「経験深い文書研究家は古田氏など相手にしない。」と書いているが、極めたる暴言である。
(1) 筆者の筆跡研究の源流となった「史料科学の方法と展望」は、「古文書研究」第四号(日本古文書研究会、昭和四十五年十月、吉川弘文館発行)所載であるが、この雑誌は、文書研究家のための専門誌である。(『古代は沈黙せず』昭和六十三年六月、騒々堂刊に収録。)
(2) 「蓮如筆跡の年代別研究ー各種真蹟書写本を中心としてー」は「真宗研究」(昭和四十一年、真宗連合学会)掲載であるが、当誌は親鸞研究上の専門誌である。その上、同論文は、A、日本名僧論集第十巻(昭和五十八年、吉川弘文館)B、蓮如大系第三巻(平成八年十一月、法蔵館) 、『親鸞思想 ーーその史料批判』(昭和五十年冨山房、一・二版。平成八年明石書店再刊)等に収録された。
(3) 「親鸞伝の基本問題ー『伝絵』の比較研究」は、『真宗重宝聚英』第五巻(平成元年二月、同朋舎出版)の「解説」として執筆依頼されたものであり、従来の親鸞筆跡研究の「権威」とされてきた赤松俊秀教授(京大)、宮崎圓遵教授(竜谷大)、藤島達郎教授(大谷大)等の相対立する諸見解に対し、筆者の史料科学的筆跡研究の立場から整理し、批判を加えたものである。(『九州王朝の歴史学』平成六年六月、騒々堂刊収録。今問題の、和田家文書の顕微鏡写真・電子顕微鏡写真は、右「解説」の次に、「偽書論」の一部として収められている。)
齋藤氏は右の事実を知らず、或は知らぬふりをして、先のような「暴言」をあえてしたもののようである。これに反し、氏自身には、(本問題以前)一も「古文書研究の専門論文」は存在しないもののようである。
日本名僧論集(吉川弘文館)第十巻所載の、筆者論文(右の(三)の○2 )に対する編者(桜井好朗、福間光超氏)の「解説」は、次のようである。「蓮如は多数の真蹟資料が存するが、それらがより有効性を発揮するためには資料の緻密な年代判別を必要とする。この論文はそうした基礎作業を遂行するうえで、紙質の化学的分析方法を呈示した特異なものであり、その結果として蓮如の花押の年代変還を明らかにしている。なおスライドを使用して研究発表を行なったときのまとめであるために、詳細な検討が省略されているので同氏『歎異抄の原本状況』(『史学雑誌』七五 ー 三、昭和四十一年二月)などを参照されることが望ましい。またこのような化学工業を応用するような特異な研究方法はその後全く伸展していないので一考するに価するといえよう。」(四八九〜四九〇ぺージ)以上が専門家の「解説しである。以上氏の暴言と対比できよう。
齋藤氏は、筆者が「日本の学界の中で、『和田家文書』真作説を主張する、おそらくただ一人の歴史学者である。」とのべている。これは極めて、道理ある評価である。なぜなら、今のところ、ほとんど筆者のみが和田家文書(明治写本)を和田喜八郎氏から研究委託され、この文書の調査・研究に当ってきた、ほぼ唯一の専門的研究者だからである。ということは、他の学者たちはいずれも、右の古文書(明治写本)に接していない。接せずして「真作説」など、のべることはできぬ。学者として当然である。そのような状況下で、あえて「偽作」説を揚言する“学者”ありとすれば、甚だ不用意、かつ学問的慎重さに欠けた人物と言わざるをえない。齋藤氏があげられた学者(二十一名)の中にも、種々の立場の相異がある。たとえば、一時「偽作」説に傾かれたが、筆者の研究の出現などによってか、近年は“慎重な態度”を示しておられる方(新野直吉氏。前秋田大学学長。東北史についての歴年の研究者)や当文書の全貌を見なければ軽易に「断定」はしがたい旨をのべておられる方(小口雅史氏。前弘前大学助教授)など、様々である。そのいずれも、筆者のように厖大な和田家文書(明治写本)の実物に接し、顕微鏡・電子顕微鏡をふくむ科学的検査を試みた方々でないことは、当然である。むしろ古事記・日本書紀等にもとづく、従来の近畿一元主義的歴史像に立つ、観念的反発でなければ、幸である。
