古田史学会報一覧 へ
高良山の「古系図」 「九州王朝の天子」との関連をめぐって 古田武彦


1999年12月12日 No.35

古田史学会 三十五号

発行  古田史学の会 代表 水野孝夫


□□ 遺稿 □□□□□□□□□□□□□□□

北天の誓者は強し 和田喜八郎
_________

故和田喜八郎氏に捧ぐ 誤字「屈ける」の証言 京都市 古賀達也


「日本」という国号に関する一考察

向日市 西村秀己

 「日本」という国号は、いつ・どこで・だれが・なぜ名付けたのであろうか。そして、それにはどういう意味が込められているのだろうか。
 史料はあまりにも少なく、これを論じようとすればある程度想像に頼らざるを得ない。しかしながら恣意にまかせた想像ではなく、その想像に論理の手綱をしっかりと付けるならば、或いは諸氏に納得して戴けるものとなるかもしれない。とは云いつつも、以下に述べることは妄想の域を出ていないのかもしれない。批判を待つ所以である。また、寡聞にして知らないことながら、先行説があれば、お知らせ戴ければ幸甚である。
 旧唐書日本伝にいわく
1. 日本国は倭国の別種なり。
2. その国日辺にあるを以て、故に日本を以て名となす。
3. あるいはいう、倭国自らその名の雅ならざるを悪み、改めて日本となすと。
4. あるいはいう、日本は旧小国、倭国の地を併せたりと。
 これによれば、まず倭国=九州王朝が「倭」の名を嫌い、国が日辺にあることを理由として、「日本」と改称した。その後、倭の別種にして小国だった勢力が日本を併合し、その国名を継承した。と、いうことになる。
 では、その改称の時期はいつであろうか?
 国名とは国家の基本であり、そう軽々しく変えられるものではない。例えば、建国の時 1.、絶対的もしくは相対的に国家の勢力が拡大したと考えた時 2.、或いは国家の内外の大事件に関し改称が必然のこととなった時 3.である。とすればそのチャンスはこの時代僅かしかない。

