<古田史学会報
1999年10月11日 No.34
古田史学会報三十四号 |
発行 古田史学の会 代表 水野孝夫
故和田喜八郎氏を悼む
和田喜八郎氏(青森県五所川原市)が、去る九月二八日、御逝去されました。貴重な和田家文書を守り通してこられた、故人の業績に敬意をはらい、謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
古田史学の会 役員一同
「君が代」の「君」は誰か 京都市 古賀達也
香芝市 山崎仁礼男
中国史書の『旧唐書』が倭国伝と日本伝とを書き分け、「日本は旧小国、倭国の地を併せたり」と書いていることはよく知られています。今般、古田先生は『新唐書』によって新しくこれに駄目押しの発見をなさいました。『新唐書』は「日本伝」しかありませんので、従来、通説は『新唐書』により『旧唐書』は誤りとしてきたのです。
◇『新唐書』「(日本国の系図を書いて)・・・次欽明、次敏達、次用明、亦曰目多利思比孤、直隋開皇末、始與中国通。」(・・・次ぎに欽明・次ぎに敏達、次に用明、また多利思比孤の目(代理)といって、隋の開皇の末(六〇〇)にあたり、始めて中国と通ずる)
とあって、『新唐書』は、日本国(近江天智王朝の前身を指すと解されますが、本当は蘇我氏と筆者は考えます)は用明天皇の時代、即ち隋の開皇の末に、九州王朝の大王の多利思北孤の代理といって、始めて中国と通ずるようになったとはっきりと書いていることを発見されました。これは非常に重要な発見と考えられ通説への大きな一撃となったのです。
問題はこの『新唐書』の「亦曰、目多利思比孤」の「目」です。諸橋などの漢和辞典を引くと、「目」は頭目という熟語にみられるよう「かしら」の意味はありますが、「代理」とか「次席」とか「副」「二番目」というような意味はないとみられます。「目」の「かしら」が我が国でインフレ現象を起こし、頭目の二番目呼ぶような意味の変化がうまれたのでしょうか。
我が国では、この「目」は養老律令の国司の四等官で、上国のクラスでは「守一人、介一人、掾一人、目一人、史生三人」で、下国では「守一人、目一人、史生三人」となっています。単純な推定ですが、下国クラスでは「次官(席)」となっていますから、律令制の最初はこのような意味であったと推測できます。そしてインフレ現象により上国クラスでは四番目に下がってしまったのでしょう。これは「さっか」と読まれ、姓で「目」がありますが同じ読みです。次席や代理を示す意味と考えられます。
さて、『新唐書』の「曰、目多利思比孤」の「曰う」の表現は伝聞記事の表現と解せられますので、この「目」は日本語的用法と解して良いことになります。既に九州王朝の律令制の存在は古田先生により論証されていますので、九州王朝の律令制的用法の「目」と解して誤りはないでしょう
。
『先代旧事本紀』の物部氏系図
ところが物部氏の系図が『先代旧事本紀』にあり、ここに目(大)連が個人名が三人と多いことです。「目(大)連」とあるのは、固有名詞ですが、同時に兄弟首長制の「弟」の立場を表現したものではないでしょうか。普通名詞が個人名に転じたものと解されます。
「目」の使用を『先代旧事本紀』の物部氏の系譜に見てみます。
まず、物部氏は兄弟首長制ですが、それは『播磨国風土記』の兄太加奈志・弟太加奈志と『古事記』の履中記の大前・小前宿禰で分かります。また。この系図の物部氏の棟梁の地位の相続は、
兄弟継承 8回
親子相続 6回(○ 6. →○7. 、○10. →○11. (15)→(16)
(16)、(20)→(21)、(21)→(23)、(22)→(27)、後代多い)
その他への相続十六回(甥への相続五回・イトコ相続五回・その他六回) 但し(22)目連は欽明とあるが舒明とした場合です
三十回の首長の継承があるのですが、兄弟継承が多いことは事実です。単純に二人の兄弟継承をして、次に次世代に引継いで行くとすると十五回の兄弟継承が発生することになります。そして兄弟がほぼ同年配とすると、どちらかが先に亡くなるのですから兄弟継承が可能な確率は五〇%となり、四回に一回の割合で兄弟継承が発生することになります。
ですから、上記の兄弟継承の回数はほぼ妥当と考えられます。
この物部氏の系譜の二世より六世までは穂積氏の系譜の借用で、物部氏が始まるのは七世の建膽心大祢命からで、その父は五世の大綜杵命からと推定できます(拙著『新騎馬民族征服王朝説』参照)。系図にある仕えた天皇名は偽造の天皇家の系図に合わせて『旧事紀』が造作していて、殆ど信用できません。
しかし史料はこれしかないのですから、これによって、即ち「大連」をその時代の物部一族の首長とみなして、物部氏の棟梁の相続の関係を調べたのが、上記の相続の回数です。
この物部一族の棟梁の地位に兄弟継承が多いことは、兄弟首長制と関係があることは読み取れます。しかし、兄弟継承以外の甥やイトコに飛ぶ時どのような慣習・伝統があるのか、残念ながら分かりません。一般に母系制の部族で男性が部族の首長となる社会では、棟梁の地位は母系の長姉の子供に引き継がれるケースが多いというのが文化人類学の調査ですが、そしてその可能性も感じられるのですが、断定できません。今は、ともかく物部氏の頭領の地位の継承の状況を調べ、そこに兄弟継承が多いことを確認したまでです。
この物部系図に「目(大)連」が三人もいます。(13)目大連(清寧・大連)は雄略紀十八年の物部目連です。その他に(17)目連(継体・大連)(22)目連(欽明・大連)です。いずれも系図をみると弟になっています。ですから、「代理」「次席」「二番目」「副」などの普通名詞または形容詞が固有名詞に転じたと解して誤りはないでしょう。「目」の文字はこのほかに目古連・長目連として使用されていますが、これも関係があるかも知れませんが分かりません。
物部目連が『書紀』に登場するのは雄略紀十八年(四七四)の伊勢朝日朗の討伐の事件ですが、これは九州王朝の事件ですが(論証省略)、九州王朝は既に倭王讃の時代より律令制に取り組んでいましたし(拙著『蘇我王国論』参照)、物部氏は崇神垂仁王朝の滅亡後には九州王朝に使えていた可能性があると考えられます。
ですから、物部氏の「目」は、先生が指摘された『新唐書』の「目」という次席・代理という普通名詞が兄弟首長制の習俗のなかに取り入れられ、二番目の立場の弟を意味するようになり、やがてこれが固有名詞に転じたのではないでしょうか。
この物部氏の系図の信憑性の問題ですが、○8. 印葉連→○9. 伊呂弗連の変動は崇神王朝の滅亡を示すのでしょうか。○6.印葉連系で切れていきますが、宇治の一族とは離れたのでしょうか。
(19)押甲連→(20)荒山連の間にも大きな断絶があります。明らかに「磐井の反乱=継体の反乱」の後に物部氏に大きな変動があったことが分かります。ですから、この物部氏の系譜は、完全に正確とは言えないが、歴史を反映した相当程度正しい系譜と想定されます。
『播磨国風土記』の兄太加奈志・弟太加奈志には「宇治の天皇のみ世、宇治連等が遠祖」とあり、この兄弟は○1. 建膽心大祢命と多弁宿祢命(宇治部連・交野連等の祖)ではないでしょうか。こうして、「宇治の天皇」とは崇神天皇に相違ないでしょう。物部氏は崇神天皇に仕えた本家が宇治連となり、弟たちは垂仁天皇に仕えたのです。これが○3.
