古賀達也の洛中洛外日記第17話 2005/08/05 「淡海は琵琶湖ではなかった」 へ
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古田武彦講演会 二〇〇一年 一月 二〇日(日)(午後一時から五時)
於:大阪 北市民教養ルーム  講演 続・天皇陵の軍事的基礎・その他

淡海(あふみ)の海夕波千鳥汝が鳴けば心もしのにいにしへ思ほゆ

『万葉集』巻三、二百六十六番
柿本朝臣人麿の歌一首
あふみのうみ,ゆふなみちどり,ながなけば,こころもしのに,いにしへおもほゆ
淡海の海夕波千鳥汝が鳴けば心もしのにいにしへ思ほゆ

(原文)淡海乃海 夕浪千鳥 汝鳴者 情毛思<努>尓 古所念
(岩波古典大系に準拠)

 この問題の発端は九十九年の博多の講演会で、本日の司会の木村さんのほうから、私がまったく思いもかけなかった質問が出まして、びっくりしました。そのときに扱った歌ではなかったのですが。
 木村さんが言われるのに、「私は琵琶湖の側に釣りのため小屋(別荘)を持って住んでいるが、琵琶湖では千鳥を見たことがない。この歌は琵琶湖の歌と言われているが、琵琶湖の歌ではないのではないか。」、このような質問された。
 私はその時御質問の真意が分かりませんでしたので、千鳥と云っても川千鳥や海千鳥などいろいろありますからと、とぼけた返事ですが、一応の返事をしました。しかし木村さんは納得されなかった。
 それで一言つけ加えて言っておきますが、白村江の戦いや『万葉集』に関連して木村さんのご先祖は凄(すご)い御先祖です。木村さんの御先祖は、白村江の戦いで負けて中国・唐の捕虜になって、中国南部の越の国に連れて行かれた。そこで現地の人と結婚して子どもが産まれた。混血児ですね。その混血児となった人が大きくなるに従って、「自分の父の国が見たい。」と言って日本に来た。その人が自分の先祖です。その御先祖が「越智」と名乗り、その子孫が戦国時代に名前を変えて「木村」を名乗られた。そういう凄(すご)い伝承を持つ家系です。
初めて聞いたときは「なんとばかなことを言われる。」、そう思っていた時期もありましたが、しかし馬鹿なことではなかった。これは白村江で捕虜となった人が歌った歌もありますし、これから述べる問題もある。
 それで別の所用で私の家に来られたとき帰り際に、この歌に関して、あれはしかし「淡海乃海」ですからね。このように言われた。それが非常に心に残りまして、確かめてみるとまさにその通 りです。

巻一、二十九番
近江の荒れたる都を過ぐる時、柿本朝臣人麿の作る歌
玉たすき 畝傍の山の 橿原の ひじりの御代ゆ生れましし
神のことごと 栂の木の いや継ぎ継ぎに 天の下知らしめししを[或云][めしける]
そらにみつ 大和を置きて あをによし 奈良山を越え  [或云][そらみつ 大和を置き あをによし 奈良山越えて]
いかさまに 思ほしめせか[或云][思ほしけめか]
天離る 鄙にはあれど 石走る 近江の国の 楽浪の 大津の宮に 天の下
知らしめしけむ 天皇の 神の命の 大宮は ここと聞けども 大殿は
ここと言へども 春草の 茂く生ひたる 霞立つ 春日の霧れる
[或云][霞立つ 春日か霧れる 夏草か 茂くなりぬる]
ももしきの 大宮ところ 見れば悲しも

(原文)天離 夷者雖有 石走 淡海國乃 樂浪乃 大津宮尓 天下
(この歌は参考ですので、原文表示は六行目該当個所のみとします)
 
  たとえば巻一・二十九番の歌で、「近江 淡海」が出てくる。ここでは六行目、「石走る 近江の国の」とあり、原文は「淡海國」です。ここでは「淡海の國」であって、二百六十六番の歌のように「淡海の海」ではない。
 もしかしたら、「淡海の國」と「淡海の海」では違うのではなかろうか。そのように私としては考え始めた。この考えに裏付けを与えた歌が、巻二・百五十三番の歌である。

『万葉集』巻二、百五十三番
いさなとり,あふみのうみを,おきさけて,こぎきたるコウ,へつきて,こぎくるふね,おきつかい
いたくなはねそ,へつかい,いたくなはねそ,わかくさの,つまの,おもふとたつ
太后(おほきさき)の御歌一首
鯨魚取り 近江の海を 沖放けて 漕ぎ来る船[舟エ] 辺付きて 漕ぎ来る船
沖つ櫂 いたくな撥ねそ 辺つ櫂 いたくな撥ねそ 若草の 嬬(夫)の 思ふ鳥立つ

