古田史学会報三十七号 |
発行 古田史学の会 代表 水野孝夫
(平成十二年二月十八日・十九日、奈良県歯科医師会館)
生駒市 伊東義彰
前日の夜、水野さんから突然の電話があり「古田先生が参加されるけれど、二日目の十九日は九州に行かれるので、先生の代わりに二日目を受講してもらえないか」と、お話がありました。もちろん寝耳に水の話で、参加申し込みなどしていませんから、会場に入れるかどうかわかりませんでしたが、中身が年輪年代測定法に関することだと聞いて、「それじゃ、初日から参加してみましょう」と、古田先生とご一緒できるチャンスとばかり、快諾した次第です。九時の開会前に会場に入り、当日参加受付ということで名札をもらい、会場をうろうろしましたが、先生を見つけることができないうちに、講演が始まってしまいました。だから受付でもらった資料にもほとんど目を通す暇もなく、後ろの方の席に着いたわけです。おもむろに資料を開いて驚きました。そして、最初の講演者がドイツ人だったのにも驚かされました。勿論、日本語で喋るわけがありません。数十枚のスライドを次々映写し、それを指示しながら英語で喋っていました。一段落ごとに日本語の通訳が入るのですが、どのスライドの話であったか思い出す暇もなく、またスライドと英語の話が始まります。
つまり、このシンポジウムは、世界各国(八カ国)の年輪年代学専門学者がそれぞれの専門分野で研究した成果を発表する会だったのです。
お恥ずかしい話ですが、年輪年代学は考古学に関係する学問とばかり思いこんでいた私は、それが気候学、生態学、森林学、生物地理学など、いくつもの専門分野に分かれていることを初めて知りました。それと同時に、その研究成果の発表内容が私の理解能力を遙かに超えるものであることも知りました。考古学に関する年代決定や、それに基づく歴史の再編成・見直し問題などの話が聴けるものと勝手に決め込んでいた私の期待を遙かに超えた次元で、新しい学問が芽生え、成長し、発展していることを目の当たりにしたシンポジウムでした。それぞれの専門分野における研究発表の詳しい内容について語る資格も知識も持ち合わせていませんが、私なりに感じたことや、何とか理解できた事柄をいくつか述べさせていただこうと思い、拙い筆を執りました。
一、年輪年代測定は、アメリカの天文学者アンドリュー=エリコット=ダグラスによって二〇世紀初めに研究され、一九二九年に成功したそうです。その方法を『ダグラス法』と言い、現在も使われています。ヨーロッパでは主にオーク材について一万年〜一万一千年を隙間無くカバーできているそうです。
日本では、一九八〇年から奈良国立文化財研究所で研究が始められ、一九八五年頃に実用化されました。出発時点で後れをとること半世紀以上もあるのだから無理もないと思いますが、それにしても研究の広がりやその応用において、それぞれの専門分野の研究者が極めて少ないのではないかと感じたのは私一人ではないように思います。考古学や歴史学の分野に限っても、実用化されてから十五年の歳月を経た今日、年代測定された事例はごく限られているようで、その成果が歴史の再編成や見直しを促すまでには至っていないように思われます。着実ではありますが、どこか遠慮がちに細々と研究が続けられている、という感がしないでもありません。
二、年輪による年代の測定は、年輪の歴年標準パターンに、作成された年輪不明木材の年輪パターンを照合(クロス・デーティングして行い、これにより木材の伐採年や枯死年が一年単位で、場合によっては季節や月まで求められるそうです。この方法で年代を測定するに当たっては、年輪の歴年標準パターンの作成が最も重要であることはいうまでもありません。
現在、日本で作成されている歴年標準パターンは、杉がもっとも進んでいて約三三〇〇年前の前一三一三年まで、次いで檜が約三〇〇〇年前の前九一二年まで、コウヤマキが一九八六年〜一七四九年と七四一年〜二二年まで、ヒバが一九九〇年〜一七四三年と一三二五年〜九二四年まで、だそうです。樹種はこの四種類に限られていますが、杉と檜は縄文晩期までを、古墳時代の木棺によく使われているコウヤマキは弥生中期後半から奈良時代前半までを測定可能にしています。実際の測定事例としては、大阪府の池上・曽根遺跡で出土した巨大木造建築の柱根が有名で、前五二年と測定されたことはご存知の通りです。柱穴から一緒に出土した土器は、近畿の土器編年からすると弥生中期後半の五〇年ぐらいのものなので、建物もそのころに建てられたのではと推定され通説化されていたのに、それを約一〇〇年も遡らせてしまったのです。