大新河命(垂仁の大臣・大連、物部の賜姓)○4. 十市根命で、この後裔が大和国の物部氏となったのです。この場合、息子の○2. 武諸隅連が崇神に仕え、父の○3.
大新河命が垂仁に仕えるという逆転現象が起きています。
私の推測ですが、崇神・垂仁王朝は代々王位を継承していくという、一系の王朝にまで成長した王朝ではなく、崇神天皇は宇治に都を作り王朝を開き自己の在位年数をカウントし、息子の垂仁天皇は大和に進出して別な都を作り王朝を開き在位年数を独自に計算していたように思われるのです。崇神・垂仁王朝は王朝としては幼稚であって、中国風な王位の代々の一系的な相続や王位の紀年の取り方を採用するまでには成長していなかった王朝であったと想定されるのです。
何故こんなことをいうかというと、『住吉大社神代紀』に「崇神天皇没年戊寅の年、在位年数六十八年・垂仁天皇没年辛未の年、在位年数五十三年」という記事があるのですが、崇神天皇没年戊寅の年は『古事記』と一致し
ていて、これは三七八年と推定され(論証省略)、逆算すると崇神即位は三一〇年となります。この絶対年代は正しいと思われるのです。他方、垂仁天皇没年は菟道稚郎子の死の前年と筆者は推定するのですが、これは三九四年(応神天皇『古事記』没年と同一)(注)であり、『住吉大社神代紀』と合わないのです。ところが崇神天皇没年の三七八年に垂仁の在位年数の五十三年を加えると、四三一年となり『住吉大社神代紀』の「垂仁の辛未の年」の没年は計算上では一致するのです。
そこで筆者の推測ですが、垂仁の在位年数五十三年の伝承があり、『住吉大社神代紀』は、これを計算によって「垂仁の辛未の年」の干支を算出したものに違いがないと考えたのです。そこで、垂仁の在位年数を正しいと見なして、筆者の推定の垂仁没年の三九四年から在位五十三年を引くと三四一年が垂仁即位となります。このように考えると、三四一年から三七八年までは年紀が崇神(宇治)と垂仁(大和)で重複して数えられていることになるのです。このような視点で、この系図を読めば、大新河命の子の○2.
武諸隅連は宇治に残って崇神天皇に仕えたのです。そして○3. 大新河命と○4. 十市根命は大和に移り垂仁天皇に仕え、末子相続なのでしょうか、十市根命の子孫が大和の物部氏の本流となったのです。
なお、崇神天皇は、何故、宇治の天皇となったかというと、崇神は王朝であり、開拓団ではないのです。この点神武天皇は開拓団に近いと思われるのです。この時代は湖の周囲に(この場合は巨椋池)人間が住んでいたのであり、彼はここで先住の人民を支配したのです。息子の垂仁はこの山城を足掛かりとして大和に進出し、そして大和の屯田(仁徳即位前紀)により大和国を開いていったのです。
(注)応神天皇の没年は仁徳天皇の没年で二倍年暦で一致するので、逆に応神天皇の『古事記』の没年干支が余ります。これがどうも、垂仁天皇のものと思われるのです。拙著『新騎馬民族征服王朝説』を参照。
以上
プロジェクト貨幣研究 第三回 古田武彦
日進市 洞田一典
『続日本紀』大宝元年八月甲辰(四日)条を、国史大系本から原文のまま引きます。なお本稿では《》を引用文を示す記号とします。
《太政官処分、近江国志我山寺封、起庚子年計満卅歳、観世音寺筑紫尼寺封、起大宝元年計満五歳、并停止之、皆准封施物(以下略)》
念のため他書も見ましたが、岩波大系本も同文ですし、『扶桑略記』の各刊本も同じ内容です。ところが、平凡社東洋文庫の『続日本紀1』(直木孝次郎他訳注)に気になる注がありました。この本は口語訳の注釈書です。少々長いですがお付き合い下さい。
《太政官は〔つぎのような〕処分を下した。近江国の志我山寺(大津市滋賀里町の山中にあった志我寺。崇福寺の別称)の食封に ついては、庚子の年(文武四年=七〇〇年。古写本の多くは庚子とするが、曽我本・淀本など「庚午」とするものもある。庚午なら天智九年)より〔逆〕算して〔すでに〕満三十年(*)となっており、観世音寺(福岡県太宰府町観世にあり)と筑紫尼寺(不明)の食封については、大宝元(七〇一)年から逆算して〔すでに〕満五年になっているので、ともにこれを停止して、〔新た に祿令の規定(14寺不在食封之例条に、寺は食封の例に入れない、封戸を施入するときは五年を限る、とある)により、各寺に〕皆食封に准じて物を施入するようにせよ。》
さらに補注として、
《(*)満三十年 志我山寺(崇福寺)は天智天 皇の勅願によって建立された寺。正確な創立年や食封支給年代は不明であるが、天智九(六七〇)年に食封が支給されたとすれば、庚子の年(七〇〇年)まで三十年となる。以下にみえる観世音寺・筑紫尼寺についても食封支給年は不明であるが、持統十(六九六)年に支給され、大宝元(七〇一)年まで五年を経過したのであろう。》
が付いています。カッコがむやみに多くて読みにくい文ですが「庚子」を「午」とする本もあるということです。色々調べたところ、朝日新聞社版『六国史』(昭和四年初版、同十五年再版)のうちの『続日本紀』が「庚午」となっていることが判りました。また臨川書店の『訓読・続日本紀』(今泉忠義訳)も朝日新聞社版を底本としています。
上記の訳文は多数派の庚子によっていますが、少々腑に落ちないところがあります。それは「起庚子年」の解釈です。漢和辞典を引くと、「起」は「おきる、おこる、たつ、事をはじめる」とあり、起源=事のはじまり、起工=工事をはじめる、などあげています。
