古田史学会報
2000年 6月12日 No.38

古田史学会報

38号

発行  古田史学の会 代表 水野孝夫


 村岡典嗣論 ----時代に抗する学問---- 古田武彦

夕波千鳥

豊中市 木村賢司

 「柿本人麿の歌で、私が知っていたのは、恥ずかしいですが『近江の海、夕波千鳥汝が鳴けば、心もしのに古思ほゆ』これぐらいです。この歌は、近江王朝の天智のころを歌ったものとされていると思います。でも、近くに川(江)のある海は近江の海ですから、なにも滋賀県の琵琶湖を指す必要もないのではないか、また、夕波千鳥の千鳥ですが、海岸に千鳥が集まっているのは、私は魚釣りをよくするので、見かけるが、琵琶湖の湖岸に千鳥が集まっているのを見たことがない。琵琶湖もよく行きますが、居るかも知れないが私は見たことがない。
 だとすると、古思ほゆも、九州王朝の古思ほゆでなければ、つい、この間の近江王朝を古とするのは、ちょっと変だと思うのですが?」

 二月二十日、福岡天神アクロス6階での「古田史学の会」九州の会員を前にして「万葉集を深く読む」と題して古田講演会があった。講演後の会員との熱心な質疑に、当方もだんだん興奮してきて、前記の質問をした。
 これに対し、先生は、
「これも、問題をもっている歌である。ただ、あの歌は短歌であるが、人麿には別に長歌があり、そこに有名な『畝傍の山の橿原の・・・近江の国の楽浪の大津の宮に・・・』があるので、短歌の近江の海も近畿の琵琶湖のことと思っている」
 と述べられ、また、これらの歌は、単に壬申の乱で敗れた弘文天皇のことだけではなく、神功皇后時の忍熊王の故事なども歌い込まれているとした、詳しい見解(詳細略)を示された。

 私は自分の直感で軽率な質問をしたと恥じたが、この後の会員との懇談会の席で、世話人の力石さんが、
「琵琶湖に千鳥がいないと言う話はわかる。私は若いころ土佐で漁師(鰹釣り)をしていたので、浜での千鳥の行動は知っている。潮の干満のある波打ち際で千鳥足でエサをとる。干満のない湖の動作ではないと思う。」
 と言われ、私は少し意を強くした。

 帰阪して、水野代表に九州での様子報告と共に、万葉集にある近江と千鳥の出てくる歌の番号のすべてを、コンピューターで調べて教えて欲しいと頼む。一方、手持ちのジャポニカ(百科事典)で千鳥を調べる。千鳥は、多くの種類が川や湖にもいることを知る。ただ、しろ千鳥は海岸の砂浜、河口の干潟、砂州が生息地である、とあった。
 千鳥に種類があることも知らず、私の見ていたのは、しろ千鳥のみであったようだ。水野氏から歌の番号の連絡があり、千鳥は、奈良の佐保川の川原の千鳥を歌ったものが多い。「近江の海、夕波千鳥」の原文の漢字は「淡海乃海、夕浪千鳥」となっている、と言われた。湖にも千鳥がいる。近江も原文が淡海では直感の琵琶湖疑問説、これはもうムリだと思った。

 わが家の近くに、市(豊中)の支部図書館ができたので、時々本を借りる。新日本古典文学大系『万葉集』で近江の歌番号を見ていると、一六三番、大后御歌一首として

 ・・・・・・・
「鯨魚取 淡海乃海乎 奥放而 漕来船 辺附而 漕来船 奥津加伊 痛勿波祢曾 辺津加伊 痛莫波祢曾 若草乃 嬬之念鳥立」とあり、おや、と思った。

 琵琶湖に千鳥はいるかも知れないが、鯨は絶対にいない。解説を見ると、「いさなとり」鯨を捕る意で「海」に掛かる枕詞。琵琶湖を広大な海に見立てて用いたのであろう、とあった。とても納得などできない。

 「あふみ」と「ちどり」そして「いさなとり」が歌われている万葉集のすべての歌の原文をコピーして比較した。比較するにあたって、歌本文のみとして、題や歌の前文や後文(左注)はあえて無視することにした。
 まず、「あふみ」であるが、別表1の「万葉集の『淡海、近江、相海』はどこか」を参照下さい。
「淡海」の淡海国、淡海乃国、淡海県、淡海路、淡海之哉は、歌の中に滋賀県および周辺の地名があるので滋賀県のように思われる。
  しかし、淡海乃海、淡海之海、淡海海は琵琶湖ではないのではないかと思う。理由は鯨魚取、奥津、辺津、夕浪千鳥、波恐登、風守、奥白浪、奥嶋山、沈白玉等の語句が、湖より海を指しているように見えるからである。
  即ち、「淡海のくに」と「淡海のうみ」は全く別物、前者は滋賀県、後者は琵琶湖ではなく海とみる。

 「近江」の近江道は周辺地名があり滋賀県である。近江の海、近江海は琵琶湖であると言い切れない面がある。それは、八十嶋、八十之湊、泊八十があり、琵琶湖には竹生島など数える程しか島がないこと、湊も多過ぎるからである。でも、「淡海のうみ」と歌の雰囲気が異なる。「近江のうみ」は琵琶湖ではないとは言いにくい。
「相海」の相海之安河は滋賀県の野洲川とある。相海之も相坂山、氏川渡など滋賀県の周辺の土地が歌中にあり琵琶湖と見る。即ち、「相海のうみ」は琵琶湖とみる。

 次に「ちどり」であるが、別表2の「万葉集『ちどり』の居場所」を参照下さい。
 万葉集のちどりは、佐保川とのかかわりが多い。佐保川でない歌も、その多くは川千鳥である。ただ、別表2の No.一〇で万葉歌 No.一〇六二は海浜千鳥である。夕浪千鳥は佐保川とは関係ない。川原でもない。淡海乃海が海であれば、当然海浜千鳥である。

 そして「いさなとり」であるが、別表3の「万葉集『いさなとり』の場所」を参照して下さい。
 淡海乃海が琵琶湖であれば、作者は鯨ではなく、勇魚、不知魚、伊佐魚のどれかにするように思う。琵琶湖には鯉より大きい魚はいない。だから、琵琶湖ではなく海とみる。

 この様に、万葉集「あふみ」「ちどり」「いさなとり」の歌を勝手分類して勝手解釈すると、結論として、淡海乃海は琵琶湖ではない。夕浪千鳥は海浜千鳥(しろちどり)である。従って、「淡海乃海、夕浪千鳥、汝鳴者、情毛思努尓、古所念」は、私の最初の直感通り、白村江で敗れて滅亡した九州王朝をしのんで歌った詩である。では、淡海乃海とはどこか。残念ながら不明である。私のまたも直感では、第一は博多湾、第二は玄界灘、第三は有明海である。いずれにしても、北九州内の海とみる。