昨年の五月はじめに大阪府立弥生博物館の特別展『渡来人登場弥生文化を開いた人々』に行って、復元された大型建物を見たことを思い出し、その時買った図録の「東アジア史年表」を見ますと、弥生文化中期・紀元前のところに「前五二 池上曽根遺跡大型建物(年輪年代)」とありました。この年表では、弥生時代(文化)を早期・前期・中期・後期・終末期に分け、卑弥呼は終末期の終わりに属し、三世紀中頃から古墳時代が始まっています。前五十二年は中期後半にになっています。私などが理解していた弥生中期の終わりが約一〇〇年近く遡り、従って弥生中期の期間が約一〇〇年短縮され(中期の初めは従来と変わらず)、弥生後期が約一〇〇年早く始まっていました。弥生後期の期間がその分長くなったわけです。ところが図録の本文の方には、年輪年代に触れたところが見あたりません(私の見落としだったらお詫びします
)。もっとも、弥生文化をもたらした渡来人がテーマですから、年輪年代に関する事柄は直接関係ないのかも知れません。
ここで気になることがあります。大型建物柱穴から出土した土器も年代が約一〇〇年遡るわけですから、それに基づいた土器の編年見直しがどうなっているかということです。弥生時代の区分の上では、年輪年代測定判明の前も弥生中期後半であり、測定判明の後も同じ弥生中期後半になっています。測定判明後に弥生中期の終わりを一〇〇年遡らせ、弥生中期をその分短縮したのですから、区分的には測定判明の前も後も同じ弥生中期後半になるわけです。
弥生時代の区分はともかく、年代的にはどうなっているか、気になって仕方がありませんので、池上・曽根遺跡の隣にある「弥生博物館」と、柱穴出土土器を保管している「和泉国歴史館」に訊ねてみました。両館とも学芸員の方が丁寧に説明してくださり、改めて感謝の意を表する次第です。両館とも、ほぼ同じ説明でしたので、簡単に要約します。
◎印弥生中期の終わりを約一〇〇年遡らせ、その分中期の期間を短縮し、後期の始まりを早くするとともに、後期の期間を長くする。
◎地域全体の土器編年見直し作業は、現時点では行われていない。見直すかどうかを専門家が研究・議論している最中である。
◎各地方・地域との横の繋がりも同時に検討しなければならないので、池上・曽根遺跡だけの問題として扱うのは難しい。
要約すると以上で、予想していたとおりの説明でした。期待してはいませんでしたが、まどろっこしい思いにとらわれたのは事実です。
年輪年代測定法により測定された事例で、考古学・歴史学に関連したものとして、大阪府の狭山池出土木樋(六一六年、一六〇八年)、山口県の法光寺(一一九六年)、円空仏の真偽(江戸初期の臨済僧で、仏像十二万体を作ったといわれる)などのほか、尼崎市にある弥生中期遺跡から出土した巨大建物(池上・曽根遺跡のものより大きい)柱根の、外側がちょっと腐っていたが、前二四五年と測定されたものがあります。この通りの年代だとすると前三世紀、つまり弥生前期のものだということになり、年代や時代区分が大きく遡ることになります。従来、弥生時代の遺跡・出土品の時代区分や年代は、同時に出土した土器を中心に、その地域の土器編年に当てはめて推定されています。土器の使用年数や地域間伝播の年数、土器の性質(例えば人の好み)などを考えると土器そのものから年代を割り出すことは、文字による記録でもない限り不可能です。ところが、年輪年代測定によると、木材の伐採・枯死年代が年単位、場合によっては季節・月までもが測定できるそうですから、土器編年に基づくものとは、その考え方、科学性、正確度において次元そのものが異なっていることをはっきり理解できました。