およそ期間には始点と終点とがあり、両者がそろって年数が計れるわけなのに、訳文では「庚子の年より逆算して」と終点のみ示して始点がありません。時の流れに逆らうこの「起」の用法には全く納得できません。ちなみに『続日本紀』全四十巻の各巻首には、例えば巻一には「起丁酉年八月、尽庚子年十二月」のように書かれています。
さらに云えば、大宝元年に出された処分にもかかわらず、山寺の方は前年の文武四年から計算するのに対して、筑紫の寺は大宝元年からというのでは、山寺の方が一年得(?)する点でも座りのよくない文になります。定説と言ってもよいこの訳文が、このような無理をする理由は二つあると思われます。
一つは、多数決によって「庚子」をとったことです。歴史の真実は声の大きなものによって決まるわけではありません。二つ目は、筑紫の寺の「起大宝元年」です。満五年を生かすためには逆算も止むを得ないところだったかもしれません。むしろ、こちらの方が主因だったと考えられます。
「起」の本来の用法に合う「庚午」で考えましょう。山寺は庚午(天智九年、六七〇)から、今年大宝元年(文武五年、七〇一)までで、七〇一引く六七〇は三十一。これは確かに満三十年に見合います。筑紫の寺の方を仮に「(起西暦)X年」としましょう。山寺に倣えば、七〇一引くXが六となります。ゆえに、X=
六九五。年表によればこの年は持統九年乙未で、『二中歴』をはじめ諸文献に現れる大化元年に相当します。
やっと正解に到達したようですね。以下は想像ですが、原資料には大化元年とあったのを、編集の段階で「これはまずい」となって、目の前にある大宝元年にひとまず書き直したのでしょう。山寺の場合のように干支で示さず、大・元年はもとのまま残して一字のみ入替えたあたりに、古代の人々の律儀さが感じられます。
古田史学とは何か12(前編)
大阪府泉南郡 室伏志畔
今年、二度にわたり私は大阪の古田史学会の例会で研究発表中、発言の中断を余儀なくされた。一度目は何かのまちがいかと思ったが、二度も「思いつきはやめろ」といった言葉を聞くとそうではないらしい。武彦・命と心に入れ墨なさったお方には、古田説への異論を含んだ私の発表は気に召さぬらしい。しかし異論を育まぬ会に未来はあるのか。古田史学の会はいつからこのように閉鎖的な体質になったのか? 私は常々自らを思想的にも鍛えることなくして、かつての「市民の古代」の亡霊は常に我々の内から排他的な党派性として生起するだろうと述べてきたが現実となった。私は大いに怪しみ、開かれた論争の場が与えられることを望んだ。幸い北海道の吉森政博が口を開き、本紙33号で「室伏氏の幻想史学の方法について」を書いた。私は喜んで吉森の批判に応じたいと思う。
吉森の批判はほぼ次の五点にある。
1). 室伏幻想史学は「学問といえるものではない」、それは「思いつき」と「想像による歴史ロマン」にすぎない。
2). なぜなら、文献に対する実証的分析も、考古学的裏付けも、地名論証もないからだ。
3). かかる幻想史学は文献実証史学である古田史学と無縁であり、会員は惑わされてはならない。
4). 倭国の主神は月読命ではないし、倭国楕円国家論には根拠はない。
5). 吉本隆明の業績は、古田史学にとって不可欠なものではない。
つまり吉森によれば室伏幻想史学というのはないないづくしであるらしい。わたしはふとその言い方が古田武彦の『「邪馬台国」はなかった』に対し、『邪馬一国はなかった』を書いて、そんなものは「ない、ない」と言っていた安本美典の口ぶりを思い出し笑わないではおれなかった。古田説溺愛型ともいえる吉森は、多くの学を愛しつつ古田説に学んでいる浮気な私の在り方が気に召さぬらしい。しかし、そこにこそ古田史学を絶対化することなく相対化する批評精神を見なくてどうする。吉森の批判は拙論を愛せぬところからくる恣意的な読み違えと、偏見と独断で成っていなければ幸いである。自らの意見を相対化することなく吐き出した吉森の意見が、いかに歪んだ像を結んでいるか、鏡論を手初めに見ていきたい。
吉森「鏡」論の一知半解
吉森は九州王朝の中枢地域でから出土する夥しい漢式鏡、後漢式鏡の用途について「これは何のために必要だったかと言えば、私などが言うまでもなく、太陽信仰・太陽崇拝に関わることだということは誰もが知っていることだと思う。すなわち倭国において日神の位置の重大性は格段のものがあると言わねばならない。室伏氏の神社の祭神やニニギの分析などから導き出された『幻視』による『倭国の主神月読論』にも一理はあるとしても、倭国の月神が日神を凌ぐ存在であった痕跡は私に感じられない」と書く。
吉森は如何にも勉強家らしい一知半解の偏見をもって幻想史学に対しているかに見える。はたして古代鏡は吉森のいうように単に日神信仰のみを代表するものであろうか? 私の知るところでは鏡は日神信仰の祭祀道具であると同時に月神信仰のそれでもあった。伊奘諾尊の左右の鏡から月神は日神と共に生まれたとは『日本書紀』の一書の記すところであり、円鏡は日光と月光を共に映し集め、その形は太陽の形を模倣するだけでなく、月をも真似たとするのは製作者間の常識である。
鏡の語源は「鏡・鑑」である。古代鏡には凸面鏡と凹面鏡の二種類があり、太陽の光を反射する「鏡」と、月の光を集める「鑑」がある。器に水を張り、月の光を集め、それを覗き込むありようから「鑑」の字は生まれた。