〔仮説〕
 博多湾を昔、九州王朝時には淡海乃海と呼んだ。そこでは、鯨(イルカも含む)が取れ、海岸や河口の砂丘では、千鳥が鳴いていた。白村江の戦いで敗れ、九州王朝は滅亡し、代わって近江王朝が樹立。淡海乃海は近江之海となり、琵琶湖に移った。柿本人麿は九州王朝時の淡海乃海をしのんで歌った。夕波千鳥は千代の浜の千鳥である。

〔あとがき〕
 三月二八日に所用があり、水野氏・伊東氏とともに古田先生宅を訪ねた。帰り際に、鯨魚取の話をして、琵琶湖で鯨は捜しようが無いが、夕波千鳥を一年かけて捜すつもり、と話した。翌日、琵琶湖の私の釣小屋(近江舞子)に携帯電話がかかり、古田先生の声。「大発見です。鯨魚取の歌、琵琶湖ではないようだ・・・」と、歌についての先生の見解を話された(内容省略)。まだ、探求中の様子であったが、当方はびっくり
本稿は四月十五日の関西例会で、ご参考にと報告したものである。「千鳥」と「鯨」の二点突破の「素人直感説」なので迷ったが、直ちに、がつんと否定(論証)されるべきものとして書いた。なお、琵琶湖のことを昔「にほのうみ」と呼んだらしいこと。にほ(鳰)とは、かいつぶりのこと。今もこの鳥、琵琶湖で多く見かける。

 夕波千鳥、汝が鳴くは、
琵琶湖の浜か、筑紫の浜か、
 それを知らせよ、古代史解に。

インターネット事務局注記2003.9.30
古田武彦の歌の理解は下記にございます。

淡海(あふみ)の海夕波千鳥汝が鳴けば心もしのにいにしへ思ほゆ
---------------------------------------------------------------------------------------------------------------

別表1 万葉集の『近江、淡海、相海』はどこか

No.  万葉集No.   あふみ     歌中の主要な語句          滋賀?
1     29    淡海国    石走 楽浪 大津宮 畝火 橿原    A
2     50    淡海乃国   磐走 八十氏河 日乃皇子 御門    A
3     153    淡海乃海   鯨魚取 奥津 辺津 若草 漕来船   B
4     266    淡海乃海   夕波千鳥 古所念            B?
5     273    近江海    八十湊 漕手 磯崎          C
6     487    淡海路    鳥篭之山 不知哉川          A
7    1169    近江之海   湖者 八十 舟泊           C
8    1287    淡海県    石走 青角髪 依網原         A
9    1350    淡海之哉   八橋 小竹              A
10   1390    淡海乃海   浪恐登 風守             B
11   2435    淡海乃海   奥白浪 七日越来           B
12   2439    淡海     嶋山 奥儲              B
13   2440    近江海    奥漕舟                C?
14   2445     淡海海    沈白玉                B
15   2728    淡海之海   奥津嶋山 奥間(注:12 と同類歌)    B
16   3027    淡海之海   辺多波 奥浪             B
17   3157    相海之安川  安川                 A
18   3237    相海之海   奥浪 相坂山 氏川渡 手向草 平山  A
19   3238    淡海之海   相坂 白木綿花 浪立渡(注:18 の反歌) B?
20   3239    近江之海   泊八十 八十嶋 嶋之崎        C
21   3240    近江道    八十阿毎 相坂山 向山 氏川渡    A
22   3978    淡海路    青丹吉 奈良乃吾家          A
注 題や歌の前文や後文に近江などがあっても、歌本体になければ入れない。作者も無視。歌原文の主要語句の意味と雰囲気で分類する。

結果
A滋賀県または琵琶湖とみる歌。 1,2,6,8,9,17,18,21,22
B琵琶湖ではなく海の可能性ありとみる歌。3,4,10,11,12,14,15,16,19
C琵琶湖である可能性ありとみる歌。 5,7,13,20
ただし、19は相坂があり、琵琶湖のようにも見える。逆に13は沖漕船があり、琵琶湖でないようにも見える。20も八十嶋とあり、琵琶湖には竹生島など数えるほどしか島がないので変である。でも、BとCは歌の内容(主要語句)から同じ地域の歌と思えない雰囲気がある。

-----------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------

別表2 万葉集の「ちどり」の居場所

No.  万葉集No.   ちどり   歌中の主要な語句       居場所?
1    266      千鳥   夕浪千鳥 淡海乃海     海浜?
2    371      乳鳥   河原之乳鳥 佐保川     川原
3    526      千鳥   佐保乃河瀬         川原
4    528      千鳥   佐保乃河門         川原
5    618      千鳥   友換千鳥 狭夜中       ?
6    650      千鳥   河千鳥 住沢上       川原
7    715      千鳥   佐保乃河門         川原
8    920      千鳥   芳野河 河瀬        川原
9    948      千鳥   佐保川           川原
10  1062     千鳥   不知魚取 海片 浜辺 塩干  海浜
11  1123     知鳥   佐保河 清河原        川原
12  1124     千鳥   佐保河 夜三更        川原
13  1125     千鳥   千鳥数鳴 甘南備乃里      ?
14  1251     智鳥   佐保河 川原乎        川原
15  2807     千鳥   千鳥数鳴 可旭 白細      ?
16  3087     千鳥   宗我乃河原          川原
17  3872     千鳥   吾門 千鳥数鳴         ?
18  3873     千鳥   吾門鳴千鳥           ?
19  4011     知登理  三嶋野 二上          ?
20  4147     知登里  河波知登理          川原
21  4477     知杼里  佐保治            川原

結果
1.万葉集の「ちどり」は、多くは川ちどりである。(こちどり?)
2.そして、その殆どが佐保川の千鳥である。
3.10の万葉No. 1062は海浜千鳥である。(しろちどり?)
4.夕浪千鳥は佐保川ではない。淡海乃海は海で海浜の千鳥とみる。

-----------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------

別表3 万葉集の「いさなとり」の場所

No.  万葉集No.  いさなとり  歌中の主要な語句          場所?
1    131     鯨魚取   石見乃海 海辺 和多豆乃      海
2    138     勇魚取   石見乃海 荒磯 桑田津乃      海
3    153     鯨魚取   淡海乃海 奥津 辺津        海?
4    220     鯨魚取   讃岐国 奥見者 海乎恐 荒磯    海
5    366     勇魚取   越海 大舟 海路 塩焼炎      海
6    931     鯨魚取   住吉能浜 千重浪 辺津浪      海
7    1062   不知魚取  名庭乃宮 海片 塩干 浜辺      海
8    3335   不知魚取  直海 海道 吹風 立浪        海
9    3336   不知魚取  海之浜辺 奥藻            海
10   3339   鯨魚取   海路 吹風 立浪 恐海        海
11   3852   鯨魚取   海哉 海者潮干            海
12   3893   伊佐魚取  比治奇乃奈太             海
結果
1. 「いさなとり」には、鯨取魚、勇魚取、不知魚取、伊佐魚取の文字があてられている。いずれも海にかかわりがあり、琵琶湖や湖とは関係なさそうである。
2. No.3の鯨魚取,淡海乃海が琵琶湖だとすれば、作者は勇魚,不知魚もしくは伊佐魚としそうなもので、鯨魚はおかしい。
3. 従って、鯨魚取、淡海乃海は琵琶湖でなく、海とみる。