a 多利思北孤が天子を称した時・ケース 3.
b 白村江の戦いに敗北し、唐に臣従を誓った時・ケース 3.
c 文武が正式に天皇位に即いた時・ケース1.
 まず、倭国が自ら改称したとされているので、七〇一年以前ということになる。従ってc案は即座に否定される。
 次にa案を検討してみよう。倭国王多利思北孤は「日出處天子」を称したのであるから、自国を宗主国と認識していたことは疑うことが出来ない。ところが古来より中華において宗主国の名称は全て一字国名なのである。念の為列挙してみると、
 夏・商(殷)・周・秦・漢(前漢)・新・漢(後漢)・魏・呉・漢(蜀)・晋(西晋・東晋)・宋(劉宋)・斉(南斉)・梁・陳・魏(北魏・西魏・東魏)・周(北周)・斉(北斉)・隋・唐
 勿論()内部の東西南北や前後は後世の歴史家たちの分類名であり、当事者たちが名乗った訳ではない。そして唐以降も、
 梁(後梁)・唐(後唐)・晋(後晋)・漢(後漢)・周(後周)・宋(北宋・南宋)・遼・金・元・明・清
と、二字国名は一例も無い。尚、大唐・大宋等の名乗りは美称の一種であり正式国名ではない。
 さらには、宗主国のみならず天子に臣従した国々も、自国を中華の国と認める限りにおいて、一部(春秋時代の中山国・五代の呉越国等)を除き一字国名なのである。
 では、二字国名(三字も含む)の付けられた国は、
匈奴・月氏・突厥・吐蕃・大理・契丹・女真・蒙古・柔然・高句麗・新羅・百済・朝鮮 等、
中華から見た夷蛮の国々なのである。
 以上の事実は多利思北孤にとって常識であったと思われる。従って、天子の国「倭」がわざわざその一字国名を嫌い、「日本」という二字国名を採用するとは到底思われない。
とすれば、その改称時期は最早明白である。対唐戦に敗北しつ、君主を捕虜にされ、唐の進駐を受けた白村江の戦い直後ということになる。宗主国として戦いに臨み敢無く敗北した倭国は、講和の条件の一つとして一字国名を返上し、唐に媚びたのである。但し、これは改称時期を六六三年に特定するものではない。講和の条件交渉にかかった月日もあろうし、約束を交わしてもその実行に費やす時間を無視することが出来ないからである。
 では、国名改称の実行者は誰であろうか?
 白村江以降九州王朝は君主を欠いていたのだろうか?まず有り得ないことだ。慮囚と成り果てた薩夜麻に替わってその縁者が擁立された筈である。擁立した者は、その後の経過から考えて、おそらく列島内において実力ナンバー1であった天智であったに違いない。後漢の献帝と曹操の関係を想像すれば容易に首肯出来るであろう。そして、新しい君主を筑紫の唐進駐軍の真只中に残して、天智は近畿に居たのだろうか。これも考えられないことだ。必ずや新君主を近畿に伴ったであろう。であるならば、国名改称は倭国の宰相たる天智の手で近畿において行われた可能性が高いこととなる。
 最後に「日本」の意味を検討してみたい。 旧唐書には「日辺にあるを以て」とある。あるいは多利思北孤の「日出處」から採用されたのであろうか。考えてみよう。当時の列島人に自分たちの暮らす土地が「日辺」という認識があったのだろうか。列島人にとって太陽は太平洋から昇り東シナ海に沈むものである。つまり太陽運行上の中心に列島が存在するのであって、それ以上でも以下でもない。列島が「日辺」にあるとは、中国人の認識なのである。そして多利思北孤の「日出處」は隋唐との対等用語であるが故に、国名の改称動機から考えると採用出来ない。
 もし、当時「日」と「倭(委)」が同音(ヰ)だったとすればどうであろうか。現在でも「日」=nichi「壹」=ichiであり、nの有無の差だけである。さらに、訓読では全く同音のhiが使われている。また、古代においては日本語と朝鮮語は非常に近い言語であったとされているが、現代朝鮮語では「日」=同じハングル文字、「壹」=同じハングル文字 つまり同音(il)なのである。朝鮮語において、過去異音だったものが時代を経て同音になった等と考えられるだろうか。言語はその対象となる事象が歴史を下がるとともに増加し、自然複雑になっていくものである。従って、過去異音だったものが同音となることよりも、同音だったものが異音になるほうが圧倒的に多いのではなかろうか。とくに「日」や「壹」のような基本中の基本とでもいうべき言葉ならなおさらであろう。とするならば、古代朝鮮語においても「日」と「壹」は同音であったとみるべきではなかろうか。こう考えると当時の列島では「日」と「壹」と「倭(委)」が同じ音をもって使われていた、という想像はあながち無謀とは言い切れないだろう。
 では、「日本」とはどういう意味か。「日本」は「ヰ本」なのである。『唐によって敗亡のうきめにあったヰはもう九州にはない。今後はこの近畿こそがヰの本国すなわち「もとつくに」なのだ。』天智はこう主張して「ヰ本」と改称し、ヰの字にあてて「日」を使用したのであろう。勿論、数々のヰ音を持つ漢字の中から「日」を選んだについては「日辺」のイメージや太陽信仰の影響は否定できない。
 最後に放恣に想像の翼をはばたかせてみたい。もしかすれば、もともとこの弧状列島に棲む民族は自らを「日の民」として「ヰ」と名乗ったのではなかろうか。そして、彼らに接した大陸人たちはこれに「委」の文字を与えたのではないだろうか。


古田史学とは何か12

幻想史学は古田史学への反旗か(後編)