三、年輪年代測定と土器編年に基づく年代の間に生じている約一世紀の隔たりは、単に弥生時代だけのものでは済まされない大きな問題を含むことは言うまでもありません。
この問題を古田先生が古代史に直接関連するものとして取り上げられ、検討され、応用されていることに大いなる期待を抱き、古代史の見直しが一日も早く行われることを望んで止まない今日この頃であります。この一世紀あまりも年代が遡る問題を真っ正面からとらえ、従来の定説を見直していく勇気と努力を惜しんではならない、という思いをますます強くした次第です。
最後に、昼食をともにしながら、古田先生にいろいろご教授賜ったことを申し添えて拙い筆をおかしていただきます。
学問の方法と倫理 一 『「邪馬台国」はなかった』の眼目 京都市 古賀達也
豊中市 木村賢司
邪馬壹(台)国はどこか、今も日本の学界では論争になっている「ふり」をしている。(古田史学では博多湾岸とその周辺で決着ずみ)だが、同じ倭人伝の中の伊都国については論争はなく学界で一致している。その古代伊都国である福岡県前原市から、古田武彦氏に歴史講演会の要請があった。主催は同市の「新怡土(いと)むらづくり推進協議会」で、会長直々の講演要請である。目的は古い歴史を誇ることを「むらづくり」の柱の一つにしたいであった。全戸二千戸にアンケートをとり、決めたとのこと。古田氏に講演を要請するにあたり、古田史学を知った上とのことであり、古田氏は即座に引き受けられた。
私は、これは大切な記念講演になると直感して、古田史学の会の事務局長Kさんと共に一月に続き、再び古田先生の九州行きに同行した。
二月二十日、前日の雨もあがり快晴である。十時前には怡土中学校の講堂は、すでに市長をはじめ地域の人達でぎっしりである。演題は「三王朝の源流」(怡土の地を巡って)であった。日本の古代史、まして古田説などよく知らない人達を前にして、まず、この地の人で、日本一大きい銅鏡を平原遺跡で発掘した古代史の大先輩、故原田大六氏との出会いのエピソードから始まって、この地が倭国の源流の地であることを、じゅんじゅんと話された。そして、この地が本店、京都は支店、東京はその分社といえる程、日本の歴史にとって大切な土地であると述べられ、最後に「怡土の歴史を知らずして、日本の歴史を語るなかれ」すなわち、「イト知らずの、ヒト知らず」と結んだ。
とりわけ、前原市および周辺から三種の神器(鏡・勾玉・剣)や黄金鏡が出土しているが、これら塚や古墳は、狭い範囲の伊都国王の墓ではなく、倭人全体の王である倭国王墓であると述べられた。
私は九七年に「君が代の源流を訪ねる旅」で細石神社、三雲遺跡、古計牟須比売(こけむすひめ)を祭った若宮神社を見学。この一月(十日)にMさんと雷山と千如寺、平原遺跡、伊都歴史資料館を見学、そこから高祖神社・くしふる岳・日向峠を見渡した。さらに、今回の講演の前日に古田先生等と雷山村の十六天神社(十六天子宮)、倭国王朝の軍事要塞と推定される、雷山の神籠石等を見学して、白村江で敗れ滅亡した倭国(九州王朝)の存在を深め、この講演を聞き、ここが倭国(日本国)の源流の地であるとの話しに納得した。
先生は、この日、午後三時から博多天神のアクロス6階で、「古田史学の会」の九州の会員に対し「万葉集を深く読む」と題して講演。ここでは、九州王朝最後の天子(薩野馬)の妃の歌を万葉集から発見したと論証、報告された。これまた、驚天の新説であった。
事務局長のKさんと私、「古田史学の会・九州」の立ち上げを会員に要請、用意してきた九州の旗を披露し贈呈した。
私は九時近くまで、先生と会員との懇談に加わった後に別れた。翌日から岩国の錦帯橋、呉の軍港、音戸の瀬戸、伊予の大三島大山祇神社等をめぐる独り旅をして帰阪した。
Kさんは仕事があり、その日に帰京。先生は福岡に残られ、翌日は可也山に登られ、姫島にもいかれた等とのこと。そのタフさに、ただ脱帽である。
「イト知らずの、ヒト知らず」二〇〇〇年代、新古代学、この言葉から始まるか。
〔編集部〕本稿は「道楽三昧」十四号より転載させていただきました。
日進 洞田一典
