古田史学会報 17号 |
発行 古田史学の会 代表 水野孝夫
□ 本の紹介 □ □
--新しい国造りにむけて--
森嶋通夫著 定価九五〇円
ロンドン大学名誉教授である著者は、本書で世界に通用する国家観と国家論・防衛論などに論究しているが、その中の日本古代史の解説部分は古田武彦氏の研究に依拠していると記している。古田説が幅広く識者に受け入れられている証左である。なお、一時帰国されていた森嶋氏と、古田氏は先日、京都にて邂逅された。(岩波・同時代ライブラリー)
名古屋市 林俊彦
1、倭人伝への疑問――陳寿は博物学者?
最近気づいたのですが、魏史倭人伝に奇妙な一節があります。
「真珠・青玉を出す。其の山に丹有り。其の木には…楓香・有り。其の竹には・・・桃支。薑・橘・椒・ジョウカ有るも、以て滋味となすを知らず。」
日本の古い時代の自然状況を伝える貴重な資料、という能天気な解釈が一般的ですが、この文章はあまりに変なのです。
A形式上の疑問
倭国へ来たのは外交使節団あるいは軍事顧問団であって学術調査団ではないはず。陳寿に博物学の趣味があったとしても、卑弥呼の男弟の名すら省く一方で、この詳述の動機は何でしょうか。「史書」としての形式を逸脱した記述なのです。
B内容上の疑問
「滋味となすを知らず」。大変な指摘です。 古代において、異邦人の方が現地人よりもその土地の植物や食材に詳しいなんて信じられません。縄文以来、「滋味」に関わりなく「近隣の食べられるものは、季節に応じすべて食べる」のが食習慣の基本だったはずです。しかも王充の『論衡』に次の記事があります。
周の時、天下太平、越裳白雉を献じ、倭人鬯艸を貢す。(巻八)
成王の時、越裳、雉を献じ、倭人鬯草を貢す。(巻十九)
白雉を食し、鬯草を服するも、凶を除く能わず。(巻八)
周の時代、鬯草を献ずるほど「草木のスペシャリスト」だったはずの倭人はどうしてしまったのでしょう。「鬯草」の正体はわかりませんが、古田先生の推測によれば「今後わたしにとっても追及すべきテーマですが、簡単にいえば香りのいい草、あるいは神に捧げる霊草という概念で、まず大きな狂いはないと思います。わたしの解釈を加えるなら、神酒にひたしたものと考えます。というのは、鬯という言葉が、お酒と関係して使われる例が中国ではありますし、鬯草を「服する」という言い方をするからです。内服薬の服ですから体に入れるわけです。ですから香りのついた神酒、屠蘇もその一種かも知れませんが、鬯草をひたしたお酒を飲んだのではないかと、いまのところ理解しています。ともかく香りのいい草で、神に捧げる霊草であることは確かでしょう。」(『倭人伝を徹底して読む』)ということです。自然界に無数に存在する草木の利用法について、果てしなく勇気ある試行錯誤を繰り返し成果をあげたのが倭人だったはずです。なぜに中国人から「滋味となすを知らず」と言われる事態になったのでしょうか。
C 深まる疑問
よくある話として、倭人は宗教的に「タブー」とする食材を設定したのでしょうか。しかし4品目は多過ぎるでしょう。
まずくても、口に入るまで手間がかかっても、量が少なくても、食べられるものは全て食するのがつい最近までの日本人の食習慣だったのではないでしょうか。神武記にある次の歌謡も手掛かりになります。
みつみつし 久米の子等が 粟生には韮一莖
そねが莖 そね芽 繋ぎて 撃ちてし止まむ
みつみつし 久米の子等が 垣下に植ゑし椒
口ひひく 吾は忘れじ 撃ちてし止まむ
D 大胆な仮説
ただ一つの合理的仮定として、「移住先」に自分達のそれまでの食習慣になかった食材があった場合、長期にわたり食料の候補に組み入れない事態は有りうることです。
