「和田家文献は断固として護る」 (『新・古代学』第一集)へ
長作爺さんの思い出 (古田史学会報 九号)
和田家文書との出会い(1) 藤本光幸(古田史学会報5号)へ
裁判関係の資料は下にあります。
青森県藤崎町 藤本光幸
前回で「角田家秘帳」模写のいきさつを述べましたが、今回で私の和田家文書との出合も終回する約束になって居ります。
十三山王坊遺跡の発掘調査は昭和五七・五九年に行われて居り、これについては古賀達也氏が古田史学会報第四号で、既に「坂田泉氏の論文は発掘調査結果
と和田家文書との一致を結論としたものである。」と発表されて居られますが、当時この調査に関係した者の一人として、今一度山王坊遺跡の発掘調査の事を申し述べて、古田史学の会々員皆様の判断を乞うものであります。
この調査は昭和五七年十二月一日から当時東北学院大学加藤孝教授(考古学)をキャップに東北大学坂田泉助教授(建築史)・秋田大学新野直吉教授(古代・中世史)等によるもので、この調査によって本社殿亀腹跡の築壇土中から陶製宝珠破片、青磁片、炭化木製品、埋経陶製甕、更には拝殿跡調査時に破片となって出土した「御深井香爐破片」とかが出土して居り、遂に、中世建築物群跡の一大遺跡が発見されたのであります。
この調査は先に出刊された『東日流外三郡誌』に基づいて当時の白川治三郎村長の要請によって始められたものです。
十三山王坊については次の様な記述があります。
1. 茲に惜しむらくは十三山王坊の仏閣は、心なき南部勢に放火されて一刻の間に灰となりにける。恨むべきなり。金銀宝玉 の仏像仏具は南部勢に奪取され、法場は焼煙虚しき野辺となりて、住僧のある者自害し、ある者は狂乱し、此の世さながらの生地獄なり。(題不詳、市浦版)
2. 南部勢は山王を焼討、更に阿吽寺を焼討、大なる宝物奪取せり。(安倍落葉譜、市浦刊)
3. 応永二十九壬寅年、南部義政十三山王の十三宗寺に放火せり。もとより東日流安倍一族を亡すの魂胆は十三寺院に秘蔵された巨大なる仏具及び黄金の奪取を要とせる戦なりせば… (応永之乱覚書、北方新社刊)
4. 山王坊法場も四周囲の山火事の中に十三宗の法城影は紅蓮の中に灰土となり…(唐川城秘聞帳、北方新社刊)
5. 南部守行は十三山王坊の十三宗寺院及び阿吽寺諸坊の寺社より宝物を奪取して焼討し、永年に仏場として栄へたる法場は一夜に 灰土と相成り、巨大なる寺宝は南部氏の掌中に落つ。(十三之刃嵐、北方新社)
6. 遂に山王の寺社は火を南部勢にかけられ炎上し、多くの宝物も奪取され、法場は全く焼野原となれり。(日下氏東日流喪失之事、北方新社刊)
7. 果は十三山王の聖地に踏入りて焼討し、宝物を奪取して軍資となし・・・(十三風雲誌、北方新社刊)
一方、青森県市浦村山王坊跡の考古学上の調査では以下の様な報告が寄せられて居ります。昭和六十一年七月発表の東北学院大学『東北文化研究所紀要』第十八号の「中世津軽十三湊日吉神社(仮称)東本宮社殿列跡考(その一)」に依ると、「…遺跡群跡の年代観については、近世以降の出土品は含まれず、出土遺物である石造物並びに陶磁器等の土製品から観察しても、鎌倉末、南北朝、室町初期の型式を示し、疑いもなく中世津軽安東氏に係わる社殿列跡と認定せられたものである。…発見に関わる大型礎石類は、いずれも猛火を蒙った痕跡があり、礎石のあるものの中には、計三〇・〇センチ丸柱の痕跡を留むものがあって、周囲火気により薄く鋭い剥片となって剥落しているのに、柱跡だけが残ってい
ることなど印象的である。火気による炭化木片、焼け釘、純白な灰層など発掘当時、観察せられ、建物跡終末の運命を物語るかの如くである。…中世津軽山王坊跡、日吉神社跡は当該地域の歴史によれば、応永年間とも永享年間とも云われる時期、北奥州の豪族南部氏の攻略にあい壊滅焼き払われたことになり、西紀十五世紀前半にその姿を没したことになっている。それを裏書するが如く、二組社殿列跡の調査において、いずれの建物跡も炎上壊滅の痕跡を止めている。出土物についても石造物、金工品、鉄製品、陶製品等近世に及ぶものがなく、中世にさかのぼるものばかりなので、いずれも遺跡と運命を共にした遺物群であると認定せられるのである。……
したがって、ここでは二点を挙げて小括といたすところである。
1. 中世十三湊跡については、永い間、先学によって研究が行なわれていた。そして考古学上では遺物のみは、大量に出土するが遺跡において、全く明証を欠く所として著名な地柄であった。そのような地柄が、山王坊跡と呼ばれ、明治以降日吉神社が再建せられてあったが、その建物の東方に(仮称)西本宮社殿列跡という中世建物群跡と、さらにその東南方に大型の(仮称)東本宮社殿列跡という中世建物群跡とが発掘調査によって、考古学上発見せられたことになるのである。