古代鏡の銅・鉄・錫の成分比率と、いまに残る古代中国の製造技術文献から、現在までに発見をみた鏡をよく磨き上げて検証するなら、鏡が発火用にも、戦争や陸・海交通における光通信の古代のハイテク用具として日鉾とも日槍とも記録され、また生産用具にも用いられていたことが明白になろうと指摘したのは下里正樹であるが、私は当を得た合理的見解であると思う。勝れて実用的利器が珍重され「宝」になることは、現在も古代も変わりはない。
古代鏡といえば日神信仰の祭祀道具と、一元史観さながらのひとつ覚えを振り回すだけの吉森の心の鏡には思い込みからきた日神は映せても、月神はついに映らないのである。
文献は読めているか
また吉森は、幻想史学の倭国楕円国家論を大芝英雄の尻馬に乗ったと囃し、豊前の難波津に「現存地名を指摘できなかったことは致命的といえる」と託宣くれている。しかし正倉院文書に残された豊前の戸籍の中に難波部があることを私は史料として明示している。待望するだけで自ら実証しない吉森の目はこの難波部を見落とす。「いやあれは摂津や博多からの伝世したもので」と吉森は言うのだろうか。幻想史学は幻視の先にそれとなく文献を指し示すある奥ゆかしさの内にある。吉森はまつげの先に置かれた文献さえ読めないからそれをないこととし、「致命的」と断じて幻想史学が敷いた知の地雷の恰好の餌食にならないことだ。
『伊勢神宮の向こう側』で皇神に先立つ高神の淵源を追って壱岐に飛び、月読神社→高祖神社→太宰府天満宮→筑後の高良大社と幻視に幻視を重ねた労を吉森は薬にしたくもないらしい。そこではおそらく天孫降臨した邇邇芸命の肩書にある『古事記』の天邇岐志国邇岐志を「アマのニキシのクニのニキシ」と読み、「天は天国、邇は美称、岐は壱岐、志こそが地名」としたような他愛ない文献実証だけが好まれるのであろう。
『法隆寺の向こう側』で倭国本宮に月読命を置き、倭国東宮に天照大神を置くほかなかった私が、今度、五月書房から発刊した『大和の向こう側』で、さらに九州王朝論の徹底を期して、大和に東征したとする昨日まで白眉と思っていた古田神武論を、筑豊の倭(やまと)の地に引き戻し、倭国のまっただ中に奪回しなければならなかった幻想史学の逆説を、吉森は今度は何をもって「致命的」と呼び、自ら吹っ飛ぶのだろうか。
偏見から古代は見えるのか
幻想史学や幻視を殺すに刃物は要らぬ。まして発言妨害やレッテル張りなどは沙汰の限りである。根拠ある実証をもって粉砕すれば足りるのである。吉森に欠けているのは肝心のそこからの批判ではないのか。
吉森は幻想史学を「思いつき」と批判をしながら、「倭国の主神は月読か」と疑問を呈し、やはり主神は日神であると「思う」と述べ、「思い付き」として「倭国の主神はヒルコ?」と展開する。そこだけが唯一、吉森の古代論なのである。これは幻想史学を自ら実
証批判する力がないため、自分の「思いつき」を対置し、逃げ道を置いた実証待望主義者にふさわしい言い草ではないか。あらゆる結論は研究と推論の先に置かれており、そこに至る言語表出の構造の内にその思考プロセスは内閉されるという言語論におけるイロハさえ吉森は理解しないから、こんなトリッキーな言い方ができると思いこんでいるのである。
吉森はそこで倭国の主神をヒルコとするのは「思いつき」でも何でもない、いささか腰のひけた「自説」なのだということは自覚した方がいい。
さらに吉森はさもしたり顔をして、幻想史学は「八卦を持ち出」すと顔を顰め、それこそ古田史学とは「似て非なるものに成り下がってしまう」という。しかし吉森は、古代人が亀卜や鹿卜を用いて吉凶を占い、また卑弥呼が鬼道をよくし、天武は筮を多く成し、陰陽五行説が古代東洋世界を骨がらみしていたことを忘れている。八卦を迷信として排するのは吉森の勝手だが、それを理解せずして古代人の心や記紀がよく読めるとは私には思えない。吉森は本当に古代人の心魂を思いやり研究しようとしているのか、それとも現代の偏見を古代に押し付けようとしているのか、語るに落ちるとはこれをいうのだ。
八卦は、古代の最新の宇宙観・社会観に基づく帝王学である。私の理解するところではそれは陰陽五行説による古代の「喩」の論理学といえるもので、天体観測に基づくところを干支表記した暦の創造と共に、かくも精緻な論理の大樹が、古代東洋において完成を見たということは驚嘆に値する。それは稲荷山鉄剣銘にも辛亥の文字を最初に置き、そこに宇宙における自己の位置が表明されている。そのあまりにも精緻にして巨大な古代の幻想論理体系に現代人の理解が追いつかないため、古代人が今年の己卯年に送ってくれたメッセージが吉森に読めているかどうか。手軽な近代的豆知恵から吉森は八卦を古代史研究から排除していないか。それはバイブルを排除してキリスト教史を批判する愚に似ている。私は古代の三界に通じる八卦との付き合いは古田史学の会より長く、鑑定士の資格ぐらいはもっている。お望みなら吉森がいまどう平行を欠いているか、見て診ぜてもいいのである。
筆者著書の紹介
『大和の向こう側』(五月書房) 室伏志畔著
『竹取物語』とは大和朝廷による竹斯(筑紫=倭国)の国盗り物語であった!倭国主神・月読命の発見、倭国楕円国家論の提唱に続く、「悠久の大和史観」に引導くれる室伏志畔が放つ幻想史学の第三弾!