学問の方法と倫理 二 歴史を学ぶ覚悟 京都市 古賀達也

□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

司馬遼太郎氏からの手紙

南津軽郡藤崎町 藤本光幸

 古田史学会報 No.三七、事務局だよりに、『「週間朝日」連載の「司馬遼太郎からの手紙・四七回」に古田先生と司馬氏の出会いの様子が紹介されている。』とありますが、「週刊朝日」には『坂道を学者が散歩、本郷はおもしろい』との見出しで、「最初の食事のとき、夕方に楠亭に入ろうと車を降りたら、坂の上から歴史学者の古田武彦さんが下りてきた。軽く挨拶を交わしたあと、司馬さんは去りゆく古田さんの後ろ姿を見ながら言った。『本郷っていうのは、坂の上から学者が散歩して下りてくる。やっぱりおもしろいところやな』かつての楠亭の建物はいまはない。」とあります。
 所で私も司馬先生からお手紙を戴いて居ります。一九九四年八月に葉書で頂戴したものですが、以下にそれをご紹介しましょう。

「『丑寅日本記・丑寅日本紀・日之本史探証』ありがたく拝受いたしました。小生は真偽の穿鑿に加わりません。ただふしぎの思いがするのは、たとえば二〇一頁の「林子平文章」に「古来蒙古民はウランバートルに都す」とあって、林子平がなぜ二十世紀前半につけられた都市名ウランバートル(赤い英雄)を知っていたのだろうということなどです。右、ありがたく御礼のみを。八月二日」とあります。

 しかし、これは司馬先生がその時点では「和田家文書」が昭和十年頃までの書き継ぎ文書である事を御存知でなかった為と思われます。
 私は和田喜八郎氏が亡くなられた現在、真実の日本歴史の探究のために、今後ライフワークとして和田家文書の復刻版を世に出す事を一生の仕事としたいと考えて居ります。


□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
『月刊短歌人』ホームページで古田史学を紹介

短歌人も古田史学に注目

 日本古代史学界の沈黙とは対照的に、古田史学は様々な分野に支持者や影響力を増やしているが、「短歌人会」のインターネットホームページでも古田史学が好意的に紹介されている。一九九七年五月の「月刊短歌人」に掲載された梨田鏡氏の評論「古代史と短歌」がそれである。
 同会は昭和十四年に設立された短歌の会で、会員数約八百名(本部は東京都副生市)。長文のため、以下要点のみ引用紹介する。インターネットをご利用の会員は、同会ホームページをご覧下さい。他にも古田史学を紹介したホームページが多数あります。  〔文責 編集部〕

古代史学とりわけ古田史学が興味深い

 『「邪馬台国」はなかった』『失われた九州王朝』『盗まれた神話』の三部作から始まる古田武彦の古代史学は、徹底した文献批判を方法論の根底にすえることによって、戦前の皇国史観はもとより天皇家一元主義に陥った戦後史学の方法を批判してきた。(中略)
 現在、古田史学に対する学会の反応は黙殺という状態に近い。また、安本美典らによる反古田キャンペーンが執拗にくり返され、そうした揺さぶりのなかで古田史学をささえてきた「市民の古代」の会が分裂するという段階にまで事態は進展してきている。しかし、こうした表層的な現象とは裏腹に、古田史学の方法に対する有効な反論は依然としてあらわれておらず、いわばその多元史観の方法的な正当性はますます際立ってきているように見える。その方法の正当性によって古代史学者の誰もが反論できないという状況と、にもかかわらず教科書の古代史は書きかえられないという宙ぶらりんの状態が四半世紀の間続いている。古田史学を短歌人の誌上でとりあげるのは、その学が古代歌謡および人麿論におよんでいるからであり、古田史学が提出する仮説が方法的に興味深く見えるからである。(中略)
 以上、膨大な著作の中から問題点の一部を要約してみた。古田の論証は実際にははるかに詳細でありまた多義にわたっている。ここではごくおおざっぱな要約をしたにすぎない。しかし、これだけでも多くの問題点が浮き彫りになってくる。まず第一に、大和朝廷以前に九州博多湾岸に国家があったとしか考えられない多数の情況証拠(万葉集の中にも!)があるにもかかわらず、学者が一切そうした視点からものを見ようとはしていない点。
 第二に(これは第一点目の裏返しにすぎないが)あらゆる資料・考古学的出土物を大和朝廷に引き寄せて考え、そのために原文の改定や無理なこじつけが横行している実体がある点。
 例えば『隋書』。いったい「阿毎多利思北孤」と「聖徳太子」とがどうすればイコールで結びつくのか、不明だ。この強引な、根拠のない資料結合の方法が現在の古代史学の方法なのだ。しかも、問題を看過できないのは聖徳太子が日出ずる処の天子云々の文書を送ったということが、わが国の教科書に特筆大で明記されている点にある。
 例えば、人麿。「大王之遠乃朝廷」を小学館の日本古典文学全集では「筑紫の太宰府の都から遠く離れた天皇の行政官庁である」と注釈している。だが「都」とは何処か。大和だろうか。いや、それは「三種の神器(宝物)」が出土する九州博多湾岸(倭国)を指すのではないか。そもそも「太宰府」とは中国では天子の居所そのものを指す言葉である。また、大宰府政庁跡遺跡近辺には「字紫宸殿」という字名が現在も残っている。これは何を意味しているのか。虚心になって判断すれば結論は一つしかないであろう。また、そうした認識に到達したときはじめて人麿の歌は生き生きとリアルな感覚で蘇ってきはしまいか。『旧唐書』が述べるとおりに、かつてこの地に「朝廷」があったのだ。だからこそ人麿は「遠の朝廷」と表記したのである。
 この地点から古田武彦は人麿を再検証している。『人麿の運命』では随所に異彩をはなつ歌の解釈、地名(場所)の比定が提示されており、私には、茂吉や梅原猛の人麿論よりもはるかにわかりやすい。(中略)
 古田史学のリアリティを支えているのは、人間存在の本源性を基底においた徹底した実証主義にあると言える。ロマン主義的な実証主義とでも呼ぶべきか。(中略)例えば、志賀島の金印問題。従来説では金印はもらったが倭国では文字が読めないとされた。こういうことが堂々と古代史の本に記されているのだ。しかし、中国の天子に代々「朝見」した倭国に文字がなくまた読めもしなかったなどということが、考えられるだろうか。人間存在のあり方からして、とうてい考えられないことだ。このことはいわゆる万葉仮名の高度性の問題にも繋がる。現存する最古の歌集でありながら万葉集の歌が高度なのは何故か。万葉仮名が高度なのは何故か。
 あたりまえのことだが大切なのはこの「何故か」というあくことなき問いかけにある。古代史への批判は同時に現代史への批判であり、歴史的呪縛からの解放でなければならない。歌をつくる者は同時に歴史をつくる者でなければならず、歴史の探究者でなければならない。
 いま、古田史学は興味深い。