つまり卑弥呼の時代の倭人たちは移住者だったのです。張政の出会った倭人達は、周朝に鬯草を献じた倭人とは別グループだったのです。そう考えてのみ陳寿の記述は理解できます。では彼女たちはいつ博多湾岸にやってきたのでしょうか。鬯草を知る倭人たちはどこへ消えてしまったのでしょうか。
2、古田説を手掛かりに
私の仮説は古田説にどこまで援助を受けられるでしょうか。
A 中国(や朝鮮半島)の技術者たちは、慈善心あふれる博愛主義者ではなかった。日本列島の各地へ縄文水田の法を伝授してまわったわけではない。倭人側から礼を尽くして「貢献」してきたあと、はじめて「田づくり」の法を授与するときがきた ――このように考えるのが、自然のすじではあるまいか。わたしのこのような仮説、それを裏づけるものこそ、周初貢献倭人の出身地(金印の志賀島)と縄文水田(菜畑・板付)の地帯との一致、これである。わたしたちは、ながらく「稲の伝来」として、問題を扱うのに馴れてきていた。しかし、縄文晩期に関しては、わたしたちはこれを「周田の伝播」としてとらえねばならぬ
であろう。(『「風土記」にいた卑弥呼』)
B してみると、王充が、
周の時、天下太平……倭人鬯艸を貢す。
と書き、班固が、
楽浪海中、倭人有り。(分れて百余国を為す。歳時を以て来献す、と云う。)
と書いたとき、当時の後漢の読者は、いずれも、“ああ、光武帝から金印を授与された、あの倭人だな”そう受け取ったはずなのである。そして王充も、班固も、そう受け取られることを百も承知の上で、書いた。こう解するほかない。
“「漢書」の倭人も「論衡」の倭人も、志賀島の倭人だった”。わたしはこのような認識をえた。(同上)
C さあ困った。古田先生は、周代の倭人も、後漢の倭人(そして西晋の倭人)も同一と考えていたように思える。ところが最近の先生の論調は変化してきました。「東日流外三郡誌」の分析をきっかけとして、先生は現在、次のような説をたてています。
・さて、以上のような例をふりかえってみると、安日彦・長髄彦たちも、「ひのもと」という「地名をもって」西から東へ、つまり筑紫から津軽へ、移動したのでは無いだろうか――これが、今年になって、私がようやく気づいたところ、新発見だったのです。(古田史学の会・北海道ニュースより「日本のはじまり」)
「つがる」という地名に「東日流」という奇妙な字があてられている。一方、安日彦・長髄彦以来の国はしばしば「日下」「日本」と呼ばれている。兄弟は「筑紫の日向」から来た。博多湾岸に「ヒノモト」の地名が豊富
に残る。日本列島最古級で最大の縄文晩期・弥生前期の水田地帯、板付の真ん中が「ヒノモト」だ。その上、なぜか、この地帯では、弥生中期以降、プッツリと、水田が「消滅」している。発掘の点でも、東北地方の中で、一番早く、稲作の水田が登場し、発達したのは、北端部の津軽だった。つまり安日彦・長髄彦は「稲」をたずさえて「筑紫の日向」を離れ、津軽で稲作の方法を教えた。先生は現在そのように考えておられるようです。
D さて、倭人伝にヒントを得た私の仮説を整理します。
・倭人は縄文時代から中国に朝貢を繰り返して来ました。その倭人は筑紫の地に「日本」を建国しました。この「日本」を私は「くさか」と読みたいのですが、この件は次回にまわします。
・「日本」の倭人は「鬯草」を献上するほど草木に詳しかった。
・「日本」の倭人は周朝から稲作を学び発展した。
・「天孫降臨」を契機として、「日本」は倒れ、「倭国」ができた。「日本の倭人」は鬯草とともに筑紫を去った。
・東北には今も「鬯草」がひっそり生きているのではないか。
中高年サラリーマ ンのための
奈良県香芝市 山崎仁礼男
4 では、どうやって研究するか