プロジェクト「貨幣研究」第3報 『秘庫器録』の史料批判(2) 京都市 古賀達也
◇◇連載小説『彩神(カリスマ)』 第七話◇◇◇◇◇◇
朱の踊り子 (4)
--古田武彦著『古代は輝いていた』より--
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇ 深 津 栄 美 ��
◇ ◇
「須佐之男め、一度ならず二度までも…!」
八千矛が野火に巻き込まれた上、大蛇に遭遇したと知らされて、羽山戸の怒りは頂点に達した。
「かくなる上は、ここを脱け出すしかありませんな。」
羽山戸の言葉に、
「それはどういう意味でございます?」
八千矛の傷の手当をしてやっていた須世理が、美しい眉をひそめた。
「文字通りの意味でござる。」
羽山戸は苦々し気に言ったが、
「姫御前(ごぜ)も参られるか?」
ふと、目を光らせた。
「須世理殿は八千矛君(ぎみ)と好き合うておられるようじゃからな。今、別れたら、二度と会えんかもしれんでの。」
須世理は顔を染めた。なぜ布津(フノヅ)老人には、自分が一目で八千矛に好意を抱いた事が判ったのか? 八千矛には既に因幡の八上姫という立派な奥方があるし、木俣(くのまた)という後継(あとつぎ)まで設けている。他にも、艶聞も数多いという。とても自分の割込む隙はないと思えばこそ、魔除けの領巾(ひれ)を渡すのみで素振りにも出さぬよう努め、思わせぶりな言葉を口にした記憶もないのに、経験を積んだ者の目は欺けなかったという事か? しかし、八千矛の気持ちは……?
そっと彼を伺(うかが)うと、八千矛は居心地悪そうに頂垂(うなだ)れて衿をかき合わせている。その間から須世理の領巾が、椿の花飾りのように覗いていた。彼は護符(おまもり)を、大切に懐(ふとこ)ろに秘めていてくれたのだ。すると、八千矛も自分を……!?
「さあさあ、お二人共、恥ずかしがっている場合ではありませんぞ。一生の問題じゃ。早う心をお決めなされ。」
羽山戸は苦笑混りの促しに、八千矛は腰を上げ、
「外(よそ)のみに見つつ恋ひむ くれなゐの末採む花の色に出でずとも
(口には出さなくても、いつかあなたを得たいとお姿を見かける度に思っていました)」
<岩波文庫版『万葉集』第十巻一九九三番>
と、須世理の手を取って引き立てた。
須世理の頬はますます赤らんだが、
「このころの恋の繁けく夏草の 刈りはらへども生ひしくごとし
(最近の私のあなたへの想いは、幾ら刈っても生い茂る夏草のようです)」
<同一九八四番>
と、心を込めて八千矛の手を握り返した。
「いや、めでたい事じゃ。」
羽山戸は満足気に頷(うなず)き、
「後はわしに任せて、お二人はこれを持って先にお行きなされ。」
室の隅の祭壇から金銀の雲の棚引く琴と、昼間、八島士奴美(やしまじぬみ)が用いた青銅の弓矢を取り出して来て、二人に押し付けた。琴は櫛名田(くしなだ)の形見である。
が、羽山戸が手を触れた際、爪が弦を掠(かす)めて佳い響きを立てた。
「須世理、何をしている?」
気配を察して、須佐之男が近づいて来る。
羽山戸は二人を外へ押しやり、戸の陰に身を寄せると須佐之男が入って来る瞬間を狙い、
「月美(つぐみ)の仇!」
と、切りかかった。短剣の柄に、かつて許嫁(いいなづけ)に贈った桃色真珠が揺らぐ。
間一髪、須佐之男は身をかわし、はね返された切っ先は、逆に羽山戸の胸を深々と抉(えぐ)った。
「羽山戸様……!」
八千矛が顔色を変え、
「では、あの方が『日栖(ひす)の宮』の……!?」
須世理も思わず手で口を覆(おお)う。
三児島(みつごのしま=隠岐)はかねて大国(おおくに)と縁組を結んだり、共同で他国との交易に当るなど、切っても切れない仲だった。無論、八千矛も須世理も侏儒国(しゅじゅこく=現四国地方)遠征にまつわる因縁は知らないが、「天(あめ)の日栖の宮」が須佐の大王(おおきみ)といえども一目置かねばならない存在である事は承知している。その隠岐の主(あるじ)が、自らの父の命を狙って乗り込んで来たとは--やはり父の疑いは本当だったのか? 自分は仇敵に情けをかけてしまったのか……!?