□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

道真私考

町田市 深津栄美

 「太宰府」といえば「道真」とすぐに出て来る位、両者は結びついて知られて来た。だが、道真は本当に、従来いわれていたように、ライバルとされる藤原時平との勢力争いに敗れて左遷されたのだろうか?
 九州王朝滅亡の原因となった白村江の戦い(六六二)からかなりたったとはいえ、平安初期においても太宰府は日本の外交上の要の一つとして重きをなしていた筈である。到底、「左遷」という言葉の帯びる一種流刑地めいた雰囲気の土地柄とは考えられない。

 しかも、道真があちらへ行かされる少し前の八五七年、対馬の郡司直浦主以下三百余名が国守立野正[山/令]を、八八四年には石見の国権守上毛野氏永が、やはり郡司の久米[山/令]雄ら二百十七名に殺害されている。対馬は『魏志倭人伝』にも登場する対海国・・・「天孫降臨」で出雲を併合し、九州王朝を樹立した海人族の母国の一画、石見の国は石見銀山をバックに出雲王朝の要となった所であり、どちらも九州王朝とは縁が深い。前者の首領直浦主は代々の対馬の名家というから、「天孫降臨」以来の土着の有力者だったのだろう。後者は、部下の妻下毛野屎子(逆賊一味の妻だったから、こんな名前に落とされた?)の衣服を奪い、女装して山中へ逃げ込んだ氏永を、大和朝廷から遣わされた国守である筈の大野安雄が探索させて捕獲し、切り殺しているから、中央に対する反乱の一種と見て良い。或いは、この大野安雄も名前から推して太安麻呂の子孫か何かに当たり、九州王朝の残党と裏で通じていたのかもしれない。殺害された氏永、及び彼に身ぐるみ剥ぎ取られてしまった部下の妻は、九州と同盟を結んでいた関東王朝の血筋だろうか・・・?

 大和朝廷も捨ててはおけず、双方の国府の駐在軍に命じて鎮圧に当らせ、対馬の反乱者達は流罪、石見の場合は罰金刑及び入牢とし、越の国を中心に国府の書記役を一名減らして弩師(大弓に長じた者)に変更するなど防人設備を強化する。対馬や石見での反乱騒ぎに加え、この頃、新羅の海賊船が頻繁に出没し、北九州付近を荒らし回っていたのだ。
 だが、この新羅船に対する、国内情勢の乱れで暮らしに困った者がやむなく賊徒に身を落とした、との従来の解釈も疑わしい。朝鮮半島南部は大昔の倭地・・・九州王朝の一画であり、社会の上層部は新羅王朝に統一されたものの、下層部には倭の血を受けた者がまだ多数残っていて、かつての勢力を盛り返すべく九州本土の仲間と連絡を取り合っていた可能性が高いからだ。
 八九三年五月には、賊船が肥後の国の飽田郡を焼き打ちするが、当地は現在の三重県と並ぶ真珠の名産地で、九州王朝華やかなりし頃は有力な財源の一つだったと思われる上、船団は松浦方面へ姿を消したというから、九州王朝の「帝国海軍」だった松浦水軍が、かつての財源を奪取しようとしたとも考えられる。
 翌年、仁明朝以来事実上廃止されていた遣唐使(これは、仁明が大和朝廷の主としては初めて対外的にも、「天皇」より格が上の「皇帝」を称し、大陸の怒りを買った為らしい。)の計画が道真の反対で潰えたのも、彼がそうした不穏な九州の状況に明るかった為と思われる。道真の祖先も九州出身の氏族の一つとされる土師連といわれているから、九州の血を引く者として大和朝廷転覆の野望を抱いていると見られては・・・・・・と、彼自身、考慮した事もあり得る。従来説通りに考えれば、ライバルの時平達が天皇に訴えて道真を遠ざけたのも、又、道真が死後、雷神信仰と結び付けられたのも、その点が恐れられたからだろう。
 大和朝廷は桓武帝が坂上田村麻呂を派遣して以来、古代みちのく王朝とも争いが絶えず、その隙に乗じて九州王朝の残党に動き出されてはと懸念して、表向きは「左遷」と見せかけ、道真をなだめ役として太宰府へ送り込んだのではあるまいか。当時、既に息子の醍醐帝に後を譲り、出家していた宇多法皇が、あれ程信頼していた道真に一言の労いも送らなかった事、又、道真の「左遷」後の詩に法皇追慕の言葉が見当たらない事を訝る向きがあるが、その必要がどちらにもなかった・・・つまり、法皇やライバルの時平達も一緒になっての計画だったとすれば筋が通って来る。

 将門や純友による天慶の大乱まで九州には目立った動きがないところを見ると、道真の調停は一応成功したのかもしれない。しかし、詩に詠われている窮乏暮らしは、九州の血を引きながら分流に媚びて・・・・・・と、当地の人々から白眼視された事を物語るのかもしれない。

 「法隆寺移築説」の米田良三氏によれば、梅の花は九州王朝のシンボルだそうだが、現在も太宰府に植わっている「飛び梅」の因となった、

 東風吹かばにほひおこせよ梅の花あるじなしとて春を忘るな

の歌は、何を意味するのだろう?道真が己の出自にちなみ、庭に梅を植えていたと想像するのはたやすいが、由緒と誇りを失わず、やがては盛り返す時、九州の同胞達にも自分の真情を理解して貰える時が来よう、との秘かな気概を読み取るのはうがち過ぎだろうか・・・・・・?
〔参考資料〕
○『日本の歴史㈬・平安京』(中公文庫)
○『日本古典文学大事典』(岩波書店)
○米田良三『法隆寺は移築された』(新 泉社)
○『文徳天皇実録』(吉川弘文館)
○『三代実録』(吉川弘文館)
○上田雄『渤海国の謎』(講談社現代新 書)

