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古田史学会報 二十三号 |
発行 古田史学の会 代表 水野孝夫
奈良市 太田齊二郎
【起】
「東日流外三郡誌」偽書説の論拠の中に秋田孝季不在論も挙げられています。つまり、実在しない秋田孝季に「東日流外三郡誌」の編集が出来る訳がないというのですが、その理由の一つが、晩年彼が住み、火事に遭遇したという土崎湊日和見山など今も昔も全く存在しない、ということにあるようです。
【承】
この秋、帰郷した私は秋田市にある県立、市立、それに土崎の三ヶ所の図書館で日和山を探す事にしました。四日がかりでしたが、土崎に関する古地図・古絵図・古文書の類に、私の限られた力量ではとうとう「日和(見)山」の文字を探し出すことは出来ませんでした。
日和山は港に関係があると言う事前の知識を持っていた私にとって、三津七湊の一つに数えられていた土崎湊に日和山がないなんて信じられない事でした。しかし諦めるのは早すぎます。
【転】
地名研究賞を受賞された「日和山」(法政大学出版局、昭和六三年)において南波松太郎氏は次のように述べております。
『日和山は、千石船時代に日和見をしたために名づけられた小山で、(中略)入港船の目印ともなり、頂上には方角石の外に、大樹があり、祠・灯篭・塔等が建てられている所もある。日和山は一般の地図や地誌等には余り記載されていない。(中略)ふつうはごく局所的な案内記や地図に、あるいは思いもよらぬ書物に、まま見かけることがある位で、案外記載が少ないのに驚く。(中略)名前すら忘れられた所もあって、現在その所在を知ることすらかなり骨が折れる』
一方、土崎穀保町にある虚空蔵堂について、「土崎港町史」(昭和十六年)に次のような記事がありました。
1. (前略)現在の「虚空蔵さま」はそのとき(註、萬治三年穀保町が拓かれた年を指すものと思われます)、廻船問屋などによって、改めて御堂を建てて祀られる事になったといふことにまちがひはない。
2. 佐竹時代の虚空蔵堂のところは、土崎湊の一つの名所とされていた。つぎの文章は、その時代をさながらに思ひ出させる。『(前略)樹間、石壇数十階、これを登りて境内に入れば、(中略)該地より西南をかへりみれば、海面諸船、あたかも短冊の如く、静に白波の岸を洗ふは(後略)』
3. 泉谷氏の「土崎案内記」には次のやうに記してある。『虚空蔵堂は穀保町内にありて(中略)例年七月十二日には大祭を執行す、(中略)旧藩時代にありては此の丘上に竹竿を設けて燈火を掲げ、以て夜間舟行の便に供したりと云ふ。又、三島大明神あり、(中略)往昔、諸廻船より水戸の祈願又は日和の祈祷等ありし際には霊験を蒙りしものなりとて、濱水戸より之を虚空蔵堂内に奉祀したりしが、後に神仏混淆の禁出でてより、今は分ちて同町内稲荷社内に合祀せられたり』
ここにご紹介しました南波氏の「日和山」、そして「土崎港町史」両書の記述内容の意味する所は、凡そにおいて一致するもので、「安東氏顕彰会」の会員である高橋康三氏が、同会の会誌「秋田のいにしえ(五号・二〇頁)
の中で、この虚空蔵堂が日和山ではないかと疑っているのですが、それも当然の事のように思われました。
「東日流六郡誌絵巻第二十九番」の「飽田日和見山城跡」では正面に海が見えますが、今、小高い丘の上に立っていいる虚空蔵堂では海の方向が逆です。しかし、堂のうしろにも小さな階段があり、絵巻はその方向から海に向かって描いたものとすれば実際と矛盾はないと説く人もおられるそうですが、日和山に欠かせない海を、どうしても絵に収めたいが為に現地の情況を無視して象徴的に描いたのではないかとも考えられます。
尚、この虚空蔵堂から半キロほど北にある愛宕神社も、似たような風景で、候補の一つのようでした。
更に「土崎港町史」には、神明社近くの菻町にかつて「日和見小路」という通りがあったという紹介がありましたが、距離も離れており虚空蔵堂や愛宕神社とは関係なさそうに思えました。しかし、現在の海岸線から離れてはいるものの、「菻」とは湿地に繁茂する植物の事だそうで、この付近はかつて海辺の開拓によって出来た土地ではないかとも言われており、もしかして孝季の住んでいた場所はここあたりかもしれません。