『万葉集』巻一に、「藤原宮に天の下知らしし(持統)天皇の代、伊勢国に幸しし時、京に留れる柿本朝臣人麿の作る歌」として三首、つづいて、「当麻真人麿の妻の作る歌」として一首をあげる。いずれも伊勢における情景を偲んだ歌である。つぎが問題の歌。
「石上大臣の従駕(おほみとも)にして作る歌、([ ]内は歌番号、以下同じ)
[四四]吾妹子をいざ見の山を高みかも、日本(やまと)の見えぬ国遠みかも」
これに次の注がつづく。
「右、日本紀にいはく、朱鳥六年壬辰の春三月丙寅の朔の戊辰(三日)、浄広肆広瀬王等を以ちて留守の官となす。ここに中納言三輪朝臣高市麿その冠位を脱ぎて朝(みかど)にささげ、重ねて諌めていはく、農作の前に車駕未だ以ちて動くべからず、と。辛未(六日)、天皇諌に従はず遂に伊勢に幸す。五月乙丑の朔の庚午(六日)、阿胡の行宮に御すといへり。」
いままでこの歌が、持統伊勢行幸時のものとされてきたのは、題詞と左注とに引きずられたのは勿論であるが、歌中の山が伊勢と大和の国境にある高見山(一二四九m)に比定されることによる。これについては、澤瀉(おもだか)久孝『万葉集注釈』巻第一(中央
公論社)がくわしい。同書の三一〇頁から要点のみ引用させていただく。
ざみの山——「吾妹子をいざ」の七言を「見」にかけたものとして、山の名は「箕の山」とする説(荷田春満『万葉集僻案抄』)、伊勢ノ三郎物見の松という松のある二見浦の山が佐美の山で、伊(イ)の発語を添えたものだという説(槻乃落葉別記)もあるが、「いざみ」の語を二つにわって「さみの山」とする事も無理であり、やはりこれは「いざみの山」を山の名と見る代匠記その他の説が自然であろう。
さてそのいざみの山は、宝暦十年(一七六〇)に脱稿した三国地志(巻四十一)伊勢国飯高郡の条に去来見山をあげて
「按ずるに波瀬、船戸村にある高見峠これなり。河俣村より峠へ上ること一里、高見山は峠の北の山なり。峠より十八町あり。今に伊佐美山ともいへり。」
とある。今、高見山の麓、波瀬(ハゼ)の地に住む(その家は県下にただ一つ残っている旧本陣という)今年七十五才の田中太郎氏にたずねたが、昔はたしかにいさみ山と申したという事である。また三国地志と相前後して作られた谷川士清の倭訓栞にも「飯高郡にあり」とあって右の説と一致する。
(以下略、引用おわり。なお、『三国地誌・伊勢』は「大日本地誌大系」の一として、雄山閣より昭和四年に出版されている。)
いざみの山と高見山とがワンセットで揃っているのは見事だが、一七六〇年にもなってから見つかるのは、すこぶるあやしい。この場合は歌に合わせて山名が生まれたとみてよい。万葉の昔にこれらの山を詠んだ歌が他にもあれば問題はないのだが。
それにしても、澤瀉氏の地元だけあって実地調査の徹底ぶりには頭が下がる。しかしながら「高見の山いざみの山」は当時伊勢周辺には存在しなかった、というより他ない。
さて、『万葉集』巻六にある次の長歌をご覧いただきたい。
「寧楽(なら)の故りにし郷を悲しびて作る歌一首、
[一〇四七]やすみしし わご大君の 高敷かす 倭の国は(中略) 秋さり来れば 射駒山 飛火が嵬(とぶひがたけ)に 萩の枝を しがらみ散らし さ男鹿は 妻呼び
とよむ 山見れば 山も見がほし (以下略)」
岩波大系本『万葉集二』の巻末にある補注には、
飛火が嵬——トブヒは烽で、壇を築き乾草や薪を燃やし、外敵の侵入などの変事をしらせたもの。昼は煙を、夜は火を以てした。天智天皇三年水城の造られた時、対馬・壱岐・筑紫に防人と烽とが置かれており、わが上代における大規模な烽は西国から大和の京への連絡に用いられたものである。烽と烽との距離は四十里を基準とし、地勢によって適宜伸縮した。烽の構造・管理・使用・人員等については軍防令に規定がある。奈良近傍の烽については、続日本紀和銅五年正月二十三日の記事に「河内国の高安の烽を廃して、始めて高見の烽及び大倭国の春日の烽を置き、以て平城に通ぜしむる也」とあって、この歌の作られたころは、高見と春日とに烽があったことが知られる。高見は高安よりずっと北になり生駒山の天文台の位置である。春日の方のは位置不明であるが、若草山に木がないのは警報受領の報告の烽火が高見の烽から見えるようにしたもので、ここが春日の烽の所在地であったろうという北島葭江氏の説がある。歌によると、鹿が萩の枝をしがらみ散らし、妻を呼び立てて鳴いているのを見聞している趣であるから、飛火が嵬は奈良にある方がよさそうだけれども、射駒山が生駒山である以上、やはり高見の方になるわけであろう。嵬は広雅に高也とある。