インターネット事務局2003.9.30
[山/令]は、山編に下が令です。


だからなんなの?ホケノ山古墳

北九州市 松中祐二

●またまた新聞の大フィーバー
 平成十二年三月二八日・毎日新聞朝刊一面トップに奈良県桜井市のホケノ山古墳について「奈良に最古の前方後円墳」「ホケノ山古墳・卑弥呼の時代と一致」「邪馬台国の大和説補強」、三面に「邪馬台国の王の墓?」の大見出しが出ました。
 朝日新聞は比較的冷静に書いていましたが、テレビなどマスコミ各社の報道を見ると、まるで邪馬壱国は大和で決まりのような印象を受けた方も多いと思います。当院(筆者勤務先)の巨人ファンの某スタッフも邪馬壱国は大和だと言いだしました。(ムムッ!)
 報道の要点は次のようです。発表は、樋口隆康・橿原考古学研究所長・京大名誉教授です。

1). 庄内式土器が見つかった。(庄内2又は3式)
2). 画文帯(同向式)神獣鏡が見つかった。(直径十九cm)
3). 古墳の埋葬施設は石囲いのある木槨(カク)と木棺だった。
4). 邪馬台国から初期大和政権までの墓制の変遷が大和地域の中でつながった。
 ※1). ,2). により築造時期は3世紀中頃の日本最古の古墳と断定。

 これにより二四七年ごろに亡くなった卑弥呼の時代と一致し、邪馬壱国=畿内説の傍証になるとされ、更に、前方後円墳は近畿に始まったことが判ったと言う学者も現れました(河上邦彦氏)。他にも、ホケノ山古墳は3世紀前半で、隣の箸墓古墳が3世紀中頃で卑弥呼の墓だとする学者も多いようです。しかし、この報道には疑問点が多い上、逆にもし報道が正しければ却って九州説に有利になると思われますので、以下その理由を書きます。

●ホケノ山古墳とは

 ホケノ山古墳は、奈良県桜井市の纒向古墳群にあり、全長約八〇mの纒向型と言われる初期型の前方後円墳です。約二〇〇m西には多くの学者が卑弥呼の墓だと言う箸墓古墳もあります。
 なお報道では、ホケノ山古墳が3世紀中頃であることが新発見のように書いてありますが、土器の出土状況から箸墓古墳より古い庄内期の築造であることは既に推測されていたのです。今回の報道は、庄内式土器が発見され、以前からの推測が追認されたということであり、これによって邪馬壱国論争が畿内説に有利に働くというものではありません。また、発表した樋口所長は以前から卑弥呼の鏡は三角縁神獣鏡であり、ホケノ山古墳が卑弥呼の墓だと主張していた方です。ただし三角縁神獣鏡は出ませんでした。

●邪馬壱国論争の経緯

 昔は邪馬台国はヤマト国と発音するとされ、天皇家が居た大和地方が当然邪馬壱国であると決めつけられていました。そしてこれを前提にして、畿内中心に分布する三角縁神獣鏡が卑弥呼の鏡と信じられていました。ところが、森浩一・古田武彦・奥野正男氏などにより三角縁神獣鏡は国産であるとする疑問が提起され、更に魏志倭人伝も九州説に基づく解釈が有力となってきました。そこで、最近の畿内説の学者は「魏志倭人伝では邪馬壱国は分からない」として、考古学で邪馬壱国を求めるべきだという論調になっています。
 しかし、考古学的にも、弥生時代の遺物は圧倒的に九州説有利です。そこで現在、畿内説の有力な論拠になっているのが、卑弥呼の時代は古墳時代だとする説です。古墳時代であれば、大和地方にも卑弥呼の好物とされる鏡などの遺物も出てきますし、むしろ畿内の古墳は巨大ですから畿内説の論拠にもってこいです。
 そして最近、考古学者は古墳の編年を古く考えるようになっています(考古学者の大半は畿内説)。そこで注目されているのが、今回のホケノ山古墳や箸墓古墳・纒向石塚古墳などの纒向古墳群で、これが、ホケノ山古墳の築造年代が話題になる所以なのです。
 ホケノ山古墳は本当に3世紀中頃なのか?もしそうだったら畿内説有利になるのか?

1). 庄内式土器は本当に3世紀中頃か?
 樋口所長は庄内式土器は3世紀初頭から3世紀末までの土器だと主張しており、これがホケノ山古墳は3世紀中ごろの築造とする根拠の一つになっています。しかし安本美典・産能大教授は今回の報道に対し「推定年の根拠にしているのは庄内式といわれる土器と画文帯神獣鏡ですが、土器の推定年は学者によってまちまちで、これまで庄内式は三〇〇年ごろと考えている人が少なくなかった。画文帯神獣鏡にしても日本でまねて作られた可能性もあり、三世紀中ごろとの根拠にはならない。私は、ホケノ山古墳は三〇〇年ごろ、箸墓古墳は三五〇年ごろだと思います」。そうなると卑弥呼とは関係なくなります。
 近畿の土器は庄内式→布留式→須恵器の順に発展します。そして庄内式は2〜3形式に、布留式は3〜4形式に分類されています。しかし時期がある程度分かっているのは須恵器が5世紀ごろに始まるということだけなのです。そして、それから逆算して1形式が何年位かと想像して庄内式土器の年代を推定しているのです。つまり1形式をどう考えるかで学者によって編年に大きな差があり、同じ土器でも実際には百年ほど違う見解があるのです。
 纒向遺跡の発掘を主導した関川尚功・橿原考古学研究所員は、庄内式土器は4世紀前半期、早くて3世紀末から始まり、布留式は4世紀中頃に始まる土器としています。吉野ケ里遺跡を発掘した高島忠平・佐賀女子短大教授も庄内式は3世紀末に始まるとしています。しかし石野博信・徳島文理大教授や寺沢薫・橿原考古学研究所課長は庄内式土器は3世紀初頭、布留式は3世紀末に始まるとしており、土器の年代はこれほど当てにならないものなのです。ですから庄内式の直後に当たる布留0式が出た箸墓古墳の築造時期も学者によってかなり違います。菅谷文則氏は3世紀中頃、白石太一郎・石野博信氏は3世紀後半、田辺昭三・関川・安本氏は4世紀中頃、斎藤忠・元東大教授は4世紀後半というように。
 また、土器の年代が分かったとしても、その土器の製作年代と古墳の築造年代が同じとは限りません。例えば、現代の葬式でも、棺桶に若い時から使用している茶碗を入れたりしませんか。これだけで半世紀違ったりします。 「邪馬台国=畿内説をとる考古学者は、とかく畿内の年代を古めに見積もられる方が多い。しかし、年代決定の確実な根拠を持っているわけではない」(安本美典)
 新聞などで報道される年代というのは発掘担当者の発表がそのまま載るので、その担当者の年代感が報道されることになります。
  今回の報道を発表した樋口所長や最近マスコミによく出る石野博信氏はその最右翼の方々です。しかし、これ以外の考えを持つ学者も多いことをお忘れなく。


2). 画文帯神獣鏡は本当に3世紀中頃か?

