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1998年2月24日 No. 24
古田史学会報 二十四号 |
発行 古田史学の会 代表 水野孝夫
奈良市 水野孝夫
行って来ましたよ、あの黒塚古墳。どしゃぶりの雨の中を二時間待って、七〇秒間の見学です。貴重な時間に計時に気を遣うなんてヘンですか?。同行した会員・木村氏がビデオをまわしっぱなしだったので、あとで再生して測ったのですよ。
新聞でも報道されましたが、一月十七、十八の両日は、現地説明会でした。私たちは十八日に行ったのです。前日に行かれた会員・太田氏からは三時間待って三秒間の見学だったと聞いていたもので、すごい混雑とは予想していましたが、雨だったから、人出も少ないかと思いましたが、とんでもない。
JR桜井線(奈良-桜井)の柳本駅を降りると、すぐそこのところが行列の最後尾ですと指示されました。古墳まで数百メートルの距離ですが、近づくほどに行列は折れ曲がって行くように設計されていて、なかなか近づけません。私たちが見学を終えたのは、十二時二十分ごろでしたが、報道では、十二時に見学会は中止されたとなっていましたから、ほんとに最後に見たグループに入っていたのでしょう。幸運でした。
すでに種々解説されていますが、鏡を含む遺物が、埋められたときの配置のままで発掘されたのは、はじめてのことで、それを肉眼で見られるのは、「一生に一度のこと」だったことは、間違いありません。
地元の自治会の方々は、暖かいお茶のサービスをして下さるし、案内担当の方々も「雨の中をご苦労様」と声をかけてくださるし、有り難いことでした。
発掘責任者の橿原考古学研究所調査研究部長・河上邦彦の新聞談話を読むと、「奈良県の費用で発掘したのだから、県民には見て欲しい」というニュアンスに感じられたもので、奈良県民であるわたしとしては、なおさら「行ってみなくっちゃ」でした。いよいよ発掘された部分の見学になると、報道されたとおりの積石、朱色がちりばめられた粘土床、多数の鏡が目に飛び込んできました。はいる直前に、案内係の方からは「写真撮影にばかり気をとられずに、肉眼でよく見て下さい」とあったのですが、やっぱりカメラのファインダー越しにばかり見ていましたね。
被葬者の枕元に立てられていた鏡(画文帯神獣鏡)だけは、他とはとびはなれているわけで、やはり、この鏡こそ最も貴重なものだったという感じを深くしました。
遺物の歴史学的な解釈は、遺物が精密に調査されてから盛んになるのでしょう。すでに銘文や紋様などが種々報道されつつありますね。調査が一段落したら、また展示会等が予定されているようですから、見に行きたいものですね。桜井-天理を結ぶ「やまのべの道」は、古代の幹線道路であったとされ、現代の代表的なハイキングコースです。桜井-天理を全部歩くと、一日コースとなるので、半日コースとしては、JR柳本駅が起点に選ばれることが多いようです。黒塚古墳をはじめとして、箸墓古墳その他の有名古墳を見て、北へ行けば天理の石上(いそのかみ)神宮へ、南へ行けば三輪山など大和三山方面を研究ないし観光できます。よい季節になったら、「歩こう会」でも企画しましょうかね。
◇◇ 連 載 小 説 『彩神 (カリスマ) 』第五話◇◇
--古田武彦著『古代は輝いていた』より--
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇深 津 栄 美 ◇◇
「若、お一人で大丈夫ですか?」
武具(もののぐ)を渡しながら、部下達は心配そうに聞いた。
「須佐の軍船が、方々で暴れ回っているといいますぞ。」
「我らと阿波国の同盟に対抗しようと、奴らは室戸を狙っておるとか……。」
しかし、羽山戸(はやまと)は、
「お前らは苦労性だな。」
と、笑って、
「いちいち気にかけていたら、何も出来まいに。」
腹帯を締め直すと、
「行って来るぞ。」
愛馬の手綱を打ち振った。逞しい栗駒は、元気よくいなないて走り出す。隠岐の船団が停泊している八坂八(やさかや)浜から月美(つぐみ)の村までは、海部川を遡って遠くない。