なお、筆者としては、「明治写本」研究の結果、これはまさしく「再写本」である上、その所写原本(寛政原本)の原存在を前提せずには、理解しがたい種々の徴候(「写誤」問題をふくむ)を見出した。そのため、その原本の出現に対し、学的研究者として、鶴首待望していること、前回(報告書)にのべた通りである。筆者の和田家文書研究は、当然ながら、これを学問的に公開する。その後、他の学者がこれを自由に「追試」し、批判しうる日が一日も早く到来することを期している。そのためにも「裁判の終結」を待つ。
〔1〕『東日流誌』の記述の“混乱”問題
筆者は和田家文書の「日本北鑑、全」一冊の末尾に○A 「大正六年霜月、和田家四十六代、八十八歳翁、士族和田長三郎末吉」とあるものに依拠し、大正六年(一九一七)ーー 八十八歳、天保元年(一八三〇)ーー 一歳、明治元年(一八六八)ーー 三十九歳、という算定を行った。(「新古代学」第二集、九二ページ)これに対し、斎藤氏は活字版(八幡書店版)の『東日流六郡誌大要」の○B○1『明治三十五年五月一日和田末吉爺行年八十三歳』(一九七ぺージ)○2『明治丁未(四十)年三月和田長三郎末吉再筆八十三歳』(三六九ぺージ)と矛盾する、としている。確かに、○B○1の史料に立つ限り、末吉は、明治三十五年ーー 七十三才、明治四十年ーー 七十八才でなければならぬ。
ここで注目すべき一点、それは○A が「明治写本」そのものを筆者が検閲した上での判断であるのに対し、○Bは「活字本」である、という点である。すなわち、○Bの「年令記載」は、直上の「年時」と同一時点ではなく、それぞれ「明治三十五年文書」及び「明治四十年文書」に対する「再写(浄書)時点」を年令によって示したものではないか、という問題である。(このさい、末吉は高年令であるので、実際上の「執筆者」は長作である可能性が高い。)このような点、「活字本」ことに「学術的版行」に非る、流布的版本の場合、常に注意を要する点なのである。
筆者自身、これらの点は「明治写本」の実際に接して、次々と“目を開かせ”られてきた諸事実の一なのであるが、「活字本」のみに頼り、その「活字本」の“限界”を深く顧慮せぬ斎藤氏は、いたずらに「混乱」の中に陥られたのである。
さらに、特筆大書すべき点がある。それは、右のように「一見」した「錯乱」は、「和田家文書、偽作」説を指向するものではない。逆に、「真作」説をこそ指向する。なぜなら誰が、一人の偽作者(たとえば和田家喜八郎氏)あり、とした場合、何ゆえ、かくも無意味な「錯乱」を生ぜしむるような記載をなすべき道理があろう。その必要があろう。一切ないのである。逆に、これ「初写ーー再写ーー浄書」といった。二転三転の間に生じた「一見しての錯乱」、そのように見れば、直ちに疑問が氷解する。或は、徐々に“解けはじめる”のである。
〔2〕「少年」問題
斎藤氏は「東日流六郡誌総巻」(二五七ぺージ)の『和田末吉再写覚書』に「明治戊辰(元)年十月二十四日、(中略)ときに、拙者、少年なれば、松前様に供をなし」とある点に注目し、筆者の○A の計算によれば、明治元年に三十九才だった自分を「少年」と言うはずはない、としている。しかし、このような場合、問題のポイントは末吉本人の「用語の使用法」の検証である。この文章は「明治庚戌(四十三)年」の文とされている。先の○A の計算によれば八十一才だ。八十一才の老人が「わたしも(当時は)若かったので」という意味で使っているのではあるまいか。事実、筆者(七十才)自身、前回(報告書)の末尾で、原田実氏に対し、「将来ある若者」という呼び方を行なった。氏はすでに三十台中葉と思われるが、通例の用法では「若者」という表現は妥当すまい。しかし、十代の学生だった当時より、本人を熟知する筆者であるから、愛惜の情を以て、この呼び名をあえて用いさせていただいたのである。末吉翁が三十台後半の自己に対し、「少年」という呼び名を行なった心情も、筆者には大いに理解しうる。(斎藤氏の言われる「二十一才」でも、通例の用法からは決して「少年」とは呼びえない。)
