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古田武彦
この探究についてのべる前に、わたしが対人接触の中で味わった二、三の具体的な体験についてのべることを許していただきたい、これらのささやかな体験の意味するものは、意外に重大な恵味をもっていることが、あとになってわかってきたからである。
わたしは親鸞研究の経験から、この探究をはじめるためには、まず『三国志』の、正確な古写本・版本を探さなければならないと思った。武器をいかにみがいてみても、肝心の対象がしっかりしていなければ「豆腐になた」のたとえのようにおよそ無意味だからである。
しかし、わたしには『三国志』の版本の知識など一切なかった。まして古写本など、はたしてあるのかないのかさえ、おぼつかなかったのである。そこでこれを知るために、本や論文を読んだ。しかし、邪馬台国の本には『三国志』の古写本・版本のことなど、ほとんど書いてないのである。
これはわたしには不思議なことだった。「流罪記録」の性格をつきとめるためには、この文書をふくむ『歎異抄』という本の、古写本や版本をしらべねばならない。部分を知るためには全体に照らしてみる ーーこれは当然の道理である。そう思ってきたわたしにとって、倭人伝という部分を知るためにはそれをふくむ『三国志』の古写本や版本をしらべねばならぬ、ということは自明の手つづきだと思われていた。
それが本に書かれてないのだから、これは「邪馬台国」研究の学者に聞いてみるほかないと思った。そこで、いささか面識のあった新進の若い学者の宅を訪れ、「『三国志』の古写本・版本のことを教えていただきたい」という来意を告げたのである。
ところがこの学者はいった。
「それは率直にいうと、おやめになった方がいいでしょう。邪馬台国の研究なんて、一生かけても大変な仕事ですよ。ことに版本など、とてもたくさんの種類があって、到底ちょっとやそっとでしらべ切れるものではありません。それより、あなたなんかは親鸞の仕事をやっておられるわけだから、それをおつづけになった方がよっぽどいい」
そして、写本・刊本を見せてほしい、というわたしの願いも、頑としてうけつけてはくれなかったのである。けれども、つぎつぎと学者を歴訪したのち、わかってきたことだが、大学の「専門分化」という問題がこの「忠告」の背後に存在していたようである。「邪馬台国」の専門家には倭人伝はたしかに専門領域だ。しかし、けっして『三国志』全体の専門家ではない。それは東洋史の専門家に属する。まして『三国志』の写本・版本のこととなると、それともまたちがった中国文献学の専門家の仕事なのである。中国文献学にも、また時代別に専門家は異なるのであろう。「他(ひと)の専門を荒らすな」 ーーわたしが勧告されていたのは、この一語だったようである。
けれども、わたしは京大の中国語学の尾崎雄一郎さんの研究室を訪れたとき、はじめてしっかりした版本を手にすることができた。尾崎さんは、自分も今、中国語学の立場から倭人伝に興味をもっている、といわれ、百衲本(ひゃくのうほん)廿四史所収の『三国志』を貸してくださった。これには「紹煕(しょうき)本」とよばれる版本が収録されている。この版本は、十二世紀末の南宋紹煕年間(一一九〇〜九四)に刊行された本で、日本の宮内庁書陵部の現蔵である。やがて本書の論証の進行の中で明らかにされるけれども、この本こそ現存最良の版本だったのである。
