プロジェクト貨幣研究 第三回 書評『三角縁神獣鏡』--その謎を解明する
古田史学会報
1999年10月11日 No.34
プロジェクト 貨幣研究 第三回
古田武彦
今回は『出土銭貨』第9号(一九九八・五)の「特集『古代の銀銭』」より、冒頭の三稿を、資料として送付いたします。
一、無文銀銭と和同銀銭--飛鳥藤原地域
出土銀銭を中心に <松村恵司>
一、古代銀銭の再検討 <三上喜孝>
一、大川天顕堂コレクションの古代の銀銭<阿部義平>
当方この八~九月、札幌・朝霞(埼玉)・富士・富士宮(静岡)・別府(大分)・久留米(福岡)・対馬(長崎)・博多・前原(福岡)・下関(山口)と歴訪し、次々と大きな研究上の収穫を得ました。改めて、各会誌等で報告させていただきます。皆様の御協力のおかげと感謝しています。
札幌では「古泉處」(東洋鋳造貨幣研究所、主任研究員、石川諄氏)で見事な貨幣展示に接し、得るところ、大でした。吉森政博さんたち、古田史学の会(北海道)の皆さんのおかげです。(今年八月九日)
また、これに先立つ六月十八日には、古賀達也さんと共に、山口市の鋳銭司(しゅせんじ)地区美術館や下関市の鋳銭司跡を歴訪しました。
改めて、御報告の機あり、と存じます。(福岡県の前原市「周船寺(しゅ<す>せんじ)も、同じく、貨幣鋳造所の跡であること、おそらくまちがいないのではないか、と思っています。この点、すでに貝原益軒の『筑前国続風土記』がふれ、古賀達也さんから、その旨、提言されていたところです。
従来のわたしは、この「字面」《「船」関係 の役所》にのみ、とらわれていたように思います。
山口市では、現在でも「鋳銭司」と書いて「しゅせんじ」と“読んで”います。鋳銭司小学校も、あります。
以上
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〔編集部注〕
本稿で紹介された『出土貨幣』は、「出土銭貨研究会」(事務局 堺市)が発行されている機関紙です(年二回程度発行)。同会は、遺跡から出土する全ての時代・種類の銭貨を対象として、それに関する各地の研究情報交換を主たる目的として、一九九三年に発足した全国組織です。事務局住所は左記の通りです。
事務局 〒593-8305 堺市堀上緑町
二-三〇-九 嶋谷和彦様気付
藤田友治著 ミネルヴァ書房 一九九九年九月十日刊 二八〇〇円
古田武彦
一
好著である。もちろん、年来旧知の著者であったけれど、読み終ってわたしは、認識を改めざるをえなかった。
著者にとって記念塔をなすべき力作『広太王碑論争の解明』(新泉社、一九八六)から十三年、微に入り細をうがつ執拗な追跡の筆致は、必ずしも読みやすいとは言えなかったけれど、本書は面目を一新している。読みやすい。面白いのである。ゆっくり読むつもりが、巻をおく能わず、半日半夜で読了してしまった。
しかも、著者のもつ執拗な追跡力は、至るところに“伏在”している。たとえば、椿井大塚山や黒塚の出土鏡に対する表示・傍注や巻末資料など、工夫のあと歴然、読者にとっても便利至極であろう。十三年の時間は、そしておそらくその間の辛酸と苦渋の数々は、著者(夫妻)をしてこの力量を形成させたのであろう。脱帽する。
二
先ず、第一部は三角縁神獣鏡の研究史である。富岡謙蔵・梅原末治・後藤守一・小林行雄・樋口隆康と考古学界の主流をなしてきた専門家の立説を検討する。単に事項を羅列する、いわゆる「研究史」ではなく、問題意識をもつ批判の目が随所に感ぜられる。たとえば、富岡の「神獣鏡」流行時間帯の変更問題なども、要領よく摘出している。さらに、従来小林の理論化の基礎の第一となってきた、椿井大塚山の「出土鏡」と、今回(昨年)ようやく発表された、昭和二八年の調査報告(山城町、真陽社)との間に鏡数その他の差異のある点を指摘し、「四五年の情報遅延」問題を追跡する筆致は鋭い。
さらに田中琢・近藤喬一・岡村秀典・三木太郎・高坂好・白崎昭一郎・森浩一・松本清張・古田・奥野正男・王仲殊・菅谷文則・河上邦彦・黒岩重吾・陳舜臣と、各家の各説の特徴が巧みに紹介されている。
三
けれども著者は、単なる紹介にはとどまっていない。 奥野の傘松文様の発見の独創的意義を高く評価しつつも、反面「卑弥呼の死」をめぐり、松本説を承け、「卑弥呼、被殺害」説を採る、奥野の立説に対し、鋭く批判する。広太王碑研究のさいに行った「以」の全用例検証や三国志の中の「今権以死」(魏志二十一)の用列に立ち、ことに「被殺害」などでない後者が倭人伝中の「卑弥呼以死」と、まさに同一文献中の同一語法である点から、奥野説の矛盾を突いた。 奥野は、いわれなき中傷的批判に対して、“怒り”“歎いて”いる(『東アジアの古代文化』第百号、今年八月)。それだけに、それとは全く異なる、この著者の真摯なる批判には、是非答えてほしいと思う。
さらに痛烈なのは、河上邦彦の「箸墓、円墳」説への批判である。「実証」なしに「方部、追造」説を立てているとし、その「仮説」は、同じ方部より「布留0式土器」が出土している事実から自己矛盾に陥っていることを指摘する。このような「独断」の突出は、「邪馬台国、近畿説」という“大前提”に立ったためではないか、と批判している。
確かに、調査団のリーダーとして輝く手腕を示した河上ではあるけれど、研究者としては“粗さ”が目立つようである。たとえば、箸墓を「卑弥呼の墓」とするさい、倭人伝の「径百余歩」を「約一六〇メートル」とするのであるが、そのさい、わたしや測定の専門家としての谷本茂が重ねて提起している「短里説」(「卑弥呼の墓」は「約三〇メートル」)に対し、何等の学問的対応をも示しえていないからである。(谷本・古田共著『古代史の「ゆがみ」を正す』新泉社、参照)
四
本書に対する不満・注文の一端をあげる。
第一、銅鏡のもつ「葬具的性格」については、河上提唱に賛し、多くのべられているけれど、これだけでは「なぜ日本列島にのみ、多鏡墓が繁栄したか」の問いに答えることができない。やはり旧石器・縄文以来の鏡岩による「太陽信仰」の伝統を重視せずしては、答ええないのではなかろうか。「神仙思想」をのべること多きに比し、もの足りない。
第二、「三角縁神獣鏡、魏鏡」説を非とするとき、帰着すべき邪馬壹国(邪馬台国)はいずれか。次著のテーマなのであろう。
第三、わたしの中国工人渡来説は「A」洛陽→楽浪→帯方→日本列島、「B」呉からの渡来、の二ルート説である。著者は「B」のみ採られた。
第四、黒塚の「父母鏡」(P.205)の発見者は、わたしではなく、水野孝夫氏である。
ともあれ、国内大小の各図書館や各家に一冊づつ本書がおかれるとき、この国の水準は必ず確実に上昇しよう。
インターネット事務局注記2002.8.20
黒塚の「父母鏡」の記事は、古田史学会報25号にあります。
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