江戸時代末の浄土真宗の文書(西天道人「共命物語」)に「西本願寺派の教」のことを「宗教」と呼んでいる。“religion”の訳語となる、以前である。また、秋田孝季・和田長三郎吉次ともに、自己のことを「文盲なれば」と称している。謙抑の辞である。これらをくりかえし書写した末吉自身も、「わたしは文盲だ。」と、日常、常に語っていたことであろう。彼は両先達(孝季、吉次)に対し、「我に学なし。」の気持を強くもっていた様子が各所にうかがえるからである。この点、控訴人側から「和田末吉は文盲だった。」という親類・縁者の伝聞が引かれたのを見て、苦笑せざるをえなかった。美しき「謙抑の辞」を、現代人風の「全否定」の意とのみ、誤認したのである。
今回の「少年」問題も、これに類する。第一、四〜五十代の和田喜八郎氏がかりに「偽作者」としてこの一文を書いたとしたとき、何ゆえ、わざわざまぎらわしくも、「少年」などの用語をここに使うものであろうか。到底、考えられない。従って、折角斎藤氏の提示せられた「少年」問題も、氏の思わくとは逆に、ことを「真作証明」へと向わしめるべき、興味深きテーマだったのである。
〔1〕出所不明の依拠文書
氏の示された比較表には、○a 「東北各地の教育委員会に贈られた、和田喜八郎氏名義の原稿のコピーの文字」○b 「東北各地の教育委員会に保管されている『東日流誌』原書のコピーの文字」といった表題が用いられている。
しかし、右のような表記には、何等の「特定力」はない。なぜなら、右に従って「東北各地の教育委員会」に問い合せても、「不明」の一語しか返答はないであろう。その上、「『東日流誌』原書」という書名もない上、「原書」という単語の意味も不明である。「寛政原本」はもとより、「明治写本」すら「東北各地の教育委員会」がそのコピーを保管している、などとは聞いたことがない。(現に、筆者がかって青森県五所川原市の教育長に、念のためお会いして、直接確かめたところ、「現在、それらは全くない」との返答であった。「明治写本」について。)
このような「出所不明の文書」が筆跡鑑定の基本史料として用いられ、裁判所に出されるなどとは、未曾有の“現象”ではあるまいか。
〔2〕確実な自署名
その点、氏の提示された文書中、確実なものは、筆者の提出した「喜八郎自署名」(一四ぺージ図4)である。(「宝剣額」〈寛政奉納額〉の方は、材質が木のため、紙上の文字とは、比較がなされにくい。)これを「祖訓大要」(同ぺージ、図5、6)と比べれば、両者全く別筆であることは明白である。通例の市井人にとって“最も熟達した文字”は「自署名及び自分の住所」である。いわば、本人にとって、もっとも習熟した字形だ。それがこの「図4」の“左三行”である。これに対して“右二行”が本人の「もっとも一般的な使用字形」なのである。「金釘流」と称しても、朴訥なる一農村人たる喜八郎氏に対して、失礼とはならないであろう。
しかも前者(図4)はサイン・ペン書きなのに対し、後者(図5、6)は筆書きである。「サイン・ペン書きより、筆書きの方がはるかに拙劣」これがほとんどの現代人にとって、一般・通例の事実なのではあるまいか。しかるに、筆書きの「図5、6」はサイン・ペンの図4(とくに“右二行”)より、はるかに流麗なのである。これほど明白な「ちがい」の事例に対して「目が見えぬ」としたら、斎藤氏が筆跡鑑定の学問的研究について従来全くなじんでこなかった事実を、赤裸々に告白しておられるに他ならないであろう。(一字づつの比較は、多くの紙数を要するから、機を得て、必ず詳細に行うこととする。)
〔1〕「宝剣額」の科学検査
凸版印刷の絡合研究所の広田氏の回答は、科学者としてまことに正当なものである。ところが、ここから筆者が「恣意的な結論」を出した。などと氏が言うのは、全くの偽論である。なぜなら、右の広田氏等の検査に対し、筆者は「その判別は自然科学的立場からは、何ともいえない」として、結論づけているからである。これに対し、右のような氏の造文は「偽論」としか、言いようがない。
〔2〕石塔山神社印文書