「どうせ、こんな事だと思っていた……。」
須佐之男は大して動揺した風もなく、羽山戸の遺骸を見下ろして呟(つぶや)いたが、不意に、
「何という顔をしておる?」
立ち竦(すく)んでいる二人に笑いかけた。
「『草薙(くさなぎ)』に似せた生(いく)る弓矢か……。」
須佐之男は、八千矛が手にした青銅の武具(もののぐ)を眺めて
「それはわしが、伜(せがれ)の元服式の為に作らせた物だ。目をつけるとは、おぬしも隅に置けんな。」
悪戯(いたずら)っぽく言った。
「持ち出したのは、私でございます。」
須世理が固い表情で、
「親の言いつけに背いて怪しからぬと思(おぼ)し召さば、どうぞお手討ちにして下さいませ。」
母の形見の琴を抱えたまま、父の足元に膝まづいた。
「姫に罪はありませぬ。万事、羽山戸様に操(あやつ)られた私の責任でございます。」
八千矛が須世理を背に庇(かば)うと、
「誰が不忠者だの手討ちだの申した?」
須佐之男は苦笑を浮かべた。
「わしはおぬしらを天晴(あっぱれ)と思っているのだ。正直言って、須世理がおぬしを救う為、自ら野火の中へ飛び込んで行ったり、又、おぬしが娘を連れ出したりするとは考えていなかったのでな。」
「では、大王は我々をお許し下さるのですか!?」
八千矛は目を瞠(みは)り、須世理の顔も俄(にわ)かに輝いた。
「娘はいずれ、誰かに嫁がせねばならんからな。刺国(さしくに)の孫なら、どこへ出しても恥ずかしく婿(むこ)がねだ。」
須佐之男は満足気に頷いたが、
「しかし、一つだけ条件がある。」
割り込むように一本、指を立てた。
「何でございましょう?」
尋ねて八千矛は、
「越(こし)攻めだ。」
との返事に、面(おもて)を引き締めた。
「実は、羽山戸が執拗にわしを狙ったのは、以前、侏儒国遠征で許稼(いいなづけ)が須佐の軍勢に殺害されてしまったからなのだ。やむを得ない成行きだったのだが、羽山戸はそうは取ってはくれなかった。それだけ、阿波の姫への想いが深かった証拠なのだろうな……。」
説明しながら須佐之男はふと、遠くを見る目になった。八千矛と手を取り合っている娘を見ると、対海(つみ=対馬)の洞穴に舟を象(かたど)った御燈(みあかし)が星のように瞬(まばた)き、色とりどりの風車(かざぐるま)が子供達の笑い声もかくやというような軽快な響きを立てて回っていた事、天照(アマテル)の拵(こしら)えた若布(ワカメ)の手毬(てまり)、羽山戸が水底から掬(すく)い上げ、やがて月美の死に顔を飾るに到った桃色真珠、「白銀門」の聳(そび)える地下御殿で出会った櫛名田の気高い姿が彷彿として来て、何とも不思議な感慨に打たれる。羽山戸と月美の仲は、自分が天照や櫛名田に抱いた感情に劣らなかった筈だ。かつて対海の岸辺で遊び戯れた仲間達が、長じてことごとく敵対する羽目に陥るとは、何という運命の悪戯か……?全ては越の武沼河(たけぬなかわ)が吉備津彦をそそのかし、自分の父出雲振根(いずもフルネ)を暗殺したのが原因なのだ。武沼河さえいなければ、羽山戸と月美はめでたく結ばれ、吉備(=岡山)とも友好を保つ事が出来ただろうに……せめて娘達は、自分とその仲間を見舞ったような不幸を知る事なく、戦が生じても勝利続きの幸福な輝かしい生涯であってほしい。その為にも、越は平定しておかねばならないのだ。
(決戦だ--!)
篝火(かがりび)に照らされ、銅羅(ドラ)や太鼓の鳴り轟く祭壇上で歓喜の舞を奉納する須世理の赤い紗の領巾が、須佐之男には武沼河の落城の炎と見えた。(完)
〔注〕作中、二首の読人知らずの万葉歌の解釈は、筆者独自のものです。(深津)
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インターネット事務局注記2001.08.30
下記の事項は訂正済み
34号9頁2段目十四行に「決起だ」とあるのは「決戦だ」の誤りです。お詫びして訂正いたします。(古賀)
福岡市 力石巌
七月のある日、京都の古賀達也さんから電話があった。六月十九日、アクロス福岡での古田講演会でお会いして以来であり、すぐ分かった。「君が代」調査の件で、古田先生が「水無鍾乳洞」を実地調査したいので協力をお願いしたいとのことであった。とっさの話に一瞬とまどったが、水無鍾乳洞に這行ったという友人のことを思い出し、承諾した。
その友人(広川君)の話しでは、水無鍾乳洞に行ったのは昔のことで記憶がうすれているというので、さらに仲間二人を加えて四人(広川・井上・須川・力石)で「水無鍾乳洞予備調査」を実施することにした。
七月二十五日、朝十時、一台の車に四人が乗り込み、早良区高取から、室見川上流の野河内に向かった。水無鍾乳洞は野河内渓谷の上流に位置しており、野河内から徒歩で渓谷を上るか、または、前原市井原から瑞梅寺川を逆上り、水無鍾乳洞入口まで車で行く方法がある。「予備調査」では、野河内から徒歩で三キロメートル渓谷を上って鍾乳洞についた。
水無鍾乳洞は井原山(九八三キロメートル)から北北東に発する水無谷(野河内渓谷の上流部)に沿って分布する石灰岩層中に形成されており、長さ二八〇メートル、幅三〇メートル、高低差六〇メートルほどで枝洞を含めた全長は一六〇〇メートルに及ぶ鍾乳洞で、福岡県内では苅田町平尾台の青龍窟(一五〇〇メートル)と並ぶ鍾乳洞窟である。
