支倉常長と山口与市

>古田史学会報
1998年 6月10日 No.26


和田家資料の広がり

支倉常長と山口与市

原町市 原廣通

 偽書説が、大々的に季刊「邪馬台国」に掲載され、最近は、その後の記事が無くなったようですが、偽書を唱える人達が、実際は、和田家の古文書を読んでいないで活字や憶測などで攻撃していたことを当の和田氏本人から一昨年聞きました。氏によれば「資料を見に来た人達の中に某大学の安本氏を始めとする人達が断じて居なかった」と私達に話してくれました。偽書の攻撃は、最初から意図をもった策動であったことは、この間の会報等で明かである。
 私達、「古田史学の会・仙台」の仲間、8名は、一昨年の夏に青森の古代史跡巡りの旅で、五所川原市の和田氏宅を訪ねて、氏が所蔵する膨大な資料の数々を実際に手にとって見せて頂きながら、偽書攻撃の経過を直接聞く機会を持った。その中で、従来あまり報じられていないと思われる和田家資料を拝見出来たので紹介したいと思い寄稿することにしました。
 一昨年、和田家を訪ねた際、「資料を見せて頂きたい」旨を伝えたところ和田氏から快く、開示された古文書の中に江戸期の「伊達藩」を記したものがあった。現在、古文書の著書名を和田氏に確認をしていますが、流麗な書体でかかれたもので、従来知られている東日流外三郡誌などの和田末吉氏や長作氏の筆跡とは、全く異なるものでした。その記述の中に「伊達家からの渡欧使節」として社会科の教科書に載っている「支倉常長」のことが書かれており、本人の名前が明かにされています。その名は、「山口与市」と言い、伯父の支倉家に養子となって「支倉六右衛門常長」と後に名乗っているのですが、幼名が和田家資料に残っているのです。仙台の会の会員の一人が「仙台市博物館」の展示目録の解説の中から確認した内容と一致しており、家庭にある百科辞典にも載っていない内容が、和田家の古文書には記載されているのです。
この古文書の記載内容を丹念に調査することで近世の伊達家を中心とする歴史が、また、明かになると思います。
 実見したところでは、その「伊達家」の古文書は、一冊ではなく私が手にしただけでも三冊以上ありました。行書・草書で書かれた古文書をすらすらと読むことは出来ませんでしたが、紙質からして昭和の時代になって書かれた物でないことは、実物を見た者には、明かでした。
 その他に、手帳の様な小さな綴じ本には、「菅江真澄」の筆跡になるものも実見しましたが、この筆跡は、角張った細い筆字で明かに、違った人物の手によるものでした。長持ちの中に虫蝕を受けた古文書が、ぎっしりと詰め込まれていましたが、まだまだ、陽の目を見ていない貴重な文書が蔵されているのです。
 私達の願いに、快く対応され、先祖代々伝わる貴重な古文書類を次々と広げて拝見させて頂いた和田氏に改めて感謝したいと思います。和田家に伝えられた「東日流外三郡誌」に秋田孝季が、繰り返し書いている「後の世に聖者現れて」の一文は、古田武彦先生、その人なのだと、改めて思わざるを得ません。「寛政原本」の早期の公開を心から期待しつつ拙文を終わります。
(付記)「伊達藩」を書いた著書名は、判明次第お知らせします。


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』第一集〜第四集(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)第一〜六集が適当です。 (全国の主要な公立図書館に御座います。)
新古代学の扉 インターネット事務局 E-mailは、ここから


古田史学会報26号へ

古田史学会報一覧に戻る

ホームページへ


Created & Maintaince by" Yukio Yokota"