第一章 それは「邪馬台国」ではなかった 古田武彦
古田史学会報 2000年 4月 4日 No.37
学問の方法と倫理 一
京都市 古賀達也
一部の人々が「最近の古田氏の新説は、昔と比べて論証不足である」などと、口にしたり、書いたりしているのを見るたびに、小生は深いため息を禁じ得ないのである。小生の感じるところでは、近年、古田氏の論理展開は、ますます厳密かつ徹底の度を増し、新説の論拠をうかがうたびに身震いするほどの切れ味を見せているのである。大学を退職されて以降、その傾向をより感じられるのであるが、もっとも、これはようやく小生にも氏の学問の方法と論理を理解する力が多少は付いてきたことにもよると思われる。しかるに、小生より学識も深く、自著さえものにされている人に、よく冒頭の様な言を見るのは何故であろうか。思うに、それらの誤認識は古田古代史学の処女作『「邪馬台国」はなかった』に対する誤解・誤読に淵源しているのではあるまいか。
古田氏は『「邪馬台国」はなかった』において、従来の「邪馬台国」論争を一新させた方法、すなわち「壹」と「臺」の三国志全用例調査という方法を提示された。それまで、倭人伝行程記事の恣意的読解に終始していた非学問的方法に慣らされてきた読者にとって、その印象たるや衝撃的であった。かく言う小生もその一人だ。しかし、それだけに全用例調査という「方法」に目を奪われるあまり、実は同書の眼目を理解し得なかった、あるいは見失った人々が少なくないことに昨今気づいたのである。
小生の理解するところでは、同書の眼目は次の二点に集約することができよう。
一つは、部分里程の和は総里程とならなければならない。従って、総里程の尽きる所、不彌国が邪馬壹国の入り口である。二つは、女王国の国名は原文通り邪馬壹国であり、邪馬臺国ではありえない。魏の天子を指す「臺」が夷蛮の国名に使用されるはずがない。この二点だ。この二つの論理性が同書の論証の根幹をなしているのである。従って、あえて述べるならば、「壹」と「臺」の全用例調査は古田氏の立論にとって本来「不要」な作業なのである。更に言えば、調査の結果、「壹」と「臺」の誤用例があったとしても、古田論証の当否には本質的に無関係なのである。原文に「邪馬壹国」とある以上、「邪馬壹国」と原文通り読むのに「理由」は要らない。「邪馬臺国」と読み替えたい者にこそ、その論証責任が発生し、それこそ全用例調査をしてでも「壹」は「臺」の誤りであることを証明しなければならないのである。ところが、古田氏の方が読者(あるいは、原文改訂論者)に対しての親切心とでもいうべき、全用例調査による「だめ押し」をされたのである。こうした『「邪馬台国」はなかった』において示された徹底した論理性こそ、氏の学問の方法の根幹をなしている部分であるのだが、同書を誤読・誤解した人々には「全用例調査こそ緻密な学問の方法」と単純に捉え、それを「欠いた」近年における古田氏の新説を「論証不足」と見当違いの論難に奔るのである。もちろん、論証責任の上から「全用例調査」が不可欠なケースもあるが、そういう場合は、古田氏はしっかりと実行されていることは、本会会員であれば先刻ご承知のことと思う。
具体例を挙げて、論じてみよう。荒金卓也氏(注)はその論考「高句麗を島夷とよんでいた」(「倭国」を徹底して研究する・九州古代史の会NEWS、No.