羽山戸は愛しい月美を心に思い描いて、鞍の上で躍り上らんばかりだった。艶やかな黒髪をなびかせ、桜色の頬に大きな瞳を輝かせて野を走る月美…同じ名前の小鳥のように、お喋りとほほえみを絶やさぬ月美……踊り上手な月美……初めて会った時、松の木の下に設けられた祭礼用の天幕の陰から、恥ずかしそうにこちらを眺めていた。一緒に踊ろうと誘いかけると、差伸べた手に嬉しそうにすがって来た。自分を仰ぐ眼差は、太陽神に接したような眩(まぶ)しげな敬慕が溢れていた。月美こそ、松風の精のような愛くるしく清楚な乙女なのに……あの月美を、晴れて妻と呼べる。黒曜石の翼(よく)を広げた「天日栖宮」(あめのひすのみや)で白衣の人々に見守られ、月美の白い手と透き通る若草の酒を汲み交わす事が出来るのだ。柳のような腰に、舶来の金と朱の裳(も)がどんなに似合うだろう。今度こそ月美の全身に、金銀珊瑚や翡翠(ひすい)、水晶を降り注いでやりたい。羽山戸は桃色真珠の宝冠を納めた皮篭(かわご)を、月美その人のように抱き締めていた。
山へ分け入るにつれ、焦げ臭さが鼻を突いた。踏みしだかれた草や灰となった潅木の群れ、焼け跡の黒々とした幹が、そちこちで目をひく。
部下達の噂を思い出し、羽山戸の脳裏を不吉な予感が掠めた。自(おのづ)と足(だく)の打たせ方も速くなる。
(何があったのか……?)
村の目印の松を臨んだ時、不安は現実となった。蹄を聞いて飛び出して来る子供達や子犬、鶏(とり)の歓呼の代りに、カラスが嫌な声を上げて舞い立ったのだ。それも一羽や二羽ではない。五十羽は下らぬ大群だ。カラスが屍を啄む事は、当時の人々は赤ん坊でも知っていた。
(やはり須佐の連中が襲ったのか--)
(奴らは隠岐と阿波の同盟に対抗して、室戸を狙っていると言っていた。海部は室戸への中継地だから、可能性は充分にある。)(それにしても、酒瓶が叩き割られ、祭壇まで覆っているのは、奴らは新嘗祭の最中<さなか>に襲って来たのか……?)
(月美は巫女長<みこちょう>だから、祭壇で舞いを奉納していた筈だ。)
「月美……月美、どこだ? どこにいる?」
思わず羽山戸は声を発した。
それに応じて、木陰から白い姿が立ち出でる。
「月美--。」
羽山戸は息を飲んだ。
(続く)
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〔後記〕
今回は年末のゴタゴタのせいで、短くせざるを得ませんでした事、お許しを。会報第二十三号に、奈良の太田さんが投稿しておられた「日和(見)山」のお話を拝読して、「ひよりみ」というと現代では悪い意味に使われるけれど、「あそべ(族)」に「つぼけ(族)」の例のような征服者の言葉と被征服民後の関係、つまり千石船時代より更に以前の言語の可能性があるのでは、と思いました。「ひより」、すなわちお天気を確かめるのは私達の御先祖にとっては大変重要な仕事の一つであり、『日本書紀』には天武帝が我が国初の天文台を作ったと出て参りますし、彼の正妻持統を補助した藤原不比等(鎌足の実子かどうかは、従来から異論あり)の妻橘三千代と、孝季の兄橘太郎守季との関わりも、気になるところでございます。私は、三千代の旧姓が「県犬養」(あがたいぬ
かい)という点からしても、この夫婦、九州王朝の家臣の血筋ではないかと疑っているのですが……。(深津)
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おせち料理に寄す
深津栄美
朱の色の 重箱(かさねのはこ)に納め行く栗の実に豆・伊達巻は 野の鳥の歌や緑なす山の恵みを表して 昆布巻・ニシンのマリネーは 豊けき生命の源の 潮の轟き伝えぬ
る 精白(すずしろ=大根)を椿の花形に刻みて中央にあしらうは 「我が運命は汝(な)が手中にあり」との花言葉 意中の人に知らせむとの新工夫にて 紅白の餅に入れむと小豆粒(あずきつぶ) ガスにかければコトコトと歌いて 香りの屋内(やのうち)や庭先にまで広がりて 行く年の瀬も新年(あらたま)も金網の上や鍋の中にふくらむ餅の如(ごと) 幸多かれと我は祈りつ
(反歌)
内外(うちそと)の別なく風の吹く故に幸あれと祈(ね)ぎて餅作る我
茨木市 藤田友治
黒塚古墳