この版本とならんで、これより少し早い十、一世紀中ごろ、南宋の紹興(しょうこう)年間(一一三一〜六二)に刊行されたものに「紹興本」とよばれる版本がある。この版本の探索には辛酸と労力をついやした。たいていの「邪馬台国」の本は、この版本の倭人伝の全文をかかげている。そういう意味ではわたしたちに一番おなじみの文面である。ところがこの「紹興本三国志」の消息が杳(よう)として不明だった。「紹興本中の倭人伝」を掲載している本の出版社や著者に問いあわせても、わからないのである。奇怪に思いつつ百方探しまわったあげく、最後に到着したのが長沢規矩也(きくや)さんのお宅だった。ここで謎はとけた。戦争前、長沢さんは上海の商務印書館・函芬楼(かんぶんろう)の実地にいって研究しておられたさい、この本の実物に接せられた。帰国にさいして「倭人伝」部分の写真を所望されたところ、帰国後その写真版が送られてきた。のち、橋本増吉は自著『東洋史上より観たる日本上古史 ーー邪馬台国論考』を出版するにあたって、長沢さんよりこの紹興本「倭人伝」を借りうけ、大著の巻頭にかざった。以後、多くの「邪馬台国」研究書はこの写真版を転載することとなったようである。長沢さんはこの間の事情を語られたのち、立派な写真版をもってきて快く貸してくださった。それは、上海商務印書館から送られてきた、そのときの包装紙のままだった。
このようにして、『紹興本三国志』は、原本はもちろん、写真版も「倭人伝」をのぞいては、日本には存在しない状況が判明した。
この事実は、わたしにははなはだ象徴的なものに思えた。すなわち、紹興本が日本の「邪馬台国」研究界で珍重されているのは、出版年代がもっとも古いという一点であった。しかし、紹興本の全体はだれも知らなかった。だから、たとえば紹興本と紹煕本の両者を比較し、そのちがっている個所について、その信憑性はいずれが高いかを確定する、そういった追求は一切おきざりにされていたのである。
これらの事実がささやかながら、重要な問題をふくんでいたことはのちに明らかにする。
要は、この紹興本は、「倭人伝」だけ流布して、『三国志』全体は存在しないまま、不問に付せられているということだ。これほど「紹興本倭人伝」への研究がわが国で厖大に積み重ねられながら・・・・。この事実こそ、「全体の中の部分」として倭人伝をとらえようとしない、わが国の「邪馬台国」研究の実態をリアルに象徴していたのであった。
無駄に終った旅ほど収穫は大きい。目指す『紹興本三国志』こそ手にしえなかったが、「わが国の邪馬台国研究図」という実像は、わたしの旅のレンズの中に、徐々に焦点をむすびはじめてきたのである。
女王の秘密にせまるわたしの武器は、一見平凡な「筆跡問題」であった、むろん、卑弥呼の筆跡をしらべよう、などというのではない。古写本の多い中世史の場合とちがって、古代史学界の場合は、筆跡などにあまり神経質ではないようである。“太安万侶おおのやすまろの筆跡”などといってみたところで、それらはすべて失われてしまっているのだから、筆跡鑑定家も腕のふるいようがないわけである。
それでは、本当に筆跡は問題でないのだろうか。はじめ原著者が自分の筆跡で原本を書き、それが再写、三写とうけつがれてゆき、ある時点で版本となる。この手つづきは、古代史上の史料の場合であっても、なんの狂いもないはずだ。ただ、ある段階から前は「失われている」だけなのである。。喪失以前の段階で、いろいろ筆跡にからんだ問題は現実におきているであろう。ただ、「失われている」ために、学者が「推定」でその空白を埋めているだけなのである。たとえば、「現実の版本のAという文字は、おそらくBという文字のあやまりであろう。なぜなら、その方が意味が通じやすいし、AとBとは字形が似ているからだ」というふうに。
しかし、このような空白部分を、もっと科学的に復元する方法はないものだろうか。それによって、定説化した学者の「推定」を再検査する方法をわたしはもとめた。筆跡は失われても、「筆跡問題」は残っている。そして、わたしたちの厳密に学問的な追究を待っている。わたしにはそのように見えたのである。
わたしの方法は二つあった。
その一つは、三世紀の「壹」と「臺」の二つの字形をたしかめることだ。だれでもすぐ気がつくように、この二つの字は、一応形が似ている。少なくとも「士(これは旁です。インターネット上は単漢字表示)」と「冖」は共通しているのである。だから、「もと“臺”とあったものを、後世の写本を写した人か、刊本の植字をした人が、うっかり“壹”とまちがえてしまったのだ」 ーー今までの学者たちはそう考えていたようである。