(引用おわり)と、すこぶる詳細な解説がある。
契沖以来の高見山・いざみの山の所在地探しは、誰とも知れぬ編集者の左注に惑わされて、とんだ骨折り損に終わったようだ。伊勢に視線が固定されてしまった人々には、生駒山系「高見のたけ」で燃える「とぶ火」も目には入らなかったものと見える。
地理上からみてこの歌は、慶雲三年九月の文武天皇難波行幸の折りに詠まれたものと考えられる。結局、持統の伊勢行幸にお供した人の歌は一つも残っていないことになる。
◇◇連載小説『彩神(カリスマ)』 第八話◇◇◇◇◇◇
翡翠 (3)
−−古田武彦著『古代は輝いていた』より−−
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇ 深津栄美
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「ええい、離せっちゅうに----痛いでねエか!?」
弥生は尚ももがいたが、女にしては力の強い須世理にかなう筈がない。衿首をつかまれ、無理矢理宮中の廊下へ引きずり込まれてしまった。
我が家も須佐にあればこそ豪壮な館だが、こことは比べ物にならない。木と岩の素気なさが、海のかけらのような翡翠(ヒスイ)にどうして太刀打ち出来よう・・・? 八千矛は、自分を早春の冷気をはね返して咲き誇る椿の花と讃えてくれたけれど、こんなところで生まれ育った沼河姫は、翠(みどり)ヶ池を取り巻いて目路(めじ)の限り燦(さざ)めく水仙、もしくは紅白の星をまき散らしたように水面を覆う菱の花の如き女人なのではあるまいか? その生ける水の精が、戦利品として夫に捧げられるのか……
須世理の胸に、嫉妬の毒煙が湧き上がって来た。白山の女主人(おんなあるじ)であれ、唐天竺(からてんじく)の姫君であれ、夫の側に侍(はべ)らせてなるものか。夫に手を出す者は、必ず私の刃にかけてやる。八千矛は永遠に私一人のものだ----
大きな窓越しに、夫や弟達が神殿(やしろ)の中庭の翠ヶ池を囲むのが映った。岸辺の一画では盛んに火が焚かれ、支柱めいた太さの物体に赤土が塗られている。どうやらそれを使って池水をかい出し、底の翡翠を掬(すく)い上げようという積りらしい。
巫女の一人が、何やら喚(わめ)きながら引き立てられて来た。
「伊怒(いの)様ーー!」
弥生が口に手をやる。紅白粉(べにおしろい)で不自然な程に隈取った顔は、紛れもなく自分たちの巫女長(おさ)だったからだ。
「弥生、宇迦美(うかみ)を守ってーー。」
伊怒はこちらへ手を差伸べたが、左右から引き倒され、両手足をがんじがらめに括(くく)られて大筒の中へ押し込められた。八島士奴美(やしまじぬみ)らが各武具(もののぐ)を梃(てこ)代わりにして、大筒を池の方へ押しやる。
「伊怒様を人柱にするっちゅうだか!?この罰当たりめが!!」
弥生は絶叫したが、たちまち衿首を引き戻され、鋭い刃が頬に触れた。
「おとなしくしないと、お前も同じ目に会うぞ。」
須世理が冷やかに弥生を見下ろす。
「さあ、主(あるじ)を呼ぶのじゃ。奥津の宮も突き当たりに来てしまったぞ。それとも、お前は私をたばかったのか?」
弥生は唇をかみ、全くしぶしぶといった態で、目の前に垂れ下がっていた緑の絹の房飾りを引っ張った。奥で鳴子の乾いた音が響き、正面の翡翠の扉が重々しく開く。
須世理は目を凝らしたが、人影は見えない。奥は緑の紗幕が緩やかに下りていて、誰かが軽く両手を合わせ、陰に坐っているようだ。しなやかにまつわる髪、円(つぶ)らな瞳、小ぢんまりした鼻や口元が仄めき、女と考えて間違いない。(あれが御座所〈おましどころ〉なのだわ。)
須世理は柱に身を寄せ、男の声色(こわいろ)を作ると、
“八千矛の神の命(みこと)は 八島国、妻求 (ま)ぎかねて…(略)…さ婚(よば)ひにあり 立たし……
