(『多元』十六号より転載)
1. 前回(一九八八、昭和五九)荒神谷出土の銅矛・小型銅鐸を一期(A型)、今回のを二期(B型)とする。両者の時期は異なる。
一期は前回考察したように、「天孫降臨ショック」とすれば、二期は神武ショック(神武~崇神の大和占拠、銅鐸圏侵攻)であると考える。
2. 銅鐸は楽器説と祭器説があり、その両者であろうといわれているが、単なる道具だけだったとは考えられない。神そのものか、百歩ゆずっても「依り代」であろう。
3. 森浩一と佐原真の《壊された 対 壊れた》論争があり、その後はっきりした発掘例があって《壊された》ことで決着し終った(と、わたしには見えている)が、この論争は貴重で、「それではなぜ壊したのか」という点は結論が出ていない。その点を追求すべきである。
4. 豊岡市気比の銅鐸のように下に玉石を敷き、丁寧に埋納した例があることからも、神そのものである可能性が高い。奈良県上牧遺跡の例も気比遺跡のものも出雲の加茂岩倉のものと「兄弟銅鐸」といわれているが、どちらも弥生中期乃至後期初頭どまりで、それ以後大和からは出土していない。
5. 同笵銅鐸の鋳型の産地の特定はこれからの問題だが、(今の論点にとっては)余り重要ではない。しかし但馬や大和(及び近畿周辺)から延々と出雲まで運んだというのも可能性は確かにあるが、より少ないケースだ。今後出雲から鋳型が出る可能性がより高い。加茂遺跡からも一期の小型銅鐸の拡大型が出ている。今回の銅鐸も技術的には同一線上にあると考えられる。
6. 文献面からは、『出雲国風土記』(大原郡神原郷、岩波大系本二三六~二三七頁)に「大神の御財(みたから)を積み置き給ひし処」の記述があり、今回の加茂町に当たる。なお、一期のA型は『東日流六郡誌大要』に荒神谷に埋めた記述があることは先に指摘した。
7. 神武など紀の「大倭・・・」はみな「ちくし」であるという考察は以前発表したが、初期の近畿大和政権が九州の分派(過激派)として行動したことは想像できる。出雲は筑紫と近畿の両勢力に挟み撃ち状態になり、パニックに陥って銅鐸を隠したのが今回発掘されたものであろう。
8. 出雲市から直径約四百メートルの大型環濠集落(弥生後期)が発見されている。この現象は筑紫・近畿両勢力の挟み撃ち状態に対抗するためであろう。
9. 松本清張氏等がベトナムの例を挙げて主張した(祭祀不使用期間の)埋納貯蔵の説は、出土状況を見ると、それだけでは考えにくい。少なくとも現在まで掘り出されていないことは確かで、三角縁神獣鏡などを奉ずる反銅鐸勢力(九州と近畿)が勝利し、銅鐸勢力のその後の消滅を物語ることは確かである。
<強調点>以上は今年十月二六日に得たアイデア(8のニュースは「産経新聞」朝刊十一月二日)であるが、あくまで新聞などのニュースをもとにしたものに過ぎない。従ってこの点の是非は、あくまで現地(出雲)に足を踏み入れた上でなければ確かなこと(私の見解)は出させない。秋田孝季の言のように「歴史は足にて知るべきもの」だからである。従って「デスク・リサーチ」としての一案であることを強調する。
古田武彦
付 論
今回の考察に対する「論理の筋道」を記しておきたい。
(一)加茂岩倉の発掘が報ぜられてより、十月二十五日まで、わたしは「迷霧」の中にあった。それは前回の荒神谷出土群と今回の出土群と、両者を「一連のもの」として理解していたからである。
(二)しかるに翌二十六日、前回と今回を別の時間帯に属するもの、という仮説を導入したとき、にわかに「迷霧」の外に出ることができたのである。
(三)なぜなら、もしA型(一期)の主体(埋納者α)とB型(二期)の主体(埋納者β)を同一集団である、としてみよう。「α=β」のケースだ。
この場合、数々の矛盾が現れる。その一をあげれば、A型では数量的に莫大なものは、三五八本の「銅剣」(わたしはこれを出雲矛と呼ぶ)であり、筑紫矛と小銅鐸が共埋納されている。ところが、B型では、ほぼ同時期の中細型・広型~平型銅剣が一切姿を見せていない。一方では「剣」を拒否し、一方では「剣」を主とする。両者全く基本姿勢を異にしている。「α=β」の立場は理解不能の矛盾に陥るほかはないのである。
(四)ところが、「α≠β」とすれば、問題は一変する。同じ出雲西部でも、「一期」と「二期」とでは様相を異にする。これは、他の例でいえば、同じ東京湾の西岸部でも、江戸時代と明治以降ではシンボル物は一変する。前者は「葵の御紋や武士の刀」などであり、後者は「菊と三種の神器」などである。これに比すれば、出雲西部の場合、「銅鐸」という「神のシンボル」を共有するだけ、連続性はより強いと言えるかもしれぬ
。
以上が骨子だ。詳細は、「新聞の活字やテレビ」ではなく、「足」で知ったあとにする、これが鉄則、秋田孝季翁の教訓である。
一九九六年・十二月十二日 古田武彦
<編集部>本稿は多元的古代研究会・関東の機関誌『多元』十六号より転載、ならびに古田武彦氏より「付論」、「出雲紀行」(7頁)を新たにいただきました。
古田武彦
十二月十六日、念願の出雲へ向った。松江市・斐川町と、なつかしい旅だった。あの荒神谷の出土のさい、お世話になった有藤進さん、また、黒曜石のデータで御教示いただいた宍道正年さんなど。有藤さんと共に現在の斐川町の文化課課長の富岡俊夫さんに御同道いただいて加茂岩倉(加茂町)の現地に着いたのである。