誰だって「書紀」をただ読んで行くのみでしたら、五分もしたら眠くなって、どうしょうもありません。学校の勉強はでありません。知識を得ること、あるいは物知りとは全く関係がないのです。ではどうやって勉強するのか。それは一口でいえば、あなたの仮説を立てる発想にかかっていると考えられます。仮説とは蓋然的にしろその根拠を示さなくてはなりません。しかし、一概にそれもいわれないところがあるのです。というのは紀記は偽史で真実を隠しているので容易に仮説が立てられないケースがあるのです。ともかく最初はがむしゃらに仮定をたてて研究することです。私は大羽弘道の銅鐸の謎に触発され、銅鐸は蘇我氏のもの、蘇我王朝の実在という“仮説”を立てて勉強をはじめました。銅鐸の出土地の分析と紀記などを蘇我王朝実在の仮説で読み書いて行きます。
丁度五十歳の一月一日から始めましたが、十一年と八カ月目で私の“銅鐸の仮説”が正しかったことようやくにして証明できる可能性を発見しました。それは割合に簡単なことだったのです。喜田貞吉の秦人説と田中巽(銅鐸関係資料集成の著者)の尾張氏説を加えればよいのです。秦人とは渡来人で、尾張氏とは物部氏と同族です。蘇我・物部戦役により物部一族は蘇我氏の支配下に入るのです。ですから田中巽氏が尾張氏とされた銅鐸が後期の銅鐸と証明できればよいのです。このことは私が「先代旧事本紀」を読むようになって始めて分かったのです。蘇我王朝実在の仮説は誤りで蘇我王国というべきものがあったと分かりました。中心の問題は今までの読者・聞き手----即ち“お客さん”の立場から研究者の立場(主体)に変わるのです。徹底して、自分で手にとって確認または確信したもの上に自己の世界を一歩一歩組み立てることなのです。
仮説が研究の原動力であり、仮説の検証過程が研究であり自説の展開なのです。小室直樹は学問は仮説であると言い切っています。そして中小路駿逸氏に教えられました。たとえ誰でもどんな学説でも批判の対象とし、自分が他人の説に従う場合は自己の論拠を示すこと。いかなる権威も真実の前にあること。
古田武彦氏により「書紀」成立千三百年にして初めて日本の歴史が明らかにされたのです。しかもそれはまだ九州王朝のほんの一部なのです。神武天皇は実在の人物だとしても“近畿王朝”の始祖との保障はなく、紀記の王朝は天武天皇が造作したものに過ぎず、その原型がすべてが近畿の地にあったいう保障もありません。日本の古代史は未だ殆ど白紙の状態で、あなたの前に横たわっているのです。しかもあなたがすばらしい仮説を立て得たなら、後はこの仮説の検証のため読むのはたった十冊程の本なのです。
最後に、再び中小路駿逸氏に教えられた言葉、「学問とは手続きである」を記しておきます。古代史研究とは、まさに思い込みの屍の山である、と私は思います。発想・思いつき・アイディアなどなどはキチンとした手続きにより平明な論理のもと誰にでも分かるように証明されなくてはなりません。ここが厳しい。ここに断崖絶壁がある。古代史研究とは学問とは手続きであるに耐えないところの思い込みの屍の山である。
5 あなたは自分の主人公になれるか
定年とかリタイヤーとか、社会の生産から排除された存在として、悲しいかな、はじめて自分が自分の主人公となるのです。今までの社会的な一切の関係を失うことによって、あるいは一切の自己の経験や熟練を放棄することを条件として自分は自分となるのです。
日本社会は友人を必要としない。職場が疑似共同体であり、その疑似共同体で仲良くやって行ければよいのです。個人が共同体から自立し、自己をもち友人を大切にして財産として行く風土は日本社会に定着していない。そのつけは定年となって、社会、すなわち疑似共同体から排除され、やっとすべての時間が自分のものになった瞬間、私たちを襲うのです。古いかもしれないが、男は社会的存在なのです。社会に出て稼いでこそ男の値打ちというものです。自分の時間を旅行やハイキングに使っても社会的存在にはならない。どうか古田武彦氏の九州王朝説のもと、新しい歴史作りに参加し、あなたの主体の場を切り開いてください。
