五所川原市 和田喜八郎
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安本美典氏を筆頭とする偽作論者から人権侵害の誹謗中傷を受けている、和田家文書所蔵者の和田喜八郎氏より反論の寄稿をいただいた。和田家文書最後の書写
者と思われる和田長作氏(喜八郎氏の祖父)や、終戦直後混乱期での皇居警備の思い出などが記された貴重な証言である。和田家文書と喜八郎氏の文体の違いが判るよう、原稿には手を加えず、そのまま掲載した。但し、見出しは編集部による。
(編集部)▼▼▼
未だ会った事もない野村孝彦という人物が、突然なんのまえぶれもなく、弁護士を代理人とした書状で、盗作盗用したという廉で、高額の金銭要求を私に突き付けた。 それから間もなく青森地方裁判所から訴状が届けられ、裁判で争う破目となり、その判決が今年の二月、私にとって差し障りもない論告のもとに終わったが、彼はこれを不服として高裁に上訴している。
彼は、裁判の前後をして、東北地方を巡り公私を問はず、「裁判訴状」や「興信所調査書」をコピーして、新聞や週刊誌、「季刊邪馬台国」などに虚偽情報を繰り返し、我が家の文献までも私が偽作したものと、無責任な匿名FAX情報を程よくおしならべて、もっともらしく宣伝キャンペーンとし、私を誹謗中傷で今も尚続けている。
これに同調する者に、例の「犯罪心理学者」と自称する安本美典氏や、我が家の文献に中傷だけで豆本を刊行し、出版利益を得た松田弘洲氏など、「人権侵害」といふ反復宣伝に道義など微塵程もなく未だ活字にして世間に誇示している。
私も、忿怒やるかたなき心境にあったが、せめて裁判の終わるまではと、我慢をしていたとき、古賀氏の呼びかけもあって、久方にペンを執った次第です。
もとより、この事件は、写真の誤載に依るもので、私の故意になるものではなかった。
而るに彼らは、方向を転回し我が家の文献を私の偽作したものとして裁判の進行を撹乱し、世間の注目を得ようと目的化したのである。だが、世間は彼等の思惑に翻弄されなかった。
我が家の文献は彼らの云ふような浅はかなものではなく、寛政の頃から、亨和、文化、文政、弘化、嘉永、安政、万延、文久、元治、慶応、明治、大正、昭和と代々に渉って書き続けられたものである。
私はその最後の筆者である孫父長作爺さんから読み書き算術を小学四年生になるまで教えられたので、今でも孫爺さんの事は幼い頃より、学校の先生よりこわい学問の師であり私の生涯はこの孫父に依って「忠孝」の道こそ、かたくなにも人生の求道であると信じて兵役志願に赴くこととなった。
鹿児島県出身の大迫閣下に認められ、静岡県の通信研究所で特別教育され、ビルマに赴きその役目を果
たし、マレーの虎と云われた藤原岩一閣下の命令で本国に還る奇運を得た。
新型爆弾と称された無差別殺戮の原子爆弾が広島及び長崎に投下され、地獄絵図より尚無惨なこの世さながら、阿鼻叫喚の爆臭漂う敗戦日本本土にて私は「近衛師団解散」のあと皇居護衛に抜擢され、折よく同郷の浜館徹らと法曹会館や近衛師団兵舎に宿営し、天皇陛下を護衛する大役をはいして東京に駐り、昭和二十年十二月帰郷した。
その後、長男である私は家業を継ぐこととなり、以来五十年今日に至っている。
我が家の文献を手にしたのは昭和二十二年の夏、突然天井を破って落下した鎧櫃に詰まっていた煤だらけの書物が座敷いっぱいに散乱した事件が、幼い頃、孫父が能く書いていた大切なものと、うろ覚えに読んでみたのが今、偽作論者の云う私の偽造したものと悪評された史料である。
幼な頃より、私は孫爺さんに可愛がられ、私も爺さんが好きでした。毎日、爺さんの書いた字を見習ひ、小学四年になるまで勉強させられ、爺さんの字に似た筆ぐせが私についたのも、学校よりも尚厳しかった孫爺さんに教わったせいです。
更に不断にして「水も噛んで呑め」と食事前に言はれたり、「一日に一字覚いよ」と読書算にうるさく云はれたものだ。
「なぐられたらなぐり返せ、どんなにくやしくとも、自分から手を出すな。よき友を選んで志を立てよ。祖先を尊び、愛国心を向上せよ」と云はれたことを今でも朧げに覚えている。
(続く)
報告 平成九年一〇月一四日 最高裁判所判決 付 上告趣意書(平成九年(オ)第一一四〇号 上告人 野村孝彦)
付録 資料和田家文書1 邪馬台城 総覧