一月十日の各新聞の一面トップ記事に奈良県天理市柳本町の黒塚古墳から出土した三角縁神獣鏡三二面を邪馬壹国論争につなげて一斉に報道した。黒塚古墳は全長百三十メートルの中型の「前方後円墳」であり、古墳時代の前期の特徴といえる竪穴式石室の中に、直径一メートル以上の丸太をくり抜いた割り竹型木棺をすえたと思われるU字状の粘土の床があった。この床に水銀朱が大量に残っており、鏡とあわせて“太陽の光”によって死者の蘇生を願い、悪霊を避ける意味をこめたものであろう。今回の発掘調査の素晴らしさは、鏡がどのように埋葬時に使用されていたかが判明したことであり、約一千七百年の悠久の時をこえて、タイム・カプセルを開いたような状態で発見されたことである。
発掘を担当した大和古墳群調査委員会も「遺物を持ち去られた跡はなく、古墳の鏡の埋納状況がこれほど正確にわかる例はない」という。実際私はここに、三年間「前方後円墳の起源と天皇陵の謎」(の探究に各地の古墳を実地に探訪してきたが、天皇陵を含め実に盗掘されている(拙著『古代天皇陵をめぐる』三一新書に各天皇陵ごとに記したので参照されたい。黒塚古墳にも盗掘抗の跡があったが、地震のため封鎖されて盗掘の難をまぬがれたようだ。
三角縁神獣の謎
今回の黒塚古墳において最も注目されているのは三角縁神獣鏡が大和の地から初めて出土したことである。長年続いてきた邪馬壹国論争に関係して、近畿説にとって有力な理論上の支柱にしてきた三角縁神獣鏡中国説も実はこれまで弱点があった。一般の新聞紙上において「邪馬台国近畿説有力」「大和説強まる」等の文面が一面に躍った。従来は京都府の椿井大塚山古墳の鏡をもって近畿説が展開されてきたが、大和から出土していなかったのである。つまり、中国鏡としながら三角縁神獣鏡は肝心要の中国から一枚も出土せず、さらに近畿・大和説としながら、大和から出土せず、通説として成立していたのである。考古学は徹頭徹尾実証の科学ではなかったのか。推理に推理を重ねて「推理小説」になってしまっている。もっとも、推理小説の方がもっと論証を重んじるのだが……。
さて、今回の黒塚古墳の発掘調査によって三角縁神獣鏡は三二面も増え、これで出土地のはっきりしている三角縁神獣鏡は四七一面となった(大阪府立近つ飛鳥博物館『鏡の時代-銅鏡百枚』を参照)。これで、近畿・大和説は有利になったか。冷静に見つめると、論理は逆転し始めたのである。むしろ、国産説は一層有利になったのである。なぜか。
中国・魏から「汝の好物」として銅鏡百枚を賜与されたのだが、今日遺物として出土される可能性があるのは十分の一以下だろう。それが五百枚近い三角縁神獣鏡の出土である。多すぎるのだ。今回、黒塚古墳の発掘調査によって、三二面も増えたのだ。神獣像などの要素は魏よりも、むしろ江南の呉の要素と共通するものがある。三角縁神獣鏡は国産であるとする学説は森浩一・古田武彦・奥野正男・王忠殊ら各氏によって展開されてきた(発表順)。
一方、中国から出土しなくても「特注した」と称し、魏鏡説を採用してきた富岡謙蔵以来小林行雄・樋口隆康各氏らの中国説がある。樋口氏は今回の発掘調査の最高責任者であるが、「日本国家を最初に統一したのは大和政権であるが、椿井大塚古墳は大和政権の中心から離れてすぎている」(一月十日、朝日新聞への特別寄稿)と率直にいう。大和の地から待望の遺跡がみつかった。「これで万事解決といえるのか」と自問し、「まだまだ」と慎重である。「問題は第一級の巨大古墳である。箸墓や崇神天皇陵、景行天皇陵などが持っている鏡であろう。しかし残念ながらこれらの前期巨大古墳は内容が全く分かっていないのである」(同上)と残念がる。
ここで、近畿説にとっても最大のアキレス腱を見せている。古田武彦氏が『ここに古代王朝ありき』(朝日新聞社)で天皇陵発掘を訴え、『天皇陵を発掘せよ』(三一新書)等で筆者らを含め訴えてきたことが、ようやく心ある多くの人々に認識されるようになってきた。
邪馬壹国問題のキメ手の一つは天皇陵の発掘へと進まねばならないのが、「天の声」「地の声」であろう。(真の継体天皇陵と思われる今城塚古墳の発掘状況については次回で)
「参考文献一覧」として改定しています。(インターネット事務局2024.08.14)
1. 今城塚古墳・黒塚古墳現地の関連資料コピー(一〇〇円)