【私こと八千矛の命は、故国では良い妻を得る事が出来ず、越〈こし〉の国に聡明な美女がいるとの噂を聞いて、はるばる訪ねて来ました。】
と、歌いかけた。
“八千矛の神の命 ぬえ草の女(め)にしあれ ば…(略)…後は汝(な)鳥にあらむを……
【八千矛様、ようこそ。けれども私はか弱い娘、心の準備も整わないのに、今すぐあなたを迎え入れる事は出来ません。】
繊(かぼそ)く震える声が歌い返して来る。白山の主の声だ。よそで耳にしたら単に弱々しいだけの声が、翡翠の間(ま)ではせせらぎのように清澄に聞き成される。
“襲(おすひ)をも未だ解かね…(略)… 引こ づらひ吾(あ)が立たせれば……
【そう言ってあなたは傍目〈はため〉も構わず、戸を叩いたり揺すぶったりさせたりして一晩中、私を旅姿のまま外に立たせておくのですか--ひどい人だ。】
《以上、「古事記」より 筆者・訳》
再び歌で応じながら、須世理は刃を持ち直し、素早く玉座へ歩み寄った。切っ先が紗幕を引き裂き、緑の頭上に掲げられる。
途端に、弥生が房飾りを引いた。別の仕掛があったのだ。半ば大筒に吸い上げられていた池水は悉(ことごと)く吐き戻され、神殿中の樋から奔流が吹き出して、八千矛軍は緑の大渦に拐(さら)い込まれた。
《完》〔後記〕会報第三六号に古田先生が、多利思北孤の(おくりな)「崇道天皇」、及び院制の始まりについて触れておられますが、前者は従来説では奈良朝に行われた事になっておりますから、ONラインを考慮し、「初国知ラス」こと崇神天皇他、九州王朝の主達にあやかった諡が、大和朝廷には随分あるのではないでしょうか。この「ヤマト」と読ませる「大和」も、九州年号内(最後の「大長」の一つ前)に存在しますし、古代中国の方にも玉(ぎょく)帝国を訪れた穆(ぼく)王にちなんだと思われる穆帝(紀元四世紀)がおります。
院制も、従来は平安期に入ってから藤原兼家によって出家させられた花山院が最初となっておりますが、兼家の事実上の正妻である「かげろう日記」の作者は道真の一族でもあり、九州王朝の前例に倣ったのでしょうか。「前例がない」とは、現代でもどこぞのお役所の決まり文句ですし。
又、古賀さんが紹介しておられる「秘庫記録」第三巻の宝玉奉献記事、今回で終了した自作の題を「翡翠」としたのも、越の国がその名産地だからですが、当地を含めて日本海沿岸では主に春先に、貝殻の他真珠などを打ち上げる「貝寄せ風」が吹くそうです。
新年の筑紫旅行で見物された鬼祭り、知られていないだけで大変勇壮な祭礼のようですが、「紀」の斉明女帝が亡くなった件りに、大きな笠を被った鬼が葬儀を見下ろしていたとある一節、何か関係があるのでしょうか……?
(深津)
大阪府泉南郡 室伏志畔
暮れに古田先生とお話しする機会があり、いくつかの疑問点について聞くことができ、ますます書く気を煽られたのは幸いであった。昨年はかぐや姫を伝奇物語から歴史の内に奪回する『大和の向こう側』(五月書房)を上梓したので、今年は赤人の不尽山の歌を叙景歌とする通説から、歴史を踏まえた歌に奪回することに始まる『万葉集の向こう側』を、まとめたいと思っている。
ところで、北海道の吉森政博が幻想史学についての疑問の表明があったが、それは私が使う「幻想」概念の曖昧さにもよるので、それに触れることから不尽山の歌に入りたい。私の幻想史学の方法は、マルクスが商品を使用価値だけでなくて交換価値から切開して見せたように、歴史文献を指示表出(使用価値)から問題としてきた従来の実証史学に止まらず、それを記録した作者が踏まえた幻想表出(交換価値)の中において歴史文献を見直そうとするものである。これについては六〇年代に始まった吉本隆明の言語論によって拓かれた思想潮流が背景にあった。しかし普遍的に踏まえられるべき知的達成は、日本のたこつぼ型社会では共有されることは稀であるということを私は改めて今回思い知った。
吉本隆明によれば人間の幻想領域は、個人固有の「個的幻想」と男女間で秘密に共有される性的な「対幻想」及び、三人以上の人間関係の中で育成される「共同幻想」に三分され、それらはまったく位相を別にしているという。私が説明なしに幻想という場合、それはその社会及び歴史が育成してきた「共同幻想」のカテゴリーに属する。