(原文)
鯨魚取 淡海乃海乎 奥放而 榜来[舟エ] 邊附而 榜来船
奥津加伊 痛勿波祢曽 邊津加伊 痛莫波祢曽 若草乃 嬬之念鳥立
(校異)大 -> 太 [金][温]

 これも天智の妻の歌、太后(おほきさき)の御歌となっているが、内容がおかしい。定説の読み下しは、「鯨魚取り 近江の海を ・・・」と成っている。鯨が捕れる近江の海となっている。いくらなんでも琵琶湖では鯨は捕れない。
「鯨魚取り」そのものは、各地で出てくる。人麿もずいぶん使っている。鳥取県岩見でも妹(恋人)と別 れていくときに、「鯨魚取り 海辺をさして・・・」と使っています。この場合は当然日本海を指しています。また讃岐でも作っていますが、死者を弔うときにも、やはり「鯨魚取り海辺・・・」とでてくる。今は、瀬戸内海はあまり鯨は来ません。ときには来ますが。瀬戸内海でも昔は鯨が来た。ここも琵琶湖ではない。ですから「鯨魚(いさな)取り・・・」は、やはり海の枕詞(まくらことば)である。当たり前ですが。ですから、ここの天智の后の歌の場合は琵琶湖になっているから、これはおかしい。これも前書きは「琵琶湖」になっているが、これも信用できない。特に初期の万葉の前書きは信用できない。
 それでここでは、前書きをはずして解釈してみると、このようになる。

 鯨の捕れる淡海の海、そこを沖の方を漕いでくる船[原文は舟エ]。岸辺近くを漕いでくる船。沖の舟は櫂(かい)をあまり跳ねてくれるな。岸辺近くの舟もあまり激しく櫂(かい)の音を立てて、舟を漕いでくれるな。若草の嬬(既成の解釈では夫)が聞いているから、またあまり櫂の音を起てるなよ。

  ところが「若草の夫」と書いてあるところは、原文は「若草の嬬」で「嬬」である。女編に「需」と書いてあるから、ここは当然のことながら女性である。ところが前書きで天智の妻の歌にしてしまったから、ここは男にしなければならないから、読み換えて「夫」と読まなければならなくなった。しかし女編の「嬬」だから、女性と考えるのが自然である。特に「若草の嬬(つま)」と言えば、これを特に天智にすれば、彼は死ぬ ときは髭の生えたむさ苦しい私より年輩の男です。そんな男を「若草の嬬(つま)」と言いますか。言うのは勝手だと言っても、やはり「若草の嬬(つま)」と言えば、どう見ても結婚して間もない妻と見るのが自然です。そのような結婚して間もない妻の胸が、またざわざわと痛むからあんまり櫂の音を起てるな。
 また船という言葉ですが、この場合同じ船と解釈されていますが、一番目の船は、原文は「舟エ」です。いわゆる船編にカタカナの「エ」です。「舟エ(コウ)」です。これを諸橋大漢和辞典を見ますと、どんな船を「舟エ(コウ)」と言うか。「舟エ」の意味は揚子江の船をいう。ジャンク船。これもやはり漢字の国、中国らしいですね。どの船でも使ってはいけない。ジャンク型の船をいう。船は黄河でも使える。そうしますと、ここでは沖を通 っている船は、呉のスタイルの船が通っている。船の方は小さい船でしょう。その音を若妻に聞かせるな。
 ここまでくれば、もうお分かりですね。白村江でたくさんの若い兵士が海に沈んだ。死んだ。しかしぜんぶ海に沈んだわけではない。捕虜になった者もいる。その捕虜になった者が、さきほどお話ししましたように、同じように中国・呉越に連れて行かれた。そのような歌も万葉に別 にある。
 同じようにこの歌でも、夫が中国・呉越に連れて行かれた妻がいる。そのような若い妻がいつも夫の帰りを待っている。そのことを漁師たちは知っている。だからあまり櫂の音をたてるなよ。特に呉のほうから来た「舟エ(コウ)」の櫂の音をあまりたてるなよ。そうでなくとも今帰るか、今帰るかと待ち望んでいる若草の妻の胸が、また一段と騒がしくなるから。凄い歌ですね、これは。『万葉集』に白村江の歌がないとは、大ウソだった。このような素晴らしい歌は『万葉集』ではあまり見たことはない。しかもそれが、むつくけき漁師さんたちの歌であった。しかもこれだけ繊細なこまやかな心を持って、帰らざる夫を待ち続ける妻に対して深い思いやりをしている歌だった。
 けっきょく種は割れたのです。「淡海」を「近江」だけに結びつけて天智の奥さんの歌に取り替えてしまった。あとは合わないのは当たり前ですよ。それを合わないのを、万葉学者は、ここだけ「鯨魚(いなさ)取り」は枕詞だから、これは関係ない。そのように逃げていた。しかし他の枕詞の「鯨魚(いなさ)取り」は、すべて海の歌です。ですから「鯨魚(いなさ)取り」の歌は、すべて海の歌と考えるのが筋です。そうしますと、このような素晴らしい歌が表れてきた。「皇(すめろぎ)は神にし座せば・・・」も素晴らしい歌ですけれども、それとはまた違う素晴らしい名歌です。これは木村さんのお陰なのです。