たしかに、「魯魚のあやまり」というたとえもあるように、「魯」を「魚」と写しあやまり、「虚」を「虎」に写しあやまる、といった類の誤写はおきやすい。日本でも『去来抄』に、「此ノ木戸」を「柴ノ戸」と読みあやまったことに端を発し、版木を削らせるにいたった芭蕉の有名な逸話がある。
しかし、『三国志』は三世紀の本だ。だから今の字形で、似ている、といってみたところで意味はない。もっと厳密にいえば、『三国志』の書かれた三世紀から、現存最古の『三国志』刊本である紹興本・紹煕本の時代である十二世紀まで、その間の時期の「壹」と「臺」の字形変化の歴史をたどる必要があるのだ。そこでこの二つの文字がじっさいに似ていなければ、問題にならないのである。
このような考えは、中世思想史の分野で、親鸞の筆跡を追跡しつづけてきたわたしにとって、すぐ反射的に頭のはたらく問題だった。しかし、中世日本とちがって、古代中国の古写本類は少ない。代々の戦火に焼かれたため、その多くは残っていないのである。
しかし、「焼けない文字」がある。金石文だ。つまり、石碑や鐘や鏡の類に書かれた文字は焼けることがない。それで、歴史上度重なる戦火にも耐えて今にのこっているのである。それらに、建立や製造の年月日が記されていれば、その文字の字体が何世紀のものかもハッキリするわけである。中国には、石造や金銅製の遺物が多い。だから、これらの文字の中から「壹」や「臺」をさがし出すと、各地各時代の字体が求められる。
そこでこれらをさがした。といっても、中国へ出かけたわけではない。このような歴史的な遺物は、その多くがすでに版刻や写真版の形で本にまとめられている。それを各大学の図書館や研究室で閲覧させてもらい、その中に「壹」と「臺」という文字をさがしたのである。意外に簡単に求めえたものもあれば、高句麗好太王(こうくりこうたいおう)の碑文の全文のように、ありそうでなかなか手に入りにくいものもあった。しかし、時間とともに確実に、「壹」と「臺」の古形文字の蒐集は数をましていったのである。それらを一つ一つ確認してゆくと、今の字形と異なって、いろいろ複雑な形をしていた。ところが、それら「壹」と「臺」の両者の形の多くは、今の字形以上にちがいが大きかった(図版A〜I)。
A・Bは、諸橋轍次(もろはしてつじ)『大漢和辞典』(大修館刊)に載せられている「壹」および「臺」の小篆(しようてん 秦代にはじまるといわれる書体)である。
つぎにこれを上古の金石文に求めればC・Dのようである。
C1の「壹」は秦二十六年詔権(しようけん)。C2の「壹」は(上)壹長残石(いちちょうざんせき)、(右下)詛楚文(そそぶん)、(左下)詔権から、Dの「臺」は(右上の上)梧臺里石社碑額(ごだいりせきしゃひがく)、(右上の下)天璽紀功碑蘭臺東観令(てんじきこうひらんだいとうかんれい)、(右下の下)蘭臺令史残碑(らんたいれいしざんび)、(右下の下)石経荘公築臺干郎(せきけいそうこうちくだいうろう)の中からそれぞれとったもの。
これらを比較すると、「士」「口」「冖」などを共有するため、相当の相似性が認められる場合も存している。たとえば、C2の上の字形とDの右下の字形はある程度の錯認可能性をもっているともいえる。しかし、他の場合の字形は相当に異なっている。
「壹」と「臺」の字体の異体字例(下の壹と臺を確認して下さい。)
つぎに漢代の金石文に下れば、つぎのような字形が出現している。
「壹」の場合。
(1) 恢崇壹燮*かいそう へん ーー魯相史晨祠孔廟奏銘(ろそうししんしこうびょうそうめい 霊帝建寧けんねい三年立)
(2) 五歳壹巡 ーー西嶽華山廟碑(せいがくかざんびょうび 威宗えんき延熹四年)
(3) 壹不得犯 ーー山陽太守祝睦碑(さんようたいしゅしゅくぼくひ 延熹七年卒)
(4) 星精圭壹褞*(うん) ーー幽州刺史朱亀碑(ゆうしゅうしししゆきひ 霊帝光和六年卒中平二年造碑陰)
燮*は、又の代わりに乂
褞*は、衣編の代わりに糸編。JIS第3水準7E15
同じく漢代の金石文において、「臺」の場合、