かなり坂道を上ったあと、平地にたどり着く。工事用のトラックが置かれた、その平地から、さらに十数メートル上に、問題の現場がある。加茂町の教育委員会社会教育主事の吾郷和宏さんが現場へ案内して下さった。そこには銅鐸が横むき、「ひれ」が上、の形で土中に露出している。二個だ。その手前に削ぎ取られて銅鐸の形にくぼみ、青ずんだ土があった。なまなましい。
降りてくると、意外にも、ジャーナリズムの人々に取り巻かれた。感想を聞かれた。わたしは答えた。
「この前の荒神谷と今回の加茂岩倉とは、埋納の時期がちがうと思います。
第一、埋納の場所が、荒神谷の方は数メートル上の途中の土にあったのに対し、今回の方は十五~六メートルも上の頂上ですね。場所の状況が全くちがっています。
第二、荒神谷は『剣』、わたしはこれは「矛」だと思っていますが、ともあれ『武器型祭祀物』が三五八本もあって、中心になっています。筑紫矛もありました。ところが、今回は、ほぼ近い時期の『中広形』や『広形』の矛(九州)、また『平剣』(瀬戸内海領域)が全く出土していません。銅鐸だけです。この点、対照的です。
第三、もし両者が同時期の埋納なら、荒神谷の『小型銅鐸』も、今回の大・中銅鐸と“重ね入れ”になっててもいいのに、そうなっていない。(今回は、大・中“重ね入れ”です。)
第四、昨日報道された「×」印も、その“状態”が全くちがいます。
1. 荒神谷では、九十パーセント以上、¢×£がつけられていたのに、今回は、今のところ一つだけ。「右、代表」の形です。
2. 荒神谷では、六個の銅鐸には全く「×」がないのに、今回は銅鐸につけられています。
3. 一番肝心のことがあります。荒神谷の場合、下の端の「柄」のところに「×」がつけられています。ここには「木の柄」がかぶせて使われるわけですから、儀式の場などで使うときにはこの『×』は『見えない』わけです。製造者だけに“判る”という仕組みです。
ところが今回のは、銅鐸の表面でデザインを“汚(けが)している”わけですから、儀式の場などでは、使いにくい状態です。
ですから、埋納直前にこの『×』が入れられ、“外部からの侵入、取り出し者”のないように、マジカルに『祈念』したもののように見えます。
『×』の入れられた時点は、おそらく、荒神谷の場合、製造直後、まだ冷え切らないときではないか、と思います。鉄ならもちろんですが、固い竹などの切っ先でも、あるいは入れることができたかもしれません。ところが、今回のはもう銅鐸面が冷えて固くなったあとですから、鉄の刃物を使ったのではないでしょうか。
ここで一つ提案があります。それは「×の筆跡の科学検査」です。外形は外から観察できますが、銅器の場合、問題はその『深さ』です。その『深さ』の変化の追跡から『筆跡』が分かるわけです。
これには、いい方法があります。レーザー光線らよる反射光の測定です(平坦度測定器)。これによって荒神谷の大量
『銅剣』の三百二十数個の『×』を測定し、表やグラフにする。一方、今回の『×』に対し、同じ方法で測定し、それが荒神谷の方のグラフの中の、あるいは外の、どの位
置にあるか、判定するわけです。
これは是非やってほしい。わたしも、その装置の専門家と打ち合せ、彼も喜んで協力する、と言ってくれています。もちろん、わたしの手柄にしたいというのではありませんから、他の方々と協力していきたいと思いますので、皆さんジャーナリストの方々も御支援下さい。
要するに、荒神谷と加茂岩倉とは別集団です。もし『同一集団』という言葉を使うなら『歴史的同一集団』です。加茂岩倉の集団の人々は、荒神谷の『×』印入りを、『伝承』として知っていたわけです。ですから『荒神谷の後継者』と考えていいでしょう。」
以上であった。右のポイントを言葉にすれば、荒神谷の方は製造工房をしめし、「使われるための×印」、加茂岩倉の方は「使われないための×印」と言えるのではないか。マジカルな意志は両者ともあるだろうが、見た目には同じ「×」印でも、その目的がおのずから別
だ。荒神谷には見事な展示館ができていた。忘れがたい。
翌日、出雲市の環濠集落を見た。文化財係主事の三原一将さんや皆さんのおかけだった。下古志町の正蓮寺周辺遺跡だ。幅四・八メートルの二重環濠が直径約四百メートルにわたるという。ただ、道路開発の線内に限られ、全体像のごく一部、いわば断片にとどまっている。しかし、加茂岩倉の埋納時期の出雲をつつんでいた軍事的緊張をしめすものとして、きわめて重要な発掘だ。おそらくこの環濠群の中心部には「宮殿」もしくは「神殿」があったのではなかろうか。この点、注目したい。
このあと、斐川町出西公民館長の池田敏雄さんのお自宅に案内された。出雲の中の出雲、その現郷だった。お聞きし、お見せいただいたお話や遺跡、言葉に尽くせぬ
ほどすばらししかった。荒神谷と加茂岩倉の間にそそり立つ大国(大黒)山。大国主命と少名彦名命の「国見の山」だ。改めて記そう。水野孝夫さんと太田斉二郎さん(運転)に導かれ、夜霧を越えて帰洛した。
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