村岡典嗣論 -- 時代に抗する学問
古田武彦
はじめに
今年の四月初旬、一通の郵便が来た。母校、東北大学の日本思想史学科の研究室からだった。例年、福島県の桑折で行われている夏季セミナーの通知だった。だが、そこに掲げられた文字はわたしに衝撃を与えた。
テーマ・・・村岡典嗣(つねつぐ)
学生時代から今日まで、学問に向かうときはもちろん、朝夕に一刻も忘れたことのない四字だけれど、それがここに研究テーマとして掲げられるとは。五十五年の時のフイルムが一挙に逆回転しはじめたような瞬間だった。
直ちに参加を希望し、もし与えられる時間あらば、と発表を申し入れた。五月中旬である。
当日は当然ながら限られた時間(例年は五十分)であるから、あらかじめ、その「前置き」ともいうべき一文を草し、これを一般の心ある方々にも呈したい。そう考えた。これが本稿執筆の動機である。
一
先生には、学問の方法論に関し、「日本思想史の研究方法について」の論文がある。 (1)
「学問もまた個人の創作である。研究法といふが如きも、厳密には、もとより研究者各自の工夫に俟(ま)つべきものであつて、決して一律に得べきでない。」
右の一文にはじまり、次いで本居宣長の「うひ山ぶみ」から引文される。
「詮ずるところ学問は、たヾ年月長く倦ずおこたらずしてはげみつとむるぞ肝要にて、学びやうはいかやうにてもよかるべく、さのみかゝはるまじきこと也。(下略)」
この宣長の書について「その成熟した学識を以て古学の入門の手引を記した名著」と評される。宣長を以て日本思想史学にとっての最大の先達とする、先生の自由な学風がうかがわれよう。
その上に立ちつつも、学ぶ者にとって「研究法」ことに「学者が実際の体験の結果たる研究の方法の知識」が、研究者にとって必要であり、有益であることに筆を向けている。
そこでは次のような注意が記されている。
第一に、思想史は、「ある意味において文化史に属する」こと。
第二に、外来の思想を摂取し、その構成要素としつゝも、その間に、何等かの「日本的なもの」を発展して来たところ、そこに思想史の目標をおかねばならぬこと。
第三に、外国における日本思想史学の先縦として、第十八世紀の末から第十九世紀へかけて、ドイツの学界において学問的に成立した学問として「フィロロギイ」が存在すること。
第四に、その代表者たるアウグスト・ベエク(2) がのべている「人間の精神から産出されたもの、則ち認識されたものの認識」という定義がこの学問の本質をしめしている。
第五に、ただし「思想史の主な研究対象といへば、いふまでもなく文献である。」
第六、宣長が「上古、中古の古典、即ち古事記や源氏物語などの研究によつて実行したところは、十分な意味で、「フィロロギイと一致」する。
以上の次第が先ず平易に、そして重厚な筆致で論ぜられている。けれども、今、わたしの志すところ、それは右の論文の要約や祖述ではない。なぜなら、そのためには、さして長からぬ右の名稿を一読すれば足りる。それ以上の適切な手立てはないからである。
二
以上の論述の中には、今日の問題意識から見れば、矛盾とは言えないけれど、若干の問題点を含んでいると思われる。
その一は、縄文時代における「人間の認識」だ。右の論文の記せられた昭和初期(発表は九年)に比すれば、近年における縄文遺跡の発掘には刮目させられる。三内丸山遺跡はもとより、わたしが調査報告した足摺岬(高知県)の巨石遺構(3) に至るまで、当時の「認識範囲」をはるかに超えている。おびただしい土器群と共に、これらが「人間の認識」に入ること疑いがない。先述のベエクの定義によれば、これらも当然「フィロロギイ」の対象である。彼が古代ギリシヤの建築・体育・音楽等をもその研究対象としている点からも、この点はうかがえよう。