(1) 王貢対おうこうたい臺*1二百 ーー劉熊碑陰(りゅうゆうひいん 漢)
(2) 伊雄雲いんゆううん臺*2 ーー同右
(3) 呉進字升ごしんあざなしょう臺 ーー孔宙碑陰(こうちゅうひいん 延熹七年)
(4) 賛衛王さんえいおう臺 ーー竹邑侯相張寿碑(ちくゆうこうそうちょうじゅひ 霊帝建寧元年)
現在形と同じ「壹」と「臺」をともに含有している例を漢・魏より一例ずつあげてみよう。
(一)A壹由此水 いちゆうしすい
B故吏[龍/共]臺 こりきようたい
AB共に桂陽太守周憬功勲銘(けいようたいしゅしゅうけいこうくんめい 漢、熹平三年)
[龍/共]は、龍の下に共。JIS第3水準ユニコード9F94
(二)A萬載(ばんさい)壹遇之秋
B衆地陪臺(しゅうちばいたい)
AB共に魏公卿上尊号奏(ぎこうけいじょうそんごうそう 魏)
つぎに『三国志』呉志残巻(西晋写本、一九二四年新彊善*善(しんきょうぜんぜん)県出土)の中に出現している「壹」の字をあげよう(図版E)。
善*は、善に邑(おおさと)編。JIS第3水準ユニコード912F
与有道平壹*宇内 <張温伝>
これが偽本でなければ四世紀の『三国志』最古写本中の「壹」字の事例となるだろう。
同じく西晋代の自筆書簡として、一九〇九年楼蘭出土の李柏文書中に出現している「臺」を見よう(図版F)。
「今奉臺使来西」 ーーこれは四世紀初頭の筆跡である。
つぎに、同じく三世紀後半から四世紀前半ぐらいの筆跡として、楼蘭出土書跡(スタイン氏第三回探検所穫)中の「臺」字をあげる(図版G)。
「向臺*時」 ーーもっとも「壹」に近接した字形といえよう。
また、五世紀初頭には左の事例が存在する(図版H)。
「攻取壹八城」(高句麗好太王碑)
つぎに、宋版の時代に近い筆跡として、敦煌出土本の「勧善文」(九・十世紀、木筆)中の事例をあげよう(図版I)。
「蓮花臺**」 ーー(墨美社『敦煌木筆観音経』より)
現存『三国志』(裴注はいちゆう)の宋紹煕本においても、「臺***」という字形が出現している。
(1) 殷辛之瑶(いんしんのよう)臺*** 〈呉志十六、十二〉
(2) 夫興土功高臺*** 〈呉志十六、十二〉
すでに漢代の金石文において、同一碑文中に「臺*1」「臺*2」の混用が見られる(前掲、劉熊碑陰)。したがって同じく両方の字形を混有する宋紹煕本は、原字形が遺存しているものともみなすことができよう。
これに対して、「これなら、まちがって当然だ」というほど似ているものの方があまりないのである。だから、この字形比較からいうと、「この二つの字はよく似ているから、当然まちがってあたりまえだ」という、従来の通念が、実は簡単には成立しがたいことがわかってきたのである。
しかし、読者にもすぐわかるように、わたしがどんなに大きなエネルギーを使って金石文の蒐集をふやしていったにしろ、これは、「きめ手」にはならない。なぜなら、肝心の『三国志』の著者陳寿や、代々の『三国志』の書写者・版刻者自身のズバリの筆跡が出てこない以上、「各世紀の字体」といった大まかなところから論ずるだけでは、「二階から目薬」の感をまぬかれないからである。
このように三世紀から十二世紀までの宇体をたしかめるという作業は、いわば研究の常道であったが、残念ながらこの場合は、「自筆本」というきめ手を欠くのである。
もちろん、十三世紀日本の親鸞の場合とちがって、三世紀陳寿の自筆本「三国志原本」などというものが発見される可能性は、絶無にちかい。だから、「三世紀以降の文体」の検査は、「宇形からは、壹は臺のまちがいとはいえないのではないか?」という疑いを一段と深めることとなるにしても、けっしてそれ以上ではない。
しかし、この方法が決定打となりえないことは、この蒐集と検査のはじめからわたしには十分に計算ずみのことであった。けれども、筆跡問題追究の手順として、この最初の手つづきを経過せぬことは不当である。だから、この問題の追跡の結果、「両字の古形はあまり似ていない」という客観的な心証をうることができたのは、わたしにとって、いわば望外の収穫だったのである。