この文書に関し、「偽作」論者側から、末尾の印が墨の文字の「あと」に押されている点をとらえ、「喜八郎氏の偽造文書」と称するものがあったため、この点の検証を行なったところ、文中の方の印が「墨文字以前」であることが判明した。その結果、右の嫌疑が晴れたのである。斎藤氏はさらに「第一に、最初に印を押して、その上に文字を書くという事は、普通はしないものである。第二に、通常古田氏の言う借金のたぐいでは、一般には朱印を使わない」と言っておられるが、これもまた、“古文書の権威”にもあらぬ、斎藤氏一流の憶断である。これらの点、すでに筆者は近世文書の専門家に問うたところ、「何等の問題視」もされるところとならなかった。またもしこれらの点、氏が疑問をもたれたとしても、それは結構だ。少なくとも、最初から「憶断」のもとに、右のように断定せず、謙虚に諸種の可能性を探究することこそ、真の学問的研究者のとるべき姿勢なのである。
〔3〕石塔山大山祇神社
この神社は、いわば和田家の奉持する「私社」であり、天正年間に始まった津軽藩の公認する、いわゆる「公社」ではない。それは、津軽藩以前の、津軽氏の敵視する「安倍・安藤・安東・秋田氏」の伝統を継ぐ、より古層に根ざす「私社」なのであるから、公的記録には現われがたい。これに対し、津軽藩の「公的寺社記録」が、明治に、そしてやがて敗戦後へと受け継がれた。以上の歴史的変転を示すものとして、この類の文書もまた貴重である。(他の地方にも、同類の問題がありえよう。)斎藤氏はあまりにも急ぎ、あまりにも軽易の論断へと奔られたようである。
〔4〕荒神谷の銅器
今回(平成八年十〜十二月)の加茂岩倉の銅鐸出土によって、次の史実が判明した。(その具体的経緯は、別紙「古田史学会報」十七号参照)〈第一期〉前回の荒神谷の出土(昭和五十九・六十年)は「国ゆずり・天孫降臨」後の埋納である。 ーー弥生中期初頭。〈第二期〉今回の加茂岩倉の出土は「神武の近畿侵入」(正確には「神武ーー崇神」間)にもとづく波動(ショック)による埋納である。 ーー弥生中期末、乃至後期前半。右の〈第一期〉は「東日流六郡誌大要」(斎藤氏の五ぺージ図1・2)に示されたところ、〈第二期〉は、出雲風土記(大原郡神原郷)に示されたところ、とそれぞれ対応している。
以上、今回の出土は、和田家文書(「東日流六郡誌大要」)の史料価値をいよいよ決定的ならしめた。この点、やがて詳述する予定である。(斎藤氏が五ぺージに示された図3は、筆者大邑土佐守による「想定図」であり、図1、2の本文とは、また性質の異なった史料である。この図3も、昭和五十九・六十年の荒神谷の出土を知った者なら、書くはずのない、巨大な「後期銅鐸」(荒神谷は、小型の前期銅鐸)や奇妙な「皮斬」などが描かれている。これに対して「創作のバリエーション」などと称するのは、全く恣意的な解説と言う他はない。)
〔5〕長円寺の過去帳
江戸時代の戸籍は寺社の司るところであった。ことに「寺の過去帳」こそ、その最たること、近世社会研究上の常識である。和田家の属する菩提寺たる長円寺にこれを検したところ、多くの貴重な史料が発見され、「和田長三郎(吉次)〜権七〜和田長三郎(末吉)」の系流の実在が裏づけられた。すでに新古代学第一集(一五九〜一六〇ぺージ)にのべたが、機を得てさらに詳述したい。
(甲第二八六号、原田実氏再報)
世に、学術報告書としては、次の二種類の性格のものがあろう。第一、発掘あるいは調査された事実をもとに、学問上、未知の認識を切り開こうとするもの。第二、既存の学説の上に立脚し、それを補強する形で発掘乃至調査事実を解説するもの。わが国において、住宅・道路の建設等にともなう緊急発掘後に作製される。各県・各市町村・各公団等の報告書がおおむね、右の第二の類型に属していること、言うを待たない。しかしながら、真の学術的報告書としては、右の第一のタイプこそ、本来のものでなければならぬ。たとえば、シュリーマンの『トロイ』(“Troy”)〈改訂版は『トロヤ」(“Troja”)〉、たとえばメガーズ・エバンズ・エストラダの『エクアドル沿岸部の早期形成時代ーバルディビアとマチャリラ期ーー」(一九六五、アメリカ、スミソニアン博物館)等がこれである。しかし、この場合、常に多大の非難・中傷・無視等の運命に遭うを常とした。筆者の担当した、本報告書もまた、敢然と、第一のタイプを目指したのである。(「縄文灯台」に当たる「鏡岩」は、太平洋領域〈たとえば、パラオ島〉にも、同類の岩石が多類・多数存在するようである。将来の海外調査に待ちたい。 ーーこの「鏡岩」自体は、必ずしも全体が「入工設置」である必要は全くない。巨岩の、海に面した部分を“磨け”ば、それで十分に用途を達するのである。)