確かに、縄文世界の真相は、ただ個々の遺物や遺跡に対する考古学的研究だけではなく、同時に「思想史学的研究」にとってもまた、不可欠の対象領域ではなかろうか。けれども、その十分なる方法論を学的に構築しようとした論文・著述を見ること、世に必ずしも多しとしないのではあるまいか。
その二は、右と並び、近年絶えず新聞紙上をにぎわわせている弥生・古墳時代、あるいはそれ以降の考古学的発掘、あるいは構築物の内蔵する「思想史学的意義」である。
たとえば、福岡県から「三種の宝物(いわゆる三種の神器)」を豊富に、そして絢爛(けんらん)と内蔵する王墓が出土しつづけてきたこと、著名である。三雲遺跡(前原市)・井原遺跡(同上)はすでに江戸時代に農夫の手によって発見され、青柳種信が『柳園古器略考』にこれを記録した。
さらに明治三十二年、須玖岡本遺跡(春日市)が農家の納屋の建て変えのさい発見された。
以上は、右の村岡論稿以前の出土であったけれど、敗戦後、ことは一段と、そして画期的に進展した。昭和四十年、平原遺跡(前原市)から三七面の後漢式鏡が出土し、その中の四面(もしくは五面)は、わが国最大の内行花文鏡であり、古典(古事記・日本書紀)に言う「八咫の鏡」に当たるものであること、発掘者の原田大六氏の解説に異をはさむ者を見ない。この点からも、弥生の日本列島において「三種の宝物(神器)」に関する、最高・最大の王墓なのである。
さらに昭和五十九年、農地中の用水路整備工事中に発見された吉武高木遺跡(福岡市)は、わが国最古の「三種の宝物(神器)」の姿をしめした。これは先の四王墓と異なり、「前漢式鏡」
(三雲・須玖岡本)や「後漢式鏡」(井原・平原)ではなく、「多鈕細文鏡」を含む三種である点、日本列島に類例なく、韓国の草浦里遺跡(光州)などにそれを求める他はない。 (4)
以上は、現在すでに周知の事実であるけれど、今日「三種の神器」を日本思想史学において論じようとするとき、右の発掘事実に対する学的考察を除外し、ただ「文献のみ」に限って論ずるとすれば、「文献考証」という一局面に局限された論文ではありえたとしても、先生の力説されたような、“事物(文献など)の研究を通してその時代の歴史的意義を知る”という、思想史学とはなりえないのではなかろうか。
この点、日本思想史学の研究史において、古代史領域の研究者の、現在は必ずしも多くないこと、あるいは右の点も思わざる一因をなしているのではあるまいか。
その三は、右のような考古学的出土状況と記・紀の文献的研究との学問的相関関係である。
宣長の古事記研究の「精密性」については、すでに周知され、喧伝されているところだ。先生も、右の論稿のみならず、処女作というべき名著『本居宣長』においても、周密に論ぜられている。評論家・文筆家の中にも、「宣長礼讃」の声は尽きることがない。たとえば小林秀雄氏の『本居宣長』論篇はその最たるものの一つであろう。
けれども、今回、改めて古事記伝を熟視・熟読してみると、意外にも、各所においてその行論の「不用意」なるに驚かされる。たとえば、神代卷の「天孫降臨」の段における、問題の「天降坐干竺紫日向之高千穂之久士布流多気」の一節に対して「ツクシノヒムカノタカチホノクジフルタケニアモリマシキ」という「訓読」を付している。
そのため、その当地が「日向国」(現在の宮崎県)であることは、論ずるまでもなく“自明”のこととして、直ちに
「今ノ世に高千穂山と霧島山と、別(コト)にあるを以テ思へば、此ノ記に、高千穂ノ之久士布流多気(クシフルタケ)と、一ツの山に云えること疑はし、」