2.天皇陵を発掘せよ<三一新書>(九五〇円)
3. 続・天皇陵を発掘せよ<三一新書> (八七四円)
4. 天皇陵の真相<三一新書>(七二八円)
5. 古代天皇陵をめぐる<三一新書>(九〇〇円)
6. シンポジウム・邪馬壹国から九州王朝へ <新泉社>(一七〇〇円)
7. シンポジウム・倭国の源流と九州王朝 <新泉社>(一八四五円)
8. 「君が代」は九州王朝の讃歌<新泉社> (一〇〇〇円)
9. 「君が代」うずまく源流<新泉社>(八四〇円)
10. 「邪馬台国」徹底論争<新泉社>(三〇〇〇円)
11. 広太王碑論争の解明<新泉社>(三二〇〇円)
12. 天皇制を哲学する<三一書房>(一九〇〇円)
13. 知識人の天皇観<三一書房>(二八一六円)
古田史学とは何か11
橋本市 室伏志畔
昭和始めの転変する情勢の中で、知識人はそれぞれに明日を窺いながら左傾化の流れに身を任せていた。その観念の中心となったのはプロレタリアートへの階級移行という観念であった。プティ・ブルジョア・インテリゲンチァはその小市民的階級意識を清算してプロレタリアートの側に移行しその階級的観念によって自らを武装することなくして明日はないというのである。急激な資本主義化と農村の疲弊、しかもそれに対応する社会立法の観念と無縁に構成をみた日本近代社会にあって労働者と農民は現実に翻弄されるしかなかった。この破局的現実を見て多くのインテリゲンチァは良心に従ってプロレタリアートの側に階級移行したのである。
この時、無名の井上良雄は「宿命と文学に就いて」の中で、むしろ知識人はプティ・ブルジョア・インテリゲンチァとしての宿命を抱えてむしろこの左傾化の嵐に抗しプティ・ブルジョア・インテリゲンチァの文化創造にむしろ身を張るべきではないかとしたのである。これは当時の情況にあって蟷螂の斧をもって情況に対すに似ていた。しかしこの井上良雄の提言の内に第四階級の勃興に対し知識階級の無力を唄った有島武郎の「宣言一つ」以来の知識人の誤解を正そうとする模索があったことは今日から見れば明らかである。それは大正から昭和の始まりの象徴する芥川龍之介の自殺を知識人の限界の自覚と見ることなく、模索の中で刀折れ矢尽きた芥川龍之介の旗を拾い引き継ごうとする意志の表明であった。残念ながらこの無名の批評家・井上良雄の意志は、その二年後彼自身による批評家放棄によって断念されたことによって、有島武郎以来の知識人無力説は払拭されることなく、今も階級移行説は様々な運動の同伴者理論として引き継がれている。
さて問題は通説では大和王権誕生の地とされる、大和(おおやまと)古墳群のひとつである黒塚古墳から、三十二面の三角縁神獣鏡と一面の画文帯神獣鏡の銅鏡三十三面が埋葬時の姿をもって発見を見たことに始まる。この寅年の口火となったマスコミ狂想曲を二週間経って初めて読んで見る気になったのは、この頃「愛はわたしを殺す」と会うたびに気勢とも奇声ともつかぬ叫びを発している藤田友治が、私の本を催眠本と勘違いしている愚妻と違い、退職なってますます夫のために献身的に振る舞う有り難くも恐ろしい愛妻・美代子夫人の用意周到な協力を得て、夜の明けやらぬ内に黒塚古墳を訪れ、その日一万六千人は集まったという説明会の様子を例によって生き生きと伝えてくれたばかりか、これまでの朝日の記事をまとめて提供し、わたしの怠慢を鞭打ち、新たな知見を惜しみなく提供してくれたのに対し「俺はまったく物には興味がなくて、ただその物がいかなる観念と結びつこうとしているか、そこのところしか関心がないね」と、いつも熱気をもってわれわれを包んでくれる藤田友治の気を殺いだことをいささか申し訳なく思うところがあったからかもしれない。しかし、この二週間の新聞を斜め読みして浮かんだことは、意外なことに昭和初年代に孤手空拳をもって時代に対した先の井上良雄のことであった。
と言うのはこの発見に対するマスコミの言説は、耳目に入りやすいありきたりの観念の密通者として振る舞ったなら、現代日本人像そのままに「多くの物と小さな精神」さながらに学者は通念の継承者あるいはその修正者として現れても、大和朝廷に繋がる国家という土俵で説を競っているのが不満だったからである。