控訴人側は、被控訴人(和田喜八郎氏)と筆者との間について、これを「一味」のごとく扱かおうとしている。この点が不当であることを、最後に明らかにしたい。
不遜にわたる点は、重々おわびしつつ、敢えて両者(被控訴人と筆者)の関係を一言で明示すれば、かのフランスのドレフユス事件における、ドレフュス大尉とゾラとの関係に、すこぶる相似する所あり、と言い得るかもしれぬ。本来、筆者は、和田家から公表されたものが、和田末吉等による「明治写本」のみであることを学問的に“不満”とし、肝心の「寛政原本」の公開を喜八郎氏に迫る。これが当初(昭和六十三年頃)から数年間の基本問題となっていた。事実、喜八郎氏は筆者に対し、いつも「寛政原本、公開要求者」の相貌を見て、いわば“当惑”していたはずである。なぜなら、その「公開」には、すでに前回(報告書)の最後にのべたような、経済的・社会的に困難な諸問題をふくんでいたからである。
けれどもやがて「偽作」説が登場し、最初は青森県の郷土史家(豊島勝蔵氏)、やがては被控訴人その人を「偽作」者として名指しするに及び、両者の関係は一変した。なぜなら、すでに眼前にしていた「明治写本」の様態や筆者の切なる要求によって漸次筆者のもとにとどけられるに至った「秋田孝季や和田吉次等の自筆本 ーー書籍等の書写本」によって、「寛政原本」の実在を疑いえない研究地点へとようやく到着していたから、この被控訴人に対する「偽作」説に関する冤罪を見捨てること、それは人間の根底の倫理に反する、そういう思いが筆者の心裡の内奥から深く発するに至ったからである。この点、文才・力量等の諸点においては天地懸隔ではあるけれど、ゾラを突き動かした「人間的(ヒューマン)の義侠心」と、全く同一のものであったこと、そして今もそうあることを、筆者は自己に対し、一瞬も疑ったことはない。
ドレフュス事件の場合も、彼を有罪とすべく、当時の著名な、多くの筆跡鑑定家(ベルチョン・ベローム・ヴァリナール・クウアル等)が動員された。これらの諸氏により、ドレフュス有罪の「確証」なるものが“証明”されていったけれども、結局は、これらの鑑定のすべてが虚偽であったこと、その事実が判明することとなった。そもそもその筆跡鑑定の基礎をなした、ドレフュスの密書なるものが、実は「偽造」であったことが最後に明らかになったからである。(「偽電」問題もからむ。)以上、十九世紀末から二十世紀初頭に至る、フランスのドレフュス事件と今回の和田家文書事件とは、まさに相似型をなしている。
それだけではない。ドレフュス事件の場合、フランス陸軍の面目(メンツ)が背景にあった。今回は、日本国家が明治以来「教科書化」してきた、古事記・日本書紀中心の一元主義的歴史像の威信が、問題の本質として横たわっている。
それだけではない。ドレフュス事件の根底には、ユダヤ差別があり、今回の和田家文書事件の根底には「蝦夷差別」がある。東北などの一角に、古事記・日本書紀に塁を摩するような、貴重な古代情報をふくむ根本文書が、これほど多量にあるはずがない。 ーーこの思いこみである。中央(近畿や関東)から地方(東北)までインテリたちの中に貫流した、東北蔑視(乃至、自己卑下)の精神である。(和田家の子供たちへの「いじめ」もまた、ここに根ざした。)
けれども、真実はいかなる迫害にも結局屈することはない。この真理はかってドレフュス事件が立証したところ、今回もまた、それを立証するものとして、後代の歴史に永く残されること、この一事を筆者は深く信じつつ、本陳述書を草したのである。
平成九年一月二十四日
古田武彦 印
仙台高等裁判所第二民事部御中
報告 平成九年一〇月一四日 最高裁判所判決 付 上告趣意書(平成九年(オ)第一一四〇号 上告人 野村孝彦)