 同向式の画文帯神獣鏡は中国後漢末の建安年間(一九六〜二二〇)に製作され中国南方の江南系の鏡とされていますが、これも人によって見解が違うのです。
 福永伸哉・阪大助教授は公孫氏系(〜二三八)だとしています。また、西晋代まで(〜三一六)製作されたと言う学者もいます。発表した樋口所長は後漢末説を取っているようですが、何が本当か分からないというのが本当です。
 もし年代が分かっても簡単にはいきません。鏡を入手して何十年も後に埋葬された伝世鏡かもしれませんし、中国鏡をまねて作った国産鏡かもしれないのです。今回出た画文帯神獣鏡の直径は十九cmもあります。これはかなり大きな鏡です。国産鏡は祭祀用で大きな鏡が多いのです。これに対し、中国鏡は単なる日用品で掌に乗る大きさしかなく、奥野正男氏によると、二一六〜三六六年の中国製年号鏡の対置式神獣鏡の平均直径は十二・七cmで最大十七・三cmです。年代が分かってない画文帯神獣鏡で大きな鏡は朝鮮平壌出土の二一・五cmが1枚あるだけで、それ以外はかなり小さく、十九cmの大きな鏡は国産の可能性が大きいのです。
 国産鏡だったらいつ作られた鏡かさっぱり分からなくなります。事実、画文帯神獣鏡は主に4世紀以降の古墳から出ています。
 また邪馬壱国論争の立場から言うと、中国製でも国産でも問題があります。
  画文帯神獣鏡は江南系か公孫氏系といわれています。江南系というのは「呉」の領域です。「呉」は卑弥呼が鏡をもらった「魏」の敵国です。公孫氏も「魏」の敵国で、二三八年に「魏」に滅ぼされています。どちらにしても画文帯神獣鏡は「魏」の敵国系の鏡です。
 そしてこの画文帯神獣鏡は、近畿を中心に分布し、九州にはありません。さて魏と仲良しの邪馬壱国は、魏の敵国系の鏡を大事にするものでしょうか?魏が敵国系の鏡を卑弥呼に贈るでしょうか。


3). 木槨が意味すること
 ホケノ山古墳の埋葬施設は木槨でした。
  この「槨」が問題です。 「槨」とは棺桶を包む外箱のようなもので、中国で成立発達した葬法です。葬法はその国の文化にとって極めて重要なもので、身分や時代によって厳格に違うといわれ、そのため、日本の遺跡の年代判定も葬法が重要な指標になっています。『三国志』を書いた陳寿も強い興味を持っていたようで、わざわざ各国の葬法を書いています。例えば、夫余は「有槨無棺」東沃沮は「槨が有り、家族は同じ槨に埋葬される」、韓は「有棺無槨」と書いています。さて肝心の倭国は「有棺無槨」、つまり「槨」は無いと書いてあるのです。もしホケノ山古墳が邪馬壱国の時代だったら、これはおかしいですね。
 では九州ではどうでしょう。小郡市の津古生掛古墳(庄内式と同時代とされる土器が出土し日本最古の前方後円墳かといわれる)に「槨」はありません。そして、それ以前の九州の遺跡からも「槨」は発見されてません。つまり邪馬壱国の時代の九州に「槨」は無いのです。ホケノ山古墳が3世紀中頃だったら、さて、どっちが邪馬壱国でしょう?


4). 邪馬台国から初期大和政権までの墓制の変遷が大和地域の中でつながった?

 「石囲い」が後の古墳の石室につながったという意味でしょうか。それでは筑紫の最古期古墳とその後の墓制変遷を簡単に比較してみましょう。
 最古期古墳は、大和では、纒向遺跡のホケノ山・纒向石塚があげられ、その後に箸墓・纒向矢塚・勝山・東田大塚古墳などが築造されると言われています
 これに対し筑紫周辺にも最古期古墳は沢山あります。箸墓より古いとされる那珂八幡古墳(福岡市)(久住猛雄・編年)。その前後に津古生掛(小郡市)・妙法寺(那珂川町)・名島(福岡市)・神蔵(甘木市)・双水柴山2号(唐津市)・赤坂(鳥栖市)・吉野ケ里・西一本杉(神埼郡)など。そして小倉南区長野の山崎八ヶ尻墳墓も同時期の前方後円形憤丘墓です。この時期、一部で既に石槨が登場し、同時期のホケノ山古墳の「石囲い」より進んだとも言える形状で石室につながっています。
 また三角縁神獣鏡は近畿より早く、既にこの時期の九州それも下級墓からも出ています。近畿はこれに遅れ高級墓から出るようになります。どういうことでしょう?? より新しい箸墓古墳と同時期には原口(筑紫野市)・稲葉(志摩町)・御道具(前原市)・権現(志摩町)・島津丸山(遠賀)など。苅田町の石塚山古墳も同時期で、ここは既に石室です。
  石室へのつながりは筑紫も同様、むしろ大和より進んでいるくらいです。また九州の最古期古墳は、畿内説の石野博信氏でさえ「前方後円墳を最初に作ったのは、もしかすると、近畿より九州が先かも知れない」(『市民の古代』十八集)と言っているほど古いのです。
 更に墓制変遷を見てみましょう。弥生倭王墓の平原遺跡(前原市)出土の世界一の大鏡5面は、後の古墳の大鏡副葬の先駆をなすといわれています。初期古墳で一般化された竹割形木棺も平原が最初で、ホケノ山の長大なくりぬき式木棺の原形と考えられます。初期古墳の埋葬施設の竪穴式石室も九州が先に出現しています。後期古墳の横穴式石室も九州が先、装飾古墳も九州が先、剣・鏡・勾玉の「三種の神器」の副葬も九州が先、家形石棺・舟形石棺・長持形石棺も九州が先、横穴墓文化も群集墓文化も九州が先、なのです! このように墓制変遷のつながりは畿内を圧倒しており、九州のほうが先進的です。
 それよりも邪馬壱国論争では卑弥呼以前の中国とのつながりや遺跡の方が重要ではないでしょうか。例えば、中国との交流を示す漢式鏡をともなった5つの倭王墓は全て博多湾岸です。弥生時代の鏡全四百面弱のうち九〇%以上が九州で、絹も全て北部九州です。これに対し大和では鏡は数面しか出てないし王墓も絹も銅矛もありません。弥生時代、大和と中国の交流を示すものに何があるというのでしょうか。邪馬壱国論争ではもっと多面的に見てもらいたいものです。
 仮にホケノ山古墳が邪馬壱国時代だとしても、「弥生時代の大和は北九州とは比べものにならないくらい規模が小さい」(寺沢薫)、「弥生後期初頭まで森ばかり」(吉留秀敏・福岡市教委)。このような大和がどのように中国と交流した邪馬壱国につながるのでしょうか。ついでに一言。近畿には巨大古墳が多いから古墳時代は大和が日本列島を支配した?戦争に明け暮れた倭国に巨大古墳を作る暇と金があるでしょうか。