たまたま手に入ったのが朝日、読売、産経だったので、毎日を避けたわけでないことをお断りしてこの三紙の一月十日付の新聞の見出しをみると、少しのちがいはあっても、いずれも 1).三角縁神獣鏡三十二面が 2).大和政権の中枢部で初めて出土し 3).いわゆる邪馬台国論争の行方を左右するものとして「畿内説」に有利、としている点はいずれも同じである。その意味で古代史においてマスコミは見事なまでに「翼賛化」した姿を如実に示したのである。その中で読売がもっとも「邪馬台国の女王・卑弥呼の使者が中国・魏の皇帝より授けられた「銅鏡百枚」とされる三角縁神獣鏡三十二面が発見され」と最も邪馬台国畿内説に踏み込んでおり、その後もすでに四百七十一面の出土を見ている三角縁神獣鏡との数の矛盾を、その後の遣使がその都度もらったとする逃げ道を作ることによって、発掘物をそれ自体からの説明するのでも発掘者の発言に耳傾けるのでもなく、耳目に入りやすいいわゆる邪馬台国説を借り、三角縁神獣鏡を卑弥呼の鏡とした富岡謙蔵とそれを引き継ぎ椿井大塚山古墳からでた同鏡三十三面を大和勢力による配布とする小林行雄説に乗って、今回の発見をその供給の中心を証明する記事に仕上げている。
これは朝日・産経が橿原考古学研究所長で今回の発掘の総責任者である樋口隆康に聞き経が今回の発掘の調査研究部長である川上邦彦に寄稿してもらい「三角縁神獣鏡三十二面がいずれも、棺の外側に鏡面を内に向けて立て並べられていた」ことを重くみて鏡を副葬品としたこれまでの説を排し、「呪術的性質」のもので、「大和政権の大王が各豪族の死にあたって葬具として与えた鏡であった」とし、小林行雄の「各地の豪族に大和政権への従属の証しとして分け与えた」配布説を斥けている姿勢と著しい対照をなしている。今回の発掘を指揮した担当者や総責任者の見解に優先し、事実に拠ると見せて新聞が自らの好む観念を優先するのは発掘当事者に対して僭越であるばかりか、その発掘成果の一部を取り込み観念操作するマスコミほど怖いものはない。三紙とも邪馬台国畿内説に加担する「無邪気さ」は免れていないとしても、読売の記事は大和中心イデオロギーに国民を操作する意図が見え見えなのはまったくいただけない。
読売が「野球は巨人」と応援するのは勝手だが、「巨人あってのプロ野球」とするときそれが横暴であるように、憲法試案を勝手に作って国民に御託宣する権利があると思うのは思い上がりでしかなかったように、読売はここでも真実の探究よりも国民に対する観念操作を優先しているのである。
かつて左翼の正義感溢れる外部意識の注入論が、権力を掌握するやその暗黒政治を美化するイデオロギー操作の方法に変質するほかなかったように、国民の存在基盤からの問い返しのない思想操作主義は左右を問わず、小ヒットラーや小スターリンによる暗黒政治を招くしかないのである。それはあらゆる宗教が陥った迷妄だが、新聞を始めとするマスコミは「公正なる報道」というキャッチフレーズのもとに、ますます現代の宗教としての姿をあらわにして国民の取り込みにかかっているかに見えるのは遺憾である。
今度の報道によってマスコミは何千万の国民を邪馬台国畿内説に取り込んだが、その根拠の一つを形成した三角縁神獣鏡は卑弥呼の鏡とする説は、その埋納状況から、またその出土数から成立困難になったばかりか、大和政権による小林行雄の配布説もまた棺外に置かれていることによってより怪しくなったのである。これに代わって棺内にあった画文帯神獣鏡が注目されるとはいえ、わたしはこれをいわゆる邪馬台国や「記・紀」にある大和朝廷記事に安直に短絡することなく、事実と記述の間に千里の径庭を置いて沈思したいと思っている。というのは、それらの疑問に最良の答えを提供するはずである黒塚古墳の前にある行灯山古墳(伝・崇神天皇陵)の公開に対してこれらマスコミはまったく尻を向け、わずかに朝日が的を絞ることなく天皇陵の公開について触れるのがやっとなのだという大々的な発掘記事の裏の情けないマスコミの「小さな精神」の現状を思わないではおれないからだ。