又、江戸時代の土崎湊に起きた、記録に残る火災の紹介もありましたが、孝季が遭遇したという文政十年八月の火災記録は見当たりませんでした。但し、ここに載せられているのは全部ではなく、私はその半数くらいのものではないかという疑いを持っています。
【結】
今回の帰郷では、残念ながら土崎湊に関する諸史料に「日和(見)山」の文字を見出す事は出来ませんでした。しかし、私のような素人の探索の手から漏れたものの方が多い筈です。まだ諦めてはおりません。
南波松太郎氏は地図から日和山を確認する事は困難であるとし、確かに、同氏が訪ねた全国八十数カ所の日和山の中には、地名が残ってなくて、その地に残る伝承から辿ったものも多く含まれています。現に例えば新潟の日和山のように、以前にあった地名が最近の地図からは消えてしまったものもありますし、南波氏の著書にはありませんが、秋田県の雄物川の支流である玉川の河口近くにも、その昔、日和山と呼ばれていた場所があったと言う伝承の存在も知りました。このような未紹介の日和山がまだまだ存在しているに違いありません。
南波氏は、土崎の日和山についても触れておりませんが、この地に今でも残る様々の伝承は、私に対し、嫌でも日和山の残映を感じさせない訳にはいかないのです。
【エピローグ】
「安東氏顕彰会」は、言うまでもなく、いにしえの安倍・安東・秋田氏を讃え偲び、その事跡の確認を目的に設立されたものですが、図書館に並んでいる安東氏に関する膨大な史料に触れる度毎に、本会の会員さん達による調査の足跡を感じたものでした。「土崎湊日和山」についても例外ではなく、考えてみれば本会にとってもそれは大事なルーツの一つだったのです。
秋田孝季は安東氏のルーツを探し求め全国を行脚しました。時代も動機も違っていますが、その目的は「安東氏顕彰会」と全く同じです。そして有り難い事に「土崎湊日和山」は、私に対し、孝季が「安東氏顕彰会」「古田史学の会」の両会に共通する大先輩である事を、改めて実感させてくれたのでした。
次回は、孝季の兄、橘太郎守季のうしろに見え隠れする「古代橘氏」に対し、「日和山」と同じように、素人らしく大らかに挑戦する予定です。
(一九九七年十一月)
◇◇連載小説『彩神(カリスマ)』第五話◇◇
--古田武彦著『古代は輝いていた』より--
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇ 深津栄美 ◇◇
◇ ◇
「大王(おおきみ)、立原(たてばる)の正秋が殺(や)られ申したーー!」
二、三の部下が飛び込んで来た時、須佐之男は矛の手入れの最中だった。須佐之男も、最早(もはや)天照に傷の手当をして貰っていた初々しい少年ではない。口髭を貯えた一人前の武士(もののふ)に成長していた。
「何かの間違いではないのか?」
すぐには事の次第が飲み込めず、須佐之男が首を捻ると、
「とんでもない。ちゃんと死体を運んで参りました。」
「ご覧下され。」
部下達は、戸板に載せた一兵士を担ぎ込んで来た。
一瞥(いちべつ)するや、須佐之男は腰を浮かせた。兵士は喉をかきむしるように両手を曲げ、身をのけぞらせていた。実際、首はちぎれかけ、未だにドス黒い血が滴り落ちている。この世ならぬ
怪物に接したように目も口も一杯に開かれ、鋭い爪か刃にひっかけられたのか、袖や裾はボロボロになっていた。
「正秋は、どこでこんな……?」
須佐之男の問いに、
「海部(かいふ)の麦畑でござる。」
部下の一人が答え、
「阿波の民百姓は糧(かて)を守る為に獣を操り、旅人を惑わす妖術を用いると来き及びますが……。」
「おぬし、正秋を殺ったのは人間(ひと)ではないと……?」
須佐之男が振り向くと、
「調達を拒否され、このような仕儀になったと思われます。」
他の者もうなずく。
確かに、人間にしては、やり方がひど過ぎた。近頃、阿波では飢饉が続いて、死者が急増しているという。自分達もここへ来るまでに食料が底をつき、やむなく畑荒しや略奪という手段に訴えるような辛酸をなめて来た。
それでも、一個大隊を養うには不充分なのだ。このままでは目的地の室戸へ着いて交易するまでに、自分達の中からも餓死者が出るだろう。
更に、阿波では秋恒例の新嘗祭が間近と聞く。祭は年に一度、あらゆる労苦を医(い)やす快楽の集合だ。御馳走を作り、家を飾り、とっておきの晴れ着を着て酒を汲み交わし、歌い、踊り狂うのだ。祭礼あればこそ、人々は仕事に励むといっても過言ではない。その為、異国の旅人から乏しい食料を確保しようと、妖術を用いるのも納得出来る。