5). 纒向遺跡
 邪馬壱国はどこか。九州説での候補地は博多湾岸・朝倉・八女・宇佐などたくさんありますが、考古学者の多くが主張する畿内説では意外に少なく、候補地はホケノ山古墳がある纒向遺跡だけと言っても過言ではないほどです。
  纒向遺跡とはどんな場所か。この遺跡を発掘した関川尚功氏の弁を借ります。

「纒向遺跡は3世紀には成立するが・・・(邪馬壱国)の時期と思われる遺構は全体のわずか一〇%ほどで、この時期はとても邪馬台国の所在地とは考えられない。・・・(畿内に)現在のところそれ(纒向遺跡)に相当する遺跡は見つかっていない」。畿内には邪馬壱国らしき場所が見当たらないということです。「纒向遺跡はその成立が過大評価されやすいが、遺跡が出現した当初の弥生後期の時期には大和の中ではただの小集落であった」。

 住居跡は現在十六棟しか見つかっておらず、人の生活の匂いが薄く寒村と言う人もいます。また全国各地の土器が見つかっていることで有名ですが、大陸と北部九州の土器は見つかっていません。もしここが中国や朝鮮半島との交流が盛んで伊都国に軍隊を置いていた邪馬壱国だったら当然何かあるはずですが・・・。
 森浩一・同志社大教授は言っています。

「現在、新聞社が、結果的にどちらを応援しているかといいますと、もちろん、大阪に本社のある新聞社は古くなるほう、つまり、(纒向遺跡などが)邪馬台国になるほうを応援しているんです」。安本美典氏は「関西で発掘が行なわれた場合、各新聞社の大阪本社の記者が記事をまとめ、そのニュースが全国版の新聞にのる。そのとき、各新聞社の大阪本社の考古学・史学関係の担当記者もまた、京都大学系の人であることが少なくない(例えば、朝日新聞社のこの分野での著名な記者・・・高橋徹氏や、毎日新聞社の著名記者の岡本健一氏は、いずれも京都大学の出身)。意識的・無意識的に、邪馬台国=畿内説の立場から、ものごとが解釈されたうえで、全国に大々的に情報が流されているという構図になっていないであろうか」。九大も京大系です。九州も近畿も・・・。

 大和から何か出土すると、とかく必要以上に大きく報道されるようです。九九年十月十六日、奈良の唐古・鍵遺跡の大型建物について一面トップで「国内最古・最大級の建物跡」「さすが弥生の近畿の首都」(毎日新聞)と妙な見出しで騒がれました。同時代の吉武高木遺跡(福岡市西区)には床面積が二・五倍もある超大型建物があるというのに・・・!九州から出る多くの遺物の一つでも大和から出たらどんな騒ぎになるでしょうか。
 最後にもう一言。卑弥呼の墓はマスコミ報道のように一五〇mではなく、三〇mほどの円形憤丘墓です。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

P>〔編集部〕本稿は筆者が勤務先の機関紙にて連載されている「失われた倭国」より転載させていただきました。「連載」からの転載のため、編集部にて一部省略しました。筆者は古田史学に接して数年とのことですが、ご覧の通り、古田史学にとって強力な新人の出現です。今後の活躍が期待されます。


◇◇ 連 載 小 説  『彩 神 (カリスマ) 』第八話◇◇
青 玉せいぎょく(1)
 −−古田武彦著『古代は輝いていた』より−−
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇ 深 津 栄 美 ◇◇

《前回までの概略》冬の「北の大門」(現ウラジオストク)攻めを敢行した三ツ児の島(現隠岐)の王八束(やつか)の息子昼彦は、異母兄淡島に海へ捨てられるが、天国(あまくに)に漂着、その子孫は韓(カラ)へ領土を広げ、彼の地の支配者の一人阿達羅(アトラ)は天竺(現インド)の王女を娶(めと)るまでになる。対岸に栄える出雲の王子八千矛は、因幡の八上との間に息子木俣(くのまた)を設けていたが、八上を狙う蛮族に迫害され、行き倒れていたところを救ってやった布津(フノヅ)老人の援助で大王(おおきみ)須佐之男の許へ逃れ、彼の娘須世理と結ばれる。が、この布津老人は、かつて出雲軍に許嫁を惨殺された、三ツ児の島の当主羽山戸の変装だった。間一髪、報復を逃れた須佐之男は、父を暗殺して事の元凶となった越(こし=現福井〜新潟)攻めを決意、夫に従った須世理は巫女の一人弥生を捕らえ、主人の許へ案内させようとするが、隙を突かれて八千矛軍は大渦に飲まれてしまう。

   **  **
 小舟が幾艘も舫(もや)ってある堤には、アシの葉に混ってタンポポが白や黄の小さな灯を灯していた。風が吹く度に、薄緑の葉先が丸い花びらと触れ合う。繊細な接吻(くちづけ)の玉のように日光(ひかり)の中で慄(おのの)いた。
 だが、荷物の積み下ろしや取引に忙しい人間達は、葉と光の可憐な戯れなどには目もくれない。数人の幼女がアシの茂みの方へ駆けて来たが、

「こら危ないじゃないか!?」
 たちまち雷を落とされた。
「だって、タンポポがあんなに咲いているんだもん。」
 一人が口を尖らせ、
「アシの葉と組み合わせて、花冠を拵(こさ)えても良いでしょう?」
 一人が哀願するように言ったが、
「ダメだ!あそこは、舟子(かこ)共が便所代わりにしているんだぞ。」
「あんな汚ねエ物(モン)に手を出すバカがあるか!?」
「さあ、仕事の邪魔だーー」
 乱暴に追い立てられてしまった。