大阪府泉南郡 室伏志畔

古田史学と幻想史学

 吉森は「『幻視』とは『想像』、『幻想史学』とは『想像による歴史ロマン』」と勝手に解説した上で、室伏幻想史学は「これはもはや学問とはいえるものではない」とお墨付きをくれる。だれでも現実をちゃちな妄想にでっちあげることによって否定することはたやすい。しかし現実はあるがままに厳然とあるように、室伏幻想史学も幻視も吉森妄想とちがって古代の共同幻想を踏まえてそそり立つものであることはいっておかねばならぬ。
 吉森は幻想史学は「古田史学を学んでいる学徒としてのとるべき方向ではない」という。私は会員の誰一人として幻想史学に誘った覚えはないし、会員から本質的な批判を受けたこともないことは言っておいた方がよかろう。その上で、「古田史学とは何か」と吉森に聞いてみたい気がしないではない。古田史学は真理なのか。それは古代史を明らかにする仮説以上に絶対化すべきものではあるまい。かつて唯物史観は傲慢にも真理を独占したため、今は見る影もないのである。学問史は仮説の提出の歴史であり、もっとも整合性に富む仮説体系が時代をリードするのであり、今、古田史学は古代史の学説として恐れられ尊ばれる理由もそこにあろう。しかしどんな学も個的な時代的制約を免れないことを吉森は忘れている。
 幻想史学はその一点に問いを集中することから生まれた。六〇年代の吉本隆明の言語論を始めとする幻想論が知的世界を席巻し、七〇年代に入るや大和朝廷に先在する九州王朝論を説く古田史学と、記紀を八世紀の律令国家のデザインのひとつとした梅原猛の日本学が新たな知のパラダイムを作り、もはや一つの理論をもって現代を説明するのは不可能なことを深く教えた。これらの優れた理論とたやすく心中するのではなく、その個的な枠組みを取り払い、それらを等価なものとして時代の最先端の知の中に解体し、方法としてより高度なものとして錬磨するとき、古田史学はどう面目一新し、新たな時代にさらに高く羽ばたくだろうか。つまり未来のあるべき古田史学の模索の中から幻想史学は生まれた。
 そこから幻視という考えもまた生まれたのである。歴史が繰り返されるなら、現代にある諸現象は古代にあっても一瞬、生起したとするところに成り立つ、それはあるかなきかの危うい観念であり、実体化することは許されないものであった。その古代の真実を幻視せんがため、記述者はどんな思いをこの文字に込め、この語彙をそこに置いたのかと記紀文献の紙背の真実に迫ろうと、どれだけの論理と想像力が動員されたかはいうまい。その幻想史学の試みを「思いつき」や「想像による歴史ロマン」にしか回収できないことによって、吉森は自身の偏った知のつけをいま支払っているのではないのか。
記紀文献等の指示表出の真偽を確定し、史識に到達できなかったとは到底思えない」ひたすら思い込み、編纂者や記述者の思惑である自己表出(幻想表出)の内に指示表出がどう取り込まれ、どう張り付けられてあるかを読み取ることを怠って、歴史の復元をいうのはおこがましい。正史ほど時代の権力者の思惑(共同幻想)の内にあるものはないにも関わらず、その確定を怠り、ただ文献実証する史学とは何なのか。そのお目出度さに耐え得ず、幻想史学が生まれたことを吉森は本当に見てくれているのか。
 吉森は六、七〇年代の諸学の成果の上に古田史学を解体し、新時代に向けて再構成しようとする幻想史学の意図が読めないから、古田史学と無縁に見えるのである。私は古田武彦とその学を深く敬愛しても、ただそれに追従する恋愛一途型でないのは、さらなる新たな仮説の構築なくして古田史学の明日はないとする第一義の問題に関わる。

 