そのことを踏まえて「記・紀」や『万葉集』を問題とするとき、月や日が述べられているとき、それらは具体的(指示表出)にそのものをただ指し示していると同時に、月神や日神としての月読命や天照大神が踏まえられているかどうかの吟味が必要なのは、商品が使用価値と交換価値の複雑なアマルガムとしてあるように、言語は指示表出と幻想表出の合体したものだからである。
このことを踏まえ昨年、問題とされた『古今和歌集』の仮名序にある「人まろは、赤人がかみにたゝむ事かたく、あか人は人まろがしもにたゝむことかたくなむありける」の解釈に向かうとき、「うたのひじり」とされた柿本人麻呂より「うたにあやしくたへなり」とされた山部赤人が上位に置かれているのは明らかである。それは柿本人麻呂が踏まえた九州王朝・倭国以来の共同幻想を廃し、仮名序の作者はそれを隠すことによって成立した大和朝廷の共同幻想を踏まえた山部赤人をよしとするところに関わる。つまり人麻呂は倭国の倭歌(やまとうた)の「ひじり」なら、赤人は「あやしくたへなり」大和歌の第一人者というわけだ。
しかし近世の国学による『万葉集』のますらおぶりの再評価は、それまでの『古今和歌集』や『新古今和歌集』に代表されるたおやめぶりに対する反動としての一面があり、公家文化に対し武家文化を押し出すものであったのは、八代将軍徳川吉宗の次男・田安宗武の国学の師であった賀茂真淵の位置を示すものであろう。近代の正岡子規に始まるアララギ派のリアリズムからした評価も、明治の富国強兵のイデオロギーの無意識的代弁としての一面があり、それはたおやめぶりを排した国学の主張と重なり、それまでの伝統的な大和歌の評価を貶めるものであった。そうした影響下にあるため、仮名序にある人麻呂と赤人の明々白々な評価の解釈さえおぼつかない有り様となっているのだ。
『続万葉集』の異名をもつ『古今和歌集』の成立は、おおらかに歌い上げることができた倭歌から、自然や物に仮託する方法を確立することによって大和歌へ道を拓いた赤人を上に見る評価なくしてはありえなかった。わたしはそれを不尽山の歌に見てみたい。
「田児の浦ゆうち出でて見れば 真白にぞ不尽の高嶺に雪は降りける」(巻三 三一八)について、斎藤茂吉は『万葉秀歌』の中で「古来人口に膾炙し、叙景歌の絶唱とせられたものだが、まことその通りで赤人作中の傑作である」としたが、それは「記・紀」を論ずるに倭国を落として大和朝廷を賛美するに似ている。実はこの不尽山の歌は次の長歌の反歌としてあり、その意味を落としてこの不尽山の歌は解されていたからである。
「天地の、分かれし時ゆ 神さびて 高く尊き 駿河なる 布士の高嶺を 天の原 振り放け見れば 渡る日の 影も隠らひ 照る月の 光も見えず 白雲も い行きはばかり 時じくそ 雪は降りける 語り継ぎ 言ひ継ぎ行かむ 不尽の高嶺は」(巻三 三一七)
茂吉は「此処の長歌も簡潔で旨く」とするばかりで言葉少ないのは、この歌を指示表出からのみ見て叙景歌と解するからで、そこに歌われた「日」や「月」や「雲」や「不尽」が踏まえた共同幻想にまったく思い当たらないからである。それゆえこの歌において赤人が加担するしかなかった現実の恐ろしさがまったく伝わって来ないため、茂吉はただ「叙景歌の絶唱」として扱うしかなかった。
なぜ「渡る日の 影も隠らひ 照る月の光も見えず 白雲も い行きはばかり」としているのであろうか。それを自然描写のように見るから、真白な雪が降りしきる「不尽の高嶺」がそそり立つように赤人の前に威圧するようにある現実が見えないのである。もしこれら自然のそれぞれに仮託された共同幻想が何であるかに気づくことができたなら、ただ絶唱として落ち着いておれたかどうか怪しい。
「日」→天照大神→倭国東朝→大和朝廷
「月」→月読命→倭国本朝
「雲」→出雲→物部氏
「不尽」→藤王→藤原氏
こう読み込んで始めて「時じくそ 雪は降りける 語り継ぎ 言ひ継ぎ行かむ 不尽の高嶺は」として実質上、藤原不比等の時代の壮烈な大和朝廷の姿を「田子の浦ゆ…」と読んだ赤人の真意もまた明らかとなり、赤人の置かれている峻厳な「不尽」(藤原氏)の時代も見えて来るというものだ。それを私は恐ろしい¢第二の国譲り£の時代と呼んでいるが、それは稿を改めて論じるしかない。