自己が自己の主人公となるために、一つの条件として友人が必要です。それは、好き意味でライバルであり、時として批判を伴う緊張関係の上に成立するものであり、その中に成長と発展の契機を含んだものでありたい。
聖書の言葉では、
求めよ さらば 与えられん
訪ねよ さらば みいだされん
あるいはマルクス流にいうなら、問題を問題として提起できれば問題は解決されると
終わり
◇◇連載小説『彩神(カリスマ)』第四話◇◇
--古田武彦著『古代は輝いていた』より--
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇ 深津栄美
「大変だァ、須佐之男が流れに落ちたァ!」
二人の叫びを聞いて、
「何事だ!?」
「若がどうかされたらしいぞ--」
鉱夫たちが驚いて走って来た。
どよめきは、黒曜石採掘を指示する為、穴倉へ下りていた振根の耳にも届き、
「何の騒ぎだ?」
鉱夫らに混ざって、二人に叫びかけた。
意外に早く振根が顔を出したので、二人はとまどったが、
「須佐之男が、崖から転落しました。」
「『白銀門』(しらがねもん)で足を踏み脱したんです。」
切迫した口調で告げると、
「舟の用意を--」
振根は部下達を顧みた。
すぐ様、何人かが走り出したが、
「御自分で乗り出されるのですか……?」
奔流を眺めて、眉をひそめる者もいた。距離があるので判然としないが、水は柱列に砕けて泡を吹き、飛沫(しぶき)を上げている。
「子を捜すのは、親の義務(つとめ)だ!」
振根が叱咤(しった)した時、先に駆けて行った一団が白木をくり抜いた小舟を担いで来た。栗の実の頭のように尖った舳(へさき)の両側に灯(ともし)用の穴があいているのは、地下を航行するせいだろうか。
舟が下ろされ、振根が乗り込むと、武沼河と吉備津彦も従った。須佐之男の落下地点を教えるという。三人はめいめい櫂(かい)を取り、舟は矢のように岸を離れた。
下から仰ぐと、白銀の柱列は雲突くように見える。山姫御殿というより、全地底界を統(す)べる王者の化身と評すべきだろう。この中の一本でもへし折れたら、瑠璃や翡翠の殿堂も白亜の壁も連鎖反応で蜂鳥の羽も及ばぬ
華麗な雪崩を引き起こし、奔流は逆巻き、くねり、湧き立って、鉱山(やま)は勿論鍛冶場も社も家々も一挙に押し流し、飲み込むに違いない。それしか大国を滅ぼす法(て)はない。須佐之男に続いて振根の息も止めておかなければ、越(こし)や吉備の安全は保障されないのだ。武沼河は櫂を漕ぎつつ、懐(ふところ)の爆薬を取り出した。戦場で間者(かんじゃ・スパイ)が敵を撹乱する為に使うという、大陸渡来の火薬……白山の竜神が、傲(おご)れる人間共に天誅を加えてやる……!
「この辺か?」
「はい、確かに。」
振根と吉備津彦は、水面を覗いていて気がつかない。
武沼河は、円柱めがけて爆薬を投げつけた。鬼火のような青白い光が燃え上がり、みるみる柱の根方を取り巻く。柱に亀裂が入り、二つ、三つと火の粉が降り始め、徐々に数を増す。
「大王(おおきみ)、危ない!」
岸の人々が叫んだ瞬間、轟音が辺りを揺るがし、金の靄(もや)が一面に漲(みなぎ)った。舟は大きく揺らいで、三人は一溜りもなく川へ叩き込まれる。武沼河はもがく吉備津彦を捉え、懸命に崖下の岩場へ引きずり上げた。
「大王、大王!」
「振根様ーー!」
鉱夫らの悲鳴が、洞内を伝わって行った。
******************
「お気がつかれましたか?」
ふと、ひんやりした手が、頭に載せられた。
優しい声に須佐之男が目を上げてみると、若い娘がこちらを覗き込んでいる。
(天照<あまてる>……!?)