しかし、ここにとどまってはならなかった。わたしは女王国の扉の秘密の鍵のさびをおとして、今、準備を終了しただけなのだから。
わたしは紹煕本『三国志』に対して、予定の作業を開始した。
それは、『三国志』全体の「壹」と「臺」を全部抜き出す、という単純な作業だった。
紹煕本『三国志』は百衲本廿四史では、写真刻版となっており、一冊に編冊されている。もとは六十五巻の書籍である。わたしの考えは、つぎのようなものだった。
一、『三国志』は六十五巻という大部の本だから、その中には倭人伝以外にも相当多くの分量の「壹」と「臺」という字が出てくるにちがいない。
二、それらの「壹」や「臺」をふくむ文章を全部しらべて、それぞれの文字が「壹」と「臺」のとりちがえであるかないかを検査する。
三、その場合、両極に大別して二つの結果が予想される。
A 「壹」と「臺」とのとりちがえが相当数認められた場合。
B 右のとりちがえが全く存在しなかった場合。
四、右の調査結果にもとづく字形上の結論は、それぞれつぎのとおりだ。
A' もし右のAの場合なら、陳寿自身から宋版版刻者までの間に、「壹」と「臺」を酷似して書く筆体の持主が存在したことが証明される。
B' もし右のBの場合なら、両者の酷似は存在せず、両字の字形は金石文の示すとおり、ハッキリ異なった特徴のある字形をしていたことが証明される。
五、したがって、右の二つの場合の結論は、それぞれつぎのようになろう。
A" 「邪馬壹国」が「邪馬臺国」の誤刻である可能性は非常に高い。
B" 右の可能性はほとんどない。
これが、わたしの方法である。
つまり、一面では版本を通じての「筆跡性格の復元」の方法であり、反面では「誤謬率の統計的調査」である。これを一言でいえば、版本の統計的処理によって、原筆跡があやまりやすかったかどうかを間接に証明しようとしたのである。
しかし、この“版本によって筆跡の残像を追跡する”という方法が、この場合本当に有効性を発揮するかどうか、確証はなかった。
たとえば、つぎのようなケースが直ちに予想されるであろう。
第一に、もし『三国志』全体に、「壹」と「臺」の字が案外少量しかなかったら、この方法は有効でない。なぜなら、これはあくまで相当多量の分量を前提とした統計的方法なのだから。この両字が多ければ多いほどこの方法の有効性は増大するが、逆に少なければ少ないほど有効性は減少するのである。
第二に、せっかくたくさんの「壹」や「臺」が見つかっても、それがまちがいか、正しいか、相互の字のとりちがえなのか、判定できなければ無意味だ。それぞれの個所の『三国志』の原文を正確に読みこなせるかどうか、それも問題だ。
第三に、先の三のAとBのように、場合が両極のどちらかに分れてくれれば判定しやすいが、もし、どっちつかずの結果だったら、判定はとてもむつかしくなってしまう。
「安全」は座している人々にだけ存在する。もし、無効な結果を眼前にしたときは、これを無効として的確に処理すればいいのである。だから、わたしは「無効性」を恐れず、この単純な作業に入っていった。
『三国志』全体の中に、「壹」は八十六個、「臺」は五十八個あった。あわせて百四十四個。これが、紹煕本の古刊本の形にすると、三千ページ近い中の各所にばらまかれている。十分統計的処理に値(あたい)する分量と分布だった(臺は二例追加)。
まず、「壹」をあげよう。
魏 |
蜀 |
呉 |
計 |
||
呂 壹 | 32 |
32 |
|||
孫 壹 | 7 |
14 |
21 |
||
士 壹 | 13 |
13 |
|||
呉 壹 | 8 |
8 |
|||
蒋 壹 | 2 |
2 |
|||
悼公壹 | 2 |
2 |
|||
聶 壹 | 1 |
1 |
|||
張 壹 | 1 |
1 |
|||
孫聖壹 | 1 |
1 |
|||
壹 与 | 3 |
倭人伝 | |||
壹 拝 | 1 |
||||
邪馬壹国 | 1 |
||||
15 |
9 |
62 |
86 |