吉森「古田史学」の党派性

 最後に吉森は吉本隆明の業績について、ほとんど著作は読んでいないとした上で、「吉本氏の論説は、所詮古田以前の学問の上に到達した最高点にすぎない」という。研究したるなどと口が裂けても言うまい。ただ黙って読んだこともない吉本へのこの論断は、室伏幻想史学以上の独断と偏見に満ちた「幻視」である。しかし幻想史学の幻視は少なくとも最少の文献には当たっており、気楽な吉森式「幻視」ではない。せめて文献を読み込む労を吉森に望まないではおれないではないか。
 吉本の『共同幻想論』に古田史学を対比して吉森は「古田氏の『子供にも解る』明快な論理展開に魅かれてここまで来た。古田氏が『子供には理解不能と思われる』吉本氏の『達成』を踏まえなければ、あの新たな歴史認実を解釈することこそ史学のあるべき姿だと啖呵か寝言かわからぬことをいう。これは仲間内で見逃されても、世間で通用する文章ではないのだ。吉本は話し言葉への絶望を書き言葉に持ち込み今を成した人である。古田は話すことの先に書くことをさらに充実させた人だ。このまったく違う文体の実現によってそれぞれの領域で秀れた成果が刈り込まれたのである。その一つを欠いて現代を語りえないのは、あの権謀術数渦巻くルネッサンスをレオナルド・ダ・ヴィンチなしで、またミケランジェロを欠いて語りえないのと同じである。たやすく理解されることを拒否した『固有時の対話』や『マチウ書試論』への理解なくして、吉本が主宰した少数者のみを頼みとする『試行』の意義は考えられない。同様に開かれた言葉をもってした古田史学は、かつて千近い人数を『市民の古代』に集め、いま「古田史学の会」を始め多くの会を組織したとはいえ、それは玉石混淆した集団ゆえに、思わぬ混乱をかつて抱えたように、いまもたやすく混乱する矛盾から自由でない。
 まったく違う領域での業績である前提を忘れ、吉本の古代史認識は古田史学に劣ると吉森は裁断するが、私の知る吉本隆明研究会のメンバーは決して古田の言語理解は吉本に劣とは思えない八卦への断定といい、たいして古田の高度な歴史理解の知見を喜んで取り入れるだけである。同時代における隣接諸学への理解を欠き、その必要すら認めない吉森の多元的史学の追求とはそれ事態、一個の自己矛盾でしかない。吉森はかつてのあらゆる秀れた高説への狂信が招いた不幸の数々を見ながら、古田史学を絶対化することから生じる未来への危惧が見られない。古田史学の会はもちろん古田ファンを集めながら、それぞれの会員の孤独な営為を尊重する中で、普遍的な古代史像を明らめるものではないのか。
 転向を「日本の社会構造を総体のヴィジョンとしてつかみそこなったために起こった思考変換」とした吉本の高名な転向論に従えば、吉森は古田史学以外に目を閉ざす知の鎖国を説くことによって、古田史学の会員に明日の変節を用意し、敗北への道を善意で敷きつめてはいないか。あらゆる言説は自説を相対化する批評精神なくしてついに空しい。
 吉森よ、古田史学をどう理解するかは勝手だが、古田史学を現在の最も高度な諸学の達成において解体し、明日のための古田史学に再構成しようとする幻想史学の試みもまた古田史学の理解の一つなのだ。それを古田史学とは無縁であると宣告し、排除する権限は会員の何人にも許されてはいない。それこそが古田史学というに及ばずあらゆる真摯な学問研究の場から解消すべき党派性であることはもはや自明である。(H十一・八・十三)


染色化学から見た万葉集紫外線漂白と天の香具山 京都市 古賀達也


◇◇連載小説『彩神(カリスマ)』  第八話◇◇◇◇◇◇
   翡翠 (1)
−−古田武彦著『古代は輝いていた』より−−
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇ 深 津 栄 美 ♢♢
  ◇      ◇
〔前回までの概略〕古代出雲の王子の一人八千矛(やちほこ)は、因幡の八上(やがみ)との間に息子木俣(くのまた)を設けていたが、八上を狙う蛮族に迫害され、行き倒れていたところを救ってやった布津(フノヅ)老人の援助で、母子は白日別(しらひわけ・現北九州) の親族の許へ、八千矛は大王(おおきみ)須佐之男の許へ逃れ、彼の娘須世理(スセリ)と恋仲になる。が、この布津老人は、かつて出雲軍に許嫁(いいなづけ)を惨殺された、三ツ児の島(現隠岐の島)の王羽山戸(はやまと)の変装だった。間一髪、報復を逃れた須佐之男は、父を暗殺して事の元凶となった越(こし=現福井〜新潟)攻めを決意する。

   ◇   ◇

 鏑矢(かぶらや)が壷を砕いた。黒や灰色の液が飛び散り、松明(たいまつ)が片端から叩き落とされる。悲鳴を上げて逃げ出す人々は白衣の裾を火に取られ、頭から溶けた鉛を浴びせられ、倒れ伏す女や老人、子供達の泣き声は蹄(ひづめ)に踏みにじられた。女達の中には男に混って裾をはしょり、矛や短剣を振るって勇敢に敵に立ち向かう者もいたが、青銅の弓矢の前には黒曜石の礫(つぶて)は歯が立たない。或いは髪の毛や四肢をつかまれて馬上に拐(さら)られ、或いは獣の牙にかかり、又、ある者は数人がかりで暗い隅へと引摺り込まれた。