だが、こちらは部下を殺されたのだ。ここで筋を通しておかねば帰国後、仲間達に顔向け出来ないし、室戸での交易遂行も覚束ない。祭では妖術も、気分を盛り上げる為の美しい夢幻(あやかし)に過ぎまい。種を探り出し、仇を討つには絶好の機会だ。
「我らも新嘗祭(まつり)へ乗り込むぞ。」
須佐之男は、襲撃の用意を命じた
* * *
社の戸は皆、あけ放され、燦(きら)びやかな灯の下(もと)に浮かび上がっていた。祭壇正面
には例年(いつも)なら泥の付いたままのカブや精白(すずしろ=大根)、露の燦めきも清々しい玉
菜(たまな)や青ヂシャが山と積まれるのだが、今年は土器(かわらけ)に栗やアケビ、山葡萄がほんの申し訳に置いてあるが、見るからに侘(わび)しい。
「あの山の幸も今朝、月美(つぐみ)の家の裏口に誰かが届けておいてくれたんだと。」
「伊佐が起き出て見つけたそうじゃ。」
「二人に助けられた小ギツネの、報恩(おんがえし)ではないのかのう?」
人々の囁(ささや)きに、
(ギン、どこへ行ってしまったの……?)
月美は山の方へ、哀し気な目を向けた。
畑で盗賊の死体が発見された日から、ギンは姿を消していた。ギンがお礼に賊を退治したのだという村人達の噂も尤だが、月美は、喉を裂かれた賊の死に顔に、歯止めの利かない野獣の本性を見るようで、ギンの仕業とは思いたくなかった。ギンはまだ子供だ。獲物の狩り方も、ろくに判ってはいないだろう。賊に襲いかかる位
なら、罠にはまる筈もないもの……
「月美、出番だよ。」
伊佐が娘を促す。
月美は、項垂(うなだ)れて祭壇へ上がった。太鼓連打はいよいよ力強く、笛の群が賑わいを盛り立てる。
月美は左に白百合の花束のような幣(ぬさ)を掲げ、右手を仰向け、上体を反らせた。赤いグミと黒蔦の葉を巡らせた額には、見事な桃色真珠が搖れている。いつか羽山戸(はやまと)が持って来てくれた、天国土産(あまくにみやげ)だ。彼の地では、真珠(まだま)を「神体」(かみ)と崇めると聞く。阿古屋貝(アコヤがい)は波風激しい水底(そこ)に生まれて、海人(あま)族といえども滅多に手に入れられないのだから当然だろう。
自分達にとっての「神」は何か? 奉納の舞は、四季の循環(めぐり)を表している。春まだきの朝、氷が割れて谷あいの川が流れ出し、雪を溶かして嵩(かさ)を増し、勢いを加える。日光は輝き、草木が芽生え、成長する。冬中まどろんでいた鹿や兎が姿を現し、鳥がさえずり、リスや小猿が敏捷に枝を伝わる。金の蜜蜂が色とりどりの花を訪れ、悪戯(いたずら)子熊が蜜のお相伴にやって来る。狼や猪も伴侶を見つけ、子を生み育て、愛の讃歌が遠く広がって行く。太陽はますます盛んに生きとし生ける者を外へ呼び出し、緑は繁茂し、人々は田を植え、畑を耕す。やがて日光(ひかり)が和らぎ、澄んだ青空に赤トンボが舞い始めると、地上は一面
、黄金(きん)に輝く。秋が来たのだ。待ちに待った収穫の時だ。人間にとっては、自然の恵みこそが「神」なのだ。重くしなだれる麦穂にも、艶やかにそよぐ果実(このみ)にも、こんがりと丸焼けにされた鳥や獣にも、「神」の笑まいが宿っている。さあ、友よ、楽の音を奏(かな)で、天地(あめつち)に感謝を捧げよう。神々を祝し、歌おう。明くる年も、次の年も、変わらぬ
豊かさをお与え下さるように--
(年が明けたら、私は隠岐へ嫁<ゆ>かねばならない。ギン、どうか戻って来ておくれ。羽山戸が、藍で矛と幣を染め抜いた白帆を順風に膨らませ、迎えに来る日、私はお前も一緒に連れて行きたいのよ。)
緑野(みどりの)を蝶よりも軽快に走るギンの姿が、月美の目に浮かぶ。
不意に、鏑矢(かぶらや)が楽の音を貫いた。酒瓶(さけガメ)の向こうから赤鬼、黒鬼が棍棒を振りかざす。
「須佐の奴らだー!」
「敵襲だ!」
人々が叫んだ途端、幻は砕け、ギンの尾が翻(ひるがえ)るように月美の視野は真白になった。
(続く)
*****************
<後記>
去る十月十六日、新宿・野村ビルでの古田先生の講演会「安満宮山古墳の青龍鏡」へ行って参りましたが、これは絹ではなく麻布(あさぬの)に包まれていた事が、後の調査で判明し、又、奈良の下池山出土の鏡は、石室とは別に石組みを築き、麻の上にウサギの毛皮で包んで木箱に入れて埋められていた由。 銅鐸国と、「因幡の白ウサギ」の話の伝わっている出雲とは地続きの上、前者でもウサギが聖獣と崇められていた時期があったのでしょうか……?