ところで昭和の開始まもなく階級移行し大衆の良導に乗り出したこれら良心的左翼知識人の前に国家権力が強権をもってそそり立ったとき、これら階級移行者はその移行理論の必然に従って死ぬか、狂うか、転ぶしかなかった。そしてその多くは権力の側に転向したばかりではない、左翼急進化の理念は大東亜共栄圏の推進理念として社会ファシズムの理念へ一変し、大衆を戦争地獄へ追いやったのである。人を操作する理念は良心の有無に関わらず、人の存在を軽く見ることによって、ついに人を不幸にしないではおかないのである。
(H一〇・一・二五)
東大阪市 横田幸男<
私たちの会の副会長である山崎仁禮男氏の待望の『蘇我王国論』(三一書房刊)が出版された。市民の古代研究会と決別した中で室伏氏に続く新しい成果である。この書物が古田氏の『日本書紀を批判する』と共に、「記紀解体」の出発点を成すものと私は信じて疑わない。
内容自身については、私自身は驚くことばかりである。「律令制とは一方で律令という法を権力者が制定し、他方では戸籍を作り田の面積を測って直接人民を個別に法により支配し、税を取る制度で、このために大がかりな官僚組織を要する古代の中央集権国家のことです。」という定義は国家論をかじった人間には当たり前の話である。しかし本当の驚きはこの定義通り実行した主体は蘇我氏であるとし、どのように遂行したかの問題を解明した点にある。私にとって特に新鮮な指摘は日本の律令制を成立させた原因を高句麗好太王碑に書かれてある動乱の東アジアに求め、高句麗と九州王朝(倭国)との崩壊した中国楽浪郡(朝鮮半島)の覇権争いをその視点から指摘したことにある。また乙巳の変(大化のクーデター、明治政府は改新と定義)を反革命と論断するなど氏の問題意識の鋭さには驚かざるを得ない。
この書物の良い点は、引用関係が明確であることである。従って山崎氏の見解に従えないなら自分で論説を調べることが容易なことである。最も茨の道であり、山崎氏の論説も先を調べて行けば、既成の学説の不明に突き当たる。これ自身は素人と称される山崎氏の栄誉であり、先学の不明である。古代史の大家の論説も山崎氏と同様であるが、もう一度調べようにも不明のことが多い。その点で多いに評価できるものであり、情報公開の先がけを成すものである。
以上の長所は同時に短所でもある。得意とする律令制の分析に寄り掛かるあまり、律令制の過渡期の解明に逆に独断が目立ってしまう。もっともこれは著者の個性もあろうが、一義的には既成の学説の不明が氏の論証の筆を鈍らせたのであろう。既成の学問を論破して獲得された論理にはその傾向がある。同じことだが反天皇と親天皇は同じ論理パターンと行動様式であるというをことを理解できない人がおり、天皇制の過大評価につながっている。本書ではそこを良く捕らえている。4~5世紀という律令制にとって過渡期の問題は、やはり頭を一旦白紙にして律令制の分析とは別の原理を導入して進めるべきである。not allways 「いつもそうだとは限らない」全ての歴史は過渡期であり、その時は本当であったことをどう捕らえるかである。私自身が力量がないので無い物ねだりであるが、一例として高句麗と九州王朝(倭国)との崩壊した中国楽浪郡(朝鮮半島)の覇権争いの激突を通常は朝鮮半島内だけの問題としての把握が一般的であるが、播磨風土記のように、「天日槍命が播磨まで攻めて大物主と戦った」の件や、また二中歴の「新羅が攻めてきて、筑紫から播磨までを焼いた」という伝承もあり、この時期が何時であるかを含めた拡張した実体を論証して、論理をどう組み立てるかの問題を、発展した論理を期待して提起させていただく。
(追記 天日槍命の件は無関係かもしれない。関係がないという見解も大事である。)
最後に私は、中小路駿逸氏の「学問とは仮説であり、手続きである」に依拠されてこの本を書き上げたと聞いているが、それだけに拘ることはないと思われる。文献解釈だけに拘泥せず論理と倫理を研ぎすまされて、もう一度ご自分の説を見直されることを期待したい。その意味で古田氏の「論証の成果」から出発されるのではなく古田氏の「論証そのもの」から出発されたなら、(古田氏の認識をもう一度山崎氏が再認識されたなら)、もっと成果が得られたのではなかろうと思う次第です。
オランダ日刊紙 NRC Handelsblad紙より要約(一九九七年十一月十一日
オランダ ユトレヒト市 難波収 訳