「嫌、嫌ーア!」

赤銅(あかがね)の腕の中で黒髪がもがき、

「やめて、やめてよ。母様が死じまう…!」

いたいけない少年が取りすがっては、悪鬼のような形相の兵士らに突き飛ばされ、その向こうでは八千矛の指図で新たな一団が、神殿から酒瓶や太刀など山のような戦利品を担ぎ出して来た。

「翡翠だな。」

 八島士奴美(やしまじぬみ)が深く透明な緑の光に目を凝らし、

「どれにも蛇(じゃ)が刻まれているね。」

 やはり赤銅の甲胄に身を固めて夫や弟について来た須世理が、奔放にくねる皿小鉢の縁飾りを眺める。同じ蛇信仰といっても、大国(おおくに)の雄渾(ゆうこん)さとは違い、越の彫刻や文様は繊(こま)やかで柔和な感じがする。信仰の中心を成す白山(はくさん)の主(あるじ)が女神(にょしん)だからだろうか?

「ここの長(おさ)は誰だ?」
「これだけの翡翠をどこで手に入れた?」

 八千矛は、兵士らが連行して来た巫女(みこ)達に問いかけたが、返事はない。いきなり侵入(おしい)って来て村を襲い、町を破壊し、神殿を焼討ちした他処者(よそもの)などに、「聖域」のありかを知られてなるものかーーと言いたげな表情が、誰の顔にも読み取れる。

「正直に答えねば、痛い目に会うぞ。」

 八島士奴美が近くにいた巫女の首を締め上げようとすると、六十から七十の間(当時は一年に二回年を取る二倍暦。従ってこの場合は六十、及び七十を二で割って、三十から三十五才の間という計算になる)に見える相手は気品に満ちた美貌にも関わらず、彼に唾を吐きかけた。

「この女(アマ)ーー!」

思わず八島士奴美が巫女を殴り飛ばすと、

「無礼者!」
「伊怒(いの)様に何て狼藉(ろうぜき)を!?」

 他の女達の眉が、一勢にはね上がった。

「伊怒様というと、おぬしがここの主か?」

 八千矛が、伊怒と呼ばれた相手を覗(のぞ)き込むと、

「私は巫女(かんなぎ)の長に過ぎません。」

女は、八千矛の無知をなじるように言った。

「では、大王はどちらにおわす?」

八千矛は改めて尋ねたが、伊怒が再び口を閉ざしたので、

「我々とて被害を拡大したくはない。一刻も早く長にお目にかかって、和睦を取り決めたいのだ。しかし、おぬしらが長の棲家(すみか)を告げてくれねば、戦火(ひ)は燃え広がるばかりなのだぞ。」

 と、言葉を継いだ。けれども、女達はそっぽを向いたままである。

「ここの輩(やから)は、思い切った手で臨まねば、埒(らち)があかないかもしれませんな。」

八島士奴美が囁(ささや)き、須世理が出し抜けに一人の少年を抱え込んで、首に刃(やいば)を突きつけた。さっき、伊怒が兵士らに暴行されかけた時、必死で防御しようとした少年だ。

「お待ち下さい、その子だけは−−」

果して、伊怒の顔色が変わる。少年が伊怒の息子であるのは明らかだ。

「では、長の居場所を教えて貰(もら)おう。」

 須世理が凛(りん)とした声で言った時、後方で又も女の叫びが起こった。

(続く)
〔後記〕八千矛が後に、彼の家は神魂命(かもすのみこと)の宮殿と同じだ、とケナされる因になったという「越攻め」を取り上げてみました。越と出雲は地続きですから、衝突があっても不思議ではありませんが、白山に女神が登場するように、現長野県には月を女神として祭る社が多い、と先日、旅番組で紹介されていました。月が死神と恐れられるようになったのは、古代中国(玉帝国)や九州王朝の影響だけでなく、縄文期を代表する女神信仰否定の意味もあるでしょうか。特に仏教では、女を汚れた存在(もの)と見成しますから。
(深津)