内訳は魏志十五個、蜀志九個、呉志六十二個。次ページの表のとおりである。
注意されるのはつぎの二点だ。
(一)魏志倭人伝以外の出現例(八十一個)では、そのすべてが人名の一部だ。その中に「臺」の誤記と認定されるものは一例もない(とくに問題となった一例については、のちにくわしくのべる)。
(二)倭人伝中においても、「邪馬壹国」「壹与」の他に、もう一個の「壹」が「壹拝」という形で出現している。この語も、「臺」ととりかえるわけにはいかない(この語の意味についても、のちにくわしくのべる)。
このように、全八十六例中、倭人伝中問題の「邪馬壹国」(一個)と卑弥呼のあとをついだ女王「壹与」(三個)を除いた八十二例について検証すると、一切「壹→臺」の形の誤記は生じていないことが確認されたのである。
この検証作業のあいだ、わたしは日も月も壹に憑かれてしまっていた。一日、いささか目を休めようと、近くにある「花の寺」に散策をこころみた。ところが、入口の参道に寄進札がずらりと立ちならんでいる。その「金壹万円也、金壹干円也」という「壹」の字がまたもやいちいちわたしの目の中にとびこんできて、わたしは一層疲れ切ってしまう始末だった。
つぎに、「臺」をあげよう。
魏志 |
A |
銅爵臺 |
3 |
金虎臺 |
1 |
||
陵雲臺 |
2 |
||
南巡臺 |
1 |
||
東巡臺 |
1 |
||
九華臺 |
1 |
||
東征臺 |
1 |
||
永始臺 |
1 |
||
B 〈7〉 |
明 臺 |
1 |
|
天 臺 |
1 |
||
玉 臺 |
1 |
||
鹿 臺 |
2 |
||
漸 臺 |
1 |
||
蘭 臺 |
1 |
||
C 〈16〉 |
臺 閣 |
10 |
|
三 臺 |
1 |
||
業* 臺 |
1 |
||
詣レ 臺 |
2 |
||
行レ 臺 |
2 |
||
D 〈9〉 |
百金之臺 |
1 |
|
宮 臺 |
1 |
||
臺 [木射] |
2 |
||
高二 其 臺一 |
1 |
||
臺 観 |
2 |
||
小 臺 |
1 |
||
登レ 臺 |
1 |
||
E 〈3〉 |
張 子 臺 |
2 |
|
王 偉 臺 |
1 |
||
蜀 志 〈2〉 |
C | 平二 臺事 |
2 |
F | 臺 登 |
1 |
|
呉 志 〈8〉 |
B | 玉 臺 |
1 |
C | 中 臺 |
1 |
|
D 〈2〉 |
臺 観 |
1 |
|
高 臺 |
1 |
||
E 〈2〉 |
文 臺 |
1 |
|
幼 臺 |
1 |
||
G | 釣 臺 |
2 |
業*は、業に邑篇。JIS第4水準、ユニコード9134
[木射]は、木偏に射。JIS第3水準、ユニコード69AD
内訳は魏志四十六個、蜀志二個、呉志八個。上表のとおりだ。
表示の「臺」をつぎの七点について分析しよう。
(一) A(十一例)は魏において築造された天子の宮殿の固有名詞だ。魏の武帝(曹操)がみずからを周の文王に比し、銅雀臺(どうじゃくたい)、金虎臺(きんこたい)、冰井臺(ひょうせいだい)の三臺を建造したことは、史上著名である(『河南通志』、『業*都ぎょうと故事』など)が、その他にも魏において多くの「臺」が営まれたことを、表中A類の固有名詞は示しているのである。
業*は、業に邑篇。JIS第4水準、ユニコード9134
(二) このような魏における「臺」の造営の先範、淵源をなしたのが、B(七例)における魏以前に存在した各「臺」である。
「明臺」は古く「明堂」といわれた。本来、王者の太廟であり、政教を行なう堂の意味である。上帝を祀り、先祖を拝し、老を養い、聖を尊ぶなどの国家の大典礼に関するものは、みなこの堂で行なったといわれる。これを周において、「明堂(明臺)」と称したのであるから、みずからを周の文王に比した魏の武帝が、盛大な三臺を築造したのも偶然でないことが知られる。
つぎに、「鹿臺ろくだい」は殷の紂王(ちゅうおう)が財宝をたくわえた倉であり、「殷都に鹿臺有り。之を殷墟と謂ふ」(『地理通釈』)といわれるように、殷の都の中心をなすものであった。