と言い、南九州の山脈中の「二山、異同(優劣)論」へと筆をすすめている。(宣長は霧島山説を採用)
ここではこの「竺紫」が「筑紫島」か「筑紫国」か、という根本問題は、改めて論議されることがない。
「筑紫国」(今の福岡県)の存在は自明である。一方の「筑紫島」が現在の九州全島を指して用いられていることは有名(「国生みの段」)だが、いわゆる「日向」(宮崎県)や「薩摩」(鹿児島県)に対して、直ちにこの地を「筑紫」と呼びうるものでは決してない。
なぜなら、右の「筑紫島」と並んで出ている「伊予之二名嶋」が、現在の四国全島を指して用いられていること疑いがないけれど、さりとて、たとえば土佐国を「伊予」と呼び、その中の安芸郡に対し、「伊予の土佐の安芸」とか、そういった呼称がありえないこと、また文献上の事実にも全く存在しないこと、当然である。
ことに、わたしがすでに論じたように(『盗まれた神話』(5) )、「二名」とは、伊予の国(愛媛県)の西北端部の一地点(6) の地名である。古事記では、その一角の一地点名を「基点」として、四国全島への呼称としているのである。(「豊秋津島」も、同じ。「豊国の安岐津」は国東半島の一地点名。同右書参照)
これと同じく、「筑紫島」とは、九州全島の北辺の一国である「筑紫国」を「基点」として、九州全島の呼称としたものである。
現代人の見地からは、一見奇怪と見えようとも、現代風の(空などから計測した)地図など存在せず、もっぱら海上を運行する「漁人集団の目」から見れば、まことに道理ある(リーズナブルな)命名であり、このような「呼称法」の存在こそ、かえって古事記の「国生み神話」の原存在性を証言する。この点、津田左右吉の“仮想”したような「六世紀の史官(近畿天皇家)造作説」などは、この史料のもつ原存在性を見失っていたのではあるまいか。
以上の論証によってみれば、宣長がこの「天孫降臨の段」の冒頭の「竺紫」の一語を以て、直ちに「九州全島」と見なして怪しまなかったのは、不用意であると言う他はない。
少なくとも、「古事記の表記」に厳格に従う限り、「竺紫」(この文字表記は「ツクシ」ではなく「チクシ」をしめす。福岡県の現地音である。)は、筑紫国(現在の福岡県)であり、「日向」は「ヒムカ」や「ヒュウガ」(宮崎県)ではなく、「ヒナタ」(福岡市の吉武高木のそばの字地名。またその西脇の高祖山連峯中に「クシフルダケ」の地名(山名)がある(第二〈或は三〉峯に当る)。
以上は、厳密なる文献分析の結果だ。だが、それだけではない。この分析結果を裏づけるもの、それが先述の「三種の宝物(神器)」の分布図だ。それは、今到達せられた高祖山連峯の東(福岡市・春日市)西(前原市)にまたがっている。
このような考古学的分布事実の存在ほど、右のわたしの文献分析の妥当性を証明するものはありえない。
これに対して宣長説のような、「南九州説」では、それが霧島山であろうと、高千穂山であろうと、全く妥当しえない。なぜなら、この領域は、縄文草創期から輝く先進文明の花開いた故地であること、今や著名であるけれど、それは決して「三種の宝物(神器)」
の分布領域(弥生時代)ではなかった。
かって「一発逆転」を夢見た論客もあったけれど(7) 、すでに年経ても、経れば経るほど、ここに濃密なる「三種の宝物(神器)」の突如出現を信じる考古学者は、ほとんど存在しないのではあるまいか。その“逃げ路”として「神話と考古学の乖離」を説いてみても、無駄だ。なぜなら、先の文献分析がしめしたように、「神話と考古学的出土領域」とは、両者ピッタリと、あまりにも見事に一致していたからである。たとえ一国の最高勲章類の受賞者や外国の高名神話学者の「讃歎」を以てこれを飾ってみても、右のような、一片のクールな分布図の事実をおおうには足りないのである。 (8)