はね起きようとして、須佐之男の体内に痛みが走った。呻(うめ)き声を洩(も)らしてのけぞる須佐之男を、
「無茶をなさってはいけませんわ。」
娘は慌てて寝かしつける。
「あなたは、川を流されて来たのですよ。波に弄(もてあそ)ばれ、岩角に打ちつけられ、満身創痍なのです。暫(しばら)くおとなしくして頂かないと。」
篝火(かがりび)の背後から現れた、娘の母親らしい銀髪の上品な夫人も口を添えた。
川を流された……?すると、彼女らが自分を救い上げ、息を吹き返させてくれたのか。
彼女らは誰だろう……?,自分の一族ではない。今までに会った覚えがまるでないし、自分が突き落とされた地下水脈の源を探り当てた者は、須佐には誰もいないのだ。
自分の発した絶叫は、父にも届いたろうか?あれがきっかけとなって越と吉備の企みを悟り、防御策を立ててくれていれば結構だが……こんな事になってしまって、みんな、さぞ心配しているだろうに……
「御迷惑をおかけして……」
顔を歪めて礼を述べながら、
(ここが対海<つみ>である筈もなし……)
と、須佐之男は、自分の錯覚を嘲笑(わら)った。
天照の母咲玉は、中年とはいえ顔の皺(しわ)も目立たず、頭に光る筋は見当たらない。が、今の婦人はどう見ても、百才(当時は一年に二回、年を取る二倍暦。だから、この場合は百を二で割って五十才になる)を越えているではないか。
「姫君、お名をお教え下さらぬか?それがしは須佐の大王出雲振根が嫡子、須佐之男と申す。」
須佐之男が名乗ると、
「私は鳥髪(とりがみ)の地を統べる手名椎(てなづち)¥足名椎(あしなづち)夫妻の末娘、櫛名田(くしなだ)と申します。」
娘はにっこりして、
「さあ、もう一度お休みなさいませ。怪我を治すには、睡眠と滋養を摂(と)る事が何より。」
再び須佐之男の額に手を当てた。火照った肌に、水の精のような手触りが快い。
黒い泉のように潤んだ両眼、なだらかな眉小じんまりした鼻、朱を点じた口元、白くふっくらと泰山木(たいざんぼく)の花を思わせる顔立ち……見る程に天照に似ている。尤(もっと)も、髪は天照の日を透かすようだった栗色に対し、純然たる烏羽玉
(ぬばたま)で、粗末な単衣(ひとえ)の代わりに薄緑の裳(も)を引き、声も幼いながら将来の女王(ひめおおきみ)らしく凛(りん)としていた天照に比べ、母か姉のような優しみを帯びていた。
この娘が山姫とは信じ難いが、鳥髪一族は山林に住し、自分達とは異なる山神(かみ)に、野を開拓(ひら)いて得た作物や、草木を編み染めた織物を奉納するとの噂だから、案外一致するかもしれない。櫛名田……櫛で梳(す)
いたように波打つ稲田という意味か?,或いは実りの神秘祭(にいなめさい)の最中にでも生まれたのかもしれない。櫛名田……佳い名だ。天照に似た……
黒い優しい瞳に見守られ、須佐之男は眠りに落ちて行った。
(続く)
******************
【後記】
箸ならぬ須佐之男自身が川を流され、櫛名田と出会う事になりました。櫛名田の名前について、作中で私なりに考察してみましたがフカフツノミヤレハナ、トオツマチネ、ツラミカ、アメノフユギヌなど、系図を眺めるだけで空想をそそられるチャーミングな名前が『記紀』の神代の巻には数多く登場いたします。(深津)
古田史学とは何か 6
和歌山県橋本市 室伏志畔
日本の軍国支配者に見られた無責任な精神形態を論じて戦後世界に鮮やかにデビューした丸山眞男は、いまジャーナリズムのしたり顔の無責任な弔いの弁に送り出されようとしている。ジャーナリズムの弔辞はどれも一様に戦後思想を原理的に支えたものとして丸山眞男の思想を遇することによって、自らを支える実体的な思想に丸山政治学を回収することによって情況への遁辞に化えている。
わたしは丸山眞男のよい読者ではなく、その門下の橋川文三や藤田省三にむしろ親しんだ口なので多くはいえないが、丸山眞男の特色はは何を論じるにしろ自分の論点を範疇化を謀ることによって鋭角化し、時勢や通説におもねることなく極度に抽象化された虚構の鞘なき怪剣を振るっている趣きがあり、そこから放たれた批判の兵馬が何より鮮やかに見え一番教えられたように思う。丸山眞男にとって問題が生じたとすれば、戦後原理がジャーナリズムの良心の原理として広く受け入れられた六〇年代以後にあった。丸山眞男は常に時勢と一線を画す姿勢を崩すまいとしながら、いつしか怪剣を鞘に納め、次第に自身の市民倫理に虚構そのものを癒着させ、時と共に流れるジャーナリズムの手合の良心の慰みとなるたたまなる企画に、次第に取り込まれていったように思えてならない。