*   *   *   *   *
〔編集部〕深津さんの連載小説「カリスマ」も今回より第七話「翡翠」へと入りました。互いに深い関わりを持ちながらも、次々と入れ替わる登場人物たち。興味は尽きません。それにしても、当原稿入力の度に思い起こす歌があります。中島みゆきの「泣かないでアマテラス」(CD「10WINGS」収録)です。 君をただ笑わせて 負けるなと願うだけ 泣かないで 泣かないで 泣いて終らないで と絶叫する中島みゆきの名曲です。歌詞の内容は、より弱者であるはずの「天細女命」がアマテラスを励ますというものですが、岩戸開きの説話をこのような視点で歌ったのは、中島みゆきが初めてで、実は「現代の女達」をも励ましている歌なのです。----なお、前号9頁2段目十四行に「決起だ」とあるのは「決戦だ」の誤りです。お詫びして訂正いたします。(古賀)

********************
白鶴(しろたづ)・の歌

−−−和田喜八郎氏に−−−

町田市 深津栄美 作

白銀(しろがね)の光放ちて 蒼(そうきゅう)を 貫き居たる 「世界の屋根」(ヒマラヤ)を勝利表すV字形 成して廻(めぐ)れる白鶴は 古(いにし)え 麓の世継の君に 嫁げる姫の化身とぞ 若き二人は 今生の契りも深く 交わしたれど 互いに山の覇者たらむとす 国の間に戦の火 燃え上がり狂い 仇敵の間者(かんじゃ=スパイ)と疑われ 姫は遂に 実家(さと)へ追い返さるるなり 別れの際(きわ)に姫御前(ごぜ)は 「嵐猛(たけ)ても 吾(あ)は永遠(とわ)に 汝(な)がものなるを 白鶴と生まれ変りて 陰日向(かげひなた)に 汝(なれ)と子孫(うから)を守らむ」と 涙ながらに誓いおき
故国(くに)への尾根道辿るれど疑い深き舅(しゅうと)の刺客に 不意を撃たれ 渓流(たに)の藻屑と失せ果てぬ されど 飛沫(しぶき)の悉(ことごと)く 白鶴と変じて舞い上がり己(おの)が命を奪いたる 卑劣漢の目を抉(えぐ)り 谷底の奔流へと突き落し 来し方へと馳せ参じ 妻への情に溺れ込み 使命怠(つとめおこた)る売国奴と 父に誅(ちゅう)さる皇子拐(みこさら)い 山の彼方(あなた)へ翔(かけ)り去る 今年も冬の来たりなば みちのくの国原に 白鶴の群集いしが いずれが 戦の犠牲(にえ)と消ゆ 王子か姫か はた 尊き古文書守り 天に召さるる 翁(おきな)の御魂(みたま)かと 秘かに思う 我なり

《チベット民話より》

〔返歌〕
 白鶴は今年も集い来たりいて一羽多きは古文書の守(も)り番たる翁
(平成十一年十月二十七日)
日本国際教育学会大会(同志社大学)に参加して

真実の学問には、真実を愛する人が

交野市 不二井伸平

「真実追究の朋あり。遠方より来る。また楽しからずや。」
 かつて国文学の中小路駿逸先生が、そして今、国際教育学の西村俊一先生(東京学芸大学教授)が、学問の正しい方法、ある意味ではごく当たり前の学問の方法を持って、私たちの目の前に登場されました。
 一九九九年十一月七日(日)、京都今出川、同志社大学至誠館で行われた日本国際教育学会第十回記念大会二日目のことでした。朝早くから古田先生と、古田史学の会6名で参加しました。国際教育学会の会長でもある西村俊一先生、しかし、自ら他の発表者と同じ持ち時間、同じ発表形式でご自分の研究を発表されました。研究は肩書きではない、を自ら実践されているのです。ご自分の研究を客観的に会員に提起。

 研究題目は「日本国の原風景」、副題として--「東日流外三郡誌」に関する一考察--とあり、「和田家資料」に言及されたものでした。 ごく当たり前の学問の方法で「東日流外三郡誌」を中心とした「和田家資料」に対されたとき、俗に言う「真書・偽書論争」、私がいつもいう「学問、日本文化研究に対する恥ずべき妨害(ドロケチ)問題」が、何であったかを正しく把握された研究でした。「和田家資料」関連の書が一冊も出版されていない朝日新聞社に対して、的はずれな「偽書(ドロケチ)論」で難癖をつけたドロケチ研究の頭目が、実は「和田家資料」を実見していない、また故和田喜八郎氏本人からの聞き取りさえしていないというでたらめさ。最初から古田史学などとは縁のない人間と見ていた原田実に至っては、「和田家資料」実見、故和田喜八郎氏本人と面談しているほとんど唯一の偽書派にも関わらず、愚かな頭目のドロケチ論を引用して偽書論展開。真書と判断するしかありえないため、実見面談からの偽書論を展開できなかったことになり、全くの恥さらし。このような状況を西村先生は正しく把握されていたのです。