では、宣長はなぜ“あやまった”のだろうか。その理由は、次の四点だ。
第一、彼はその表面上の主唱に反し、「古事記の表記」のみに忠実、という道をえらばなかった。
第二、これに反し、日本書紀の場合、(原材料は「原型」をしめしたにもかかわらず)その「史実としての編成」においては「南九州説」を採用している。宣長は、その「博捜主義」のため、「記・紀」を併せ理解しようとした。そのため、日本書紀の「編成」のしめす「南九州説」に立って「日向」を、いきなり「ヒムカ」もしくは「ヒュウガ」と訓んで疑わなかった。
第三、古事記は、八世紀において、実は「すでに廃棄された史書」だった。日本書紀(天武紀)にも、続日本紀(元明紀)にも、それに関する記事は全く削除され、南北朝期になって忽然と真福寺本(名古屋市)が出現するまで、一般の眼前には「存在しなかった」事実がこれを裏づける。
「七〇一」という画期線とそれに伴った「七一二(古事記成立)と七二〇(日本書紀成立)との間の落差とその間の一大変動」の意義は、宣長の立場(一貫した皇国主義)からは、はじめから追究することができなかった。
第四、宣長の学問にとって、「地下からの出土物」(考古学的遺物とその分布)などは、一切研究対象となってはいなかった。
以上だ。右の第一〜三のもつ歴史学的意義については、別稿(9) にゆずり、今は第四の点を特に指摘したい。「文献のみ」に研究対象を限定していては、「古代研究」は到底「古代の姿を明らめる」という、肝心の目的すら達成できないのである。
この立場(考古学的領域に対する理解)なしでは、「古田の文献分析も一説にすぎぬ。やはり宣長とその賞揚者たちの権威に従う」といった立場にとどまらざるをえぬこととなるであろう。おそらく現代の「時代」に従うことを先とする多くの人々にとっては・・・・・・。
それ故、日本思想史学はやはり、ベエクの指示したごとく、「文献」のみに局限されず、「古代における(或はそれ以降の)人間の認識に対する再認識の学」、文献以外の「物」をふくむ、いわば「人間の認識に対する綜合の学」として、これが再構築さるべき時が、今ようやく到来したようである。
三
先生の右の論稿を改めて熟読しつつ、感慨深い一語があった。それは「偽書」の二字がくりかえし現れることである。
「殊に内容や意味を主題とする思想史の場合に於いては、単なる考証は、殆んど存在の理由を有しない。徒らに考証に彷徨するのは、邪道に迷ひこんだものである。而してこの批判、考証は、文法的方面からの個々の字句の校訂から、その資料全体としての批判の問題にいたり、種々の方面があるが、結局は資料の真贋を分つのが目的である。而も考ふべきは特に思想史の場合には、真贋とは別に、重要さの問題が存し、単に贋なるが故を以て無価値とはされず、贋作として歴史的に意義あることがある(ママ)ことである。」
「而して、もしある主要資料の精しい研究によって、一つの正しい把握を得れば、他の資料に対しても、同様之を得たこととなり、偽書や疑書のたぐひも、それぞれの性質に於いて役立つ事となるのが普通である。」
史料批判の立場から「資料の真贋を分つ」ことの不可欠性を説くこと、当然であるけれども、それと同時に、それらの「偽書」や「疑書」に対しても、すすんでそれらの属する歴史的位置を明らかにすべきを研究者に対して率直に求めている点、注目せられる。
いかなる「偽書」乃至「疑書」といえども、しょせん“人間の造作物”である以上、それの誕生し、流布した、一定の空間と時間の存在すること、当然である。とすれば、ベエクの言う「人間の認識」の一部に属すること、言うまでもない。従ってそれらは当然、フィロロギイの、そして日本思想史学の研究対象となるべきである。