野河内渓谷は、井原山を背にして右側(右岸川)が石灰岩、左岸側が片岸でその境界に沿って渓谷ができている。鍾乳洞は二つ洞口があり、下流側は第一洞口(標高六〇〇メートル)、上流側は第二洞口(標高六六二メートル)と呼ばれている。洞内への入口は狭く、ひと一人分の出入りがやっとできるほどである。洞内には傾斜した洞窟や広々とした地下空間があり、「七丈渡し」、「奥の院」といった名称で呼ばれている。「七丈渡し」の下層には井原山からの伏流水が洞内で「地下滝」となって落下している。「洞窟内生成物」の発達はあまり進んでおらず、いわゆる石筍は見られないが、カリフラワー状に群生する洞窟サンゴや滴下水がしたたり落ちる天井の部分にストロー状の鍾乳石を見ることができる。洞窟内に棲む唯一の脊椎動物はコウモリで、その排泄物や外から流入する腐食土を栄養源として、目を持たないトビムシ、ヨコエビなどの一センチにも満たない洞窟特有の生物が棲息している。洞内の温度は十度ないし十二度に保たれており、特に、標高の低い第一洞口は、霧を含んだ冷気を吐き出している。
洞口前面には「立入注意」と書かれた立札が埋め込んである。前原市の方では、一般の人には「立入禁止」と返答しているという。洞内はもちろん「暗黒の世界」であり、光を失えば二度と生還できない黄泉の入口である。
われわれ「予備調査隊」は、ぢぢい(広川君)を先頭に、まず第二洞口を目指して渓谷を上がっていった。
古田先生の鍾乳洞調査の日は九月五日と決定した。昼間に鍾乳洞に行き、夜は小講演会をすることになった。われわれ「予備調査隊」は九月五日を待った。「洞窟はどうも好かんっちゃね」。ぢぢいが顔をゆがめながら言った。他の仲間も「古田先生を洞内に案内するのは危険すぎる」と同意見。「しかし、先生は洞内(なか)を見なければならないんだよね」と、わたし。結局、「這入れるところまで行ってみよう」--これが結論であった。
九月四日夜、わたしたちは、飲み屋「味の朋友」で歓談しながら先生を待っていた。先生は下関の前田博司さんのところの講演会の後、来福されるとのことであった。あまりおそいので地下鉄藤崎駅まで迎えに行った。
小学生の二人(アズとチイ)とタカ(犬)の四人で待った。この時刻では改札口を出てくる人は少ない。やがて重い荷物をかかえて、のそっと一人で近づいてきた。古田先生だ。
先生は、久留米の「曲水の宴シンポジウム」以来、福岡、山口両県に滞り、既に秋吉台の秋芳洞、平尾台の青龍窟を尋ねられたという。疲れておられた。「先生の眼はわれわれとは違う、水無鍾乳洞でもきっと何かを見るにちがいない」。そう自分に言い聞かせて、その夜は先生の隣室で寝た。
翌九月五日、朝九時起床、いよいよ本調査の日だ。同行の仲間が「味の朋友」に集まってきた。弁当、ビール、ウーロン茶、作業服を二台の車に積込み出発。第一車、生熊幸吉(運転)、同健一親子、古田先生、わたしと愛犬タカ。第二車には、井上勉、須川郁俊、吉村徹が乗り込んで先導。車は室見川を逆上って吉武、乙石、日向峠を越えて井原交差点を左折し瑞梅寺川に沿って井原山への傾斜面を上った。古田先生には窓外の景観、地形などを見ていただかねばと思いながら、いつの間にか雑談で先生を煩わしていた。
そうこうしているうちに車は狭い山道を谷川に沿って走り、杉林をくぐりぬけて、水無鍾乳洞第一洞口前の駐車場に着いた。駐車場のすぐそばに清冽な水無渓流がせせらいでいた。全員炭坑夫に変身する。古田先生は、須川さんの用意した作業服に着替え、キャップライトを装着した。まず、駐車場に立てられた案内板(水無鍾乳洞のあらまし)を見る。すぐには読み切れない量の説明と鍾乳洞の図や写真が載っている。ヴァンダリズム(カラースプレーによるいたずら)で読みづらい。先日、シンナーで拭き取ろうとしたがおちなかったのだった。ひと通り見おわって、いよいよ洞内踏査を開始した。最初は六〇メートル上の第二洞口から這入ることにして、水量の多い沢を上っていった。予備調査では難渋したが、今回はすぐに洞口にたどり着いた。わたしが先導することにした。洞内の通路は「みち」ではなく「裂け目」といった方が近い。古田先生を列の中央にして洞奥に進入していった。
キャップライトで前方の岩塊を照らし、手で周囲の濡れた岩肌を確認しながら這うように進む。後方から「急がんでえ」と声が響く。二〇メートルほど這入ったとき突然「ギャア」とコウモリがキャップライトに突進してきた。コウモリは噛みつきはしない。古田先生にライトを向けると黙々とついてきている。足元で光っている目は愛犬タカだ。うづくまっている。このあたりから、そろそろメタンガスが充満する、やや広い洞窟に近づいているはずだ。予備調査のときには、爆発、窒息、酸欠の恐怖で断念するかどうか思わず顔を見合わせた場所だ。今回、ガスは発生していなかった。先に進んで「七丈渡し」の近くまで達した。その先の通路は、まっさかさまに裂け目が突き抜けている。クレパスだ。足場となる岩塊はない。落ちたら一巻の終りだ。全員、一見しただけで、「ここが引返し点」であることを納得したのであった。駐車場へ帰って小休息した後、第一洞口に這入ることにした。
第一洞窟も第二洞窟に劣らず狭隕な通路である。しかも冷凍室の中のように冷気が充満している。三〇メートルほど這入ったところに、お地蔵さんが二体安置されていた。予備調査のときには発見できなかった。やはり遭難者がいたのだ。ここで写真を撮り、二〇メートルほど先に進んだ地点で引き返すことにした。洞窟の外へ出ると雨が降り始めていた。昼食はまだで皆んな少し疲れ、無口で車に乗った。午後一時を過ぎており、下山して二丈町一貴山川中流の夷魏寺跡、仁王門で昼食にすることにした。水無谷の水量は多く、決して「水無し」ではない。「水成し」ではないだろうかと古田先生は言った。
「仁王門」は、聖武天皇の神亀元年(七二四年)に建立されたとされている。一貴山川上流には、かつて多数の寺院があったと伝えられるが今は消滅して建跡のみ残されている。