  それで元に戻ると、木村さんが問題にされた「淡海乃海」は何処か、問題となる。いろいろ悩んだのですが、その悩んだ長い経過を省略して、ズバリ結論から申させていただきます。
「淡海」、それは『和名抄』にありました。

『和名抄』抜粋
邑美郡    於不見(刊本郡部)
オフミ (武田本神名)
邑美郡延喜式
ハフミ (九条本民部)
  美和
  古市
  品治
    品治郷、時範記、承徳三、三、九
  鳥取
    鳥取連、垂仁紀二十三年。
    因幡の国 八上郡 智頭郡 邑美郡 高草郡
  邑美
  
 それは結論から言いますと「邑美郡邑美郷」である。そのようになりました。それはどこかと言いますと現在の鳥取県の海岸部です。「邑美(おうみ)」郡であり、その中の「邑美」郷です。これだという結論になった。
他にもいろいろ「淡海(邑美)」はあります。神戸にも「淡海」があります。また岩見にも「淡海(邑美)」という地名がありまして、これに違いないと思った時期もあります。しかしそれは海の側ではなく、江川(ごうのかわ)の中流域ですので困っていた。しかし鳥取県の邑美郡、ここは郡です。他はすべて郡はない。今で言えば村のレベルの話です。ところがここは、村のレベルもありますが邑美郡の中にある。人麿という人は非常に言葉使いの厳密な慎重な丁寧な人ですから、これをもし仮に○○国の○○郡の○○郷の「淡海(邑美)」なら、そういう歌い方をすると考えます。
 たとえば神戸の近辺の「淡海」としますと、この「淡海」そのものはどこか良く分かりませんが、『和名抄』の頻出の仕方を見ますと神戸の近辺である。そうしますと「播磨の国の淡海なる・・・」というような言い方をするだろう。また先ほどの島根県江川(ごうのかわ)の中流域なら、「岩見の国の淡海の・・・」というような言い方をやはりするだろう。
 ですから、そのような言い方をせずいきなり「淡海乃海」と言い出していますところから見ると、やはりこれは「邑美(おうみ)」郡という広さを持ったレベルの「淡海」ではないか。結局最後は、そのような考えに落ちついた。
 そうしますと、この「古(いにしえ)」も問題が解ける。この「いにしえ」も、いろいろ問題がありますが、結論のみ今言いますと、ここは因幡の白兎の大国主の国である。大国主が全盛を誇った国であるが、やがて「国譲り」というかたちで、天照大神・ニニギノミコトたちに国を譲ってしまった。そして大国主は引退し、事代主は家来たちを助けるため、自分の身を海に沈めて自殺した。この話もしたことがありますが。その後九州王朝が始まる。その九州王朝が白村江で壊滅的打撃を受けた。ですから私は、この歌は白村江以後の歌であると理解する。
 ですから「いにしへ思ほゆ 古所念」と言っている、その「いにしえ」は、今言ったようなことを思っている「古(いにしえ)」である。
 九州王朝以前出雲王朝の時代から九州王朝壊滅にいたるその間を「いにしえ思ほゆ」と、人麻呂は歌っていると考えています。「心もしのに」にと歌っているのは、彼は九州王朝側の人物である。この問題は研究でいよいよ明確になり、その問題は今まで部分的に申したことがありますが、詳しくは論文や本を再度ご覧くだされば分かりますが、正三位 (しょうさんみ)という位は、九州王朝側の官職である。そういう彼であるから、白村江以後の九州王朝に対して「心もしのに いにしへ思ほゆ 情毛思<努>尓 古所念」というマイナスのイメージで歴史を振り返っている。詳しく言いますと、いろいろ検討しなければならない問題がございましたが、ここでは結論だけはっきりと申させていただきます。

 要するに、「淡海乃海」は文字どおり海である。琵琶湖ではありません。(ゴンドウ)鯨が捕れるところである。この歌の「淡海」は、鳥取県の「邑美(おうみ)」郡の「邑美」である。そういう結論になりましたことを申させて頂きます。


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