(深津)
古田史学とは何か 10
大阪府泉南郡 室伏志畔
或る人相見はソクラテスを見て「あれは愚鈍な男にちがいない」としたが、その獅子鼻の怪異な顔をもった男こそ、アテネの混乱期の行く末をただ一人確かに見通していたのであった。人相見は「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」というかつてのギリシャ精神の範型に従って判断を下したのだろうが、このときペロポネソス戦争以後のアテネがすでに異形の様相を呈しており、ソクラテスの容貌はそれを象徴するようにいささか怪異な時代の新たな表情となっていたことをこの人相見はまったく気づかなかったのである。いつの時代にあっても本当の時代の表情を読み取れる者は少ないのである。このとき対談集『夜と女と毛沢東』(文芸春秋社刊)の中で辺見庸は吉本隆明に向かって、「ホームレスにはなんだか吉本さんみたいな顔をした人が多いんだな」と迫っているのはさすがである。
とするときこの問題を古田武彦とわれわれ会員との関係に持ち込むとき、まったく会員は占領軍に対する被占領民のごとく柔順でしかないのは情けない。古田史学のいろはをまったく理解することなく敵の軍門に下ったかつての「市民の古代」の一部と比べるときその善良さを除いて、頼れるかとなるとなかなか甲乙つけがたいのではないのか。その意味で会員の大方は古田武彦の顔色を窺ってその危機意識の共有を忘れている。
古田史学が大和朝廷に先在した九州王朝・倭国を論証した当然として、それが大和朝廷一元史観を排する限り、それは天皇制に否応なく向き合わざるをえないのである。それは古田武彦が望んだのではなく、その実証史学の方法のゆえの必然でしかなかった。ところがわれわれの中には、その方法が時代の危機意識を背負うことなく可能としたい御仁も少なからずいるらしいのだ。そうした御仁は「それでも地球は回る」と主張したガリレーやケプラーの血を吐くような困難さだけは体よく回避して、ただひたすらガリレー面だけはしたいというわけだ。イエスはそこのところで怒りもあらわに「わたしがきたのは地上に平和をもたらすためにではなく、つるぎを投げ込むためである」と言い、また「わたしがきたのは家の者を仲たがいさせるためである」という意味のことを言う。というのはそこを譲って新たな教えがあるはずもなかったからである。
ところで古田武彦は古代史分野において研究成果を世に問うたが、それを内部より充填している自身の倫理について語ることが少なかったのは当然である。しかしその倫理が研究と切り離されてあったわけではもちろんない。しかし古田史学のファンの多くはそこのところでその成果のみを我田引水し、血の滴る倫理を古代史と関係ないと回避してきたのではないのか。その点に対する不満を発条にわたしはこの「古田史学とは何か」をここまで書いてきた。そんなとき大阪哲学学校での「鎌倉新仏教の衝撃-親鸞論」での古田武彦の講演は、対象者が別であることから古田史学の原郷である親鸞研究を踏まえ、いつにない闊達な信念の表明があってわたしにはおもしろかった。
「高名な『主上臣下法に背き云々』と承元の弾圧の際の、天皇制権力に対する発言を一切改めることなく九〇歳の死までもっていった人が日本史上にいましたか。」「その親鸞に学んだわたしが、『親鸞思想』の出版において、本願寺の圧力に屈して内容の削除に応ずることができますか。」と言う意味の倫理を様々な角度から繰り返し巻き返し古田武彦は熱っぽく五時間半に亙り熱弁を奮ったのである。わたしはその姿を最前列で聞くように最後尾から遠望していた。そこにはわれら会員の姿がちらほらあったが古代史講演会に比べるべくもなかったのである。柔和な顔をした古田武彦に群がっても、異形の倫理を扱う古田武彦を囲もうとする人は今も少ないのである。わたしは、このことを踏まえて少し言ってみたいと思う。