夷魏寺が廃絶させられたのは何故か、九州王朝との関係があるのでは、と思った。
仁王門には二体の木製の仁王像が立っている。そばには根の直径七~八メートルの楠の大木がそびえている。その枝の下に座り弁当を開き、遅い昼食をしながら先生の話しを聴いた。調査というより遠足の気分であった。
午後四時頃、「味の朋友」に帰り着いた。五時からは古田先生の講演会が始まる。会場は早良口会館、地元の小さな集会場で、二~三〇人収容できる。マイクはいらない。先生にとっては珍しく少人数の集会であった。十八人が集まった。講演の中心話題はもちろん、「君が代」である。
「君が代は千代に八千代にさざれ石のいわおとなりてこけのむすまで」
千代は御笠川による太宰府と志賀島との中継点(港)であること。いわおの「お」は原文通り「ほ」が正しいこと。また、「ほ」とは、火のほ、稲ほ、槍のほ先などの「ほ」で、まるみを帯びて先のとがっている形態を示す語尾である。さざれ石のいわほとは、鍾乳石の超長期間の形成過程を含めた縄文期における概念ではないだろうか。また、「君が代」と対比して「花散らふこの向つ嶺の乎那の嶺の洲につくまで君が代もがも」の説明や鏡の鈕孔の形態など新しい話題で夕食時間三〇分をはさんで熱弁され、「群評」の質問が出されたときは、ほぼ九時になっていた。充実した一日であった。予備調査の仲間や会場で手伝って下さった方々のおかげであった。
九月六日、早朝、古田先生は下関へ立寄るとのことで、朝食も好きなコーヒーも抜きで出発された。藤崎駅まで歩きながら先生の話しを聴いた。「志摩町の姫島は『古事記』にいう女島(ヒメシマと読む)とは違う可能性がある」といわれた。「--次に女島を生みき亦の名を天一根といふ」と『古事記』にある。姫島の港の鳥居には「天一根」と印されている。先生は切符を買った。お持ちしていた荷物を先生に手渡すと笑顔で握手して下さり、ラッシュ時のサラリーマンに混って地下ホームに降りて行かれた。(終)
平成十一年九月三〇日
水無鍾乳洞に向かう車中で古田先生に話したこと、またその後で考えたことについて補足したい。
一、背振山脈には東から、背振山、金山、井原山、雷山、羽金山、浮嶽と千メートル級の山が並んでいる。その急傾斜面のつらなりは、まさに「たたなづく青垣、山隠れる」と歌われた通りの景観である。また、南の佐賀県側では北側とは反対に、長く、なだらかな斜面となっており、「坂(佐嘉)」の国の呼称がみごとに言い当てられている。「おさかのおほむろやに、ひとさわにきいりおり」と『古事記』にある通り、佐賀県は「坂」の国だ。
二、井原、作出、瑞梅寺ダムと車は上っていった。瑞梅寺という地名はあれど、寺は残っていない。「井原」、「早良」の語尾「ら」は、複数形を表す日本語ではないか(英語のSのように)、例えば瓦(皮ら)、鯨(串ら)、こけら(苔ら)、なぶら(魚ぶら)などのように。ただし、空、浦、腹などの「ら」は語尾ではなく、「そら」でひとつの日本語となっている(英語のロバ
ASS が複数でないように)。だから「浦」の複数は「うらら」である(ASS の複数がASSES であるように)
従って、井原は「岩ら」(岩がいっぱいあるところ)で早良は「沢ら」(沢がいっぱい集合しているところ)となり、地理的事実と見合っている。
三、語尾に「び」の付く言葉は多い。アイウエオに「ビ」を付ければ、「エビ」と「オビ」ができる。カキクケコに「ビ」を付ければ「カビ」、「キビ」、「クビ」といくらでもできる。しかし、これらの「ビ」は接尾語ではないようだ。二音で一つの言葉を表しているように思える。
一方、帯、蛇、蕨、鮑、鳶、海老などは「ぐるぐる回る」、「巻く」、「累線状に曲がる」などの状態を示しているように思える。わたしのふるさと(高知)では、竹竿の先を割って小枝を挟み、柿や栗の成る枝を割目にはさんでねじ回してちぎり取る道具を「わらさび」という。竹竿をぐるぐる回すからだと思う。
四、「いわほ」の「ほ」には、ふっくらと丸みを帯びて先が尖っている状態を示す、と考えた。「ほ」にはさらに多くの「類縁語」があるのではないだろうか。例えば、帆、幌、鉾、頬、法螺、女陰、襃む、跨り、火垂、黒子、綻び、惚る、膨れる、腫る、孕む、吹く、ほのぼの、ほろせ(蚤や蚊にさされた膨れ跡)………。
この辺で雑学を止めることにする。講演会の後、古田先生との話は古代史から戦後史に跳び、深夜まで及んだ。
今回のイベントは、われわれにとって、忘れられない経験となった。この機会を与えて下さった古賀達也さんにお礼を申し上げます。
補〈完〉
□□書評□□□□□□□□□□□□
藤田友治著 ミネルヴァ書房 一九九九年九月十日刊 二八〇〇円
古田武彦
--一九九九、九月二十八日、午前四時、永眠---
□□事務局だより□□□□□□
▼8~9月にかけて、古田先生は超ハードスケジュール。そして届いた喜八郎氏の訃報。先生の御落胆はいかばかりか。
▼福岡市の力石さんからも力作を頂いた。常連とは又違う「味」を堪能していただけよう。
▼前号の吉森稿への反論が室伏氏より寄せられた。会員間の友愛に基づく論争を期待したい。
▼前号の総会報告の役員紹介で「会計監査太田斉二郎」が抜けていました。お詫びします。(古賀)
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』第一集〜第四集(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)第一〜六集が適当です。
(全国の主要な公立図書館に御座います。)
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