Stanton Drew に五千年古い巨大な木造“寺院”の遺跡が発見された。有名なストーンヘンジより規模が大きく、重要度に於てストーンヘンジに劣らぬ
もの。今世紀最大の発見と言えようか。
この“寺院”は、高さ恐らく十メートルを上回る樫材の柱五百本以上を9重の同心円状に立てて造られていた(柱には幾何学的模様が刻まれていたか)。その周囲は直径百三十五メートル幅六メートルの円形の濠によって取り巻かれている。但し東北部の四十メートルには濠はなく、この方角は夏至の日の出の方向である。
発見は英国の遺跡保護の組織 English Heritage によるものである。この辺りには既に六十個の石からなる三つのサークル(ストーンヘンジより小さい)が知られ、保護地区となっていた。この組織のメンバーが、このストーンサークルについて、地磁気の微少変動を検知する機械によって再調査していて、巨石遺構より更に八百年古い、つまりBC二千二百年の遺跡が遺されていることを発見したものである。EHの長、Sir Jocelyn Stevens によると、これはこれまで発見された木造の先史遺跡の中で最大のものである。専門家の Dr.Aubrey Burl の話では、この最新テクニックによって、ストーンヘンジなどの下にも土を掘り返さなくても、より古い遺跡を探索することが可能である。
五千年前にどんな事が行われていたのかは不明だが、“寺院”が権力のシンボルであった事は確かだ。Woodhenge とAvebury などでも木造寺院(左図:Durrington Walls の寺院想像図。Stanton Drews のもこんなものだったろうか)の痕跡が発見されており(グレートブリテンで8箇所)、そこには食物の残りや装飾土器の破片も見つかっていて、供物や儀式のあったことを示唆している。
熊本市 平 野 雅 曠
紙が発明されていない時代、中国では、文書は木札や竹札に書き、紐で編んで、そのまま、又は函に収め蓋をして紐でくくり、そのくくり目に粘土を固め付けて、これに印を押したのである。
官印には、位に応じて印材にも金・銀・銅など種類があり、印には「綬(じゅ)」と呼ぶ組紐が副うていた。これは印のつまみ「鈕(ちゅう)」の穴に綬を通して、腰に下げたのである。“一国の印綬を帯ぶ”と云えば、宰相になることをいった。
例の、志賀島出土の「金印」は、紙を使う以前のものであるから、封泥用に作られたものであって、陰刻になっている訳である。
従って、現今一般の認印のように、紙に捺せば文字が浮き出るのではなく、文字の部分を彫り込んであるので、封泥に押してはじめて、文字が浮き上がって読めることになる。
なお製紙の法は、後漢の宦官、蔡倫によって発明され(一〇五)、それを蔡候紙といった。※参照 石井良助著『はん』(学生社版)
関西例会
《例会報告》
一月例会は、古田先生が出演された衛生放送番組“「邪馬台国」はなかった”を観賞した。古田史学の邪馬壹国説・九州王朝説がコンパクトにまとめられ、しかも最新の発見テーマにも話が及び、とても良い内容でした。同ビデオはダビングして各地の会などへ送付しました。今後、各地の会でも観賞会が催されると思います。
例会後は、中華料理店に場所を移し、新年会兼室伏・山崎両氏の出版記念祝賀会を行いました。古田先生も駆けつけて来られ、最新の発見のお話しや、和田家から送られてきた和田末吉や長作が使用した明治時代の教科書・ノートなどが紹介されました。特に、黒塚古墳の鏡を現地で見てこられた話など、いつもながらの盛り沢山の話題で、楽しい新年会となりました。
古田先生もますますお元気な御様子で、本年も学問的にも大きな展開を予感させる一日でした。(古賀)
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』第一集〜第四集(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)第一〜六集が適当です。
(全国の主要な公立図書館に御座います。)
新古代学の扉 インターネット事務局 E-mailは、ここから。
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