八四。一九九九年三月)において、王維の詩「送従弟蕃游淮南」に見える「島夷」を倭国とされた古田説に対して、およそ次のような批判を展開された。
1). 「『東夷』なら日本列島とは限らないが、『島夷』では朝鮮半島や大陸東辺の種族は入らない。フィリピンや台湾・海南島はむしろ『蛮』にあたるので、第一候補は何といっても日本。」という古田説は成立しない。
2). その根拠は、王維と同時代の用例に高麗を「島夷」と表記した例がある。李翰作「殷太師比干碑」冒頭に「征島夷」という表現で太宗による高句麗遠征(貞観十九年・六四五)の事が記されている。
3). このとおり高麗を「島夷」とする実例があり、「島夷」に朝鮮半島の種族は入らないという古田説は否定される。これをクリアできない以上、島夷即列島人の仮説が崩壊し、王維白村江を詠えり、という新説も瓦解するかも知れない。
4). かつて古田氏が、『三国志』全巻中の「壹・臺」字をすべてチェックして、陣寿の用法の確認とともに氏ご自身の説の正当性を厳しいまでに検証された。当新説の場合、同じ王維の用例(九州)の異同をあまり厳密に論じることなく「九州は列島九州島」説がクローズアップされている。
小生の見るところ、荒金氏は二つの面において誤っておられる。一つは、古田氏の立論の根拠がいかなる論点で成立しているか。二つは、荒金氏の指摘された「島夷・高麗」の例が、古田説への反証にならないこと、においてである。
王維の詩における古田説は、従来説の「渤海遠征」と理解した場合、当詩文の内容にふさわしくないが(たとえば「むしろの帆をもて聊か罪を問う」「卉服をきたるは盡く檎となる」等)、これを倭国との白村江海戦のこととしたとき、矛盾なく理解できること、そして、『尚書』以来の伝統である「島夷」の概念、あるいは字義そのものから、「東夷」中の「海中の山島」たる倭国がもっともふさわしい第一候補である、という平明な論理構造に依っている。従って、たとえ同時代の他の文章より日本列島以外を示す「島夷」の用例をあげても本質的に反論になりえないのである。
もしそれでも、古田説は成立しないと主張したいのなら、それこそ古田説以上に合理的に王維の詩を解釈できる「対案」を示す必要があり、あるいは、他ならぬ王維の詩の全用例調査でもして、王維が使用する「島夷」はどの場合においても日本列島を意味しないことを論証しなければならないであろう。これは「論証責任」がいずれの側に発生しているのかという、学問論争の基本にかかわる問題である。この点、失礼ながら荒金氏は誤解されておられるのではあるまいか。
こうした荒金氏の論証責任の所在に対する認識のあいまいさは、4). の内容からも読みとれる。すでに述べたように、三国志中の「壹」と「臺」の全用例調査は「(古田)説の正当性を厳しいまでに検証された」ものではなく、原文改訂論者の「壹は臺の誤り説」の当否を検証されたものなのである。このように、古田説批判に多く見受けられる「論証責任の所在」に対する誤認識は『「邪馬台国」はなかった』に対する誤読・誤解に淵源している、という小生の指摘があながち荒唐無稽ではないことをご理解いただけたものと思う。今回は荒金氏の論考を対象とさせていただいたが、他の古田説批判もほぼ同類の誤認識に基づいていることが多い。
最後に、一言申し添える。荒金氏は古田説批判にあたって、「多元」(二八号、「多元的古代」研究会・関東発行)等に掲載された古田氏の講演録を対象とされたが、長大な講演内容を限られた紙面に掲載する際、かなりの省略や要約がなされること、荒金氏もご存じであろう。しかるに、「『島夷』では朝鮮半島や大陸東辺の種族は入らない」と「要約」かつ「省略」された講演録部分に傍線を引き、「(古田説では)高麗は島夷に該当しないことになるが、現実に次の例がある」と反論されるのは、拙速ではあるまいか。古田説への批判は古田氏自身が書かれた論文か、せめて当古田説をほぼ講演内容のまま書籍とした『古田武彦講演集・九八』(古田史学の会発行。九九年一月)に依られるべきである。同講演集を読まれれば、いかに古田氏が王維の「用例」や研究史を精力的に求められ、厳密に解釈されようとしたか、ご理解いただけたはずである。批判はそれからでも決して遅くはない。これは学問論争における厳密性保持のための配慮、あるいはルール(倫理)の問題なのである。