2. 此建物群跡は、いずれも猛火を蒙り炎上壊滅した痕跡を濃厚に残している。出土遺物の考古学上の観察では、西紀十三世紀から十四世紀いっぱいに渉るものであるので、歴史文献に見られる中世北奥動乱に際して、西紀十五世紀前半の炎上破壊と軌を一にするものかも知れない。そうすると、西紀 第十六世紀後半に再建せられた滋賀県坂本の日吉大社よりも年代的に一廻古い神社跡のあることの明証になると考えられるのである。」
と発表されて居るのであります。
前述しましたが、以上の様なこの調査は昭和五七年十二月から行なわれましたが、市浦刊『東日流外三郡誌』は上巻が昭和五十年四月に発行され、昭和五七年までには中間、下巻とも全てが発行済みであり、当時の白川村長が『外三郡誌』の出版も終ったし、それに基づいた発掘調査をしようと云う事で実現したものでした。その結果
、東北学院大学「東北文化研究所紀要」で紹介した様な『外三郡誌』記載の状況を彷彿させる調査結果 が判明したものです。
安本美典氏をはじめとする『東日流外三郡誌』偽書論者は、和田喜八郎氏が発掘調査報告書や新聞等のマスメディアを参考にして、現在なお偽書造りに励んで居ると主張して居りますが、以下の二点に関してどの様な反論が出来るでしょうか。
1. 先に『東日流外三郡誌』が存在し、それに基づいて十三山王の発掘調査が行われた。
2. 発掘調査の結果『東日流外三郡誌』に書かれてあった様な状況が検証された。
昭和五七年十二月二十日、市浦村コミュニティセンターで開催された“山王坊跡発掘調査報告会”の後の懇親会で東北学院大学加藤孝教授が「普通
考古学の発掘調査では、発掘を始めてから十日から二週間程たってからでなければ出土物乃至遺跡は出土しないものだが、本回の発掘は『外三郡誌』をもとにして行ったら五日目に出土物を見た。これは大変珍しいことである。状況も全く記載通
りであり『外三郡誌』は今後共大事にしなさい。」
と述べられた事が、昨日の様に思い出されます。
(了)
青森県五所川原市 和田喜八郎
私を貶めるために、「國史画帳・大和桜」や、「岩波文庫」のギリシア神話の盗作など数々論説して新聞や週刊誌、更には裁判訴訟などを楯に世間に宣布した者が、我が家の文献『東日流外三郡誌』偽証説で、これを偽作したのは私の作為であると、名差しで我が家の家族までも興信所のでたらめな報告書などを、東北各県の公私を問わず訪問宣伝した。
よくもまぁあんなでたらめを綴り併せて活字にしたものである。
これは歴史の偽証と云うより、執拗な人身攻撃の集中であり自作妄想の自演劇である。
私は、彼の云うような歴史家をも惑わすような知識のある人間ではない。
幼な頃より百姓にして、未だ農業を営む津軽にありふれた人間の一人である。ただ、幼なき頃、孫父より我が家の伝統と私達は、朝夷三郎の一族であると、太刀や鎧を手入れさせられ、うんざりする程手伝はされたことが思い出され、今頃その遺物がようやく歴史の心髄になくてはならなぬ
ものと知り、文献などを史家に貸し付けたり、それを刊行することにも委せてきた。
私はこれを金銭的に契約したこともなく、無償にして市町村の役場に提供したものであり、何事の他意はあるべきもなかった。
偽作論者に告ぐ、「私を偽作者と世間態もなく、何年もの荒探しのひまがあるならもっと勉強闊ある学問的な論法で私を責めよ!」
と云いたい。
歴史は学問の真理に不可欠であり、自己的な感情で偽作宣伝の争論に決するものではなく、机上だけでの想像で点と線が解かれるものではないと私は考へている。 自分を世に目立たせるための偽作論ならばいかなる手段もかまわず、人を貶め、名誉を毀
損し、金銭の恐喝をしてまでも、それが態よく裁判に提訴という画策では真実一路の道義を偽にゆがめたことである。態よく自分の立場が砂崖にあることを知るべきである。
「なかろうか」「であろう」などで偽に完璧な結論はなく、これは真実に反する作罪行為である。
私は今まで、どんな偽作論が活字になっても、反論したことはないが、こんなに人権無視されては我慢に程度があり反論と反撃に起った次第である。
私は、政治閥も学閥も好まないが、言論の自由にも人を貶めることだけは慎んでいる。
偽作論者よ、たとへば私がこれを偽作したとしても、私自身になんのメリットがあろう。また、四千幾百冊になる史書を、私の一代で書かれたものではないことを悟るべきだ。若し、私に疑問のある方は、私と一日でも二日でも私と遇座して語ろうではないか。・・・ただしほんとうに歴史の真実を求める方を希望する。
私はこの五十三年間、史料にある史跡をくまなく探査し、労々巡脚で丑寅日本国の古代に遺跡をたしかめてきた。
御存知の通り、青森県の稲作跡稲架(田舎館)や弘前の三輪(三和)遺跡、また市浦村の古代中世の史跡、更には青森市の大浜、山内(三内丸山)遺跡などは、世に知られる以前に我が家の文献は活字になって久しいことを知るべきである。
私は幼な頃から孫父より渇するとも盗泉の水を飲むなと、不断に慎み深く心身に銘じてきたつもりです。
(東日流中山史跡保存会々長)
(古田史学会報10号部分)
報告 平成九年一〇月一四日 最高裁判所判決 付 上告趣意書(平成九年(オ)第一一四〇号 上告人 野村孝彦)
資料 和田家文書1 邪馬台城 総覧