「蘭臺らんだい」は『戦国策、魏策』に「蘭臺之宮」とあるように、楚王の宮殿の名である。
つぎに「漸臺ぜんだい」は漢代未央宮(びおうきゅう)の西に存在した宮殿である。
(三) これらに対して、いささか趣を異にするのは「玉臺」であり、『漢書礼楽志』に「閭闔(りょこう)に游び、玉臺を観る」といい、注に「応劭(おうしょう)曰く、王皇は上帝の居する所」とあるように、“天帝の居るところ”をさすものである。「天臺」も、ここでは「天堂」の義であり、「神のいます天上の殿堂」をさすものと思われる。
以上を要するに、遠く天なる上帝の宮殿が「玉臺」であるのに対し、ここ地なる天子の宮殿が、これら地上における「臺」であると考えられたのである。
すなわち、「天帝より天命をうけた天子」というテーマが、魏における「臺」造営の背景をなしていた根本思想だったのである。
(四) このような「臺」の根本義より生じてきたのがC(十六例)における「臺」の用法である。「臺閣」とは「尚書」という意味である。「尚書」は、はじめ天子の詔勅、文書の事をつかさどったが、後漢の光武帝が即位してのち、天下の事は、ことごとく尚書に入るにいたったという。要するに、天子の下において、天下の政務をつかさどる中央官庁であった。呉志の「中臺」もこれと同じ意味である。
つぎに、「三臺」は魏の武帝の造営した「三臺」であり、魏の五都の一つである業*(ぎょう)にあったから、「業*臺」とも記せられている。
業*は、業に邑篇。JIS第4水準、ユニコード9134
このような「臺」の用法から、「臺」という一語のみで、“洛陽にある天子の居城”と“天子に直属する中央政庁”を指示するようになった。
「臺に詣いたる」「臺に行く」といった事例は、その用法を示している。
(五) つぎに、D(九例)に属する用法は、いずれも「宮殿」を示す普通名詞であるけれども、具体的には(とくに魏志の場合)A・Bを背景として用いられているため、結論として指示するものは、A・Bの用法に帰する、
(六) これに対して、E(あわせて五例)に属するものは、人名の一部である。また、F(一例)は地名である。
(七) 一見、異なった用法に見えるのはG(二例)であるが、これも、呉の孫権の酒宴にちなんだ有名な故事をもつ釣臺(ちょうだい)であるから、単なる釣魚臺(ちょうぎょだい)ではなく、楼閣に類するものと思われる。
このように臺の場合も、全五十八例とも「壹→臺」という誤記は全くおきていない、ことが判明した(のち逡*臺(せんだい)〈A〉鸞臺(らんだい)の二例追加。この点、白崎昭一郎・篠原俊次・三木太郎氏の御教正に深謝したい)。
逡*は、JIS第4水準ユニコード9044、
以上の調査結果はなにを意味するだろうか。
第一に「筆跡」の復元結果。三〜十二世紀間の諸筆跡は、それほど混同されやすくはなかった、という事実が証明される。
つまり、陳寿自身より紹煕本の植字者にいたる間の「筆跡状況」は、両字がまちがいやすいほど似ていたとはけっしていえないのである。このことは、先にあげた金石文によって追跡した結果、両字は多くそれほど似ていない、という事実とも一致しているのである。
第二に誤謬率の統計的検査。両字の分量と分布は統計的処理に十分な状況であった。そしてその結果は、誤謬率〇(ゼロ)を示したのである。
これによって、紹煕本以前の空白部の筆跡状況は明白となった。「壹と臺は字形が似ているからあやまったのであろう」 ーーこのような「推定」が、全くの根拠なき臆測にすぎぬことが判明したのである。
このようにして、わたしは「三世紀における邪馬台国の女王」という虚名のべールを、やっと女王の双肩からはぎとりはじめたようである。
中国の大家との対決/『後漢書』の邪馬臺国/誠実なる証人/二人の生涯
卑字のなかの“宮殿”/倭国と魏との間/『後漢書』主義の大河/明治の大家たち/空臺
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