小生は役職柄、古田氏の原稿をワープロ入力する機会が少なくない。その際、いつも感心するのだが、古田氏は言葉や用語を実に厳密に表記されていることが、その推敲の跡からうかがえるのである。時には、原稿提出後に更に字句の修正や変更を要請されることさえある。いずれも、その厳密性を徹底させる場合がほとんどである。こうした古田氏の姿勢に学ぶ謙虚さをいつまでも失いたくないと小生は思うのである。
(注)「倭国」を徹底して研究する…九州古代史の会・代表幹事。九州王朝説入門書とも言える好著『九州古代史の謎』(海鳥社)を発表されている。
〔追記〕
荒金氏が紹介された「島夷」の例について、小生は氏とは異なった視点から注目している。貞観十九年(六四五)の太宗の高句麗遠征を「征島夷」と記した「比干碑」作者の認識についてである。島でないことは知悉されていた高句麗を何故「島夷」と表記したのであろうか。
『旧唐書』帝紀や高句麗伝によれば、この時の高句麗遠征は最終的には不首尾に終わっている。「秋七月、李勣、軍を進め安市城を攻める。九月に至り克てず、かくして班師(帰還)す。」とある通りだ。結局、高句麗征服は次代の高宗によって總章元年(六六八)になされるのであるが、その間、白村江における倭国の大敗と筑紫の君薩野馬の補囚、百済滅亡などの大事件が起こっている。こうした唐による東夷征討の歴史を、後の「比干碑」作者が見たとき、当面の敵は高句麗であっても、太宗の最大にして最終の目的は「日出処天子」を自称する倭国討伐であり、その認識に立って、東夷征討の軍を起こした貞観十九年の行動が「征島夷」と表記されたのではあるまいか。
「比干碑」冒頭には、「太宗文皇帝既に海内を一し、君臣の義を明らかにす。貞観十九年、征島夷の師、殷虚に次(とどま)り、詔して贈る、少師比干を大師と為し、諡(おくり
な)して忠烈公と曰う。」とあり、既に海内 を統一し、君臣の秩序(唐の建国)を「完成」した太宗にとって、残された最大の課題は大海中に居し、自ら天子を名のる倭国討伐であったこと、これを疑えない。事実、貞観十九年より、唐は本格的に東夷征討を繰り返し、百済・高句麗を滅ぼし、ついには倭国(筑紫)をも征服するのである。
とりわけ、この貞観年間、唐と倭国との間では、唐の遣使と倭国の王子が礼を争う事件が起こっており、唐朝内部では『隋書』が完成している。『隋書』イ妥*国伝には中国にとって屈辱的な「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す」というイ妥*国からの国書が記されている。これを読んだ唐朝の官僚武人たちの間に、「倭国討つべし」という声が澎湃として起こったことであろう。こうして極東における二人の天子の激突は必然的様相をおび、それからの歴史は白村江海戦へと一路突き進んでいったのである。『隋書』イ妥*国伝をして、日米開戦前夜における米国からの最終通告「ハルノート」に相当するとした、古田氏の指摘は当を得ていよう。
このような視点に立ち至ったとき、「比干碑」に見える「征島夷」はその歴史や中華思想をリアルに表現したものとして理解でき、深淵かつスケールの大きな文として捉えることが可能となるのである。この点、今後の研究課題とし、「作業仮説」としてここに提示しえたことを、荒金氏に感謝申し上げるしだいである。
インターネット事務局より2003.10.10
1、王維の詩「従兄弟蕃の准南に遊ぶを送る」そのものおよび、詩に関する古田武彦の理解は、『九州王朝の論理』(明石書店)「日中関連史の新史料批判ー王維と李白」中の、第二詩 王維「従兄弟蕃の准南に遊ぶを送る」をご覧ください。
インターネット事務局注記2003.9.20
イ妥*(タイ)国のイ妥*は、人編に妥。ユニコード番号4FCO
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』第一集〜第四集(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)第一〜四集が適当です。 (全国の主要な公立図書館に御座います。)
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