 研究当初、西村先生は、安藤昌益の研究を進める中で、偶々「和田家資料」を実見されたとのこと。そして、学者として、真書・偽書派のどちらに立つこともなく自ら「和田家資料」実見、喜八郎氏と面談、浄円寺住職からの聞き取りなどをされるうちに、今日の状況がわかってこられたのです。西村先生は、真書・偽書問題ではなく、当たり前の学問の方法で、「和田家資料」に対してこられました。その結果としての今回のご発表は、「学問・日本文化研究に対する妨害」をなす者にとっては、「おぼれる犬をさらに打つ」恐ろしい棒に見えることでしょう。これから後、「おぼれた犬」が西村先生に吠えつくことがあるかもしれません。でも、楽しい会食の後(大会後西村先生と夕食を共にしました)、「そんなこと恐れません。私は私の文章に責任を持ちますから。」の力強い言葉。古賀さんと私が出町柳の方へ古田先生と別れて行きかけたとき、「古田先生、一人で(帰られるの)。」の言葉。優しい心遣い。古田先生と同じ向日市にお住まいの西村秀己さんが古田先生を送って行かれることを知って安心されました。
 
会食の中で、「寛政原本」がなくても「東日流外三郡誌」研究はできる(西村)が、あればなお深まる(古田)話なども出ました。「寛政原本」が出る出ないが真書・偽書判定になると勘違いもしくは憂えなくてもよい。「古事記」の原本ありますか。「古事記」偽書説もある中で、原本がないから研究してはいけない、研究できないなどと誰が言いますか。明治大正写本、十分に研究は成り立っています。その上に「寛政原本」があれば、なお素晴らしいこと。こんなことを考えながら西村・古田両先生を囲んでの楽しい会食となりました。

 古田史学の会副会長の山崎さんが次のように言われたことがあります。「学問の次元の論理性が権力者を襲うことがある。」と。あらゆる情報手段(政治)を使って偽書攻撃を続けたきた妨害が、たった1冊の書、『新・古代学』(第1集)によって命脈を絶たれました。政治の次元(NHK、新聞、右翼雑誌、盗資、裁判)とは別に、学問の次元の論理性があることを私たちは目にしました。そして、今、西村先生の研究が出ることで、なおいっそう「学問の論理性」が妨害(=政治)を追いつめる様を見ることができます。悪いやつは真実が広がることを恐れる。こんな言葉があっても、いつも悪いやつはそれでも平気。しかし真実が無力でしかなかったあきらめの時代から、真実がそれだけで力を持って動き出す時代に移行しつつある今、西村先生の研究は、さらに私達に勇気・元気を与えてくれそうです。

〔編集部〕本稿で紹介された西村氏の研究発表の要点の一部をレジュメより抜粋します。
「(古田武彦の)『九州王朝説』は(中略)、今や旧来の正統史学を沈黙に追いやる気配さえある。」「専ら世論操作を狙った悪質なキャンペーン文書は論外」「『偽書』論者の真の狙いは、『東日流外三郡誌』を含む一群の『和田家文書』の真偽如何の問題よりも、むしろ『九州王朝』研究を妨害し、その影響力を殺ぐことにあるのではないか」「学問倫理が次第に崩れる傾向にある」「それは何も歴史学の分野に限ったことではない」「情報戦が全てを決するといった乾いた発想が、あらゆる学問領域に浸透しつつある」「ある古代史認識が現実の国際教育に思わぬ影響を与える」「国際教育学は、特に現在揺らぎを示している古代史研究に十分目配りしていく必要がある」文責・古賀