このあまりにも至当なる、学問的方法の呈示にもかかわらず、日本思想史学において、たとえば「上記(うえつふみ)」「吉田家文書(富士山古文書)」「秀真伝(ほずまつたえ)」といった中・近世等の成立文書に対し、その歴史学・思想史学上の意義を客観的に、冷静に「位置」づける学的研究の出現した形跡のないこと、むしろ不可解である。
研究心の不足というよりは、これが「学界からの擯斥(ひんせき)」を恐れてではなければ幸いである。ために、かえっていわゆる「超古代史」といった、オカルト的興味がくりかえし断続し、若者の頭脳を“誘惑”しつづけているのが現状ではあるまいか。日本思想史学界の怠慢と言わねばならぬ。
後述するように、先生は平田篤胤の後半生に現れた、一種オカルト的著述に対しても、これを回避せず、分析の手を下された。いわゆる「仙童寅吉の仙境異聞」問題に対する篤胤の傾倒ぶりに関し、その経緯を辿り、彼の内面の信仰や学風とのかかわりを求めたのである。
「けだし寅吉は一種の癲癇(てんかん)病者で、言動は全く病的発作の結果とすべきが、(中略)我々は仙境異聞に関しては、中々に篤胤が当時の俗人と同様に、否それ以上に有した迷信的素質を見る。」(10)
もし先生が長寿を天から与えられたとすれば、篤胤の有名な「神代文字」論に対しても、周密にして冷静な分析を鋭く展開されたのではなかろうか。心から惜しまれる。
わたし自身、「和田家文書」の研究に従事し、学界や一般研究者からの中傷と誹謗の攻撃を経験した。中には、わたしを以て「偽作の当事者」であるかに論ずる者さえ出現した。もちろん、荒唐無稽の一語に尽きる。当文書は、江戸時代、寛政年間を中心にして秋田孝季・りく・和田長三郎吉次の生涯を傾けた努力によって集成された、貴重なる資料大系である。若き日本思想史学研究者の、勇気ある輩出を望みたい。
ここでは、当和田家文書の所有者たる和田家(青森県五所川原市飯詰)と先生との間の“ささやかなる交流”について、後日のために記しとどめておきたい。
昨年の九月に逝去された和田喜八郎氏の尊父、元市氏は戦時中、仙台(軍隊。憲兵か)にあった。驟(しゅう)雨の中でそばの屋根下に雨宿りしていたさい、その家の品よき婦人から傘を貸してもらった。それが縁となり、婦人は和田氏の五所川原の自宅(農家)に「米」を求めて再三訪れたという。それが村岡先生の奥さんであった。その「米」の代償にもたらされた“黒のオーバー”があった、として、喜八郎氏はわたしの宅へ送ってこられた。しかし、わたしにその真否を判断する力はない。
尊父元市氏は村岡先生を深く尊敬していたという。先生の言葉として「石が流れ、木が沈む」との言を伝えられたというが、その意義については「知らない」と(喜八郎氏は)言う。或は(古田の理解では)当代(戦時中)の時勢に対する批判の意が内蔵されていたのかもしれない。
若き喜八郎氏は、一方の婦人(先生の奥さん)に対して心奥に敬意を抱いていたという。わたし自身、先生の奥様には平常傾倒の念が深かったから、同年の喜八郎氏の心裏を理解しうる。
以上は、ほとんど「学問」に関する所に非ず、むしろプライベートの事象に属する所である上、ことの真否の検証すら、もはや不可能に近いから、ただ一挿話として記するにとどめる。奇遇である。(11)
四
最後にのべたいのは、先生の学問における「時代」との関係である。
「日本精神について」という論稿は、昭和九年二月発行の『精神科学(第一巻)』所載(『続日本思想史研究』所収)論文である。この論文名からも、同時代の思想界との交渉が予想されるけれども、その内実を熟読すると、論旨は「同時代」を超えているようである。