人麻呂以後の歌人は、おおらかに歌うことが死に直結していることを感じ、始めは縮こまるしかなかったが、赤人の登場によって、単に自然を叙し、恋歌を歌うことによって、それに仮託して時代を歌うことを学んだのである。それを踏まえない解釈は与えられた和歌以上に縮こまったものになるしかないのが現代的解釈なのである。宮廷行幸歌が持統天皇の死を契機に陰を潜め、不比等の死と前後して復活してくるのだが、その間に人麻呂のがした倭歌のように歌えない時代に入ったことを、よく理解しなければならない。そんな中、高市黒人はかつてからありしように今を歌うことによって責を果たすしかなかったのは、このときをもって造られた「悠久の大和史観」が見る見る競り上がってきたからそうするほかなかったのである。そのとき、赤人は単なる景色を歌うかに見えて、それに仮託する方法をもって時代の一切を語る「不尽山」の歌を成したのである。それは一見、叙景歌でしかないように見えて共同幻想の変質について見事なまでに述べきっていたのである。この自然を歌うことによって時代の共同幻想の間に身を置く方法の確立を告げるものとして赤人の大和歌はあった。次第にそれが懸詞や複雑な技巧に落ち込んで行くのは、和歌は権力の目の届く場において歌われてこそなんぼのものであったからである。その不比等の時代の恐怖におびえた粛然とした真白な不尽の山巓が「田子の浦に打出て見れば白妙の富士の高根に雪はふりつつ」とふんわりとしたお饅頭のような雪をいただく富士として仰がれ親しまれるに至るのは、藤原氏がわが世の春を歌った国風文化を潜って編集された『新古今和歌集』の時代に至って以後のことで、赤人の時代には夢のまた夢のことであったろう。
□事務局だより □□□□□
▼二月二十日、古田先生は前原市怡土村で講演された後、福岡市立博物館へ桑原館長(前福岡市長)を表敬訪問。桑原氏は大の古田ファン。話しが弾みすぎて九州地区会員懇談会に遅れて到着。そこでも熱心な会員の質問に答えたりと超ハードスケジュールをこなされた。
▼その前日、小生は力石さんのお店で夜中まで痛飲。古田史学のおかげで良き人々との出会いでいっぱいだ。その力石さんからの提案。来年は『「邪馬台国」はなかった』創刊三十周年。全国規模での記念イベントをしてはどうかというもの。大賛成。何か良い企画案があればご提案を。
▼力石さんからまたまた新情報。壱岐の天の原付近から宝満山(御笠山)まで一直線で途中遮るものはないとのこと。これは壱岐付近から三笠山の月が見えるということだ。これが奈良の御蓋山ではまず無理。現地調査済みだ。「天の原ふりさけ見れば春日なる御笠の山にいでし月かも」はやはり筑紫の歌だったのだ。
▼東洋書林より古田武彦著作集刊行の企画が提案され、小生が編集を担当することとなった。瀬戸市の林さんが作られた著作目録が役に立つ。大任だが学恩に報いるためにも成し遂げたい。
▼古田先生の新著『「君が代」を深く考える』の売れ行きが好調とのこと。大きな波紋を投げかけているようだ。過日も、君が代九州王朝説の話しを聞きたいと、拙宅へ毎日放送のWさんと角替豊京都府議(公明)が見えられた。
▼「週間朝日」連載の「司馬遼太郎からの手紙・四七回」に古田先生と司馬氏の出会いの様子が紹介されている。この事は、古田先生からも聞いていたが、古田史学の影響は確実にこの国の隅々に広がりつつある。
▼新年度になりました。不況のおり、大変とは存じますが、会費収入により本会の事業が成り立っています。会費の振込をよろしくお願い申し上げます。〔古賀〕
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』第一集〜第四集(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)第一〜四集が適当です。 (全国の主要な公立図書館に御座います。)
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