わたしが本格的に「古田史学の会」へと繋がる機縁となったのはいまから四年前に藤田友治から「市民の古代」の紛糾の原因について思想的考察を頼まれたことによる。それは現在「古田史学の理解を巡って」(「新・古代学二号」)として発表されているので参照してほしいが、そこでわたしは古田親鸞論の立場から言えば、古田武彦に群がった「市民の古代」に惹起した分裂は、古田親鸞の初志を受け継ぐ者と全く理解しない者との紛糾であるとし、それは古田史学の本質を巡る戦いである限り、それを踏まえない者との分裂は当然であるとするものであった。
その後、古田史学の本質を守るために再出発を期した者は、各地で様々な会を旗揚げしたが、わたしは地域の関係で現在の「古田史学の会」に参加したが、その名称については端的であるが、少し入り口が狭い感じがする思いは今でももっている。これとは別に各地の「古田武彦を囲む会」が多く「多元的」という名称を多用しているのに対し、「近畿天皇家一元史観にわたしも反対する立場ですから、この立場には反対ないのですが、思想なり批評を扱う立場からすれば、この立場表明はせめて六〇年代ならともかく、それから三〇数年もたっていま使うのは、ある意味で羞恥を感じることなく用いるのはわたしにはむつかしい」と書いたのは、私個人の思想的な脈絡からであったが編集者の安藤哲朗からこの部分についてクレームがついたが、わたしは説明不足を補う形でこれを拒否した経緯がある。
この問題は現在も高山秀雄が関東の多元的古代研究会に「多元的古代」の名称の差し止め要求をするという呆れた問題提起を生んだが、八世紀始めの近畿天皇家一元支配の確立以前の古代史を大和朝廷の視点からしか叙述しない通説に対し、九州王朝・倭国を始めとする各地の大小国家の興亡を視野に入れた古田史学を踏まえた人々の思い入れが、「多元的古代」なり、「多元史観」の名称が通説に対する端的な旗印となっていく経緯があったことはいうまでもない。しかし多元的古代の実際展開となると会員の多くは古田武彦と中小路駿逸の蛇尾についているのが現状なのである。
高山秀雄はこの語彙を古田武彦から引き剥がすことによって一般化したいのだろうが、この語彙は古田武彦の史的展開から生まれたという刻印をもっている以上、その要求は筋違いであろう。問題はこの語彙が一元史観に対そうとする古田武彦と中小路駿逸を取り囲んだ会員の中で、とりどりに物神化されているという奇妙な事実の内にこそあるのだ。
むかしマルクスが俺はマルクス主義者ではないと言ったのに倣うなら、古田武彦は「多元的古代」主義者でも「古田史学」主義者でもないのである。多くの会員は「多元的古代」主義者や「古田史学」の標榜者であるが、なかなかに一元史観を根こそぎする古田武彦のような真摯な問題提起者としてふるまえないという悲しい事実の内にわれわれの本当の問題があるのである。この問題をさしおいて古田武彦の片言半句を拾おうが、反発しようがそんなことはまったくお話しにもならないのだ。
鶴見俊輔は「言葉のお守り的使用法」の中で、たしか帝国軍隊は上司は「ひとつ皇軍は」と言って部下を打ち、スターリン体制化にあって幹部は「レーニン主義者のわたしは」と言って大量粛清を行ったという。時代はいつも時の物神化された言葉使いをして残虐である。とするとき古田史学の内なるわれわれもまた物神化しやすい言葉を切り札に自己の空疎なる内容の隠蔽者となりがちなことを忘れまい。
ところで古田武彦は『親鸞思想』の中で、親鸞思想の精髄を伝えるものとして持て囃されている唯円の著した『歎異抄』の記す「大切の証文」及び「目ヤス」が、通説とは異なり末尾の「流罪記録」そのものを指すことを論証し、現在の「流罪記録」は原著者の一部であって全部ではないとし、その親鸞の「大切の証文」を断裁し不完全本『歎異抄』にして伝えた犯人こそ本願寺教団の開祖・蓮如その人であったとしている。本願寺教団の教義の確立は、親鸞の「大切の証文」を闇に葬ることなくしてありえなかったのである。
