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古田史学会報
1998年 2月24日 No. 24
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孝季眩映 〈古代橘氏の巻〉

奈良市 太 田 齊 二 郎

 【起】
 古代阿部氏と東北との関わりは「東日流外三郡誌」をまつまでもなく、日本書紀などから明らかですが、橘氏については、鎌倉時代延応元年に「橘公業」が男鹿の地頭に任用されたということぐらいで、その後においても東北とはあまり深い関係はなかったというのが通説のようです。
 孝季の兄「橘太郎守季」の確認がはかどらず、「橘」さん達への電話作戦を思い付き、図書館の資料室で電話帳を開いた時に気づいたのですが、秋田市の人口三十万のうち八万人の旧土崎湊地区に、市内全体で約四十の「橘」のうち七割が集中していたのです。電話帳と「いにしえ」の関係はさておき、古代橘氏を調べることにしました。その結果「東日流外三郡誌」の世界を無視しては理解出来ない古代橘氏の意外な様相が見えてきたのです。

 【承】
 日本書紀などによれば、古代における橘、阿部両氏の動向は大略次のようです。
1. 「大彦命」と「武渟川別命(たけぬかわわけ)」は二人とも四道将軍の一員として、夫々北陸、東海へ派遣されていますが「続群書類従」の「安藤系図」には、この二人は親子として、「大彦命」の弟、「開化天皇」や、父親の「孝元天皇」とともに登場します。書紀では「大彦命」を阿部氏などの祖であるとしていますが「安藤系図」では彼の父親「孝元天皇」がその先祖として描かれています。
2. 謎が多いとされている聖徳太子。太子の父「用明天皇」は「白い国の詩(東北電力編)」によれば「橘豊日命」として宮城県に「下紐の石」、「姉歯松」などの伝説を残しています。
3. 書紀において推古天皇の大臣として登場する「阿部臣摩侶」と「阿部臣鳥子」は、先の「安藤系図」では親子として記載されています。
4. 「橘三千代」は「敏達天皇」の玄孫「美怒王」の夫人時代「葛城王」を産みます。王は万葉集巻十六によれば陸奥国へ派遣されたことになっています(前掲書)が、後に「橘諸兄」と改名します。尚、「敏達天皇」は「秋田次郎橘孝季系譜」にも出現し阿部一族と見なされています。
 「橘三千代」は「元明天皇(阿倍皇女)」の大嘗祭に供奉し忠誠を示したという理由で、和銅元年に「橘」姓を賜わったようですが、それだけのことで尊貴な?橘姓を賜わるというのは納得出来ません。彼女の父「県犬養連(宿祢)東人」は「安藤系図」の「東人」なる人物と、官位も時代も殆ど一致しており同一人を思わせます。「東人」も「元明天皇」も阿倍であり、「三千代」が賜った「橘」姓も、元々は阿倍と関係深い姓であったのではないでしょうか。
 多賀城碑に登場する「大野朝臣東人」も疑わしく感じます。碑文には「この城、大野朝臣東人の置く所」とあり、「置」の語意から彼が築城したものとは考えにくいのですが、築城が蝦夷側によるものとすれば、恵美朝猟による修造を主張するというこの記念碑にこもる、奈良側の雰囲気が伝わってくるような気がします。
5. 斉明紀には蝦夷と関わりのある「阿倍臣〈 名をもらせり)」、「阿部引田臣比羅夫」、「阿倍引田臣(名をもらせり)」と三人の「阿倍臣」が登場しておりますが、この三人は後に「安東」と名乗る一族として東北に残る同一人物であるとする通 説には賛成出来ません。斉明紀は明らかに別人扱いであり、「阿部引田臣比羅夫」と比べてその業績が圧倒的に勝る「阿部臣」について、書紀の編者が「その名を洩らす」など、とても信じ難いからです。この「阿倍臣」は「阿部水軍」のリーダーであって斉明紀は、蝦夷国の歴史を盗引したのではないかと、「近畿天皇家のルーツを探る(京大学生新聞平成九年十一月二十号)」は疑っています。
6. 孝徳紀において突然左大臣という要職で迎えられる「阿部倉梯麻呂大臣」は、「安藤系図」では「倉橋麻呂」(左大臣、本朝左大臣の始也。孝徳天皇即位日任左大臣)とあり、明らかに同一人物ですし、一方孝徳紀は彼に「橘郎女」なる娘の存在を認めています。
7. (元明)と三千代を(曾)祖母に持つ「孝謙女帝」も阿部姓です。
8. 諸兄の子で遣唐使「橘逸勢」の父でもある「橘奈良麻呂」は「秋田次郎橘孝季系譜」に、単に「奈良麻呂」として登場しています。