こうして七〇年代の大学紛争の時代に入り、その研究室が全共闘に闘争の現場に化したとき、丸山眞男は「ファシズムでもこんなことはしなかった」という意味のことを述べ男を下げたのである。自らの仕事を含め大学が「正しい」ことをしてるゆえに学生によって擁護されても攻撃されることはあるまいとした大学の居直りに、学生の矛先が向けられていることに丸山眞男はまったく気づかなかったのである。そしてこの誤解の内に現在ジャーナリズムは良識をひけらかし、大衆を虚仮にしているのはいうをまたない。
言ってみればそれは、それは丸山眞男の「軍国主義者の精神形態」の無責任体系の抽出が、日本人の普遍的な精神形態批判としてあったものが、ジャーナリズムによってあるときは軍国主義批判として、現在においては住専問題や薬害問題における経営者幹部の精神形態批判としてプラグマティックに利用されるものへの変質であったといえよう。しかしこれによってあらゆるものを厳しく貫いたあのよく抽象化された丸山眞男の虚構の怪剣は、批判者の批判となることなく、現実の手垢に塗れ、自らをも一刀両断する切れ身を失ったのである。
さて今度『伊勢神宮の向こう側』という九州王朝・倭国の主神について書くに当たって、わたしは幾つかの架空の出城を営んだが、それは埴谷雄高の影響と思い込んでいたが、丸山眞男の影響も少しあったかも知れない。しかし、あの範疇化をはかることによる急進化はまったく真似のできないものと思い知った。ようやく書き終えて、自分の成したことを確かめるためにいくつかの伊勢神宮本に当たっている今日この頃だが、今年の新しい成果である『伊勢神宮の成立』(吉川弘文館)で田村圓澄は書いている。
《倭王の時代には、「神」はあったが、「国の神」は存在しなかった。そして「天皇」の「日本」において出現した「天照大神」は、はじめて「国の神」であった。いうまでもなく、「国」=「律令国家」において、「天照大神」と「天皇」と「日本」は一体であり、不可分であった。》
倭王を大和朝廷の大王と決め込んでいる田村圓澄の主張はいただけないとしても、「律令国家」において、「天照大神」と「天皇」と「日本」は一体として現れるという視点は今日の通説の到達点を語るものとして、わたしには興味深いものであった。問題は田村圓澄が凡例で六七一年以前と六七二年以後をもって倭→日本、倭王・大王→天皇、妃→皇后、世子→皇太子、王→皇子とする用語区分をしながら、なぜそうなったかについて一言もしないのである。
われわれは個人の改姓の裏に結婚という個人における画期の動態を見るように、倭→日本への、また大王→天皇への改称の裏に何らかの歴史的な契機を挟むことなく理解することは難しいと思っている。しかし田村圓澄はわれわれの関心がもっとも集中するところで沈黙し、それを所与のものとして押し通すのである。それはわたしには、軍国支配者が天皇制の天譲無窮の論理に従って殺戮をほしいままに働き、風向きが変わるや天譲無窮の逆論理に従って責任を天皇一人に返上して、一向恥じることなかったあの丸山眞男の指摘する「精神形態」と区別することができない。
田村圓澄は本書を書くにあたり「終始私を動かし、私を導いた」津田左右吉について語る。かつて皇国史観はそれをはみ出る意見に対して凶暴化したが、いま津田史学による田村圓澄はそれをはみ出る徴候に対し、歴史家として語るべきところで沈黙し、津田史学に身を任せるのである。それが何を意味するかということにあまりに無自覚ではないのか。
これは単に田村圓澄が拠っている津田史学を貫く大和朝廷一元史観を打ち砕くだけではなく、それを骨がらみしている天皇制の無責任思想を併せ止揚することなくして不可能なことを如実に示している。
ヘーゲルの『歴史哲学講義』によれば、歴史にとって遠ざけねばならない一の偏見は、滅亡より存続を優れたことだとする偏見であるという。とするなら倭国から日本国への画期の転換を、一元通念に従ってただ存続のみを見て滅亡を見ないのは、歴史を見ようとしないことではないのか。興亡絶えざる永久運動である歴史から日本史を疎外してその例外に置くために、相変わらずの「一系の天皇」
なる神話を戴く歴史観に日本を腐らせて置くことは断じてできないのだ。