とするならこれは和田家文書(秋田家文書)の公開の言明から久しく沈黙し、擁護を古田武彦や古賀達也に任せきって、その理由について明らかにすることなく延ばしに延ばしている和田喜八郎の態度はまったく解せない。『歎異抄』が教団の都合で断裁自由である権限が赦さるべきでないなら、秋田家文書の公開が和田喜八郎の胸先三寸で処理される時代ではもはやないのだ。誇るべき史料で公開に耐えない史料なぞありえないように、秋田家文書の声価はその全面公開によってこそ問わるべきであろう。これ以上の沈黙はあらぬ疑惑を生むだけであろう。和田喜八郎の善処を促すのは、時代の異形の様相を知る者はその容赦ない批評を知る者である。 (H9.11.12)
オウム坂本弁護士事件などで、報道姿勢を問われているTBSが、九月二七日放送の世界ふしぎ発見で、冒頭に「東日流外三郡誌は昭和に偽作されたマッカな偽物」とアナウンスした。裏で偽作キャンペーン一派の画策があったようで、こうしたマスコミによる虚偽報道により、和田家子女へのイジメが再発している。TBSに対して、古田氏から抗議がなされたが、TBSに良識はないのか。
和田家文書「偽作キャンペーン」訴訟決着
偽作キャンペーンの一環として最高裁に持ち込まれていた和田喜八郎氏への控訴審で、十一月十六日、上告棄却の判決がなされ、盗作問題について和田氏全面勝訴が確定した(写真無断掲載<誤載>についても罰金四〇万円の原判決のまま)。
最高裁判決は「証拠の取捨選択、事実の認定を非難するか、または独自の見解にたって原判決(仙台高裁判決)を論難するもの」として、野村氏の主張を退け、『東日流外三郡誌』の真偽論争に終止符を打ったもの。
和田氏の弁護人は「史書の評価は後世の研究、判断にゆだねられるべきで、裁判所で決めることではない。最高裁で和田さんのぬれぎぬを晴らせてうれしい」と語っている。
その一方で、TBS「世界不思議発見」や、東奥日報(斉藤光政記者)による偽作キャンペーンは執拗に続けられており、和田家子女へのイジメも深刻になっている。『季刊邪馬台国』での古田氏への中傷(原田実氏による)も連載されており、最高裁勝訴にも気を許す事はできない。寛政原本公開も含めて、偽作キャンペーンへの反論を強めていかなければならないであろう。
(古賀達也)
□□事務局だより□□□□□□
▽古田先生の御自宅にIBMのパソコンが入ったので、使い方のレクチャーに伺った。古希を越えてパソコンを覚えようという先生御夫妻の熱意には驚くばかりだ。しかも、明年には歴史教材用パソコンソフト(ゲーム形式のもの)の監督をされるとのこと。古田史学に基づいた歴史教材ソフトが世に出るのだ。
▽過日は衛生放送、パーフェクトテレビ「地球の声」の二時間番組にも出演された。「邪馬台国はなかった」というテーマで、最新の発見も含めて、古田史学の魅力が問答形式で放送された。古田先生の少年・青年時代の写真なども映され、古田ファンには必見だ。一月の関西例会ではそのビデオ観賞会が予定されている。ダビングできしだい各地の会にも送付予定。
▽また、先生の新刊も年明けには相次いで刊行される。原書房からは近現代史を取り扱った、先生のライフワークとも言うべき本も出版される(題未定)。古代史とは違った古田史学の一面
が見られるはずだ。期待したい。
▽本会も会員諸氏のおかげで、無事一年運営できたが、「古代に真実を求めて」2集の発行が遅れており、申し訳なく思っている。発行元の明石書店でも4月発行を目指し努力していただいている。
▽来年も皆様や古田史学にとって良い一年でありますように。
インターネット事務局注記(2001.5.1)
1. 例会案内は略。
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』第一集〜第四集(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)第一〜六集が適当です。
(全国の主要な公立図書館に御座います。)
新古代学の扉 インターネット事務局 E-mailは、ここから。
東北の真実 和田家文書概観(『新・古代学』第1集)へ
東日流外三郡誌とは 和田家文書研究序説(『新・古代学』第1集)へ
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