 【転】
 阿部安東氏に関係する系図は他にもありますが、これらの系図の中味が事実とすれば、何故に、天皇家は阿部氏との関係を深める必要があり、書紀は阿部一族が蝦夷の出自であることを明示しないのでしょうか。それともあまりに自明であるがために、その事に触れる必要もなかったのでしょうか。
 私にはこれらの疑問に答える力はありませんが、敢えて申し上げれば、蝦夷は和平派とアビ以来の歴史を誇る抗戦派の二派に分裂したのではないかと思っております。前者は積極的に天皇家に取り入り後の阿倍橘一族を形成しました。後者は同じ阿倍ではありますが、後に「安東」と名乗る一族として東北に残ることになりました。  このように考えますと、阿部氏を名乗る女帝たちも含め阿部一族が何のけれんもなく、むしろそれを誇るかのように、天皇家にとっては本来宿敵である「阿部」姓を名乗り、且つ要職に就くことが出来たのではないかという疑問が氷解するのです。
 残った抗戦派は厄介でした。古くから中国北東部との国交を保ち、幽玄の歴史「日の本」を名乗る誇り高い国だったのです。近頃は蝦夷国の名で唐にも接近しているようです。しかし、列島の覇権を目指す奈良王朝にとって白村江の敗戦がそのキッカケにになったといわれる九州王朝の弱体化は、蝦夷攻略の絶好のチャンスでもあったのです。積極的にその牒略を展開したに違いありません。
 いつの間にか「蝦夷」はその呼称も「国」から「俘囚」に変わり、「称徳(孝謙)」後、非阿部である「光仁老帝」以降による積極策によって、ここに近畿天皇家による東北経営は完了したのです。
 しかし、「アテルイ」の頃から「奥州藤原氏」まで、中央政権による東北経営は騙し討ちの歴史でした。

 【結】
 通説に反し、橘氏が阿部氏と同族であり、天皇家とのただならぬ関係など、その背景がお解り頂けたものと思います。
 東北人の僻みの表現であるという人もいる「東日流外三郡誌」。しかしそれは、いにしえ以来のわだかまりを解消し、かつての誇りと自信の中身を明らかにする「黙示録」だったのです。
 佐竹藩は「東日流外三郡誌」の世界を知っていました。転封後の佐竹藩の経営姿勢について非難する研究者は少ないようです。入れ替わって安東氏が常陸に移封の際、居残った家臣たちを雇用し、後に安東家を離れ帰秋した旧家臣をも数多く再雇用したといわれております。湊城が狭いからというわざとらしい理由をつけて安東の気分が色濃く残る土崎湊を離れ、安東氏に由来するお寺の多くを、土崎湊から久保田城の近くに呼び寄せて庇護崇敬するなど、安東対策にはかなり神経を使っていたようでした。
 荒々しいながらあの余韻が堪らないという人もいる「土崎港祭」。秋田安東氏の中継地「男鹿」に始ったといわれている「ナマハゲ」の奇習。「湊城」址から出土し、現在は安東氏の土崎時代の菩提「湊福寺」の後身である「蒼龍寺」の寺宝として保管されている「鬼面」。私には、これらは皆、騙し討ちに遭った阿倍一族の恨みに漂う「アラハバキ」の残映に思われて仕方がありません。
 「湊福寺」は宍戸に転封の際「安日山高乾寺」と改名しました。安東一族は宗教に関係する時は安倍を名乗っていたそうです。これらは「安日彦」を偲んで当然のことですが、秋田に残る「生(伊)駒」姓も、先祖の故地、生駒山に因んだもので、先年、とある「生駒塗り」の店を訪ねた際、名前の由来を答えられた女ご主人の端正なお顔を今でも思い出すことが出来ます。
 
 【エピローグ】
 次は「菅江真澄」です。地元秋田には彼のファンや研究者が大勢おられます。イチから始めなければならない私には無謀の一語です。
 しかし、「失敗は素人の特権、間違いや足りぬところはプロが必ず助けてくれる」ことを信じ、大らかなアマチュア精神で頑張ろうと思っております。でもいつのことになるか全く自信はありません。
【附記】
 安東一族には「守季」の名前は多く、手持の資料だけで「盛季」を含めて七例もありました。補陀寺に残る「守季」の位牌については「橘太郎守季」のものである可能性は小さいかもしれませんが、とはいってもこの位牌は外見や当時の「盛季」に関する通説などから、十三湊最後の安東家当主「盛季」のものとは断定出来ないという方もいるそうで、いずれにしても四百年前のものかどうか、年代比定が必要ではないかと思いました。

インターネット事務局注記2001.10.31
(データ分割の都合上、こちらの構成に移しました。)


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』第一集〜第四集(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)第一・二集が適当です。 (全国の主要な公立図書館に御座います。)
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