インターネット事務局2002.8.20
この西村報告は、寄稿『日本国の原風景』 としてインターネットに掲載されています。


高良山の「古系図」 「九州王朝の天子」との関連をめぐって 古田武彦


孝季眩映 (「土崎湊日和山」その後) 菅江真澄が見た「日和山」  奈良市 太田齊二郎


筑紫王朝の衰亡を考える

尾張旭市 斎田幸雄

 倭国が滅び日本国が唐に公認された時期が七〇一年であり、統ての権力は大和朝廷に掌握され、年号、地方制度、通貨の発行等がスタートした。然し、この時期一斉に諸権力が移行したのであろうか、否。筑紫王朝がなお余命を保ち、大和朝廷と並立している間(六六二〜七〇一)であっても、王朝相互の力関係(戦力)により権力の移行し得ること論を俟たない。天武十二年には銅貨の鋳造を、同十三年(六八四)「八色の姓」の詔により筑紫王朝全員の冠位剥奪を、翌年十一月には同王朝の軍器の収公を、また朱鳥元年には徳政令等を強行し、(注--『新・古代学』4集、筑紫王朝の終焉を語る、参照)また年号を朱鳥と改める等、七〇一年以前既に国家主権の実践を内外に誇示しており、唐側の新国家公認を迫ったのである。
 また、持統四年(六九〇)九月、筑紫の兵士大伴部博麻が白村江の敗戦(六六二)により捕虜となりこの度帰還したのに対し、翌月持統帝は詔して、「筑紫の兵士博麻は、筑紫君薩夜麻等の帰還の費用に充てるため身を売り、三〇年の苦役を経て漸く筑紫国上陽口羊*郡(福岡県八女市)の故郷に帰還したが、その労に報い務大肆の位と、水田四町其の他を博麻にの故郷にて賜わる。」と褒賞された。が、この事実こそ、この時期既に筑紫王朝の存在は形骸化し、王権は実質的に大和朝廷が掌握していた証であろう。この詔勅が筑紫王朝のそれの換骨奪胎でない限りは。


「君が代」九州王朝讃歌説

京都新聞が大きく紹介

 会報三三号で古田先生の『「君が代」は九州王朝の讃歌』が産経新聞の書評覧に取り上げられたことを紹介したが、九月三〇日の京都新聞朝刊にも7段組記事で、「君が代」のルーツとして古田説が大きく掲載された。京都新聞は京都滋賀地域を代表する有力地方紙であるだけに、同紙に掲載された影響は大きい。
 一元通念に執着する歴史学界とは対照的に、近年、古田説を公然と支持する有識者が後を絶たない。本号で不二井氏が紹介された日本国際教育学会々長の西村俊一氏(東京学芸大教授)、『新・古代学』4集で古田氏と対談された国際的な経済学者・森嶋道夫氏(ロンドン大学名誉教授)、同じく経済学者で古田説に立つ論文を発表された川端俊一郎氏(北海学園大学大学院教授)などの諸氏である。また、『日本を元気にするために』並木信義著(毎日新聞社刊)など、古田説を支持紹介する書籍も出始めている。時代が真実に目覚めつつある。歴史学界の「黙殺」はその反動であろう。


□□事務局だより□□□□□□

▼同志社の近所に住んでいると便利なことがある。昨年の日本思想史学会、今年の日本国 際教育学会と様々な学会が同志社今出川キャンパスで開催されるからだ。
▼今年は何と言っても国際教育学会の西村俊一東京学芸大学教授の研究報告が感動的であった。「御所の近くで皇室に不都合な発表をしなくても、という声もあったが」と前置きしながら、氏は古田説を高く評価する報告をされたのだ。
▼その影響で、会場に持ち込んだ古田先生の著作が売れ、サインを望む人も現れたほどだ。
▼西村教授のレジュメは本会ホームページに掲載しているので、ご覧いただきたい。英訳ができしだい英文ホームページにも掲載される。
▼ミレニアム記念として、二千年最初の古田講演会を九州王朝の地、福岡市で開催する。歴史的な講演会となろう。
▼関西では一月例会の後、古田先生をお迎えして恒例の新年会を開く。参加希望者は水野代表まで、御一報いただきたい。それでは、良いお年を。


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』第一集〜第四集(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)第一〜五集が適当です。 (全国の主要な公立図書館に御座います。)
新古代学の扉 インターネット事務局 E-mailは、ここから


古田史学会報一覧 へ

ホームページへ


Created & Maintaince by" Yukio Yokota