先ず「いかなる文化といへども、国体観念を侵害するものは、仮りにいかにすぐれたものにもせよ、まづ、そは日本の生命を危ふくするの故を以て、拒否せられねばならぬ。」とのべながら、そのあと、肝心の強調点が現れる。
「宗教とか芸術とかいふ文化の方面には、明らかに超国家的の性質がある。そは決して非国家的でない。これを強ひて国家的てふ見地から、効果的に撃縛しようとするのは、それらの文化的価値を発揚せしめる所以でなく、むしろ真に国家の文化の発達を阻止し、その結果真の意味に於ける国家の為めにそむくものである。この点は、頗る聡明な態度を以てむしろ寛容でなければならない。」
「而して、所謂日本の文化的創造に就いては、吾人はその内容的意義に於いては、そはむしろ、今後に課せられたわが民族の輝かしい宿題であることを覚らねばならぬ。」
最初の「国体観念」問題では、同時代と同一線上に“身を並べ”ながら、その主張のキイ・ポイントは第二・第三の引文にあろう。この時期に、この発言がいかなる意味と意義を帯びていたか。戦前という「時代」を知る人には、十分に理解されうるところであろう。ここでは「国体観念」に名を借りた「排外主義」及び「日本精神」という名の「過去の歴史絶対化」という二流行に対して、その非を告げること、そこにこの一文のもつメッセージの核心があったのである。
この点、先にあげた、先生の最後の論稿「平田篤胤」は、敗戦後に書かれた唯一のものであるが、この「時代」になぜ、この研究対象がとりあげられたか。それは末尾の一文に現れている。
「吾人は同胞の中に彼を有することを、敢へて誇り得る。若夫(もしそれ)時局の変転によつて、にはかに彼を説くを憚り、又は埋没せしめるが如きは、決して新日本の文化的創造に参与する所以でない。」
時は、昭和廿年十一月十九日。マッカーサーは東京に居し、超一流の軍隊は日本列島内に拠点をえた。「日本国憲法」という名の草案は、いまだ日本国民の知るところとはなっていなかった。しかし先生は、鳥海山を望見する六郷村(秋田県仙北町)の一屋で、日本の未来を「予見」されたことであろう。そして戦前の「国体観念」とは、また異なった「時代の圧力」が迫りつつあることを察せられたのではあるまいか。
そのような「時代」の常識に抗するところにこそ、「人間の学問」のもつ意義がある。そのような思いに朝夕沈潜しておられたように思われる。
ソクラテスとプラトンが人類に残したところ、それがこのような学問であった。「これこそ不滅」と称せられたものが次々と滅び去り、さまざまな不祥事によって「これほどの腐敗は、やがて国家の滅亡」と憂慮され、喧伝されつづけても、なお生き残るもの、否、いよいよ光をますもの、それが真の「学問」の道に他ならないからであるる
五
十八才の青年の日、わたしは先生にたずねた。「単位は何を取ったらいいですか。」昭和二十年の四月、戦争中(末期)の仙台、東北大学入学の直後だった。
「何でも、いいですよ。ただ、ギリシア語だけは取って下さい。」
説明はなかった。しかし、先生の研究室にズラリと並んだプラトン全集が、沈黙の中に語っていた。
「今、時代の流行の狂信的な日本学ではない。ソクラテス・プラトンの学問の方法によって日本の古典を研究しなさい。」
と。「時代に抗する学問」の真骨頂だった。
現代という「時代」にも、種々の潮流がある。欧米や中国・韓国といった外国のみを尊しとし、日本の伝統や習俗を卑しとする風潮、また逆に、日本の歴史の根拠は古事記・日本書紀にて足れりとして中国の史書(三国志や旧唐書など)を不当に卑しめる声高の俗流、いずれも現代という「時代」の生んだ流行である。
