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九州王朝の築後遷宮ーー玉垂命と九州王朝の都 古賀達也(『新・古代学』第4集) へ
京都市 古賀達也
深い霧の中からその輪郭が現れてきた。高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)の正体がようやくはっきりと見えだしてきた。それは私が古代史研究に入ってから、ずっと気にかかっていた問題だった。高良山(福岡県久留米市)の麓で育ってきた私にとって、筑後一宮である高良大社の祭神、高良玉
垂命は何者かというテーマは避けて通れなかった。しかし判らなかった。それが今年解けたのだ。このことを報告したい。
事の発端は、昨年末、古田先生からいただいた電話だった。
「万葉集に、九州王朝の都が水沼(現、三瀦郡)にあったとされる歌があるが、その中心地点が判らない」と先生は言われた。その万葉集の歌とは「大君は神にしませば水鳥のすだく水沼を都となしつ」(四二六一、読み人知らず)だ。ちょうど正月休みに帰省する予定だったので、調査を約束した。
久留米市の実家に帰ると、父の太宰管内志を借りて三瀦郡を調べてみた。
○御船山玉垂宮 高良玉垂大菩薩御薨御者自端正元年己酉
○大善寺 大善寺は玉垂宮に仕る坊中一山の惣名なり、古ノ座主職東林坊絶て其跡に天皇屋敷と名付て聊残れり
玉垂大菩薩の没年が九州年号の端正元年(『二中歴』では端政)西暦五八九年と記されていた。ここの玉垂宮とは正月の火祭(鬼夜)で有名な大善寺玉垂宮のことだ。しかも、座主がいた坊跡を天皇屋敷と言い伝えている。玉垂命とは倭国王、九州王朝の天子だったのだ。端政元年に没したとあれば、『隋書』で有名なイ妥王多利思北孤の前代に当たる可能性が高い。
イ妥*(タイ)国のイ妥*は、人編に妥。ユニコード番号4FCO
○高三瀦廟院 三瀦郡高三瀦ノ地に廟院あり(略)玉垂命の榮域とし石を刻て墓標とす(略)鳥居に高良廟とあり
なんと玉垂命の御廟までがあるという。こうなると現地調査が必要だ。父の運転する車に乗り、三瀦の大善寺に急いだ。玉垂命は九州王朝の天子だったという仮説を父に説明すると、父は「大善寺の神様は女の神様と聞いているが」と不審そうだった。
年末の大善寺は正月の行事、火祭の準備で忙しそうだった。火祭保存会会長光山利雄氏の説明によれば、玉垂命が端正元年に没したという記録は、大善寺玉垂宮所蔵の掛軸(玉垂宮縁起、建徳元年銘《一三七〇》、国指定重要文化財)に記されているそうだ。いただいた由緒書によれば玉垂命は仁徳五五年(三六七)にこの地に来て、同五六年に賊徒(肥前国水上の桜桃<ゆすら>沈輪)を退治。同五七年にこの地(高村、大善寺の古名)に御宮を造営し筑紫を治め、同七八年(三九〇)この地で没したとあり、先の端正元年に没した玉垂命とは別人のようだ(『吉山旧記』による)。とすれば、「玉垂命」とは天子の称号であり、ある時期の九州王朝の歴代倭王を意味することとなろう。その中に女性がいてもおかしくはない(『筑後国神名帳』には玉垂媛神とある)。
大善寺から少し離れた高三瀦の廟院にも行ってみた。それは小さな塚で、おそらくは仁徳五五年に来たと言う初代玉垂命の墓ではあるまいか。この塚からは弥生時代の細型銅剣が出土しており、このことを裏づける。廟の横には月読神社があった。月読神を「たかがみ」とし、九州王朝の祖神と幻視した室伏氏の仮説(『伊勢神宮の向こう側』)は当を得ていたようである(同様の指摘は灰塚照明氏からもなされていた)。
天孫降臨以来、糸島博多湾岸に都を置いていた九州王朝が、四世紀になって三瀦に都を移したのは、朝鮮半島の強敵高句麗との激突と無関係ではあるまい。この点、古田氏の指摘した通りだ。天然の大濠筑後川。その南岸の地、三瀦は北からの脅威には強い場所だからだ。従来、三瀦は地方豪族水沼の君の地とされていたが、どうやら水沼の君とは九州王朝王族であったようだ。そしてこの地は四世紀から七世紀にかけての九州王朝の都が置かれていたことになる。万葉集の歌「水鳥のすだく水沼を都となしつ」はリアルだった(同歌の「発見」は高田かつ子さん)。
そうすると、同地にある古墳(御塚、権現塚)も九州王朝天子の古墳としなければならないが、五世紀後半から六世紀前半にかけてのものとされ、筑紫の君磐井の墓、岩戸山古墳の円筒埴輪との類似性からも同一勢力の古墳と見て問題無い。更に、大正元年に破壊された三瀦の銚子塚古墳は御塚(帆立貝式前方後円墳、全長一二三メートル以上)権現塚(円墳、全長一五〇メートル以上)の両古墳よりも大規模な前方後円墳だったが、これも九州王朝の天子にふさわしい規模だ。こうして見ると、今まで岩戸山古墳以外は不明とされていた九州王朝倭国王墓の候補が三つ増えたことになる。
これら古墳の他、都にふさわしい遺構として、高良山麓からわが国最古の「曲水の宴」遺構が発見されている。筑後川南岸の都三瀦と筑前太宰府との関係は複雑だが、今後明らかにされるであろう。また、高良山玉垂宮との関連も別に詳述したい。
さて、今回の発見の最終テーマに入ろう。それは玉垂命の末裔のことだ。実は高良玉垂命の末裔とされる一族が現在も続いているのだ。稲員(いなかず)家だ(八女郡広川町)。江戸時代、稲員家は広川町の大庄屋だったが、元々は高良大社の大祝職で、系図も残っている。数家あった玉垂命の末流も稲員家以外は断絶している。今回の調査では、稲員家と姻戚関係にある松延清晴氏(八女市在住)のお話をうかがうことができた。九州王朝の末裔ならではと思われるような驚くべきお話の数々を聞くことができた。いずれそれらの全てを公開できる日も来るであろう。
こうして、九州王朝史の一端が少しずつ明らかになりつつある。今回の発見はその一歩に過ぎない。古田先生も現地調査に入られる御意向と聞いている。また、報告したいと思う。
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