 それに輪をかけるように、
「コソ泥め! 唯で飲み食いしたってエのか!?」
 近くの居酒屋の主人のどなり声も響いて来る。
「だから、手ブラなのを忘れて、遂(つい)・・・・・・。」
 汗を拭き々々弁解しているのは、ほっそりした機敏そうな青年と、粗末な身なりで赤ら顔に眉や髪、鬚(ひげ)の垂れ下がった老人である。
「あんたら、木の国(現佐賀県基山付近)から来たと言ったな? 大屋彦様のお膝元で暮らしていた身が、空(から)っケツでよく末廬国(まつろこく=現佐賀県唐津市付近)まで旅して来れたな?」
 相手が世慣れぬ若者と見て、主人はますます居丈高になり、
「勘弁してくれよ、親父さん。悪気があってやった事じゃないんだ。爺さんはここ暫く物が食えなかったし、俺も腹が空(す)いていたんで・・・・・・。」
 土下座せんばかりの青年の胸倉を、
「いいや、下手に出て勘弁して貰おうったって、そうはいかねエ。他処者(よそもの)はとかく気が許せんからな。さあ、誰に頼まれて先部(せんぶ)を偵察(さぐり)に来た!?」
 わしづかみにして激しく揺すぶった。
「待ちなされーー」
 見かねて老人が割って入り、
「そんなにお腹立ちなら、いっそわしらをどこかの豪族の奴婢に売ってはどうじゃな?男(おのこ)二人分なら一日の飲み代(しろ)以上の儲けにはなると思うが・・・。」
 と、提案した。
「何だと、爺さん? 目も衰えて杖にすがってのヨボヨボ歩きのくせして、まだ気張ろうってのかい?」
 主人は嘲笑したが、他に方法(て)もないと思ったのか、
「オーイ、鞍手(くらて)の親方ア、ちょいと顔貸してくれ!」
少し離れて談笑していた馴(なじ)みの人買いに呼ばわった。
「どうしたんだい、親父さん?」
 怪訝そうに近寄って来た商人(あきんど)は、訳を聞くと、
「さあ、来るんだ。」
 船着場へ引き返し、二人の先に立って、人買い船の印の黒い旗が翻(ひるがえ)っている帆柱の下(もと)を、船底へと下りて行く。
「わしらは、これからどこへ連れて行かれるんですかな・・・・・・?」
 老人が思い切って訊(たず)ねると、
「志々伎(シジキ)様の所だ。」
 商人はあっさり答えた。
「シジ・・・・・・?」
 顔を見合わせる二人に、
「江頭(こうとう)川流域を治める、この辺りの大王だ。潟(かた)川向こうは従弟の笹部様の領地だが、いずれ志々伎様の妹君がお輿入れされたら、孫子(まごこ)の代には末廬国は横野一族の傘下になっているだろうよ。」
 商人は説明して、
「そうだ、お前さん達の名前を教えて貰おうか? あちらへ行ったら、志々伎様にお引き合わせせにゃならんからな。」
 思い出したように二人を顧みた。
「俺は八島。」
 青年が自分を指さし、
「わしゃ、サルで良(え)エ。」
 老人も重い口を動かす。
「自分から卑下する事もなかろう?」
 商人は言ったが、
「わしは子供ン時から赤ら顔で、サル呼ばれて来ましたでな。今じゃ、サルと呼ばれんと、何だか落ち着けんのじゃ。」
 老人は苦笑した。

 その時、どこからか、火のついたような赤ん坊の泣き声が聞こえて来た。
「うるさいぞ、静かにしろ!」
 商人が、傍らの戸をあけてどなる。途端に、
「お願エだ、ここから出してくれ・・・!」
「家へ帰りたいよオ・・・・・・!」
「腹減ったア。」
「喉が渇いたよ・・・・・・」

 暗がりの四方から呻き声が湧いた。見ると、藁屑(ワラくず)かボロの塊のような人影が、幾人も床に転がっている。男もいれば、女もいる。サルと同じ年寄りもいれば、母親の胸で弱々しい泣き声を上げている赤ん坊も、稚児輪に結ったいたいけない少女も、見るからに栄養失調らしい青白くむくんだ少年達の顔も臨まれる。船底にはあらゆる人種が押し込まれ、荒波にもまれ、船酔いの胸苦しさに苛(さいな)まれて嘔吐し、のた打ち、日の目を拝む事も出来ず、飲まず食わずながらも呼吸(いき)をし続けていたのだ。
「旦那様、どうかこの子に乳だけでも・・・」
 足に取りすがって来た若い女を、
「えい、寄るな、汚らわしい!」
 商人は蹴り倒した。
 はずみに、赤ん坊は床に叩きつけられ、動かなくなる。
「坊やーー」
 固唾を飲んだ母親の手から、商人は赤ん坊を奪い取り、
「打ち捨てい。」
 まるで鹿の肉片でもあるかのように片足をつかんでブラ下げ、部下の一人に突きつけた。
 部下は一礼して、船縁(べり)へ出ていく。

 海水が、何とも間抜けた音を立てた。

 (続く)
〔後記〕前回までは「大国(おおくに)古事記編」、今回から「国譲り編」に入ります。それから、古田先生によれば、万葉集における「よしの」は現在佐賀市嘉瀬川との事ですが、『古今集』における掛詞の一つ「衣かせ山」や、

流れてはいもせの山におつるよしのの 河のよしや世中(岩波文庫版 第十五巻八二八番)

 などの詠み人知らずの歌、どこで作られたのでしょう? (深津)


九州王朝の論理

「日出ずる所の天子」の地

古田武彦・福永晋三・古賀達也著

 江戸時代には「学問」といえば朱子学でした。在野の本居宣長たちの国学などは「学問」の中に入れてもらえなかったのです。
 しかし、明治維新以後、宣長たちの研究はすべての大学や国民の歴史理解にとって不可欠の指標となっています。
 同じく、明治以後のすべての大学や一切の教科書では「一元史観」つまり天皇家中心の歴史観しか「学問」として採用されていません。多元史観は「学問」ではないのです。
 たとえば中国側の史書(旧唐書・新唐書)では、「七〇一」以前は倭国(九州王朝)、以後は日本国(近畿天皇家)として、冷静に記述され、区別しています。ですが現代では、この立場は「学問」の中に入れてもらえません。
 けれども、百年、二百年後の「学問」は果たしてどちらの側に立つでしょうか。本書は、その肝心・要の「九州」の探求です。
 老い(古田)も若き(福永・古賀)も、新しい学問の渓流を形造りはじめました。

              古田武彦


□事務局だより□□□□□
▼まずは、お詫びから。前号の活字が小さく、すみませんでした。また、印刷外注により7頁の一部が消えていました。「人まろは、 赤人〜あか人は人まろが」です。
▼五月二七日の毎日新聞。日曜版連載の推理小説「箸墓幻想・9」(内田康夫)が、何とこれ全面古田説の紹介。人気作家が、不正確ではあるが古田説の紹介を新聞紙上で行う時代になったのだ。
▼前号で募集した「研究連絡員」。福島・長野・奈良・兵庫・広島・福岡他から申し込みがありました。引き続き募集いたします。
▼遅れています会員論集『古代に真実を求めて』3集、順調にいけば八月中には賛助会員(九九年度)にお届けできそうです。古田先生の英訳論文も掲載されます。(古賀)


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』第一集〜第四集(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)第一〜四集が適当です。 (全国の主要な公立図書館に御座います。)

新古代学の扉 インターネット事務局 E-mailは、ここから


ホームページへ


Created & Maintaince by" Yukio Yokota