半世紀を過ぎても、なお超一流の外国軍隊の常駐という(いかにそれが「やむをえぬ」こと、さらに「必要な」ことと弁明されうるとしても)、人間の歴史上の「異常」状態の継続の中で、右や左にゆれ動く「かげろう」、それらはわたしの目にはそのようにしか見えない。
思い出す。昭和二十年六月上旬、東北大学文学部の学生全員が「授業中断」となり、志田村(現、宮城県古川市)への勤労動員を前にして、教授方による激励会が開かれた。片平丁の現、本部の地である。
各教授、こもごも立って「残念ながら、もはや勉学に意をわずらわさず、勤労一途そして健康に留意してほしい」旨、懇切に告げられたあと、村岡先生は立たれた。
「フィヒテは言った。『青年は情熱を以て学問を愛する。』と。この四月以来、わたしはその言の真実なるを知った。
今、各教授はのべられた。『今は、ただ健康に留意せよ。』と。その意は十二分に察しうるものである。されど、その上で、わたしは敢えて言いたい。『分刻を惜しんで勉学せよ。』と。荻生徂徠は寸刻を惜しんだ、という。諸君は、徂徠以上に、分刻を惜しんで勉学をしてほしい。これをわたしのはなむけの言葉としたい。」
学生の数は、すでに教授方より少なかった。その碩学の中にはさまれた、わたしたちの心は輝いた。
二ヶ月後、敗戦を迎える。わたしの人生のはじまりの日々であった。
〈注〉
(1)「日本精神文化」第一卷第五号(昭和九年六月)『続日本思想史研究』岩波書店(昭和十四年)収録
(2)August Baeckh
(3)「三種の宝物(神器)」に先行すると思われる「三列石」群が叢立する。(「足摺岬周辺の巨石遺構」土佐清水市、一九九五)
(4)糸島・博多湾岸の「五王墓」を伊都国王墓(平原)・早良国王墓(吉武高木)・奴国王墓(須玖岡本)等と“名づけて”いる人々(「公称」或は「官称」)がいるが、これはたとえば昭和天皇の陵墓に対し、「武蔵国王墓」や「多摩国王墓」などと命名するに等しい。愚挙に非ずんば暴挙である。伊都や早良や奴は“推定上の「在地名」”にすぎず、あくまですべて「倭国王墓」だ。それをまぎれもなく明証するものこそ
、他ならぬ類希な、これら「三種の宝物(神器)」の存在である。
(5)朝日文庫
(6)右では「双海(ふたみ)」(伊予郡双海町)と同類地名とした。
(7)「歴史学の成立--神話学と考古学の境界領域」『九州王朝の歴史学』(駸々堂刊)所収
(8)梅原猛『天皇家の“ふるさと”日向をゆく』(新潮社刊)
(9)「殺された陵墓」(多元Vol.37)
(10)「平田篤胤」(日本叢書五九、昭和二十一年五月)『日本思想史研究第三』(昭和二十三年、岩波書店刊)
(11)わたしが(知り合って数年後)和田喜八郎氏と会話中、偶然村岡先生の名に言及したとき、意外にも喜八郎氏より「なんであんたは村岡先生のことを知っているのか」との反問があり、わたしが東北大学へ来たのは、他ならず、ただ先生を求めてだったとの経緯を語った。これに対し、自家(和田家)と先生との交渉が語られたのである。奥さんが(米との交換のため)持参された着物があとで見てみると、あまりにも見事なものであったため、元市氏は「こんなものはもらえん。」と言って、特に喜八郎氏を仙台へ使わし、それを返却せしめたことがあったという。いずれも戦時中の“ありふれた光景”の一コマとも言えようが、後生のため、あえて記させていただいた。
なお「村岡先生から来た手紙はないか。」と聞くと、「あるかもしれん。探してみる。」との答えであったが、果す日なく、早くも逝かれた。
・・・二〇〇〇・五月二十五日記了・・・
インターネット事務局2003.9.30
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