確かに津田左右吉に主導された「神話と歴史」を俊別したいわゆる戦後史学は、「万世一系の天皇制」から「万世」の観念を非科学的として追放し、歴史学の面を一新したが、当然のごとく皇国史観から大和朝廷一元史観は引き継いだ。しかし「神話と歴史」を峻別した戦後史学は大和朝廷への批判を欠いたことによって、国家の興亡を認めない非歴史的「歴史学」であるという自身の本質についての自覚を欠いたのであり、田村圓澄もそれを踏襲し別でないのだ。
軍国支配者が、天皇の命令ゆえに戦争政策を実行したとする自身を免責した無責任体系を嗤って登場した戦後史学は、今、一切を津田左右吉の学説に身を預け、それに疑問を呈する新たな学説や各地の様々な遺跡や発掘現場の現実をよそに、ただ津田史学に自身の説を継ぎ足すだけの無責任な学説体系へ変貌しており、新たな歴史的契機と切り結ぶ勇気を欠いてしまった。この戦後史学の現状に業を煮やした古田武彦が七〇年代に大和朝廷一元史観を振り切り、大和朝廷に先在する九州王朝・倭国を論証したのが、まったく学界の外野席からの在野からの指摘として始まったところに戦後史学界の悲劇は象徴されている。のみならず歴史学界は現状打開への建設的な提言を含んだ古田武彦の提言をその後顧慮することなく、一切を無視する閉鎖的な手段を駆使する体質をあらわにすることによって、本来公平に開かれてあるべき学的探究の未来を党派的に占拠する喜劇をいまも演じているのである。ともあれこの古田武彦の倭国論の導入によって、始めて日本史は無葛藤神話から解放され、普遍的な歴史叙述の端緒にそのついたのである。
しかし古田史学といえども、あらゆる歴史学を腐らせてきた天皇制の病理の外に置かれているわけではない。それは多元史観を口では唱えながら一元史観に次第に身を寄せ転向していった「市民の古代」の紛糾として先年、結果した。この意味するところは単に多元的論理を導入するだけでは解決つかない現在の思想情況の難しさを象徴している。思えば時代的制約はあったとはいえ戦後史学も始めから見苦しかったのではない。戦後史学は権力をかさにきた皇国史観の恫喝にさらされながら、津田左右吉らの血の滲む努力によって歴史的に獲得された光栄を負っている。
問題は戦後この光栄に拍手するだけで、その先を自ら鍬をとり開拓することなく、一切を津田左右吉の筆先の範囲に委ね、お茶を濁して来た戦後史学界の亜流の怠慢にあったのであり、それは一切を天皇に委ね自らの戦争責任を拒否した軍国支配者の精神形態となんの変わりもなかったのである。とするとき、われわれは、「市民の古代」の転向のあおりを受けて、古田武彦の成果を汲々と守る教条主義者に止まることはできない。歴史にあって解体主義と教条主義は円環しており、個々の会員がそれぞれに新たな領域を切り開きその責任をまっとうすることなくして、天皇制の無責任体系は先の「市民の古代」の紛糾にあるように、多元史観をたちまち一元史観に溶解することは必至である。
H8.8.20
著者は九州年号「朱鳥」が刻まれた金石文鬼室集斯墓碑研究の第一人者である。滋賀県蒲生郡日野町の鬼室集斯神社にある同墓碑の調査に二十年以上のフィールドワークを続けて来られた著者の集大成ともいうべき本書はその堅実な研究方法にも支えられており、九州年号研究にとっても必見の書と言える。
著者は同墓碑の建立を平安時代、鬼室集斯の子孫によるものとしているが、その一方で墓碑の「筆跡」の研究から、古代に遡る可能性をも示唆しており、注目される。著者自身は九州年号という視点からの論究はされていないが、朱鳥年号の実在性については肯定されているようなので、同書の研究成果は、筆者の意図とは無関係に、通説と対立する理論的必然性を帯びるものと思われる。少なくとも、同墓碑を江戸期の偽刻とする説は、著者の研究により、成立不可能となった。同墓碑が同時代金石文とすれば、数少ない九州年号金石文の一つとなるが、精力的な現地調査に基づいた著者の研究により、鬼室集斯墓碑が注目されることを期待したい。(古賀達也)
◎雄山閣発行 定価九〇六四円 三七五頁
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』第一集〜第四集(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)第一〜六集が適当です。
(全国の主要な公立図書館に御座います。)
新古代学の扉 インターネット事務局 E-mailは、ここから。
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